No.304 東京自立会議
あなたはすっきりとした考え方を獲得して、今日からの日々をすっきりと生きてゆかれることが決してきらいではありません。そのあなたへご提供できるものとして、われわれ東京自立会議はお話を差し上げる準備があります。
身の回りや、現代の流行を一瞥するに、複雑な感興をかすかにも持たないという人は稀でしょう。さまざまな思いが脳裏をかすめてゆくものの、あなたは埒も無く物事を否定してかかる態度の人間になりたくはないという、その清潔な思いからさまざまなものをあくまで眺めるに留め、あれこれと思いや意見を差し挟むことを遠慮しているところがあると思います。自分の趣味でもなければ、関わりもないことについて、攻撃的な気持ちを持っても不健全でしょうがない。そのことは、まったくあなたのお考えのとおりだと思います。
さて、そのこととは思い切って別のこととして、自立、という、本来はさわやかなはずである言葉を思い出してもらいたいと思います。自立は誰にとっても獲得すべき、必要なことですが、そのことへの思い入れは特に持たず、心理的に距離のある、或る種の流行や、或る種の特徴立った身の回りについて、自立という言葉を重ねようとしてみてください。いくつかのことには正直なところ、自立、という言葉はいかにも当てはまらない、縁遠いものだ、と直観されるところがあると思います。そのことはそのままで、どうということでもありません。
もしあなたが、清潔さの態度を保ちながらも、或る種の警戒を解かずにいる対象の「全て」について、「自立が当てはまらない」という共通項がもしあったなら、このことの発見はあなたにとって有為なことです。「自分は自立のないものに関心が起こらないのだ」ということで、取りまとめた扱いができますから。あなたが、自立の為されていないもの、自立の獲得から縁遠いものについて、敬遠し、警戒し、善意的にも距離を取るということならば、そのことはあなたの清潔さを損なわないと思います。
さてそれでは、そこで云われる「自立」とは何なのだろう、ということに、必然的に興味が向きます。この当然の興味を受けるものとして、東京自立会議は、自立についてを次のように提唱することができます。
一、自立とは、"自分が自分として成り立っていること"を指す。
このことについて、最も容易で、かつ最も中心的である例え話をしましょう。あなたに、オドオドとした態度の男性が声を掛けてきます。あなたは当然、嬉しくはなく、正直なところ軽くのけぞるような気持ちになります。容赦のない女性は彼を「気持ち悪い」と云うでしょうが、では果たして彼の何が気持ち悪いのでしょうか。
実は、彼のオドオドした態度、それ自体が気持ち悪いのではないのです。何が気持ち悪いかというと、彼自身、本当は、そうしたオドオドとした態度の男であってはいけないと思っているのです。彼自身の信じているところに、彼自身がそぐわないのですから、これはつまり、"自分が自分として成り立っていない"。実はそのことが気持ち悪いと感じられるのでした。
ふつうこのような場合、自信のない男性だから気持ち悪い、というふうに受け取られがちです。けれども本当はそうではない。男性がもし、「おれは上等な男じゃないし、経験もなし、自信なんか持てるわけねえよ、このままでフラれてくるよ、おれみたいなのがフラれるのは別にいいじゃないか」と、彼において"自分が自分として成り立っている"場合は、その気持ち悪さは激減するか、もしくは消失します。
この視点は、新しいものとして、あなたにささやかな、面白い驚きを与えてくれると思います。あなたは自立の為されていない物事へ、一括して距離を取る者ですから、自立を為されていない彼が接近することにも、等しく距離を取る反応を持つだけなのです。
この新しい面白さの驚きのまま、あなたもぜひ一度、今の自分自身について、"自分が自分として成り立っているか"ということを、自分にあれこれ問いかけてみることは、あなたにとって有益だと思います。この自己への問いかけは、問い詰めると強烈なものになってもくるのですが、そのことは、あなたを本来の進むべき道へ厳しく押し出してくれます。
なぜ東京自立会議が、真っ先にこのことをあなたにお話しするかというと、この問いかけのやり方が、それ以外では決して見えてこなかった道筋をあなたに照らして教えるからです。
実際にあった例をお話ししましょう。とある会合で、男性がひとしきり人間的なことを語りました。落ち着いた声で、内容はごくまっとうなものだったので、誰もが納得し、誰もが話を聞き遂げました。そこまでの時点で、ふつう何の問題もない、文句のつけようのない親交が続いています。そのように見えます。
けれども東京自立会議は次のように指摘しました。
「きみは今、ひとしきりのことを語ったけれども、女性陣は何も"惚れる"ようなところはなかったようだ。このことを見て、きみは自分が自分として成り立っていると云えるか」
この指摘を受けて、彼は当然気づいたように、
「いいえ!」
と答えました。
このことに起こる、跳躍的な発見を、あなたは理解して喜ばれると思います。ふつうの視点の中に住まう限り、何も問題はない、よい親交だとしか思えないようなことでも、ひとたび跳躍して、
「男がひとしきりのことを語って、女たちが何ら惚れるところがないのじゃ、語った値打ちが無いんじゃないのか。あるいは聞く側にも」
ということを発見すると、そちらが直ちに正義と気づかれるのです。途端に、全員は勇気付けられて、――いくら語っても惚れられようのない男って何なんだ! と、笑いにも若い力強さが灯りました。
こうして改めて、彼は、自分が自分として成り立つためには、「ひとしきり語れば女にも惚れようがある、そういう自分でないと成り立たない」という勇敢な捉えなおしをしたのです。ちなみにここでそろそろ申し上げると、自立という言葉にある「立」の字は、起立の立ではなく成立の立だと捉えることで、字面にも整合が得られます。
さあ、しかしそうなるとです。あなたにも、思えば笑顔が浮かぶでしょうが、彼が改めて、「ひとしきり語れば女にも惚れようがある」という、そういう語り口を持ちうる男性になろうとすれば、これは急に、トライアルが手ごわくなります。有為なトライアルではありますが、そのぶん、身もフタもない厳しさが突然目の前に現れてしまいました。どうすればいいものでしょう。そこで急に語り口に力み口調を持ち込んでも、そんなことは冗談じみて周囲のお笑いの喝采を増させるばかりです。
