No.302 実相はいつもバカ騒ぎ
新しい場所を得て、新しいことをやりはじめるべきだが、この九年間で進化はたくさんしたので、これからは退化を目指していこうと思う。優秀なやり口というのはやはり僕には似合わない。退化のほうは楽ちんなもので、元あったところへ戻ればいいだけだ。自分の持っているすべてのものを、何もいつも差し出して使う必要はない。悪い言い方をすれば義理もないのだ。進化した先のものを持つことは必要だったが、それは持っているだけで十分ということがしばしばある。
年功序列というような、たいそうなことではなくて、この国には年長者と年少者というのがあり、それぞれに役割が分担されている。それについて、かつては僕は年少者であったし、現在は年長者に当たるのか、それでもまだまだ先の年長者もあるけれども。それで、別に年少者の立場に立つのに、実際の年齢がどうこうとこだわる必要は本当はない。現在の年少者が十分なはたらきをしてくれればよいが、そのはたらきが有為に見られないときには、僕が摩り替わって年少者の役割に立っても別に問題はないわけだ。生意気な言い方をすると、僕はまだまだ年少者の役割に立ったってそこいらの者よりは優秀な年少者たれると思う。そうして年功があべこべになっても、全体の機能がうまくなるなら別にかまわないだろう。何なら年少も年長も両方やればいい。感覚的なことなので説明したってわかりっこないことだが、その両方をこなすのはしんどいかといえばきっとそうでもないだろう。いいかげん、それぐらいのことはこなせるぐらいの感覚能力は身につけてきた。
年長と年少では、腰のポジションが違う気がする。腰のポジションを落とせば年少になる。という、気がする、という言い方に留めておこう。僕はそういった身体感覚術の専門家ではないし、それをノウハウとして追求していくつもりもない。
若い女性は美しいものだ。どう美しいかというのも説明する気にはなれない。若い女性の、肉体や姿が美しいというのではなく、それら肉体と姿をもった若い女性であるという事実が美しいのだと思う。
そして実相はいつもバカ騒ぎだ。どこで受け取った話かは言わないが、世の中の全てに虚の相はなく、この世にある全てはこの世にあるのだから実相だ、と教わったことがある。実相でないものはない。僕はその教えにたいへんな感銘を受けたのだ。理にかなっているからには。
バカ騒ぎは人に自信を与える。いや正確にいえば、週に一度はバカ騒ぎを持たないと、自信を見失うものだ。だから美しい女性は常にバカ騒ぎの中にある。バカ騒ぎをしたらよい。もちろんバカ騒ぎふうの中にもハズレはあるが、それは本来バカ騒ぎであるべきものを、何かアタリにしようと企んだからハズレになったのだ。企まれたものは「バカ」騒ぎではすでにない。
バカ騒ぎをしたらよい。バカ騒ぎの何がよいかというと、管理されていないから、何がどうなるかわからないというところだ。何か佳いことになるかもしれないし、逆にロクでもないことになるかもしれない。それはわからないが、それがまったくわからないまま進んでいくというのがよい。そもそもが、自分が佳い思いをしたいというのに、それを企むということが浅ましくてけしからんのだ。佳い思いをしたいという望みと、それを漁ろうとする実行為とはまた別に違いない。
実相はいつもバカ騒ぎにあり、そしてバカ騒ぎを担当するのは年少者だ。ひいては、実相と美しい女の相手役を務めるのには、年少者であるほうがよい。年長者のできることなど基本的には調整でしかなく、空間にありあまるエネルギーがあるときには、バカ騒ぎを調整する役割として活躍しうるが、そうして調整する素材そのものがないときには年長者など役目がない。きっと野球の試合などで言えば年長者は審判の役目だ。何をするかというと、こぼれ玉やエラーや反則行為などについて、適宜その処置をしていく。そうすることで年少のプレイヤーたちは試合に集中することができる。しかし、審判なしの試合というのはまだありえても、プレイヤーなしに審判だけで試合というのはさすがにありえないのだ。審判がやる気で立っているだけ気の毒だ。
バカ騒ぎは人に自信を与えるし、女の心を満たして動かし、女たちを美しくする。それがバカ騒ぎであればハズレというのはありえないし、よしんばハズレだったとしてもまあいいじゃないか。バカ騒ぎできたぶんだけ、根暗な過ごし方をするよりはずっとよいものだ。そう思うとチョイトやる気が出てくるというものだ。あまり信じてもらえないと思うが、僕などは本当には、年少者の役割においてこそが能力として秀でているのだ。気の利いた審判役も、できないではないが特級というわけでもない。根源的に、性に合っていないのだ。文章を書く一般的風情の中で、年長者ふうにならざるを得なかったというだけで。逆に、年少者として書いていく無謀をやっていけば、それは性に合っているし、今までになくまったく新しいものになるかもしれない。
年少者の役目は僕にとってまったく落ち着く。自分の才もより際立って信じられる。
簡単に言えば、文章を書くなどというのは、賢い者のすることなのか、それとも馬鹿な者のすることなのか。後者としてのことのみ、僕には最終的な自信がある……
年長者は要るし、年少者も要る。どちらが足りている? どちらも足りていない。年長と年少や、立場の上下によって、物事は機能し始める、その機能のためのキャスティングに過ぎないのに、それを平等にするなどといって破壊してしまった人は少なくなかった。そうすると不機能性が増えるのだろう。そしてそのことには、知ったこっちゃない、というコメントが一番似つかわしい。
いかなるときにも、女性に自信を与える仕事を。女性が美しさを獲得していく、そのことに直接の寄与ができる役割を自分に。自分に少なからずそのことが出来るということは、無性にうれしいことだ。そのためには、いつだって第一のモットーにバカ騒ぎを。バカ騒ぎを作るのは、初手年少の役割で、つまり僕の役割だ。もっととんでもない人間の相を見せてやる。
いささか長すぎる間、年長者としてバカ騒ぎを安心させる役割にも立ってきたが、どうせ無能な年少者ならそのバカ騒ぎもできんのだろう。じゃあ、そこをどけよ、もっととんでもないものを見せてやる。女が美しくなるはたらきの時間を持てないのなら全ての時間は無意味なんだ。舐めるなよ、人間の個々における器量の格差がどれほどのものか、救いがたいほど見せてやる。絶望して帰れ。こっちはね、昔からずっとそんなことをしてきた、今さら慣れっこだ。
こういう話をしていると、やはりどこか懐かしい気がするな。
[実相はいつもバカ騒ぎ/了]