No.303 おれの云っていることはそんなに贅沢か?
そうだな……まだ死んではいない。
僕は文章を書いたことがない。
自分で書いたものを見ないからだ。
僕だけでなく、この世には文章を書く人間など存在しない。
文章を書いたことなど一度もないし、これからもすることはないというのは、僕にとってすがすがしいことだ。
プロというのは職業のことだが、プロには職業意識がある。
もっともつまらないことだ。
職業として為されるのみのセックスが、人に思い出を与えないように、職業意識から整頓されただけの営みの全てはつまらない。
僕は文章など書いたことがないし、恋人もいたことはないし、セックスもしたことがない。
醸成される意識の認知はすべて仮想の建前でしかないからだ。
<<意識って何かに関係あるのかね?>>
僕にだって意識はあるが、それはポケットにたまる綿ぼこりのように関係がない。
たまっていようがいまいが関係のないことだ。
意識は、いいけど、脇に置いたら? 関係ないじゃないか、と、僕はもう、これまでに何度言ってきたやらわからない。
関係ないじゃないか、だって。
名曲があって、駄作があって、でもそんなもの意識のもので、唯一、僕がここにいるということは意識ではない。
僕がここにいる、ということ以上にリッチなことはない。
どうやったって、自分とこの世界というリッチなものは、無くならないじゃないか。
これ以上のものが要るか?
どれだけ踏ん張ったって、これがこれ以上になることはないし、これ以下になることもない。
意識がそんなに大好きか。
何が書いてあったって、風で流れていく紙の断片だ。
何を書いたって、ここにいる僕というのは変わらない。意識が変わるだけだ。意識は変わるが、そんなもの変わったってな。
流れていく紙の地が白から赤に変わったからといって何だ。
だからこそ、どんどん変えて、どんどん流れていってかまわないのだけれどね。
いろんな職業の人がある、が、そんなもんウソだ。
そんなもん、名刺を出さなきゃわからない、まして今日にでも辞職すれば今日にでも素の人じゃないか。
そのウソを建前にした向こうからえんえんしゃべることしかできないか、そのことがそんなに大事か。
ネタとしては悪くないけれど、それをネタとわかっていない人は始末に困る。本当にわかっていないらしい。
空爆、殺戮、絶好調!
早くりんごを食べてしまわないと変色してきた。
桔梗の花畑が一面の真っ青に咲き誇った。
ビルエヴァンスのライヴレコードをかけるとスピーカーから洋酒の匂いが出てきた。
こう云えば、ポケットの中で綿ぼこりがくるくる回るらしいけれど、だからって何だ。
意識というものが、あるらしい、けれどぜんぶ伝聞だ。自分でいちいち見に行かないから、僕は知らない。
意識のダイナミズムには、何もない。
少なくとも、十五年前の神戸には、意識の人間なんて一人も存在しなかった。
今、早く食べないとりんごが変色しつつあるのは事実で、スピーカーから流れているのはいきものがかりだ。りんごの写真はアップロードしなくてもいいだろう。
いきものがかりを聴いていると、うつくしいヴォーカルの姿がちらついてきて、どうか自由に歌わせてやれ、という願いが湧いてくる。
自由に歌わせてやるためには、聴かないことだ。
耳と脳が正常で、聞こえていればそれでいいのだが、どうせ意識で聴くんだろう、それならいっそ聴かないと決めたほうがいい。
もともと、聞こえてしまうように、器官が作られているのだから、聴くなんてことしなくていいのだ。
音楽鑑賞はよそでやれ。
いきものがかりは佳い。街中で聞かされる老人の悋気講や、夫婦喧嘩と年金の題材などよりはよほど佳いのだが、佳いというのは佳いというだけであって、それ以上のことではない。佳いとか悪いとかに興奮する義理はどこにもない。
好きか、と訊かれても、別に好いても歌の聞こえが佳くなるわけではないので、そんなことは特に要らない。
歌があるなら歌は要らない。なぜなら、もうすでに十分あるのだから要らない。辞めても放り出してもそこにあるのだから、辞めて放り出してしまえばいい。
佳いものがあっても、悪いものがあっても、だからどうということでもない、興奮する義理はどこにもない。
佳いものがあるということは、佳いものがあるということであって、悪いものがあるということは、悪いものがあるということであり、それ以上のことじゃない。
興奮をぶっかけても何も変わらない。
そんなわけだから、自分が何をしたとかしなかったとか、何をするとかしないでいくとか、どうでもよい、あってなきがごとしのことだ。
愛があれば、愛は要らないし、愛があるということは、愛があるということなのだろう。それだからって、地球の公転軌道が動いたりしない。
五月になれば、窓を開ける。それは、佳い風があってほしいからだが、それと同等程度に、愛はあってほしいものだ。
そして、それがなかったときは、なかった、というだけなのだが、そんなことは少し努力すれば生まれるものなので、そういった努力が豊かな世界であってほしい。
僕はきっと、他人に対して一切の文句がない。ああしろこうしろという要求もないし、こうするといいよというアドバイスもない。
ただ僕は待っているのだ。あまりにも多い機会として、ずーっと待っている。
しいて云うことがあるとすれば、「早くやめてくれ」ということぐらいか。
いつになったらそれをやめるんだろう? と思って、ずーっと、ずーっと待っている。
意識がそんなに大事で好きか。意識を青から赤に変えたいの、と、たまにこだわるときがあるのはわかる。それはネタのことだから。じゃあ待っている、といって待っているのだが、どうもずっと、その意識の色変えをずーっとやっていて終わる気配がない。
いつ終わって、いつ始まるの?
何か、意識へのイジリを、もう何万時間もやっているけれど、そうして一万日が過ぎたら、もう三十年も経ってしまう。
努力ってまさかそれなのか。
口出しはできない。だって、口出しが届くのはそれを終えて辞めてからだから。
そして、それを終えて辞めてしまえば、僕にはもう口出しをすることがないし、するとしたらせいぜい過去への思い出話ぐらいだ。
こんなことを何十年も眺めていかねばならないのか?
僕だって馬鹿じゃないし、夢想がちでもない、そんなことをしていたらそのまま全部の時間が終わってしまうということぐらいは、当然の予想がつく。
旅先へのバスをぐるぐる走らせて、その中でさんざんの着替えを繰り返しているけれど、いつになったらそのバスを降りるの。
バスを降りてからしか、話すことはないし、バスを降りてきてくれたら、これといってむつかしい話をすることはない。
この呆然とした中で、そんなものさと達観ぶるのは、達観でもなんでもなくて、ただのやけくそだと思う。早く人生終わってくれとやけくそで叫んでいるようなものだ。
ひょっとして、バスに乗り込んだら終わり、というのが実態なのか。あんなに、行くのを楽しみにしていたのに。
おれの云っていることはそんなに贅沢か?
[おれの云っていることはそんなに贅沢か?/了]