No.301 目黒川ロア周辺
ケツだ、女のケツ。
活きのいい女のケツは本当にすばらしい。
素肌生身のケツもいいが、ためしに下着、ためしにタイトスカートを穿かせてみると、それも実にいい。
ケツから生えている、まっすぐな脚もいい。
ライトを当てて、ソファーに立たせていると、落ち着く。
何がよいかというと、女の、でしゃばりでないところがいい。
この国の女は、どれも佳く育っている。美しく、健やかで、靭(つよ)く、しなやかだ。
余計な問答をしないよう、清潔に育てられている。そりゃ、幾人かには、いくらかの仕込みが必要だったが……まあでも、過った国の女のひどさに比べれば、天国みたいなものだ。
賢人どもが腐敗した国の女は、問答を教え込まれているので、もはや取り返しがつかない。そういうのもいくらか見てきた。実際に見てみるまで、ああもひどいものだとは思っていなかった。
まあ、幸い、過った国に義理はなかったので、こんなものかと思い、通過するに済ませた。
そんな、女も調度品もない国で、ちんたら飯を食っていくような悪趣味はない。学者なら、研究のために居座るのかもしれないが、それはご苦労なことだ。
研究の成果なんざ出ないと思うがね。
こうしていくつかの文化を通り過ぎると、気づかされるが、女の周りには調度品が必要だ。レンガ造りの建築物や、オイル・ランタン、革のシェード、ヒスイの髪飾り。馬鹿にしていたが、ステンドグラスも悪くなかった。風景の端にはモスクがある。
あとはローズその他の香油。馬油で髪を整えているのも佳い。
香油の代わりに香木や焚香もよいが、やや趣向が木調に偏る。悪くはないのだが、ひなびた板の間にわびさびを焚きこめる、というふうで、旅行く者の気分には合わない。一期一会でなく、人を情けない恋に引きとめつなごうとするはたらきがある。弱める方向へのはたらき。晩年には、人はそういうものを欲するのかもしれない。
僕にはそのような晩年などはやってきそうにないが。
外敵があるわけでもなく、飢えがあるわけでもない、このところはずっとやることがない。
何曜日か(今でも曜日ってあるのか?)、知らぬ家屋の二階へ上がりこみ、しばらく女のでしゃばりを躾けると、女はぐんと綺麗になった。部屋の調度品は廉価だったが不潔ではなかったので夜半にはよかった。人の愛して使うものを悪く云う口はない。
窓から枝が突っ込んできており、部屋の中に花びらが散った。白く見えたが、桜の花だ。窓から見下ろすと目黒川だった。夜も喧騒が醒めないのはそのせいだった。
口元に煙草を太く焚くと、煙はびゅうと渦になって窓から飛び出していった。立たせた女のケツはうぶで、何の彫り物も入っていなかった。まだときどき、じろじろ見るなよ、と、氷り水をかけてやらねばならない。
外敵が無いのも、いささか退屈で考え物だが、物騒さは縁遠く、皆満ちて上手くやっている。好いことだ。皆生まれ持ったものをそれぞれに引き受けて、精一杯をしている。四方八方、見て気分の悪くなるものではない。
誰もが死について考えて、考え込まずにはいる。問答はしない。死は問答せずとも明白のことだからだ。生と死は関連していない。そのことに気づいたとき、初めて人は生きるということができる。それでそのことに明敏に気づける者が必要だった。おかげで僕は重宝されたし、女をほしいままにすることもできた。女が、ほしいままにしてもらいたい、と幻惑でなく望まねばだめだった。動揺のさなか、弱まるのにつけこんで、肉をこすりあうことには何の価値もない。
女の兄が、服屋で、たしなみに弦の楽器も弾くということなので、使いをやって呼びつけた。女には閨用の布を肌に巻かせた。やってきた兄は路上の仕事にすすけており、陽気だったが、弦の演奏はひどい滑稽さだった。滑稽さが人を問い詰めて、逆に泣かせるようなところさえある。好く者もあるだろうが、僕は好かなかった。部屋から追い払うと、陽気な哀しさで(もういい!)彼は出て行った。まだ宵の口で目黒川沿いには演奏の仕事があるだろう。
