笑ったことのある人へ
バフチンから桑田佳祐へ、女性を組み伏した夜を通して
グロッタ、グロッタ……街路樹の根が土に入り込みすぎ、アスファルトをはがして混ぜ込んでしまうほどの。渾然とした夜の景色である。東京なら夜にも木には木陰があって、人はまばら、住宅街を抜ける環七に、しばしば道路脇の自動販売機が光源として繰り返される。それらは全て渾然としている。それはそのときの僕が性的な目的に向けて歩いているためだ。性差の明らかな肉体を寄せ合ってする直截的なそれをしに行くということ。向こうもそれを愉しみに胸を高めて僕のことを待ってくれているに違いない。かつての幸福な男どもが浴してきたように、僕もそうした明らかな目的に向けて夜道を歩くことをしてきた。そのとき夜道は街路樹の木陰を伴って渾然としたグロッタになる。昼間よりもはるかにうねった、みだりがわしいほどの樹木の木肌。生命のなまなましい力がグロッタの中をムンとした精気の立ちこめる空間にしているのだ。
僕はこの道中を歩きながら、流れる空気にばらまいていくようにして、ミハイル・バフチンのグロテスクリアリズムについて語ろう。幸い(といっても僕には嘆かわしいことに)、到着まではまだまだ時間がある。まずグロテスクさやその方法とは何のことを指すかについて、それはこのように言われねばならない。「崇高なものや、精神的理想の表れについてを、唯物的な地位に格下げして、民衆が笑おうとすること」。唯物的ということが答えになる。唯物的ということがわかれば、格下げということもおのずとわかってくる。
バフチンによる"笑い"の捉え方は奥行きがありすぎて、この道中には話せない。ただ誰だって、自分の身の経験から、そこに汚らしい笑いや美しい笑いがあり、否定的な笑いもあれば肯定的な笑いもある、ということはわかる。にわかに、クンデラの指摘した天使の笑いと悪魔の笑いにも連想は刺激されるけれども。でもそうしておべんちゃらのように拡大だけしていくのは本質的じゃない。
まず、僕が憎む、くだらないグロテスクさの、阿呆みたいな表現力の有様について話そう。この話はつまり、バフチンの言ったところに対して、「そうじゃないのに」と、お得意の誤解や勘違いをしている類、そうした嘆かわしい類についての話であるわけだけれども。この話はこれだけを切り取っても聞き遂げてこれからの役に立たせる値打ちがあるのじゃないか。要するに、グロテスクといえば格下げで、格下げといえば唯物的な地位へ格下げするということなのだけれども、このことを、ひたすら格下げでしかない、ひたすら唯物的でしかない、というやり方でえんえん繰り返す主義があるのだ。僕はこの主義のやり方に、かつて怒りを燃やし、この主義が何の躊躇もなく人々に拡大していくことに信じがたさを覚え、現在はどうかというと、感情を失ったアパシーとなって、ウンザリとだけしている。
たとえば、アフリカの貧困層は、宗教的な教えを学ぶ余裕さえないかもしれない。そうした崇高さについてを検討する時間さえ与えられず、幼いうちにウイルスに感染して病死してしまうかもしれない。そうしたところに、ヨーロッパの、神の慈愛に対して敬虔な、美しい少女を並べてみる。するとどうだ、「お前が神様に祈ることができるのは、ヨーロッパの国としての経済力があるからにすぎないよ」という見え方が演出されてくる。人間の生活が経済という仕組みで運営されているという、唯物的なところを捉えた見方。合わせて、経済力で庇護された有利な環境がなければ、ウイルスに感染して治療もなく壊死してしまう、という、人間生命の唯物的な捉え方。
グロテスクというのはそういうことで、グロテスクを主義とする人のやり方はそういうもの。たとえば、ここに前衛的な芸術の何かを示してみたとする。すると彼らは、その芸術に表れているものをどう受け止めるかということではなくて、「こんなことをしていて、メシが食えるというのは、いいご身分だなあ? あはは」ということを捉えにかかる。"崇高なものや、精神的理想の表れについてを、唯物的な地位に格下げして、民衆が笑おうとすること"。彼らは驚いたことに、目前の舞台という芸術装置など無視して、舞台上の人間らが帰宅すればメシを食うであろうという、どうでもいいような唯物的な見方をただちに思いつくのだ。それは彼らが、ずっとそのことしかしていないからだ。
