笑ったことのある人へ
わたしからあなたへの芸術理論
現在は改善されているであろう、かつての油ぎった天王寺の歩道橋群、これらを構造化に捉えて歩き渡ることができるようになれば、人々はユーゴー書店という、文豪の名を冠した縦長のビルにたどり着くことができた。現在は閉店してしまい、八十三年続いた書店の営業する姿は失われてしまっている。かつて僕が十八のときここで手にした、赤い表紙の心理学の本、確か「カウンセリング入門」と書かれたそれは、当時の僕にショックを与え、後に大学に入学した僕を、真っ先にフロイトの全集を読破することへ導いている。赤い表紙の、手元にもさしたる厚みはないそれは、好奇心の読み手に向けて豆知識をひけらかした本ではなく、臨床の実例を語りこんで理論と血肉とを結ぼうとする、思想的でない実地の誠実さがあらわされた本だった。人間の"心"が、カウンセリングルームの周辺でどのような姿を垣間見せるか? そこには「このようなことに人間がのめりこむことは何もおかしくない」と直接に感じさせるものが書き出されてあった。
それからまた十数年が経った。僕は大学院の心理学部の実態に同意しかねる感触だったので進学はせず、またその頃には僕は別のことで自分なりにテンヤワンヤでもあったし……という十数年を過ごしたのだけれども、やはり今度は赤い表紙の別の本が、今になってしつこく手元にあるのではある。岩波新書、大江健三郎の著した「新しい文学のために」。ロシア・フォルマリズムのうちシクロフスキーの指摘する異化/オストラニェーニエへの入念な切り口から、明視、バフチンの言うグロテスクリアリズムのこと、そしてウイリアム・ブレイクやガストン・バシュラールにまたがる想像力論によって、この本は"技師的になりすぎないよう"配慮された上で、文学及び芸術の作られ方・受け取られ方を適切に書き表している。僕は当然、数年間にわたってこの本をいじくり回しているわけだが、今や正しい言い方をするなら、この本の側が僕の数年間をいじくり回したと言うべきだろう。
一方、ここで話が飛ぶ。そうして一冊の本から芸術理論を獲得し、それも強く影響づけを受けた上での「わたしの芸術理論」として獲得していくことがあったにせよ、もちろん、人はそのようなことだけで生きてはいない。少なくとも僕はそのようなことだけで生きてきたわけではなかったし、僕自身に影響づけを与えたものはこれまで他にいくらでもあった。直接に触れた人間のこと、その土の上にあった笑いのことや、出会いのこと。もちろん異性のこと、セックスのことも含める。時空が消し飛んで止まるような夜があった。
ヴィデオゲーム周辺の体験を僕は自分で軽蔑しないということも先に話したままだ。僕は、映画を、本数を増やして観るマニアではないけれども、これという映画に出会うと、その作中にしばらく棲むふうになるし、引きずり込まれて繰り返して観る。神戸の山麓で毎晩泥酔して過ごした友人たちとの時間のことや、指揮棒をどう振るかのバトン・テクニックに肉体が憑依された日のこと、あるいはヘヴィ・メタルの音楽が洪水のように仕掛けてくるアポカリプス・デカダンスのこと。スレイヴ・トゥ・ザ・グラインド、ウェイスティング・プレシャス・タイム、ブレイキング・ザ・ロウ……これらのメッセージが若い人間に鮮烈に与える影響づけのことなど。これらは、高邁な芸術理論のよく捉えている範囲にない。
あるいは単純に言って「青春」のことなどどうだ? 大江の赤い本に導かれて知った崇高で精密な芸術理論も、完璧なようでありながら、ともすれば「青春」という一言をすら切実に書き表すことができない。多くの人が実体験から認めるところ、青春こそが人間にとって最も切実な想像力の期間であり、さらに言えば、それ以降にはもう切実な想像力の時間などありはしないかもしれないのに、この貴重なことへ文学や芸術がしょせん無力だというのは何たることだろう?