或る女性は、さらにそこに、「セクシィでないとだめ」と、より身もフタもない厳しさのトライアルを要求しました。けれども、これも云われてみればもっともです。男性が女性らに向けてひとしきりのことを語るのに、そこにセクシィな味わいが生まれてこないということであれば、何のための男性の声でしょう。「ひとしきり語れば女にも惚れようがある、濡れようもある」ということでなければ、彼という男性についてはやはり、"自分が自分として成り立たない"。もちろん、何を以って自分が自分として成り立つと認めるかは人それぞれの範囲がありますが、もし彼が、語りに惚れようも濡れようもある男性と並んだときに引け目を覚えるような、平たくいえばスケベ野心に盛んな男であれば、今さらもう引き下がることもできないのです。それは拗ねてかかるほうがアンフェアで汚らしいことになってしまうに違いありません。
このことは、恐る恐るにでも、あなたがあなた自身に向けてみてよいことです。そこから見えてくるものには、身もフタもないところがありますが、それでも若い人間にとって疑いなく有為な道を照らし出すに違いありませんから。たとえばあなたが背後から男性に呼びかけるとする。そのときの、あなたの声、その響きや弾みはどうでしょうか。振り返った彼に向けられるあなたのまなざしや顔つき、振る舞いの姿はどのようでしょう。
もしあなたが、同様の問いかけを受けて、
「あなたが男性に呼びかけたとき、その声によって、男の心がパッと華やぐのでもなければ、ドキッとするのでもない、振り向いてもときめきが起こるのでもない、というとき、あなたは自分が自分として成り立っていると云えるか」
ということになれば、あなたはこの問いかけに誠実に答えねばなりません。
誠実に答えることをやめてしまっては、あなたの長い未来に、悲しく暗い影を落とし続けることになってしまいます。
"自分を自分として成り立たせる"と云っても、人間はそれぞれの器量や、得手・不得手において、どうしても手に入らないところがあります。しかしそこにおいても、自立が獲得できないわけではありません。自分を自分として成り立たせる道筋はそこまで限定的ではない。そのことは後にお話ししますが、きっと今このときのあなたに必要なことは、問いかけに誠実に、痛快に、答えてみせること、その気概を誰もいない一人のときに自分でくじいたりしないことです。
***
東京自立会議から、あなたに少々の差出口をさせてください。"自分を自分として成り立たせること"、その内容のいちいちは、人それぞれというところがありますが、それにしても、同時代に生きる人間にある程度共通して問えることはありそうです。そのことについて、東京自立会議は提唱したいのでした。
二、東京自立会議は、人間的自立の主軸を次のように提唱する。節度、理知、慈愛、および建設的能動性。
この提唱に、補項を付け加えるならこうなります。人間的自立の主軸を、ことごとく裏切った者はどのようであるでしょう。節度がなく、理知もなく、慈愛や建設的能動性から程遠い者です。それはまるで、「ならず者国家」のような有様ですから、そのまま「ならず者」と呼んでよいでしょう。ならず者というのは、まさに自分が自分として成り立っていない有様を指しています。
節度、理知、慈愛、建設的能動性。これら四つは、誰がどう見ても軽視すべきでない要素に違いありませんが、実際のところの我々に当てはめると、必ずしも四つともが履行されているとは言い切れません。多くの人に節度はあるように思われますが、理知については弱いこともあり、気分に揺さぶられると薄弱な理知はただちに押し流されてしまい、結果的に節度も失ってしまうことが多々あります。続いて慈愛についても、誰もがその心を持っているに違いありませんが、そこに建設的能動性が伴っていない場合、慈愛は懐に収まったまま、はたらきをせず死蔵されてしまうことが多々あります。
そういったことについては、自分自身へ考察の深い人間なら誰しも考えたことがあると思います。けれども重ねて申し上げますと、東京自立会議は、そのことについてあなたの未熟や至らぬ身を責めるのではなく、ただひたすら"それで自分が自分として成り立っていると云えるか"ということを問うのみです。この問いかけの仕方に、有効性と面白みを見つけているのが東京自立会議の立場ですから。
また当然ですが、東京自立会議は、四つの主軸を実現しえている人間に対して、それだけで十分な人間的自立を得ているものだと、それを輝いているものとして肯定します。
続いて東京自立会議は、性的自立についても主軸を次のように提唱します。
三、東京自立会議は、性的自立の主軸を次のように提唱する。性差の祝福、やさしさ、色気、および清潔(淫らでないこと)。
男女で一括りに提唱するのでこのような形になります。
性的自立を提唱するのに、「淫らでないこと」を云うのは不思議に思われるかもしれません。けれども考えてみれば当たり前のことで、淫らなだけでよいのならば自慰のマニアはただちに強力な性的自立を得られるでしょう。けれども実際にはそうではありません。淫らさとは単に性的興奮に耽溺しているだけであり、それでは自分が性的な自分として成り立っているとは云えません。
性差の祝福というと、性差別も当然に含みますが、この場合の性差別は何も優等・劣等の差別を意味しません。男性は射精する側であり、女性はそれを受け止める側です。この性差を自らにおいて引き受けて祝福できない場合、その人はきっと性的な自分をして"自分として成り立つ"ということが困難だと思います。
この先にはもちろん、男性側の自立、女性側の自立、ということが展開されますが、今回はそのことへの展開は差し控えます。直接の性的自立は、あまりにも個人差の大きいところもあり、東京自立会議としては差出口の限度をここに迎えるものです。
やさしさと色気については、特に難しいところは無いと思います。交合においては互いに生身と、防御のない心を預けるものですから、結局やさしさのない人と無事に交わることはできません。色気というのは、トライアルとして捉えると急に難しい内実になりますが、ここではあくまで提唱に留めておきます。色気のなさで悩んでいる女性は(男性も)多いと思いますが、ともあれ、改めて色気のなさすぎる自分を直視すれば、そのままで自分が性的な自分として成り立っているとはどうしても云いがたいと思います。