女に与えた布を剥ぐと、女は腋を見せて伸びをし、ハーとこらえる息をついた。あれで兄は今日は調子がよかったのよ? 今までで最高の弦だった。そうかもな、叩きたくなるような哀しさがあったものな。女は兄の罪を自分の肢体が引き受けるべきだと信じて青白んでいるようだった。僕にはそのつもりはなく、ただ女の兄への思いやりは原始的で涙ぐましいものだった。
女は私立大学に通っている。今夜、学友が、暇を持て余している、そういう連絡があったというので、女が賑やかになりたがるのを、許して学友を呼びつけさせた。女はモバイルの板を器用に操作して学友に連絡を取った。その中でもでしゃばりのくせが出ないよう、女は呑み込みがよかった。この夜かぎりの、精気に援(たす)けられてのことかもしれないけれども。
それはそれでかまわないし、全てはそちらが正しくて、積み重ねがあるというほうが錯覚かもな、と僕は思った。ただの毎夜があるだけで、われわれはそれを時系列の幻想で結びたがる。
やってきた女の学友はナカニシと云った。眼鏡をかけて髪を後ろにそっけなく束ねている。目じりに涙黒子があり、眼鏡ともども似合っていた。僕を見上げる親愛の目には遠慮がなかった。ナカニシが女をロアと呼んで、僕は女の名を初めて知った。女の兄はムラカミと名乗ったので女の姓名はムラカミロアとなるはずだった。当て字があるのか、渾名なのか、特に確かめる動機はない。ただロアの名は細い紫色の下着とケツをより工芸的に見せるはたらきをした。脚が長くなった。
ナカニシはまったく愉快な女だった。僕はたちまち、これは佳いものに出合ったという気がしていたし、それを背後で寝そべって見ていたロアもナカニシのことが自慢であるようだった。学術に単純興味を向けつづけるナカニシの目は、理知への官能を注ぎ込まれて磨かれていた。短い前歯を出して下唇を噛むようにして笑うくせがあり、栗鼠のように見上げる目つきには従順さが爆発しそうにあった。
古いが質の良いパーカーを着ている。白い襟元に造作者のシグネチャーが入っているようだ。奇妙に裸体の印象が漂ってくるので、腹まで捲くって確かめてみると、ナカニシは下着をつけていなかった。膨らんだままの乳房の下側が控えめな電球のように並んでいた。慌てて出てきたそうだった。
従順なナカニシは、僕が何をしようとも、反発なく従順の興味でときめいている。ロアからすでに入れ知恵があるらしかった。ナカニシの目は僕に向けて、あなたのことなのでしょう? と過剰な期待を膨らませていた。
学術屋のナカニシは誠実に法則を欲しがる。まるで、頭に知識をたくわえて、そのことの罪によって処刑されることを夢に描いているような。ただ一人の、向学の血盟者のようであった。
恥じらいと恥辱は別のものだ。そして恥じらいは、あればいいし、それ以上の必要はない。空気中の水蒸気が、結露しなくてかまわないように。割と難しい言い方をしたが、ナカニシはむしろ、間違っていれば叱られようと、その叱りを受けることの期待へ胸を弾ませるふうだった。ナカニシはロアの姿に習ってデニムのショートパンツを自ら脱いだ。白いTバックを穿いていた。体操によってではない、ただ生まれつきの上向きのケツがパーカーの背の下に出現する。
ナカニシは、パーカーを脱ぐのかどうか判断しかねる、という仕草を見せつけて、僕を伺った。中に下着をつけていない。大造りの上質、白パーカーからナカニシの二本脚が生えているのは、それだけで十分華やかであったので、僕は合図に高く拍手を打ち鳴らす動作をした。ナカニシはとにもかくにもうれしそうだった。
ナカニシが両手を広げて僕の胸元へ入り込んできて、ご挨拶がまだでした、という行儀のよい顔を見せ、少し恥ずかしそうに抱きついてきた。頬の肉と、うなじからの匂いと、胸の膨らみと脚の肌のすべりを、全て押し付けてのご挨拶がナカニシだった。挨拶を済ませるとするりとナカニシは横へこぼれて、ロアとも久しぶりだったらしく、ロアの胸元へ飛び込むように甘えにいった。黄色い声が湧いた。二人は学友で、限られた学友の肖像が一瞬切り取られてうつくしかった。