我々が最近で耳にするもので言えば、労役の質量がぐっと重ければ"社畜"と言われ、過去に性交の経験がある女性は"中古"と言われることがある。実際には、そんな言葉を真剣に捉えているのは、よほど極端に愚かしい、ごく少数派のことでしかないにせよ。グロテスク主義のやり方とはそういうもので、何もむつかしいことはない、"誰だって社長の悪口を言うときは第一に社長のことをハゲ呼ばわりする"ということと同じだ。唯物的な格下げをして笑いに晒そうとする。それがグロテスク主義の正体だ。
このグロテスク主義の貧しさについて言っておこう。この方法が、誰の直感にも確実に、哀れなほど貧しいと感じられるのは、平たく言って、これはどんな莫迦の、低能にもできてしまうことだからだ。それが最も愚かしいグロテスクリアリズムの曲学であっても、一応はグロテスクリアリズムであるから、最低限の表現力を持ってしまう。ひどい莫迦の、低能の人間は、他の表現力など持てないから、唯一といっていい自分のこの表現力に依存をして振り回す。莫迦でもできるこの表現力の方法は、つまり、映画のヒーローとヒロインを立てて、それをミンチ機械ですりつぶす、というようなことをすればいいだけだ。それは常識的にもグロテスクと言われる。いかなる人間もミンチ機械に掛けられれば肉片といういかにも唯物的なものになるから、ここにはグロテスクリアリズムが成立する。ヒーローもヒロインも格下げされてしまった。「どう?」というわけだ。
この最低のグロテスクリアリズムには、最低限の表現力が伴うにせよ、その表現力には何の方向性もなく、見ている者をワーという気分にさせる、という作用しか持たない。まったく虚しいもので、こんなものは、神経が弱くワーとなりやすい人に向けてしかたいした作用を起こせない。
人間がメシを食うということ、経済的に生活しているということ、ミンチ機械に掛ければ肉片になるというようなことは、当たり前のことであって、その指摘するにも何の値打ちもないところをこぞって指摘するようなことに、何の熱心になる理由があるだろう。
熱心になる、その理由について……グロテスク主義が現代に広がる、思いがけない理由背景についても話しておきたい。思いがけないことに、それは植え込まれた「平等」の観念に端を発している。平等の観念を植えられた人間は、半分は正義を覚えるが、半分はひたすら自分の劣等を認めない傲慢さになる。複数いる人間のうちに、崇高なもの、精神的理想の表れを現成できてしまう人間がいたら、それができる人間とできない人間とのあいだには、差別が形成されてしまう。同じ人間でありながら、あの人との褥は崇高であり、あの人との褥は汚辱でしかない、という差別がたとえば起こってしまう。この差別で劣等を認めるのがいやだから、彼らは本当に、男女の恋仲は美醜と貧富だけで決定していると信じようとする。人間の賢愚も、両親が整えた学習環境の良否によってしか決定しないと信じたがっている。彼らは断じて自分が劣等だとは認めず、事実上の優劣が生じるのは唯物的な美醜や貧富だけに依ると言い張る。唯物的なアイテムさえ同等なら、自分も「平等」だと根底で信じているのだ。だから彼らは根本的な自己を崇高さへ向上させる努力をしないし、常に内心で優等の者に対する唯物的格下げをはたらきかけている。彼らはどれだけ美しい女優をスクリーンに見ても、「性行為の器として良い具合に違いない」といった、唯物的な捉え方をはたらきかけにつぶやいて回ることしかしない。
仮に、そうした虚しいグロテスク主義に十年を生きた人間がいて、その十年後にふと、あなたの持つ崇高さとは何か? と問いかければ、彼は慌てふためき、怒りに激昂するだろう。それは彼にとって、痛いところを突かれたのだ。
こうした、実際の我々の身の回りに立ち込めているグロテスク主義について、こうして解き明かしをすることは、有為であるに違いない。唯物的な格下げに熱心な勢力があり、彼らはそのやり方に熱心にならざるをえない理由を背景に具えている。彼らはしばしば、自己卑下するように自分の劣等ぶりを笑って言うけれども、こちらが誤解してはいけない。彼らは自分の不細工や低賃金やコミュニケーション能力に障害があるふうを卑下して言うけれども、それら全て唯物的な劣等を卑下ふうに主張するのは、本当のところの劣等を決して認めず平等を言い張るために過ぎないのだから。彼らは結局、身近な人間に崇高さにおいて劣るということを認めずに逃げ切るつもりだ。