また、先ほどの「ならず者」と同様に、提唱される性的自立の正反対を一瞥しておくことも、提唱の理解に役立ちそうです。性差を破壊しようとし、やさしくもなく、色気も当然ない、かつ、不潔な何かが漲っている。そうしたタイプの人も少なからずいらっしゃることも事実です。
四、東京自立会議は、人文的自立の主軸を次のように提唱する。ユーモアとウイット、語り草、身だしなみ、および希望。
人文的自立については、しばしばないがしろにされがちです。だからこそ東京自立会議は、改めてこのことに光を当てておこうとする立場になります。これらは無くても生きてはいけるものですが、それを言い出せば、自立の全てはどれも、無いと生きてゆけないというものではない。
ユーモアやウイットは、必ずしも人間的に必要なものではありませんが、人文的な範囲で見た場合、まるでゼロではさすがに悲しすぎます。身だしなみも同様で、古代の剣豪や流浪の僧侶でもない限り、身だしなみをゼロで生きていくのは乱暴すぎるでしょう。
語り草と、希望という、あいまいなものを提唱させていただきました。これらはあいまいですが、それでも差し挟むべきだったと、あなたにもきっとご同意いただけるものと思います。
語り草、という言い方は珍妙ですが、人間何かしら、自分なりに語るものをまるで持たないでは、それもやはり悲しすぎます。割と身近にありうる話で、たとえば良い映画を観たという話に、どうだった? と話の続きを促しても、「……」という人は、実際少なくないのです。プロフェッショナルのように、語り草を取り扱うのに長けている必要はないでしょうが、せめて海外旅行に行ってきたというような話ならば、思い出話やみやげ話にホホウと云わせられる程度にはなりたいものです。
希望についても提唱させていただきました。思い切って云うならば、人は希望に基づいて生きている以上、物事を希望に結ぶ気概なしに、万事を好き勝手に取り扱ってはいけません。ストレス解消のレクリエーションとしての、愚痴話の範囲ならば誰もがもちろん寛容ですが、そうして希望のないことだけが唇から吐かれるのみであれば、その人はきっと長い間深い誤解をされてきたに違いありません。中には、自分の不憫や未来のなさをひたすら口頭で嘆き続けるような人もありますが、そうして悲しい気分に引きずられるままの有様をもって、自分が自分として成り立っているとは云えないでしょう。
逆に、自分の思うところなどは後回しにして、何であれ物事は希望に結ぶものだと気づかれた人は、そのことで自身に多大な利益を得ていくことになるでしょう。最低限としては、少なくとも自分自身のことについては、希望に結びついた自分自身を示していなくてはなりません。
これらはあくまで、東京自立会議としての、自立のありようについての提唱に過ぎません。あなたにとって採用されるべきモットーではありませんので、あなたにはただ、"自分が自分として成り立つために"という視点で提唱を吟味してもらえればよいものです。
あなたについて、誰かが云います。「彼女は、節度があるし、理知的で、慈愛が深く、いつも建設的で能動的だ。自分が女であることが誇らしいようだし、男心にやさしく、色気もあるのに、清潔だ。彼女にはユーモアもウイットもあるし、彼女の語る話にはいつも魅力がある。いつも身奇麗にしていて、彼女のこれからを思うと実に直接の希望があるよ」。
大げさに聞こえるかもしれませんが、あなたが落ち着いて考えられた場合、これらのことは別に何も珍しくない、ありふれたことだと気づかれるはずです。節度のある女性の何が珍しいでしょう。理知的な女性や、建設的で能動的な女性、色気があって、ユーモアがある女性の何が特殊で珍しいでしょう。
逆の場合のあなたを考えたときどうでしょうか。やはり誰かが、あなたについて云います。「彼女は、節度がないし、気分的で理知的じゃない、どこか冷たいし、いつも非建設的でずっと受身だ。自分が女であることを恨んでいるみたいだし、男ぎらいで、色気なんかまるでないし、それでいて淫猥な不潔さがあるよ。彼女はユーモアやウイットにも鈍いし、語る話には正味がないし、いつもだらしない格好をしていて、彼女のこれからを思うと、どうなるんだろうって思うね」。
全てのことは、社会的な問題ではありませんし、お説教でもありません。ただ一点、あなたがあなた自身を見たときに、"自分が自分として成り立っている"と、認められるかどうか。全て自立の問題で、自立というのは実はとても難しいことなのでした。それが難しい理由は、他でもない、あなた自身が、そう容易なことでは自分が自分として成り立っているとは認めないからです。あなたはあなた自身について、要求するところが手ぬるくない。
だからあなたは、あなた自身が自分に要求することを、受けて立ってゆかねばならないのでした。もちろん、すべてが手に入るわけではないかもしれませんが、初めから気後れしてかかるような弱気であってよいことでもありません。
東京自立会議は、人間的・性的・人文的の三点について、実のところ"最低限"の提唱をさせていただきました。東京自立会議の要求する最低限ではなく、あなたがあなた自身に要求するであろう最低限についてです。あなたはきっと、これだけでは到底物足りず、さらに「わたしの場合」という、あなたらしさについての猛烈な特項を足されてゆくことでしょう。そうして、"自分が自分として成り立つために"、嘘偽りのない向き合い方をしたことは、最も正当な覚悟と努力として、後々まであなたを裏切らないでしょう。
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自立についてお話をしています。あなたが老齢でない限り、あなたは今きっと、勇敢でかけがえのない心地の中にいらっしゃると思いますが、この先に身もフタもない試練が立て続けに来る中で、時には「何のためにこんな無謀をしているのか」と、わからなくなり苦しむときもあると思います。そのときのために、東京自立会議から申し上げるこのことについて記憶しておいてください。