たとえば、ポップス・バンドの「いきものがかり」を、歌う詩人と捉えて、詩人ウィリアム・ブレイクと並べたとする。すると、どうしてもブレイクのほうが荘重に思える。けれどもそれはジャンルの違いでしかないのではないか。実際、「青春」を想像力に現成せしめて洗いなおせと言われたとき、そのことに直接有能なのはどちらなのか。
僕に近しい人は、これまでに何度も、僕が次のように言うのを聞かされているはず。
「文学っていうのは、なにかい、"変態の特権"なのか? そんなみじめな優越感に閉じこもりあそばしているのか?」
「桑田佳祐に恋人を見る女はまともだと思うが、大江健三郎に恋人を見る女はいないだろうし、もしいたとしても、おれは付き合いはごめんこうむるね」
「どの文学者も、マイケルジャクソンやジェームスブラウンのことを言わない。ずっと本だけ読んでやがる。三島由紀夫が映画サタデーナイトフィーバーを観たらどう思うんだろう? あるいは、チャールズ・リンドバーグがニューヨークで数千億の紙吹雪を受けたあのパレードの日のことは? 文学者は全てを放ったらかしなのか?」
文学と言えば、根暗で変人、結局精神的に信用のおけない何か、という印象があるが、残念ながらその印象は現在のところ完全に正しい。極端な言い方をすれば、僕は歴史上も含めたいわゆる文豪の実像について、「声ちっさ」と言いたくなる衝動がある。「何ボソボソ言うてんの?」。文学を突き詰めた成れの果てが、ああいう「気難しい地味なミイラ」なのか。もっと、人間としての単純な躍動感とかは無いものなのかね、自ら"想像力活性の担い手"などと称するならば。
"想像力活性の担い手"? いやいや、もし非科学的にでも、文豪たちを"合コン"の席に並べることができたならば、相手をする女の子たちは猛烈に退屈するだろう。何しろ「声ちっさ」なのだから。
人間を、そうした退嬰ぶりに追いやるだけの、つまりは青春からぐんぐん遠ざかるだけの、ひ弱さへの支援装置でしかないのだとしたら、文学など何も威張れる立場にはないし、尊厳を主張できる値打ちさえない。生まれつきひどいザコ――わかりやすく言って――に向けては、救済ふうの何かになるのかもしれないが、ザコにとって本当の救済はそうではない。ザコへの真の救済は、彼がザコでなくなることだ。誰だって、「声ちっさ」を脱却したくてもがいているというのに。小説「金閣寺」で主人公は最終的に金閣寺を放火するが、放火したってそんなものザコはザコのままでしかない。
そりゃあ人間は、そう書かれている文章を読めば、その作中に没入して、作中世界に共感する体験をするものだが、そこに起こる「励まし」、それは、そのようなもので本当によいのか。"人間の生を励ます"などどご立派なことを言うなら、人間が実際にどのような励ましを必要としているかを真剣に見つめる必要がある。ひ弱なザコに共感することで得られる励ましが本当に必要とされている励ましか。違うだろう。ザコでなくなりたいと望む人間にとって、必要な励ましは、ザコでない人間に共感することでしか得られてこない。その点、"エミネム"のほうがはるかに気が利いているのではないか? おそらく時間軸上、「芥川龍之介がスライ・ストーンを聴いて、"お歌が上手"とほざいたと言う」、このことは事実に成り立たないだろうが、この架空の揶揄が指摘するところに心当たりのない人はいない……
おそらく、全世界的に、たしなみとしての音楽から思想的なロック・ポップスが出現して、世界を塗り替えていったあの時代の、歴史的な変化に、文学はついていくことができなかった。文学は引きこもって、自分勝手に悲愴感を一人でいじり続けた。「ハイウェイ・スター」が歌われることを無視して、引き続き主人公をどもらせてその足にびっこを引かせた。「ワン・ショット・アット・グローリー」が歌われているのに、引き続き主人公は戦場の泥濘に倒れて空を眺めてはとぼけた述懐をするようなことを続けた。結果、文学には何のロック性もない。ロックを否定してやめさせようとする憐れなジジイの匂いがはびこるものになってしまった。get
it?