火災かと思ったが、窓から差し込むゆらめく火の光は、目黒川の向こう岸で篝火を焚いているらしかった。語尾に、ザァ、ズァ、と外国語の指示する声が飛び交っている。じきに楢木の焼ける匂いが漂ってきた。よい景色だと思った。火の騒ぎより、その向こうに今は黒く聳える丘について。目を凝らすと丘は土が切り立って剥き出しに見える。翌朝には、交通標識の下地のような真っ青な空に、白い雲が散るだろう。
あの切り立った向こうに行けば何がある? 向こうにはどのような雲が? ずっとそのようなことを考えてきたし、励まされてきた。その景色は、目の前にあって、目を閉じても目の前にあった。身体を引きちぎる必要がある。身体のことを気にしなくて済むように。そのようにして、あの丘の向こうへゆかねばならない。
夜気にやや燻された顔を窓から引っ込め、振り向くと部屋がいくらか広くなった。朱色の絨毯の隅で、ロアが優雅に脚を折りたたみ、ナカニシの爪先へ山吹色のペディキュアを塗ってやっていた。ナカニシは従順だったが、腹を裂かれる女のようにじっとしており残酷にも見えた。後ろにまとめた髪は、解かないほうが美しいとロアは考えたようだった。髪の団子へ黒いネットをかぶせるとナカニシは女らしくなった。ロアは姉のようだった。鏡を見にいく? とロアが促すと、ナカニシはゆっくり首を横に振った。首筋から力が抜けていた。
ロアはクローゼットに入り込むと、きつい茶色のパンツを引きずり出し、出勤前のような動作でそれを穿いた。カッと音を立てて口紅の蓋を取ると、鏡に向かって電線工事をするように唇に赤色を差した。
飲み物用の葡萄と、塩の鰯と、何か買ってくるわね。夜店も出ているかしら。とうもろこしもあるといいわね。わたし好きなのよ、沖縄生まれだから。
僕とナカニシは、まるで幼稚園児のように並び、ロアが買い物に出るのを玄関口で見送った。ロアはお別れのキスを遠慮なくした。ロアはおおげさに首に腕を巻きつける動作をすること自体が好きだった。口腔が口紅の油でぬめって金属の味がはびこる。
ナカニシと二人きりになると、玄関は急に独り暮らしの寂寥に滞った。そういえばなんでもありそうだな、と古く懐かしい僕の声が思い出された。僕にはやや身構えるところがあって、ナカニシが淫らに耽ることがあればどうしようと、わずかながら思わないでもなかったのだ。僕はちょうど過った国を通過してきたわけでもあったから……けれどもナカニシは、僕の手を拾い上げると、しずしずと僕の手を引いて寝室へ案内した。ロアがこっそりとやり方を教えていったのだと思う。肩が触れると、ナカニシの耳からは柑橘の香水の匂いもした。寝室に引き込まれたとき、僕はきちんと、ナカニシの世界へ招待されていた。
ナカニシは体操服を脱ぐようにはパーカーを脱がなかった。服を脱ぐのではなく肌を抜くということをきちんとした。そして正装として背筋を伸ばした。僕は、いやな思いをせずに済む、と佳い国と街のことを安息した。ロアの教え方がよかったのか、いやそれ以上にナカニシの持って生まれたものが優れていたのだろう。
ロアとナカニシを、姉と妹に見間違うように、ナカニシのするキスや性愛の仕方は、ロアのものとずいぶん違った。ナカニシは肌からの蒸気で寝室を曇らせるほど身をあつくするが、指と唇で悪いものを吸い出すことへ研究をするようだった。ひたすら若い花の匂いがする。ロアのそれは逆で、身をつめたくして佳いものを与えこもうとするのだ。グラスに満たされたスピリッツ酒の香りがする。向学のナカニシが本領の怜悧さを見せてくれるのはうれしかった。経験はあるの、と訊くと、ナカニシはびっくりして顔を上げ、前歯で唇を噛んで笑い、何も云わなかった。一瞬、ナカニシの顔だ。決して声を出さないようにと、ロアに言いつけられてあるようだった。読書の目が問題の文字列を繰り返し追うような当然さで、ナカニシの唇は何度も上下に滑った。四十分かけてロアが帰ってくるまで、ナカニシの白いケツは左右に花蒸気の中を揺れ続けた。