五、自立の動機は理由に拠らず矜持(きょうじ)にのみ拠る。
なぜ自立しなくてはならないのか、なんのために自立するのか。"自分を自分として成り立たせる"、そんなことにかまけなくてはならない理由はどこにある? そのことには、いくら理由を探しても見つからない、と、東京自立会議は申し上げておきます。
そもそも、自立の動機は理由に支えられていないのです。理由なしにその動機は起こっており、この動機を東京自立会議は「矜持」と呼びます。あなたが迷われた際にはこの力強い言葉を思い出してください。
誰の中にもあり、あなたの中にもある、「理由を中和してまぜこぜにする」という便利な機能を、暴走させないように気をつけていてください。時には休憩、というよりサボる時間を持って大いに好いと思いますが、それがサボるのみならず本質的に見失うことにつながってはなりません。理由を根拠にするというのは、たとえば歯が痛むから歯医者に行く、というようなことで、痛み止めで理由を中和すれば、歯医者に行かなくていいか、と物事はまぜこぜになります。ただそれだけのことですし、ここでお話ししている自立のことはまったくそういうことの次元にありません。「理由は無いが、矜持が許さない」、ただそれだけのことしかないのです。だからこそ、理由の中和などにまぜこぜにされない強さもあります。矜持という人間的本能だけが自立の要だと云ってよいでしょう。
次に、自立の利益についてお話ししますが、それについても、利益を自立の理由に据えないように注意してください。自立のまっとうな利益はあなたを励ましますが、その励ましだけを頼りにあなたは自立へ向かうことはできません。
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六、東京自立会議は次のとおり、自立の利益を確認する。
(1.)芳しい歓交は自立した者同士においてのみ得られる。
(2.)自立した人間は軽薄でない身分と経歴を得る。
(3.)自立すると人間的能力が解発されていくが、その逆は機序において成り立たない。
一つ目、芳しい歓交については、誰も疑問に思わないでしょう。自立したさわやかさの明らかな人については、誰でも佳い感触を覚えます。このような人がずっとそばにいてほしいとも思いますし、朝まで語らいたいとも思います。女性においては、そうして自立した男性が疲れていれば、自分の手で介抱し慰めて差し上げたい、と思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか。
二つ目については、少し話が前後して恐縮です。ここでお話ししている自立というのは、生身の人間としての人格的自立・営為実体としての自立であり、そこに身分や経歴は一切関係ないと云えます。後段で指摘しますが、およそ身分や経歴を持ち込んでくる人に自立が為されているためしは少ないものです。
が、同時に、自立を為した人間は、主軸として少なくとも「理知的に・建設的能動性をもって」ということを実現して生きてこられているわけですから、その中で、一切の身分や経歴を得ることなく、その欄は白けたままであるというのは、常識的に考えて不自然すぎます。
このことを差し挟んだのには、身分や経歴を獲得する格闘において及び腰になることについて、人格的自立を言い訳にさせないためにでした。このことはきっと、気骨のある描かれ方だとしてあなたに喜んでいただけるものと思います。
三つ目についてはいささか説明が必要です。人間にはいわずもがな、ひたすら速くエビの皮を剥く、というような能力の獲得もありますが、それとはまったく別の、たとえば「心を通じ合わせる」というような、人間的な能力としかいえないような能力の獲得があります。この人間的な能力を、誰もが獲得しようと当然に思うのですが、実はこの能力は、自立の以降に獲得されるものであり、自立の以前には獲得されません。
なぜならば、人間は自立を得てから初めて、自分と他者に向き合うものであり、そうして人間そのものに向き合うことの以前には、人間的な能力は身につかないのでした。エビの皮むきが速くなるのは、エビそのものに触れているからに決まっていますが、同じく人間の心の皮むきが達者になるのも、やはり人間そのものに触れてからでしかありえないのです。
さて、すでに自明であることを、より笑えるほどの自明に磨きあげるために、仮にこの自立の利益を放棄すればどうなるものかを考えてみましょう。まずあなたは、自立したさわやかさの無い人なりますから、あなたに佳い感触を覚えてくれる人はおらず、あなたのそばにいたいとか、あなたと朝まで語らいたいとか思ってくれる人はありません。芳しい歓交というのはなくなり、疲労と引き換えに娯楽的な空騒ぎをしばしば持つようになるでしょう。
自分を豊かにする身分や経歴を得ることも難しくなります。よしんば見栄えのよい身分や経歴を得たとしても、そのことがどうしても薄っぺらく感じられて、他者にも自分自身にもそのことが尊厳の対象になってくれません。
そして、人間的な能力を求めながら、その能力がどうしても身につきません。もちろん誰だって、人と心を通わせて、わかりあいたいし、認め合いたいし、愛し合いたいのですが、そのことへの思いと能力は別物なのです。最悪の場合においては、あなたは友人の数だけ疲れてゆき、恋人の数だけ人間不信になっていく、ということにもなりかねません。
自立の利益は、そのように、捨ててかまわないような利益では到底ありませんので、誰しも自立に無関心になることはできません。無関心になれない以上は、そのことへ無為に過ごしてゆくのは、無理やりに目を閉じているような、逆に疲れることだと云えるでしょう。
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自立の本質についてはほとんどお話しすることができました。ここからは、自立に関わる周辺的なことについてのお話をしたいと思います。周辺的と云っても、しばしば中心より周辺でこそ遭難することが多いですから、まだまだ聞き遂げていただく値打ちはこの先の話にもあると思います。