もちろん例外はあるもので、例外の第一人者は、文学ではないが、岡本太郎だ。岡本太郎は、芸術は人間が自由でありえたとき、その証拠として産出されるものだとした。そしてその営みの理由は"歓喜"だと説いた。その自由からの歓喜の体験は、実感として爆発的なものだから、「芸術は爆発だ」と言った。人をギョッとさせるもの、呪術的なもの、縄文式のようなもの……岡本太郎の自由と歓喜はそのような産物を証拠品としてもたらした。人間はキレイなものに気をよくするので、そうしたものに媚びることが人間の不自由だと、岡本太郎はおキレイなものを否定し続けた。
この岡本太郎式の芸術理論は、現代に至る――現代にはそれさえも失われつつあるが、さておき――ロック・ホップスの精華に追随することができる。「ハイウェイ・スター」に歌われていることの本質が、自由と歓喜だということには違和感がない。「ワン・ショット・アット・グローリー」の、題名にも滲む銃弾と砲火と血なまぐさい死の予感は、人をギョッとさせるものに足りるだろう。
渋谷駅の接続通路には補修された岡本太郎の「明日への神話」が飾られているが、ピカソのゲルニカを思わせるこれなど、まさに直接ヘヴィ・メタルの印象を受けるものだ。「原爆? だからどうした!」という岡本太郎の声が聞こえてくるかのようだ。
僕がここで「わたしの芸術理論」と呼ぶのは、端的に言えば、大江健三郎から得た芸術理論と、岡本太郎から得た芸術理論を、どのように自分の内に整合させるか、その解決としての芸術理論ということになる。僕はこのことに、難渋し続ける数年間を過ごしてきた。
僕がこれまでに重ねてきた実体験には多くの歓喜があった。だから、現在の方向へ僕が踏み込んでいなかったとしても、どこかで岡本太郎の芸術理論に出くわし、共感し、影響づけられるということはきっとあっただろうと思う。一方、こうして文章を書くことへ深く踏み込まなかったとしたら、大江健三郎の芸術理論にはまるで縁が無かっただろう。もし出くわしたとしても、「なんだこれは」という驚きと笑いだけで見逃されたはず。それで、生身の僕自身としては、気分のよい笑いをもって、岡本太郎のほうを"岡本先生"と呼びたくなるのに対し、大江健三郎のほうは、"大江"と呼び捨てにしたい生々しい気持ちがある。しかしこれは、単なる敬意の向け方が反映されていることではなく、"大江"のほうはもう身近になりすぎて、呼び捨てにしないではやっていられないという心地を反映してのことなのだ。
先ほど、歴史的な接続も含めての文学の全体、そのありように向けて唾を吐くようなことをしたのだが、これについては岡本先生の言うところの、「弟子入りしようなんて考える奴は、それだけで芸術家失格だ」ということに当てはまるのみ。現在の僕にとって、岡本太郎は痛快で実に好ましい人だ。一方、大江のほうは、認めたくもない事実ではあるが、現在の僕にとってわずらわしいほどの父なのである。僕が「気難しい地味なミイラめ」と反抗的に言わなくてはならないのはそこに向けてのことだからなのだ。
***
「わたしからあなたへの芸術理論」と題したからには、これはここに仮想した読み手の"あなた"にとって、受け取りによろこばしいものでなくてはならない。賢明で節度のある"あなた"は、芸術などと聞くと、「自分には分不相応だわ」と気の利いた謝絶をするはず。「芸術を、見る側ならまだしても、発信する側だなんてとても」。僕はその誠実な態度を持つあなたに向けて、まったく実用に足る言い方を積み重ねていくことで、あなたのこれからへの予感をよろこばせていきたい。あなたを安心させるために言っておくと、ここまでもこれからも、僕は小難しいふうのことを言うし、もちろんその指し示すところを理解した上で言っていくのだけれども、それでも僕は僕自身を、芸術家だと思ったことは一度もないのだ。そこは単に、思ってもいない芸術家の立場に自分を置いて好き勝手に言えるだけ、僕の性根が生まれつきド厚かましいということに過ぎない。しかし、軍人でなければ手榴弾のピンが抜けないといえるだろうか?
芸術とは何なのか。それは、イコール想像力、想像力の活性化、想像力の賦活、想像力の取り戻し、と言って差し支えない。では、その想像力の活性化ウンタラが、何の役に立つのかの問題。芸術は、一般的には何の役にも立たないが、突き詰めたところでは逆転して、人間そのものへ最高の役に立つ、と言うことができる。人間にとって想像力とは、それだけで「自己の完全解決」に至りうるものだからだ。これらのことはこれから先に説明されていく。首をかしげたまま先に進んでかまわない。
さて次に、じゃあその「想像力」というのは何のことなのか? という問題がある。このことについては、どうしてもこのように言わなくてはならない。
「想像力とは、与えられたイメージのむしろ歪形化である」
ここだけは難しい言い方にならざるを得ない。なぜ難しい言い方になるかというと、それだけ、想像力ということが一般的に誤解されているからだ。「想像力!」というと、一般には、ただちに「空想」の能力のことへ誤解されてしまう。青い海、白い砂浜……という言葉が並べられたときに、それをイメージ化して捉えなおそうとするはたらきの機能。これは空想であって想像力ではない。