桜はなかなか散らなかったのだ。特に恵みの強い春であった。僕たちは動物のあばら肉を素焼きにして食い過ごすことをし、ときに昼間に警官が銃尻で犯人を殴打するのを見たり、唇の上下に剥けたやせっぽちが陽気な歌を得意に唄うのを追いかけて聴いたり、彼の木製のネックレスをねだって奪い取り、ロアの首元に飾ってやったりした。ロアはネックレスをすることを長年忘れていたので、昔のことを思い出し急に泣き出したりした。それに合わせてやせっぽちはまた唄ったりした。十五時だったので手を休めて人垣が出来たりした。
けれども或る夜のこと、桜散らないねとナカニシが窓から首を出していたところだったが、遠くからマンホールの蓋をゆるめる詠唱のような声の響きが聞こえてきた。遠いが、ものすごい厚さだ。どけ! と僕は押しのけて窓を覗き込んだが、詠唱は、デヨ! デヨ! デヨ! デヨ! と聞こえ、またある角度からは、ジデ! ジデ! ジデ! ジデ! と聞こえてきた。
バゴン! と打撃音がするほどの風が急に吹き始め、桜の花びらを無数に真横にちぎりはじめた。(しまった!)。目を細めてにらみつけると、いつの間にか西の空は化学に赤く焼けていた。その下に、軍勢のシルエットとなって、限りない人々が押し寄せてきている。デヨ! デヨ! ジデ! ジデ! 今はもうはっきり聞こえる。詠唱に意味はないのだ。ただ彼らの詠唱だ。目黒川の下流から、あるいは埋め立てられた蛇崩川の暗渠からも、軍勢は押し寄せている。
「過った国のやつら!」
僕はロアとナカニシに報告したが、どうすることもできなかった。桜はすでに丸禿げにされた。
過った国の詠唱団はたちまち眼下にまで到達し、川沿いを何でもない散策のように歩いた。詠唱はとぎれとぎれながら続いている。まず若い男の一団が来た。全ての頭部に、脱色した髪の尖った造形がある。つづく男の一段はやや老け、長い黒髪を塗らしたまま歩いてくる。顎鬚で探し物をするように、首が左右に振り子になっていた。中年の一団が来た。中年の一団は、全て左右の目の高さがちぐはぐだった。
若い女の一団が来た。女の一団は男よりも仕分けされている。怒り女と笑い女に分かれていた。いや、よく見ると、その中でも俯き女と顎上げ女に分かれている。女はデヨを云わずジデのみを云う。男は両方を云うようだ。
続く中年女の一団は、それぞれが大量のプラスチックの荷物を抱えていた。ほとんど引きずるか、振り回すかしている。それがぶつかり合い、女同士は何組か掴み合いの喧嘩も起こした。喧嘩の周囲で、制止は起こらないが詠唱の声は高まる。
見ろ! 僕の指差した先に、ロアとナカニシも注目した。若い女の一団が、それぞれに着衣の交換を始める。誰でもよいが隣り合った者と着衣を交換するらしい。行進の一部が不潔な楽屋の更衣室めいて区切られた。青白い下着姿の女どもが揃って俯き、もぞもぞと動く。
「見ろ、ケツが無いだろ!」
更衣室にうごめく女どもの、腰から下には、融けた蝋燭のような凹凸が縦にあるだけだった。輪郭のぼんやりした鉱油か何かが固まっているのみ。服で包んでしまえば服の上からは判らないのだ。
更衣室の一団のうち、幾人かが、声を受けてむくりとこちらを見上げた。目が合った。これは問答が始まるのだ。やり返すこともできなくはなかったが、不毛だったので僕は桜木の枝を押し出して窓をぴしゃりと閉じた。窓を閉じると、一瞬、今見たものの全てが悪夢か何かだったと信じたくなった。
ロアは沈鬱な顔をしていた。ロアはそれでも、このようなことはいつかありうると、考えてはいたようで、受け止めて最善の行き先を検討している。ナカニシは単純にショックを受けていた。僕はナカニシをじっと見たが、ナカニシの目はただちに、これは向学じゃない、と主張してきた。そうだな、と僕は応じた。
なんとかしなくてはならない。けれども方策は無かった。
[目黒川ロア周辺/了]