自立とは何であるか、"自分が自分として成り立つこと"。そのことへいくら精密な理解を得たとしても、それが自分のこととなったとき、器用にゴマカシが利いてしまうのでは尻すぼみです。申し上げてきたように、自立というのは実はとても難しく、トライアルの実際は身もフタもないような、笑うしかないものになります。そのことへゴマカシが起こらないように、周辺も整理してゆきましょう。
七、自立の全ては身内に向けては成立しない。
節度、理知、慈愛、建設的能動性……を、身内に向けてもしょうがありません。身内に節度というのも実際的ではないですし、理知の出番もほとんどない。身内には慈愛以前に情が湧いてあるものですし、身内同士で建設的やら能動性やらは何のことやらわかりません。
身内というのは、生活上、云うなれば舞台に対する楽屋のようなものです。本番の場所ではなく、あくまで舞台のためにバックアップ装置として存在するものでしかない。たとえば落語家が楽屋で身内に小噺をして拍手喝采だったとしても、寄席舞台の本番でお客さんが白けるばかりならば、それは落語家でも何でもないのです。落語家としては、"自分が自分として成り立っていない"と落ち込むべきところでしょう。
時代に関わらず共同体母性の強い日本では、このことに特に注意する必要があります。近年は「リア充」という言い方もよくされますが、その実態はしばしば、リア充どころか単なる身内規模の拡充に過ぎないということがよくあります。芳しき歓交があるべきところが、単に身内化を急進させていくことにしか方法が長けていないことがしばしばあります。
身内になりきった集団の中で、緊張感のない天下無敵の大声を張り上げたとしても、そのことに自立視点での値打ちはありません。むしろそれはたいていの場合、身内化することで節度が不要になったことの表れでしかないことがほとんどです。そのことは、別に悪徳ではありませんし、バックアップとしての身内母体がある程度必要なのは誰にとっても自然なことです。ただしこの楽屋でしかないバックアップ母体の中のみでは、何をどうしても自立は獲得されません。
むろん、誰でもが知るように、或る種の厳しい、強固な共同体文化の中でこそ、人が鍛えられ、自立そのものか、あるいはそのことへの素地が育てられていくということはあります。このことは決して無視も軽視もできません。
であれば、共同体というのは自立について功罪のいずれにあるのか?
このことの謎は、何も難しくなく解くことができます。それは、何も共同体の全てが、身内になりきるものだとは限らないということです。強固な共同体の中にも、馴れ合わない性質の友人がいることもあるでしょうし、先輩と後輩の付き合いが形式的でなく血の通った上下だ、ということもあります。そのような共同体は、何も身内ばかりの楽屋ではありませんから、その中で自立やその素地を育てていくことはできるでしょう。ただ、一部の人は、ひたすら身内化した共同体ばかりを体験してこられ、共同体といえばそういうものだと思い込んでいることもありますから、このことへの説明はしばしばケースバイケースの困難さが伴うのでした。
余力のある人は共同体の性質を実際によく観察するとよいかもしれません。共同体は、その組織の頂点が、それをひたすら自分にとって都合のよい身内としてそれを確保し拡充しようとしている場合、共同体全体が節度を失ったムラ社会の何かに堕落していくのがほとんどです。頂点の老獪が幅を利かせて安住し続けることを必死の目的としている場合、そこに入り込んできた自立についてはそれを殺そうとします。
自立というさわやかな語の直観にふさわしく、あなたは単独でも外部の人々に通用しなくてはなりませんし、そうでなければ"自分が自分として成り立っている"とは云えません。身内集団の中で"自分は成り立っている"という錯覚に耽ることや、集団を嵩に来て外部にも"自分は成り立っている"と錯覚するようなことのないよう注意してください。「ソロでどうなの」という言い方を、東京自立会議はよくします。
八、人格的自立は社会的自立と混同されない。
ここまでの話は人格的自立のみを取り扱っています。社会的自立は取り扱っていませんが、それは社会的自立については社会的にすでにさんざん言われているからです。誰しも耳にタコが出来ているほどでしょう。
人格的自立と社会的自立を混同する方は珍しくありません。どのような出会いについても、真っ先に名刺を差し出すか、社会的な身分についてを自己紹介し、その土台の上にしか自分を置かない人は、このところいっそ主流にさえなりつつあります。かつては、それらはいわゆる「身の上話」のことであり、野暮だと忌み嫌われたものですが、現在は忘れ去られつつあります。少なくとも、野暮がどうこうという以前に、どこでも誰とでもそれだというのでは、何やらそれは節操がありません。申し上げたとおり、自立はその人間に軽薄でない身分と経歴を与えてゆきますが、そのことと、ごたいそうな身分と経歴を宣伝してかかることはまったく別です。
もしあなたが、早すぎて不適切なタイミングで、身分や経歴のことを訊かれたとしたら、あえてそのことを「どうでもいいじゃない」とはぐらかし、答えずにゆくということも、試されてみるとよいと思います。一部の人にとっては、自分の身分や経歴や、身の上話のことを、一切に話さずにゆくということが、どれだけ難しいことか発見されると思います。その発見は同時に、人文的自立が為されていないことの発見でもあります。
九、自立は柔軟に保持され、独我は硬直して押し通される。
あなたは、現実的に生きていかねばならないし、現実的に生きていくことの逞しさを、自負とよろこびに持っていらっしゃると思います。そのあなたにとって了解は容易なことだと思いますが、何はともあれ、現実的に人と付き合うということは、柔軟性なしにはやれるものではありません。自立があろうがなかろうが、柔軟でなくては人と付き合うことがまずできない。不可能でしょう。ですから、柔軟性については、それがよいとか悪いとかではなくて、無くてはどうしようもないものだとして、我々は肯定するよりないのです。このことはあなたによくわかってもらえると思います。
それでいて、誰にとってもそれなりに風当たりの強さのある、実際的な暮らしがあるわけですから、その中でやはり軟弱でいてよいとは思えません。軟弱であれば、風当たりのたびに揺らされて、ふらふらと自分の定まらない、それこそ自立からまったく遠い人間になってしまうでしょう。おそらく、自立ということで自分を悩ませたことがある人は、その風当たりで自分がすぐにふらついてしまうということを、悩みへの第一のきっかけとされたのではないでしょうか。