あるいはいっそ、その「青い海、白い砂浜」を空想しておいてくれ。そこで僕がこのように言うとどうか。
「それは光るあまり湾曲したコンクリートに見えたが、踏み込んでみると歯のきしむような砂浜だった。足指に付着したそれを見ると、砕けたばかりの陶器の砕片に見える。波立つ海の中に、食用でない昆布が集会して踊っているのが見える。その日の潮は空気よりも透明度が高かった。水中を太りすぎた二匹のイルカが威圧的に周遊していた」
ふつう、青い海と白い砂浜を言うのに、こんなまわりくどい、難渋した言い方はしない。なぜこんな難渋した言い方をするかというと、「イメージの歪形化」を惹き起こすためだ。
強引に、分解するとこうなる。
・砂浜にコンクリートのイメージはない。歯をきしませるイメージもない。
・砂粒に陶器の砕片のイメージはない。
・昆布は食用のイメージだ。昆布が集会をするイメージはない。
・イルカは太っているイメージではないし、威圧的なイメージでもない。
「自動化」というのだけれども、人間は、物事のことごとくに「イメージ」を貼り付ける。それを貼り付けることで、いちいちじっくり見なくてよいという、想像力の横着を身につける。その横着を、省力化ともいう。とにもかくにもサボる。物事・事物を、物そのものの手ごたえを受けながら明視する、ということをサボるのだ。これは、どうやら人間の生来の仕組みによるもの。
この「自動化」「省力化」は、社会生活上では有益な機能だ。たとえば運転手が信号機や交通標識を見るとき、その標識のサビ具合や、そこにとまった一羽のハトなどをいちいち受け取っていたら事故を起こす。運転していられない。一万円札の一枚ごとのシワのつき具合などに注目していたら仕事は日が暮れてしまう。だからそういったものにはイメージを貼り付けて、実物を明視するという行為を省くようにする。このことは誰でも当たり前にやっている。自分の知らないうちのことだ。
だからこそ、幼い子供の目というのはキラキラしている。まだイメージの貼り付けが済んでおらず、省力化をしていない。いちいちのものを明視しているから、ああいうきれいな眼差しになる。単純に言って、それは想像力がオンになっている目と言って正しく、比べてクタビレた大人の目は、想像力がオフになっているからクタビレていると言って正しい。目のキラキラは、精神的な問題ではなく、実は想像力のオンオフの問題なのだった。だから子供は仕事や自動車の運転に向かない。
ここで注意。かといって、じゃあ想像力をオンにしようとか、省力化をやめようとか、そんな心がけを持ったって無意味なことだ。そこは根性でどうにかなる問題ではない。根性が、爆裂するほどのものだったら話は別だが……とにかく、ここでは「ほうほう」と理解してゆくだけでよい。
とりあえず、「青い海、白い砂浜」というのが、難渋した言い方のそれで描きなおされたとき、何かグッとその青い海と白い砂浜は自分に近づいて感じられたようなところがあるはず。難渋の文中には、白い砂浜とも青い海とも書かれていないにもかかわらずだ。それはなぜか。それは、難渋した文中がいちいち「与えられたイメージ」を否定しにかかるからだ。分解して説明したとおり。もともと与えられてあるイメージを否定されると、人間は想像力を回復させてもう一度その実物を明視して捉えなおそうとする。そこには、想像力における一種の「体験」が起こるわけだ。だから何だと言われたらそれまでだか、少なくとも、キラキラした目へ接近する方向の何かであることは疑いないわけだろう。太りすぎた二匹のイルカが威圧的に泳ぐ海の映像は、"イメージとしてはとうてい旅行案内には使えないけれども"、想像力の作用によってすでにあなたに近しい。
こうして、与えられたイメージの固着した、自動化・省力化の対象に対して、否定して歪形化をはたらきかけるやり方を、その感触のまま「異化」と呼ぶ。例として、「食用でない昆布」というだけでほんのり異化だ。もともとから与えられてあるイメージと「異なる」ので、異化という。
こういったことは、何も芸術でなくても、実体験の上でも起こっている。たとえば、今日でこの学校を卒業する、というとき。それまで、毎日通っていて見慣れた学校だったから、その学校や教室のいちいちを明視はせずに、「こういうもの」というイメージを貼り付けて、自動化して見ている。が、ここに起こる異化、「与えられたイメージの歪形化」がある。つまり、「明日からは、もう二度と、この教室に来ることはないんだ」「今日でこことお別れなんだ」ということ。その途端、教室の全ては名残惜しいものに見えてくるし、学校の景色の全てに思い出がくっついていることに気づかされる。それで感極まって涙が出る、ということが起こる。それは、そのときの学校、教室、そこであった全てのことを、鮮やかな「明視」によって捉えなおしているということなのだ。そのときに切なくて涙が出てたまらなくなるということが、どうしようもなく貴重で大切なこと、ということは誰でも知っているはず。ごくまれに、そのことを本当に完全に知らない人もどうやらいるみたいだが……でもほとんどの人は知っていよう。今は忘れていても、卒業するその日に涙を流したとき、他の全てのことはどうでもいい、一種の「人間自己の完全解決」のような体験があったはずだ。強引にくだけて言うと、「自分が生きてここにある、ということの、強烈すぎる実感」というようなもの。想像力論ではこのことを指して、「想像力は人間のステイト(状態)ではなくイグジスタンスである」という。人間の、いい状態、というのではなく、それ自体が人間そのもの、存在そのもの、実存そのもの、ということ。
