笑ったことのある人へ
あとがき、笑ったことのある人へ
気がつけば、自ら書き出されるものが「笑い」の周辺へ寄っていたのであり、それを引き受けたまま進んだ。初めから笑いのことを書き連ねようと企図したものではなかった。
僕は、経験から戒められた性質として、「わざわざ弱りきっている人のほうへ肩入れしない」という、頑なな態度を持っている。弱りきっている人のほうへ肩入れをすることは、一見すると良心的な、しかし内実は同じく弱りきっている自分自身を都合よく慰める卑怯なパントマイムでしかないからだ。
弱々しい、同情ふうの笑いは好みではない。
バフチンの詩の断片にこうある。
――すべての物語が終わったとき、なんの新しい話があろう?
誰にでもこれから先を生きていく時間がある。けれども、その時間に"物語"が引き続いているとは必ずしも限らない。"物語"が終わっていたって、時間だけはひたすら残るのだ。フィルムの切れたあとの映画館のように……もし僕自身、その物語が途絶えて失せたなら、そこからはもう、新しい話があるような"ふり"をしてはならない。なぜなら、すべての物語が終わったとき、なんの新しい話があろう? ということなのだから。この詩の一句は、新しい話を続けてゆこうとする者らに、うすら笑いの中で忘れてはならない厳しい指摘を示し続けている。
僕の生きて進む物語は、ますます"わけのわからないこと"へ引きずりこまれていく見込みだけれど、実際のこととして、僕の話を聞き遂げようとする人々の、興味に熱心なというより、臆病なほどに真摯な、まだ物語の続く眼差しがある。不必要には笑おうとしない、節度のある若い人間の双眸。
それらがもし、弱りきった人々の示すそれだったなら、僕などいっそ気が楽だったのだ。どうせ僕はそんなものに肩入れなどしないと決まっているわけであるから。しかしそうではなくて、それぞれ誰も、人並みかもしくはそれ以上の、佳い人間として、社会的にも人文的にも立場と人格を得てきている。その彼らが真摯な眼差しをこちらに向け、僕の話を聞き遂げようとする態度を、健気な明らかさに示すとき、僕は彼らに何の話をしたらよいだろう? 僕は単純な道義心から、そういった人々に損をさせたくはないと強く望む、その上でさあ?
もし、一般的な言いようの中では、十分に佳い人間たりえていたとしても、そのようなことでは到底留まっていられないと自覚する、勇敢な若さの人間があったとしたら。ここにおいては、その人間に向けて、このように言うことができるだろう。
「これからのあなたが、"笑ったことのある人"たりうるように、必要な体験のほうへ、自分を押し出してゆきなさい。あなたはまだまだ、その本当に笑ったということが少ないのだから」
こう語りかけることは、きっと間違いではない。単に習慣的な、人づきあいからの生理反応じみた筋肉ケイレンのような笑いや、果てしないオゲレツさの塗り重ねで湧いてくる笑いなどは、現在ありふれている。けれども勿論、そういった笑いは人間のする本当の笑いではない。そして、人間のする本当の笑いというのに、いちいち天使の笑いや悪魔の笑いのことなど、言いたくないのだ。人間のする本当の笑いを知るのに、人間の実物以外の何が必要だろう?
本当に笑うということのむつかしさ、厳しさ、果てしなさ、それでいて"単純さ"も、誰しも自分の心当たりを洗ってみれば、まるで知らぬということではきっとないのだ。それで、「笑ったことのある人」へ、これから自分を押し出してゆかねばならぬ。僕はこのようなとき、励ましにもっとも愚直で安易なことを言いたくなる。――いやあまだまだ、もっと笑える。本当に笑うということになれば、そんな生易しいことではないのだから。本当の"笑ったことのある人"が、こんなものであるはずがないだろう!
すべての貴重に思える営みや、自分をヘトヘトにすることの積み重ねは、本当に笑うことへの、自分のシツコイ押し出しなんだ……そうひとくくりにすることは、十分妥当な上、不敵な若い心へよく馴染むものではないか。僕自身、過去に得られてきた笑いよりも、負けず劣らず上等な、より本当の笑いを得ようとしていくとき、それはタダゴトではないな! という実感がする。ただちに、それを受けて立ってやろうという無闇な燃焼の心が立ち上がるのでもある……
「笑ったことのある人へ」。この文言に、二重の意味をそのまま認めたい。「笑ったことのある人」へ、僕はあなたに、そうして笑える時間があったことを祝福し、よろこび、尊重したく思う。そしてこれからの、方向のこととして、「笑ったことのある人へ」。誰もが行く先について、一見すると人それぞれのようでありながら、実は誰も彼も、本当に笑ったことのある人になろうと望み、そのことへゆこうとする、地平への視線の者なのだ。その道程にある誰もについてならば、"すべての物語が終わったとき"などということは、ありもしない仮定にすぎない。
二〇一四年八月 九折空也
おまけ、九〇秒のエチュード
・月光とマルコポーロ
1.マルコは或る町で、「ここまで来たことはすごいけれど、あなたは次の町にはたどりつけないでしょう」とからかわれる。マルコは腹を立てて出立する。
2.マルコは長い道中、いよいよだめかと追い詰められるが、或る峠を越したとき、ついに次の町の明かりを彼方に見つけて歓喜する。踊る。「見たか、僕はたどり着いた!」と振り返って遠い町に舌を出す。
3.ところが、踊るうちマルコは、大きな月の青い光を目に受けて、月のあまりの大きさと青さに、「わけのわからない気持ち」になって慌てる。
4.ひとしきり慌てふためいたのち、マルコは急に、「そうか、自分は大人になったのだ」と気づき、身だしなみを整えて次の町へと歩き去っていく。
・詐欺師と冷蔵庫
1.男はこのところ身分を偽って王宮の社交界に取り入っている。上手くやっている。
2.彼の家に使いの者がやってきて、とある貴族令嬢との婚姻話を持ちかけられた。男は絶好調。
3.ところが、彼は帽子のかぶり方が間違っていたため、身分がばれた。宮廷警察が家ににじりよってきている。
4.裏口から逃げれば助かる。彼は一旦逃げようとしたものの、祖母の形見である冷蔵庫を運び出そうとして引き返し、運び出せず逮捕される。その瞬間のあわれさ、絶望。
・怪盗高島屋
1.時は大正のころ、十歳の少女は、高島屋の宝飾売り場に心を奪われ、商品ケースに隠れこんでしまう。閉店までそのまま待つ。
2.閉店し、誰もいなくなると、少女はこっそりと商品ケースから出てくる。高島屋の宝飾売り場は彼女のものだ。
3.豪奢なネックレスを借り受け、首にぶらさげれば、十歳の少女でも妖艶に踊り出す。
4.そのまま帰ろうとしたところ、育ちのよい少女は立ち止まり、「これは貴女のものよ」と、マネキンにネックレスを返した。
・ろくろ酒
1.長生きに強欲な老婆は自分で漬けた"マムシ酒"をこっそり戸棚から取り出し、呑む。
2.ところがそのマムシは、マムシではなく、侍が切り捨てた妖怪ろくろ首の首だったので、酒はおかしな作用を持ち、老婆は手足がぐねぐね動き始めた。
3.これはたまらないと、老婆はなんとか気付薬を飲んだが、ぐねぐねの動きが激しく鋭く動くようになるだけだった。
4.老婆はついに、秘伝の魔殺しの薬を飲む。が、すでに魔物になっていた老婆は、魔殺しの薬によって急死した。
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