軟弱であることと、柔軟であることは違います。軟弱は否定されてよいものですが、柔軟を否定しては何もまともにやっていけません。風当たりの強い中で、揺れないように硬直を選んでしまう人がありますけれども、この最も誤解しやすい点につき、東京自立会議は警告を申し上げるものです。硬直は自立ではありません。
自立は柔軟であり、硬直は独我論です。自立と独我論との間に、理論的な境界は作り出せないのですが、東京自立会議は、ただこの性質の差によって両者を区別します。自立は柔軟に、保持されるだけのものであって、何も押し通そうとされるものではない。保持された自立はコミュニケーション性を豊かに持っています。一方独我論というのは、硬直して、自分の何かを押し通そうとするもので、そのことについて彼にコミュニケーション性はありません。「ならず者」「ならず者国家」の話を思い出してもらえれば了解は速やかだと思います。
十、成り立たない自立は、慎重にポリシー化される。
たとえば日本が国として自立しようとしても、どうしても日本だけでは成り立たないところもあります。日本は原油を産出できませんから、エネルギーを他国からの輸入に頼るしかない。エネルギーを他国に依存したくない、ということで、核プラント発電などもこれまでたくさんやってきましたが、それでも原油を輸入することなしにはやってこられませんでした。
同様に、個人においても、誰もスーパーマンではないのですから、どうしても器量の面で、成し遂げられないことや獲得できないことが出てきます。どれだけ頭が良くても、体質がひ弱だという人はあるでしょうし、逆に膂力や運動においては頼りになる人であっても、知的なこととなるとまるで頼りにならない、という人もあるでしょう。
こうした、誰にも当然ある欠損・欠落の上で、なお自立するということはどういうことになるでしょうか。そこに必要になってくる手続きのことを、東京自立会議はポリシー化と呼んでいます。日本だって、本当は原油が出てほしいのです。出てほしいのですが、出ないのだからしょうがありません。原油が出てこない日本として、エネルギー方面の政策を慎重に練り、やはり"日本が日本として成り立っている"ということの新しい形を作っていくしかないでしょう。日本に足りないものを持っている他国に対し、「うらやましいほどだ」と素直に見上げ、付き合い助けてもらえることに感謝する、そのようにしていくのが当然のことになります。
同様に、自分に足りないところがある場合、何も難しく悩むことはなく、ただ自分より優れてそれを獲得している他者のことを、素直に見上げて、仰げは良いのでした。仮に、残念なこととして、自分がたくさんの方面において、一般の他者よりことごとく劣っているということがあったとしても、そのときもただ周囲を見上げて仰げばよい。「自分みたいな者から見たら、周囲はみな先生だ」。そうして見上げて仰ぎ、ひねくれていなければ、自立の本質は損なわれません。
どれだけ運動オンチな少年も、リレー競技のクラスリーダーに向けて、熱心な声援を送ってよいでしょうし、「すげえな、尊敬するよ!」と見上げて仰ぐ心が起こることは何も不健全ではありません。少年がやがて、「自分は頭も悪いし、運動もできないけれど、それでも人の役に立てるようになりたい、ちゃんと修行して職人になるよ」と云うようになれば、彼はポリシー化の上での自立に成功しています。足りないところのある彼ではあっても、"自分が自分として成り立っている"ということは十分云えます。
人格的自立において、たとえばユーモアやウイットにどうしても疎い女性があったとしても、彼女が「ごめんね、わたしバカだから、そういうのに疎くて。でもあなたの声を聞いているのが好きなのよ、お茶を淹れて差し上げたいわ、わたしにもそういうできることがあるでしょう?」と云うようならば、彼女はポリシー化によって人格的自立を成立させています。
さてこれで、自立に関わる周辺的なことがらについても、東京自立会議として一通りお話しすることができました。申し上げたとおり、中央山頂を目指して出発した探検隊が、標高の低い周辺でこそ遭難することはよくあります。"自分を自分として成り立たせる"ということを真正面から見たとき、それは身もフタもなくて笑えるほどのトライアルが突然現れるものになります。そのことへは、誰しも自分を丸め込んでごまかしたくなる衝動を覚えます。そうして起こる遭難に巻き込まれないよう、周辺地域での注意事項を申し上げました。自立へのトライアルが厳しすぎて、立ち止まってしまうことは誰にでもあってよいでしょうが、立ち止まればそれで済むものを、いちいち遭難するのでは労力の損耗です。
***
零、全ての人は自立している。
さて最後に、東京自立会議は、幻の零項についてお話しすることにします。この項目は、一から十までと、どこか矛盾しているようにも感じられるので、こうして幻の項となるよりしょうがないところです。「全ての人は自立している」。この、一見投げやりに聞こえるものを、東京自立会議は「決定的自立」と呼びます。
せいぜい、幼児などの子供を除いては、世の中の誰が、自立していないなどと言えるでしょう。そんなことがあってよいはずがないのです。ですから、そんなことはありえない、という当然の視点が前提になり、それ以外の選択肢などありえません。自立を疑う目つきで他者を眺めることが、どれほど不遜で失礼に当たるでしょうか。東京自立会議は、自身の節度として、全ての項に先んじて、この項に零の番号を振ってあります。
つまりは、先ほどから東京自立会議は、自立した人間としてのあなたに全てを語りかけてまいりました。だって、それはそうでしょう。自立していない人間に向けて、重要なことを語るなど、そんな無駄なことをする人がどこにあるでしょう? 芳しい歓交は自立した者同士の間にしか起こらないというのに、自立していない人間に重要な何かを語り向けるなどということが、あるわけがないのでした。
この、最大の節度であり、同時に最大の残酷さでもある零項が、東京自立会議の一階の下にあります。出入り口はありませんが……。全てが自立したものとして扱われてゆきます。