いわゆる詩人というような人間は、四六時中こういう状態にある。もしくは、こういう状態にあろうとしている。「他の全てのことはどうでもいい」「ただ、自分が生きてここにあるということの、強烈すぎる実感だけを」というのが詩人だ。詩人はそこに確認されるイグジスタンス、何でもなかったはずの全てのものに切なくて涙が出て、貴重で大切で……というどうしようもなさを、なんとか言葉に紡ごうとしているのだ。とはいえ、これは想像力における技術を要求されるものなので、誰もが卒業式に詩人の心を持ちえるとしても、その技術を持てるわけではないので、卒業式の前後に書かれた感極まったポエムは、後になって見れば目も当てられない恥ずかしさのものというのがほとんどだろう。ある意味、人間らしさとしてはそちらのほうがまっとうだとも言えるけれども。
同じようなことはいくらでもある。ウンザリしていた恋人と別れるのに、別れるその瞬間になると、急に全ての思い出が大切に思えて、切なくて泣けてきてしょうがなかった、など。引越しのときなどにもそれはある。別れだけではなく出会いのときにもある。特に、生まれて初めての「彼氏」ができたときなど、誰でも心当たりがあるだろう。今まで何もないと思っていた自分が、突然今日から「彼氏のいる自分」という日々を過ごすことになる。与えられたイメージの歪形化だ。これが想像力をオンにするので、ときめきが起こる。目がキラキラになる。何かが胸にこみあげてきて、踊り出したくなり、涙が出そうになる。強烈な、「自分は今ここに生きてある」という実感がひしめいてくる。
が、そうして、交際相手の詳細に関わらず起こってしまうときめきもあるので、付き合いだして数ヶ月もすると「自動化」が完了して、「何かもう、冷めた」「ときめきがなくなった」ということになってしまう。想像力の機能はオフになり、何もかもが"既存のイメージどおり"となった。こうなると、つまり退屈になるわけで、その退屈な中で、今度は相手の悪い部分ばかりが目に付いてきてイライラし始めることになる。
そうした、「すぐに付き合って、すぐに別れてしまう」というパターンなども、実は芸術理論上で説明がつけられるのだ。だからこそ、芸術理論を所有するのに、何も芸術家気取りである必要はない。少年が、生まれて初めて「夏休み」というものを体験する。朝、目が覚めたとき、普通の気分で起きたものの、すぐハッとなって気づく。「今日から夏休みなんだ」。今日は学校に行かなくてよく、明日も、あさっても行かなくてよい。このまま、午前十時に堂々と家で過ごす平日というのはどんな気分のものなのだろう! あるいは家を飛び出して、東西南北、どちらへ行ってもいいのだ、目覚めてすぐに、これから毎日! こうしたところに、「与えられたイメージの歪形化」が起こっている。朝起きたら学校、というイメージが歪形化されて、子供にさえときめきを与えなおしている。誰もが知っている子供のときの夏休みの高揚というのは、単に学校が休みだからではないのだ。なぜ単純な映画のモチーフが、手っ取り早く「地球滅亡の前日」なのか、それは「与えられたイメージの歪形化」として、大きく、かつわかりやすいからだ……
さて、このようにして、「異化」のことを理解してもらった。与えられたイメージの歪形化が、想像力を改めて活性化する。
ここの部分まで、大江健三郎の誘導する芸術理論に全て書いてある。書いてあるのだが、この先のことは書かれていない。異化の重要なやり方としてのグロテスクリアリズムや、文章作品を構成する構造上のそれぞれのレヴェルにおける異化などには詳しく踏み込まれているが、単純な疑問、
「なぜ大江さんはその異化というやつがそんな器用にポコポコできるんですか?」
という疑問に向けては一切回答が書かれていない。まるで、そのことへの才能がない人間は門前払いだ、というような大前提で書かれているのだ。
才能がまるでない人間は門前払いにしかならないというのは、どのジャンルにおいても同じだろうけれど、それでもこのことには、まだ遡れる糸口が実はある。その糸口というのが、今度は大江側ではなく岡本太郎側、自由と爆発という方向へつながっているのだ。僕が今話そうとしているのはどちらかというとそちらのほうだ。
***
ここからの話は、しばらく一方的に聞いてもらうよりなくなる。まず、人間のエネルギーの話。人間には根本的に、精神的なエネルギーがある。超能力の話ではない。
何のエネルギーがあるかというと、自由に向けてのエネルギーだ。人間は生来的に、「自由でありたい」という希求を強く持っている。このことにはさして疑念も湧かないだろう。
人間は、いうほど自由に生きられないが、それでも自由でありたいという希求は消えず、抑圧されるほどに「自由でありたい」という希求がエネルギーになる。