さあそれにしても、この見事な、夜のクスノキはどうだ。めくれあがった、岩と土の混じり具合。木肌が、石や針金や、自身の枝、貼り付けられた紙チラシをも巻き込んでうねり……みだりがわしく、渾然としている。宝石を含んだ錫石が不気味に並んで、ここは胃粘膜細胞の顕微鏡写真みたいに見える。このようなグロッタにおいて、縦にぶらさがった幼虫どもは食料だろう。
われわれは、真のグロテスクリアリズム、バフチンが語ろうとした祝祭的な力について、ありがたいことに日本人として、最適なサンプルを知っている。おそらくは、キリスト教および一神教の世界へ向けて説明を工夫せねばならなかったバフチンの苦労をよそに、我々は、「マンピーのGスポット」を唄った歌手のことを知っている。xがすごいじゃない、yが上手いじゃない、割れたパーツのマニア……といって、恋あいの崇高さを、即物的な地位に格下げして唄った人間がいた。そこに起こる祝祭的な力こそが、人々に新しく恋あいを教えるか、思い出させるかしたということは、ある程度共有されているかつての社会現象として事実だったのじゃないか。みだりがわしい彼の歌うカーニバルこそが、ぼんやりした女を新しく淑女としてのステージに押し上げてきたことがあったのじゃないか。
ここまで話して全容がピンとこないような勘の鈍い人間は要らない。カーニバルとは、謝肉祭と言われ、「肉に別れを告げる」が元々の意味だった。崇高な宗教行事としての、断食や、肉食を禁じる期間がやってくる。それに先立つ前日に、肉をやたらに食いまくらねばならないだろう! そういう祝祭の色めき立ちがやってくる。唯物としての肉体を、唯物としての大地グロッタと接続し、大地から生み出される酒池肉林をも同時にやみくもにして味わう。カーニバルといってただちに肉体の酒池肉林への接続を覚えないような勘の鈍い人間は要らない。これからやってくる格上げの営みに先立って、十分な格下げを営む。そのとき、人はまったくよく笑う。バフチンがカーニバルに祝祭と笑いを見つけ、そこに陽気で嫌味のない力があると唱えたことに、異論のある人がありえようか?
逆説的に、<<人間が崇高さに堕落しないために>>、格下げの力、グロテスクリアリズムの力はある。僕自身、ずっとそのようにやってきた。僕は実は、グロテスクリアリズムの知識に出会ってから、それを自分の中に吸い上げるのに、五年の歳月を必要としたのだけれど、吸い上げてみれば何のことはない、これは僕のネイティブとして使ってきた方法でしかなかった。
僕は生まれた土地にアイデンティティを探すタイプではないけれど、事実として幼少から思春期を大阪の南部で過ごした。その、誰もが知るユーモラスな語尾の発音を持つ言語とそれによる文化の中、格下げといっても……そもそも当地には格上げそのものがずいぶん貧しい。バフチンの指摘が今さら「笑い」を指摘したところで、僕にとっては今さら「笑い」に注目することは馬鹿馬鹿しいことだ。そこにある陽気な祝祭の力について、知っているのみならず、僕は根本的に、それ以外の力について自分の内に心当たりがない。他に方法が無かったのだ。
僕はそれを、唄えるのではないが、恋あいといえば粘膜であると、やはり格下げのようなことを唱えてきた。みだりがわしく渾然とした、グロッタの中へ一緒に溶け込んでいくことだ。それはなんと陽気で、お互いよろこびあう祝祭ムードのあることだろう。うわっはは! カーニバルに、唯物の最高峰、女性の粘膜が正当な地位を取り戻す。僕は女を組み伏したのだ。女の脚はうねって絡み、その両手は僕を肌に取り込んでゆく。みだりがわしく……
今もちょうどそのことをしにいくと言った。グロッタ、グロッタ……この精気に満ちた、夜の木陰を歩いてゆくのだ。
[バフチンから桑田佳祐へ、女性を組み伏した夜を通して/了]
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