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この語りかけの締めくくりには、当然ですが、東京自立会議の一から十に連なる提唱を一覧にして再提示します。それでこのお話は終わりになりますが、それにしても全てのことはあなたのことです。筆記試験に出るわけでもない提唱の文言に感心を覚えても役に立ちませんし、また疑問を覚えてもやはり役に立ちません。ひたすら、"自分が自分として成り立つこと"、あなたがそのことを正面から捉えて引き下がらなければよいだけです。この点において、東京自立会議とあなたは当然の同意ができるのでした。
あなたの声は、今のあなたの声でよいでしょうか。「本当に」よいでしょうか。あなたについての全てのことを、悪く云う人は誰もいませんし、あなた自身としても、あなたのことを悪くは云いません。東京自立会議も悪く云うなどということはいたしません。つまりあなたには何の問題もないわけですが、それでもなお、「本当に」それでよいでしょうか。あなたはきっと、問題のないものになる、というような、わけのわからないことのために、生まれてきたのでもなければ、これまで暮らしてこられたのでもないと思います。ですから、今のあなたに何の問題もなかったとしても、そのことは何らあなたの達成感にも自負にもなっていらっしゃらないでしょう。
東京自立会議の鼓膜には、一般論はまったく聞こえませんし、あなたが正論を云ったとしても、ほとんどが聞こえていません。あなたが自身の価値観についてのお話をされても、きっと一割程度にしか鼓膜に聞こえていないでしょう。東京自立会議は、ただあなたの矜持の声のみを聞くからです。一般論をすっかり超えて、正論と手を結ぶわずらわしさを持たず、価値観を踏み台に砕いてまったく別のところへ飛んでいった、あなたの矜持というものがあったとして、そのことはあなたの恥になるでしょうか。そのようにはまったく思えないのです。
東京自立会議から、常識的なことを申し上げておきます。仮にあなたが、今日から自立した人間として、これまでのキャラクターづくりとまったく違う振る舞いをし始めたとしても、周囲はいちいちそのことを大して気にも留めません。違和感があると思っているのはあなただけの思い込みです。なぜそう云いえるのかについても説明できます。零項を思い出してください。全ての人はすっかり自立しているのです。自立した全ての人が、あなたの振る舞いのいちいちに厭らしい茶々を入れてくるようなことはありえません。ところであなたはなぜ勝手に自分がそうも注目されていると思い込まれたのですか。
お話を続けてきた甲斐あって、またあなたにもきっと読み進めてこられた甲斐があって、ようやくそろそろ、全ての欺瞞を取り外してお話しすることができそうです。いつだって、誰に対してだって、こうして欺瞞を取り外すまでにずいぶんと時間が掛かってしまうのは無念なことですね。
あなたはきっと、これまでの経験と記憶を振り返られたとき、自分は自立した誰かをしか愛してこなかったし、信頼も尊敬もついにしてこなかったと、思い当たられると思います。また、誰かを特別な人として愛するとき、やはりザラには見当たらない何かを持つ、何か人並み外れて光っている人間的な力を感じて、その人を特別な人と認めて愛してきたはずです。本当に何もない人、平凡な、自立については現代でいうところの「ふつう」の人を、全て特別な人だとあなたが愛してきたかというと、愛してきていません。古いクラスメートを想起してください。愛するも何も、覚えていない人のほうが多いのではありませんか。
あなた自身がそうであり、あなた自身が実体験からそう記憶してこられたのに、現在のあなた自身が、「割とふつうにやっている」では、あなたは"自分が自分として成り立っていない"。それは誰の責任でもなく、もちろん東京自立会議が悪いのでもないはずです。全てあなたがあなた自身を体験してこられた中で組みあがった矛盾でしかありません。あなたはいつの間にか、自分について「ふつうでいい」と思い込まれてしまいましたが、たとえばあなたはCDショップに行って音楽CDを買うにしても、「ふつうのでいいから」といって陳列されている一つを無作為に手にとって買ったりはしません。あなたは「ふつうだから」ということに三〇〇〇円の値打ちも認めていないことになります。あなたはそろそろ欺瞞をやめて、まだ時間のあるうちに、輝く人間にならなくてはならないでしょう。そのことはきっと、新しいことというより、あなたにとって懐かしいことであるはずです。あなたがそのことを見失わずに目指されていた時間が、きっとこれまでの過去にもあられたでしょうから。
あなたが、"自分が自分として成り立つ"ために、あなた自身の矜持を捉えなおし、また新しく打ち立てようとするときも、焦って寝床でそれを急造するのはどうかお控えください。そうしたとき、あなたはきっと、少年コミックや女性雑誌、あるいは流行したテレビドラマの印象的なシーンなどから、イメージをもってきてそれにしがみつく、というようなことをしてしまいます。それは見かけはよく出来たものに見えるのですが、いざ着ようとしてもサイズが小さすぎて着用のできないものです。
ちょっと失礼します。十までにまとめるはずが、好いものが生まれてしまいましたので、東京自立会議の新提唱をここに承認して示したいと思います。
十一、向き合った自立程度が映りこむ。
あなたの胸が、一枚の銀の鏡になったと思ってください。あなたの周囲には三百六十人の人間がいて、あなたを円形に取り囲んでいます。あなたは首を巡らせれば、さまざまな人を観察できますが、あなたが銀の鏡に映しこめるのはそのときごとに一人だけです。あなたは誰のことを自分の胸に映しこむでしょうか。あなたが身体をうつむけば、そのときは鏡に誰も映りこみません。
自立程度の低い人間と向き合えば、その自立程度があなたの胸にも映りこみます。勇気の要る云い方をすれば、あなたは自分の自立程度を下落させたくない場合、自立程度の低い人間を胸に映してはいけません。この云い方は勇気が要りますが、それ以上に正当な云い方であると信じます。