このエネルギーが、どうなるというのか。どうなるかについて、一方的に言うよりないのだが、エネルギーはたしかに爆発のような手ごたえで結晶化をして、「構造化したidea」になる。何のこっちゃと思われるだろうが、これはこのまま「そうか」と理解してもらうよりない。注意してもらいたいのは、「自由を希求するエネルギーがあってこそ、ideaが生まれるのさ」ということではなく、自由を希求するエネルギーそのものが、「構造化されたidea」に直接なるのだ。ideaの素材がそのままエネルギーだと捉えていい。「竹細工の材料は?」「竹です」というような意味で、構造化されたideaの材料はエネルギーだと捉えていい。竹は竹のままなら竹でしかないが、竹細工ということになれば、一定の構造化をされて構造を持っている形になる。
「idea」というのは、英語圏の接触から知ったことだが、「考え方」のことだ。このことの説明は少々困難。ideaというのは、少なくとも頭上に豆電球が描かれるような、思いつきのことではない。たとえば民主主義と専制主義があったり、資本主義と社会主義があったり、宗教があったり法秩序があったりする。これらはすべて、人類の作り上げてきた「考え方」、ideaだと言うことができる。仮に、一枚のカードを伏せてテーブルに置き、「このカードの表が何かわかりますか」と訊くと、英語圏の人からは「I have no idea./わかりっこないわ」と言われることがある。つまり、そのカードの表が何であるか知りえる考え方の方法はわたしには無いわ、というようなことを言っている。いわゆるアイディアマンという言い方をすると、日本では「思いつきの活発な人」というように捉えられるが、ここでidea-manと言った場合、それは「考え方の発明が活発な人」という意味だと捉えてもらいたい。そのために、このことを言うときには必ずカタカナでなくideaと表記することにしている。たとえば「武士道」といえば、samurai's ideaと捉えて間違いではない。
「構造化されたidea」といって、じゃあその「構造化」というのは何のことだ。これも直接の言い方は難しいので、例を採るよりしょうがないが、たとえば国家といえば主権の位置に国民が立っており、その下に三権分立が成り立っている。その三権のうちたとえば行政は、省であったり庁であったりという構造を持ち、行政上の国土だって、県があり市があり区があり町があり、番地があって世帯がある、ということで構造化されている。家族や親族だって血縁をそれぞれ何親等に当たるかという構造化した捉え方をしている。企業だって、社長があり次長があり本部長があり部長があり、どこまでが役員でどこまでが管理職で、この構造の上に株主会議がある、というような構造を為している。これはまさに人間の社会のやり方のideaだ。構造化されたideaだと言える。
これらの社会的なideaは、法文化されて保存されながら運営され、一言でいって「制度」となっているわけだけれども、こういった構造化されたideaというのは、何もすでに法文化された制度の中にしかないわけではない。よくよく考えてもらえば気づくことだけれども、そうして法文化されて施行されている現行制度だって、その実物が物体として存在しているわけではないのだ。圧倒的多数の人がそれを"信じて"いるというだけで、本質的にはフィクションでしかない。圧倒的多数が信じているフィクションの上に現行制度が成り立っており、それによって得られるメリットがあまりに大きいので、これを破壊しようという不毛を大多数でやったりしないだけだ。いわずもがな、殺人だ放火だ、法律だ、といったって、もし殺人犯だけ元気で、警察官も法廷の職員も全員が「面倒くさい、知らん!」と云い続けて自宅で昼寝をし続ければ、殺人が違法だとか逮捕だとか裁判だとかいうことは消え去ってしまう。全ての人が昼寝を決め込んだならその昼間に社会は存在しない。もともと、信じられたフィクションとして、存在している気がするだけで、土星とか木星のように実物として存在しているしろものではないのだ。
だからこそ、そのフィクション、構造化されたideaというのは、どこかで誰かによって生み出されているのだ。何によって生み出されるかというと、人間のエネルギーから、としか言いようがない。
人間は自由を希求する。その希求がエネルギーになる。エネルギーが何になる? 構造化されたideaになる。これはほとんど、構造化したideaを作ろう、という意思によってではなく、エネルギーそのものが、自動的に、構造化されたideaに結晶化する、構造に結ばれる、と捉えてよい。雪の結晶が勝手に六角形の構造体になるように、人間のエネルギーは勝手に構造化したideaになるのだ。
岡本太郎はそのような状態で絵を描いている。勝手に結晶化した、構造化したideaを、キャンバスに描きつけているのだ。だから彼の絵には凡人の絵ではない「何か」が見える。
この「何か」なのだが、これはそのまま、構造化されたideaそのもの、人間の自由を希求するエネルギーそのものが、こちらの脳に「見えて」いると捉えてよい。これも一方的に言うよりなく、鵜呑みにしてもらうしかないのだが、人間のエネルギーはきっと脳を経て構造化したideaに結晶するが、そうして作られたものは、それを受け取る側の脳にも直接「見える」のだ。脳と脳とが直接のコミュニケートをするのである。こちらが意識的にどう思うかの機能を飛び越えて。つまり説明なしに「伝わって」くる。