あなたは自立程度の高い人間を、胸の鏡に映しこめばよい。その人のことを観察するのではないのです。観察の目はヨソを向いていてもよいですから、胴体はその人に向き合い、胸の鏡に自立程度の高い彼か彼女を映しこむことです。あとは、その映りこむ矜持のレベルに、あなたがくじけてうつむいてしまう、ということがなければよい。
360度回転でき、誰を映しこむこともできるあなたの胸に、自立程度の極めて高い彼が映りこむ。節度があり、理知的で、慈愛があり、建設的で能動的な彼。性差を祝福し、やさしく、色気があり、清潔な彼。ユーモアとウイットがあり、身だしなみがよく、いつも面白い語り草で、希望の匂いばかりする彼。「そうでないと自分が自分として成り立たないからな」と彼は云います。彼は正当な自立の利益の中を生きてきて、芳しい歓交の思い出ばかりを持ち、軽薄でない身分と経歴を持っており、人間的能力がずば抜けて高い。彼は身内にも他者にも同様に通用するし、自己紹介なしに人格だけでもそれぞれの場所で活躍していく、苦手でヘタクソなことにもポリシーを持っていて、自分が及ばない人を屈託なく見上げている。そして彼はあなたのことを、当然自立しているものだとしか見ないのでした。
そうして胸に映りこんだ何かの中に、矜持の実物を見つけてください。コミック本も悪くないですが、うつむいて読んだコミック本では意味がないですし、かといって自分の胸に映りこむほどの作品にはなかなか出合えないものです。矜持を作り上げるというよりは、実物を映りこませて実物をもらって帰るほうがやはりよいです。その矜持は、実物なので、持って帰るとすごく重いかもしれませんが……
あなたは向き合って映りこんだ自立程度と同程度の自立程度に行き着いていきます。この点、引き続き勇気の要る云い方をすれば、自立程度の低いばかりの周囲の中にあることは、うれしくはないことです。一方、あなたはどの街中に出かけるにしても、自立程度の高い誰かに出会いたいという、正当な動機を持つことができます。あなたとって人との出会いに価値があるのは、寂しさを慰められるからではなくて、胸の鏡に映しこむ実物の誰かを見つけなくてはいけないからでした。
さあ、あなたはこのことに、いつまでもフーンと云っていられません。映しこむ誰かと出会うのみならず、次はあなた自身も、誰かの胸に映りこむ実物矜持の人間として鏡を向けられる先に選ばれなくてはならないのですから。
話を戻します。自立とは"自分が自分として成り立つ"ということですが、それは何も、成り立っているぞエッヘンと、ふんぞり返るためのものではありません。むしろその逆で、ふんぞり返っているような有様では、それこそ"自分が自分として成り立っていない"のです。ふんぞり返っている人間など、矜持を失った人間の姿に違いないでしょう。
"自分が自分として成り立つ"ために、まずあなたはリラックスしてください。気合が入っているつもりでも、リラックスのないそれは必ずどこか勘違いです。何のためにリラックスするかというと、柔軟性をたくわえているのです。自立は柔軟だと申し上げてきました。柔軟であるということは、ぐいっとパワフルに変形するということではありません。変形にストレスがなく、変形に力感やソリッド感が無いということです。
リラックスと、気を抜くということは違います。気を抜くと余計に疲れます。気を抜くとリラックスできているような気がするとしたら、それはあなたが不必要に気を張っているから、それを抜いたときにリラックスしたような錯覚をするだけです。横綱が本場所の前日に就寝している深夜のさまをイメージしてみてください。リラックスはしているでしょうが、気を抜いているということはないと思います。
気が抜けてしまう瞬間のいくつかに注意してください。主に、笑うときと話すときです。つまり声を出すときに気が抜けます。逆によく考えれば、あなたが一人で気を抜くときにも、思わず何かしらのうなり声を漏らしてしまうところがあるのではないでしょうか。
笑うことも話すことも、本来はよいことなのですが、そのことで気が抜けてしまうという間違ったやり方の習慣がある場合、つまり声の出し方が間違っているのですが、このようなときは、わざわざ気が抜ける声の出し方を自分でよろこんでやらないように注意してください。そのほうが、やがてじっくりとしたリラックスがやってきます。
先ほどからこれは何の話をしているかというと、リラックスそれ自体が本質なのではなく、リラックスによって、或る種のこだわりや執着から離脱してもらおうとして、語りかけているのでした。よく誤解されることですが、矜持というのはこだわりや執着とはまったく違うものです。こだわりや執着は、そのために気を張っていないとこだわっていられないものですが、矜持はリラックスした中にもストレスなく保たれるものです。
このことも重要なので、失礼、東京自立会議提唱の文言へ付け加えさせていただきます。
十二、矜持にはストレス性がなく、こだわりや執着と混同されない。
では、長らくお付き合い頂きありがとうございました。以上をもって、東京自立会議からのお話を終了させていただきます。
また近いうち、定められたどこかでお会いしましょう。
一、自立とは、"自分が自分として成り立っていること"を指す。
二、東京自立会議は、人間的自立の主軸を次のように提唱する。節度、理知、慈愛、および建設的能動性。
三、東京自立会議は、性的自立の主軸を次のように提唱する。性差の祝福、やさしさ、色気、および清潔(淫らでないこと)。
四、東京自立会議は、人文的自立の主軸を次のように提唱する。ユーモアとウイット、語り草、身だしなみ、および希望。
五、自立の動機は理由に拠らず矜持(きょうじ)にのみ拠る。
六、東京自立会議は次のとおり、自立の利益を確認する。
(1.)芳しい歓交は自立した者同士においてのみ得られる。
(2.)自立した人間は軽薄でない身分と経歴を得る。
(3.)自立すると人間的能力が解発されていくが、その逆は機序において成り立たない。
七、自立の全ては身内に向けては成立しない。
八、人格的自立は社会的自立と混同されない。
九、自立は柔軟に保持され、独我は硬直して押し通される。
十、成り立たない自立は、慎重にポリシー化される。
十一、向き合った自立程度が映りこむ。
十二、矜持にはストレス性がなく、こだわりや執着と混同されない。
零、全ての人は自立している。
[東京自立会議/了]