すぐれた歌手の歌声には、無条件で「声が届いてくる」というような現象があると思う。経験的に誰もが知っていることだろう。それは、声を意識的に聞く機能を飛び越えて、脳が直接その声を受け取っているのだ。脳からすると、彼が何を歌っているのかが直接「見える」のである。それで、聴き手は何の違和感もなく彼の歌を聴くし、聴き入っているうちに意識の機能がオフになることを体験するのだ。
さていよいよ、このことを前段の、大江健三郎からの芸術理論につなごう。大江側の芸術理論の行き止まりは、
「その異化というやつ、なぜポンポンできる人と、まったくできない人があるのですか」
というところだった。異化というのが何だったか、その性質をよく思い出してもらって……
――本当の異化というのは、与えられたイメージの歪形化を意識的に企むことによっては達成できない。それは異化をやろうとした、気取って意図の透ける、そのくせ結局は何も「見えて」こない、できそこないの異化風情にしかならないだろう。本当の異化は書き手のエネルギーによってこそ生成される。書き手のエネルギーは、それ自体、構造化されたideaにならざるを得ないわけだから、つまるところ、エネルギーのある書き手は「どう書くかの考え方」を発明せずにはいられないものなのだ。この発明された書き方は、旧来からある与えられたイメージのそれとはまったく違うものなので、それによって書かれた文章は、必然的に異化の力を持たざるを得ない。こちらの異化が本質的に芸術に足ると言いうるのは、これが単に与えられたイメージの歪形化をするだけではなくて、読み手の脳に直接「見える」というような形で、異化されて描き出されてくるはっきりしたものを明視させてくれるからだ。読み手にとって、異化だか何だかは知らないことだけれども、「この人の書いていることは、何が直接"見える"よ!」ということは何よりのありがたみなのだ。つまりは、書き手のエネルギーが脳を経て構造化されたideaに結晶化し、その結晶が読み手の脳へ直接「見えて」くるものだから、それが旧来からの与えられたイメージを轢殺していくのみであって、イメージのこざかしい否定が読み手に何かを明視させているわけでは本当はないのだ。だからこそ、読み手は強力な書き手について、彼を文学技師として尊敬するのではなく、一個の人間として尊敬するのだ。人間の、自由を希求するエネルギーの拓け方という一点において。
「わたしの芸術理論」は、このように今言うことができる。異化だ、想像力だ、ということは確かに正しい。しかし、それをどうしたら為せるか? という問いに答えるのは、まったく人間的なことなのだ。異化なんか狙わなくても、<<エネルギーに満ちた人間なら、一歩ごと異化の作用を起こさずに歩くことはできないはずだ>>。
***
「わたしからあなたへの芸術理論」。ここまでの話は、なんであれ、"あなた"をひとしきり感心させたり、読みきれずに首をかしげさせて、読み飛ばさせたりなどをしてきたと思う。ここまででも、値打ちのないことではないけれど、これを面白いながらもやや崇高の類で、縁遠いと感じられるなら、そのことは「そうではない」と言い足して話を続けたい。あなたは、大江健三郎だとか岡本太郎だとか、それっぽい名前にいくらか距離を持たれただけだ。
人間は「自動化」の現象を精神に起こす。想像力を省力化し、サボらせるわけだが、これによって目の前のものを受け取らなくなり、明視しなくなる。それで社会生活上は万全にやっていけるし、何なら自動化したほうが一部のことには便利で有益だ、ということだった。
ただ、そうして自動化によって、想像力がオンの状態である、明視/ヴィジェニエを失うということならばだ。つまり、目の前の誰かは、あなたのことも自動化において捉えており、あなたのことも"実は"明視していないということになる。あなたのことを受け取っておらず、あなたという人間そのものを手ごたえにおいて感じていない。彼の脳にはあなたが「見えて」はいない。無論、彼はあなたのことを認知はしているのだが、認知/ウズナバーニェによって体験するあなたは交通標識のように退屈なのだ。すでに知られきっているイメージを再確認することの、無限回の繰り返しでしかないのだから。
このようなことで、何が人間の関係か、何が恋あいか。どうしてまともな実りが得られるだろう? 確かに、異性であれば、「この女性はこういうタイプ」「美人で胸が大きいな」というような自動化の認知においてでも、性的な興味を引き、注目されるということはある。それによって恋仲への誘いを受けることもあるだろう。けれどもそんなことは虚しいことだと、説明も要さず知られていることだ。あるいは異性でなくてもどうか。人間関係として、「この人はこういうタイプ」「いいコだと思うよ、付き合いやすい」「努力家だし、一緒にいて刺激になるよね」と、それこそ標識記号のように扱われるとき、その扱いがどのように肯定的であっても虚しいものだ。
だから、ここで話している芸術理論は、あなたから縁遠いものなどではまったくないのだ。芸術理論としては知る由がなくても、取り扱っていることはあなたにとっても常に、心において最も切実な類のことだ。
せめてそうでなければ、芸術など何の尊厳を持ちえようか?
あなたが賢明であれた場合、あなたはやがて「突き詰めるところ」という言い方で、このように考えることに行き着くはず。
「突き詰めるところ、なぜ、わたしという人間は、向こうから見て"見えない"のだろう?」
この疑問が湧くところに、何も躊躇することはなくて、一番実り多いヒントをくれるところに、ただちに接続をしてよい。
「そうか、エネルギーが無いからだ。自由への……」
わたしからあなたへの芸術理論。この話を最も大胆に短縮するならば、こうなる。
「あなたがエネルギーのない人間の場合、あなたは人に"見えて"いない」
このことは誰にとっても危機的なことだし、また前半部に話したうちのナゲヤリふうの言葉、ザコ、ということにも率直に響くのではないか。ザコというのは、まさに評価以前に"見えもしない"存在のことだ。
注意点はいくつでもある。まずエネルギーといって、力む人が多いけれども、この場合のエネルギーはあくまで、自由を希求することへのエネルギーだと申し述べてきた。これが忘れられて、執着に歯軋りするがごとき力の入れようでは、それはエネルギーではない。「芸術は爆発だ」という言い方になぞらえれば、"焼け付き"は芸術たりえない。あなた自身、「なぜかあの人は初めからわたしの脳にはっきり見えた」という感触の人がいたら、その人のことを思い出せ。その人は、何か得体の知れないほどの、自由さの感触を持っていたはずだ。
二つ目の注意点。自分のことが相手には"見えて"もいないという問題について、焦るあまり、相手に自分への強力な「認知」を求めても本末転倒だ。求めるべきは認知ではなく明視である。「この絵は名画なんですよ!」と怒鳴りつけることは、認知を強固にするよう依頼しているのみで、肝心の絵画への明視には足しにならず、むしろ足を引っ張るマイナスになる。
注意点の三つ目。自由と、それを希求するエネルギーといっても、そのことは理知的な印象の範囲を逸脱しない。自由と爆発を一辺倒で主張した岡本太郎も、はっきりと理知的な人格が明らかだ。
自由を希求するエネルギーが、構造化されたideaを結晶するのだから、その当人が理知的でないという場合、それはideaの構造化が為されていないということだ。ideaとは第一に「考え方」なのだから、これが破綻して理知的でない場合、ideaが構造化されて結晶化されているとはいえない。「自由」とは「自らに由る」ということで、「好き放題にしっちゃかめっちゃか」ということではない。むしろ人間は、執着から好き放題にしたいという愚かしい発想に捉われて、そのせいで自由を損なっているものだ。正しく「自らに由る」というとき、それは自由ではあるが分裂的ではない。
その他にも注意点はいくらでもあるだろうけれど、記憶の荷物を持ちすぎることは、どうせ自由を希求することの妨げのほうへはたらいてしまうだろう。
「わたしからあなたへの芸術理論」。改めて、芸術なんてものはまったくどうでもよいことなのだ。その証拠に、ここまでこの話をしてきたのでも、結局どうだ。本当に必要なことは、"あなた"にとって、僕から語りかけることの何かが"見えた"がどうかでしかないではないか。そのことを、現在このときのあなた自身がよく知っているはず。僕によってあなたに何かが"見えた"のなら、それはあなたへの、少しでも励ましになったはずだ。逆に、もし何も"見えもしない"ということだったなら、僕があなたにザコ呼ばわりされるのもやむをえないことではないか。
今はここまで話すことができた。この先のことはまだ話しきれる手ごたえにない。この芸術理論はここまでで一定の完成をよろこべる一方、まだまだ重大な奥行きを隠し持っているのだ。ひとつ、イグジスタンスより上位と思える、「イグジスタンスなんか要らない」と言い放てるような、"もののあはれ"の体験のこと。ひとつ、静止系と流れ系という系の問題、時間軸tに関わる人間の機能のこと。人間の意識は時刻を捉えるのに対し、人間の感覚は時間の流れそのものを捉えうる。人間を不自由にする執着の最大が、この時刻認知についてかもしれない。それはもちろん、時計の指す時刻についてのことではない……これらのことも、やがてはわたしからあなたへ、話せるときが来るだろう。
[わたしからあなたへの芸術理論/了]
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