No.306 おばちゃんのする目貼り
「おばちゃん」については、諦めるしかない。
「おばちゃん」には、他人を巻き込む力があって、誰だってそれに巻き込まれるわけにはいかない以上、周囲としては、諦めるしかないのだ。
「おばちゃん」にとっては、他人が重要になる。
「おばちゃん」としては、自分にはもう重要なものが残っていないので、他人のことが重要になるのだ。
おばちゃんは、自分にはもう重要なものが残っていないと知った以上、とにかく「少なくとも」という心地で、自分がさびしくならないように、アクションの方向を決定する。
だからたとえば、このおばちゃんに子がある場合、おばちゃんは子の未来や希望や拡大を、芽が出ないように、慌ててガムテープでふさぎまわる。
あまり適切な言いようでないのはわかっているが、そのようにしか言えないのだ。
おばちゃんは、会話やコミュニケートをするより先に、まず何も言わず最優先のこととして、出てはいけない芽を出ないように防ぐ「目貼り」をする。
おばちゃんと若年者がエンカウントしたとき、おばちゃんの側が必ず先に、甲高い声で話しかけるのは、その目貼りをするためなのだ。
おばあさんと孫、という場合には、このことは起こらない。いくらなんでも年齢が離れすぎているし、何より、やはり自分で生んだ子ではないからだ。
やはり「おばちゃん」が、おおよそ自分の子に、というケースが一番多い。
自分の子が、まだ若く、力があり、これからまだまだ伸びてゆく、体験を増やして友人を増やしていく、拡大していく、という場合、むろんそれを祝福したい気持ちはあるのだが、それとは別に、自分はもう拡大しないのにこの子だけは拡大していくというのでは、噛みあわないので、少なくとも自分の目の前にあるときは、その拡大の芽が出ないように、慌ててガムテープで目貼りをする。
おばちゃんは、自分がもう拡大しないこと自体は、受容しているのだが、逆にそれだけに、「少なくとも」さびしくはならないようにと、目貼りにだけは入念になるのだ。
これが男の場合、「おっさん」の場合には、あまりこういったことは起こらない。それはおそらく、男のほうは、さびしさに対してスレているからだ。おっさんが一人でパチンコを打っているといかにもさびしいが、男はそれを、「まあそんなもんだろ」と、受け止めてあまりどうとも思わなくなっている。
また男の場合、おっさんになるまで、社会的な立場や役割を拡大してきた体験があるので、「拡大」ということに思い入れがないということもある。
拡大は、それなりにしてきたが、それは幸福とか情熱とかいうこととは、だいぶ別だったな、まあ今さらどうでもいいが……と思っているので、子が拡大うんぬんということについて、目貼り、という反応はあまり起こらない。
おっさんの場合は、さびしさよりもきっとみじめさに敏感なので、拡大うんぬんよりも「名誉」や「色気」などのほうに敏感に反応するだろう。
が、何にしても、おっさんのほうのそれは、しょせん男のもので、言うほど執念深くもなく、粘着性も薄い。あまり注目すべきインパクト自体が無いものだ。
「おばちゃん」のほうは、別に執念というわけではないのだろうが、何よりさびしさに対して切実なので、本人の意志によらず、目貼りのやりようが身もふたも無いありさまになる。
このことはもちろん、あなたはそんなおばちゃんになってはいけませんよ、という話でもあるが、それ以上に、そういったおばちゃんに、巻き込まれないよう、あなたはきちんと諦めなくてはいけませんよ、という話だ。
日々のあなたが、たとえば実家で親御さんと一緒に暮らしていて、いまいちやる気が出ないとか、独特の倦怠的な気分になるとか、「自分のやっていることの全てが途端になぜかバカバカしくなる」という場合、それは、あなたの気力のせいではなくて、おばちゃんの目貼りのせいかもしれませんよ、ということなのだ。
おばちゃんは常に、先制攻撃のように、実につまらない話を高いオクターブで話してくるが、それはつまらない話しかできないということ以上に、もっと切実なこととして、まずその目貼りを入念にしなくては、さびしさの恐怖に怯えて落ち着かないということなのである。
きつい言い方をすれば、おばちゃんは、まずあなたの拡大の気配と眼差しを消沈させたいのだ。
まずそれを消沈させてからでないと、おばちゃんは落ち着けない。
おばちゃんがさびしさの恐怖に怯えることについては、さすがに人道上、攻撃はしにくい。
おばちゃんは、自分が女性としての魅力以上に、人間としての魅力、社会的存在としての魅力を失いきっていることに気づいており、これから先に、新しい友人を得ることはもう無い、ということを確信している。
それでもこの先まだ何十年と生きていくのだから、そこに待ち受けるさびしさへの恐怖はとてつもないものだ。
それでおばちゃんは、これまでに得たものについて満足し、この満足を保持してゆけるなら、「少なくとも」さびしくはないと言えるので、なんとしてでもそこだけは堅守しようという発想になる。
しようのないことかもしれない。
だから、あなたが家族想いで、お母さんのことを大切に想う健気な娘だった場合、心情的につらいのはわかるが、それでもあなたは確固とした一部分で、「おばちゃん」になったお母さんのことを、諦めねばならない。
逆に、そこはきちんと諦めてあげなければ、遺恨になって余計に不本意な結果になる。
お母さんは、何も本心から、あなたの拡大と希望について目貼りをしたいわけではないのだ。ただ、さびしさへの恐怖に強迫されて、もはやそうすることしかできなくなっているだけなのだ。
自分の手で、自分の娘の拡大と希望に目貼りをし、後に「あの母親のせいで自分は人生を失った」と娘に恨まれることなど、どの母親も本当には望んでいない。
だから、お母さんの本意に応えるためにも、あなたは「おばちゃん」になったお母さんのことを、どこかで諦めるしかないのだ。
もしあなたに、強力な才能があるのならば、お母さんをももう一度、拡大と希望の世界に引き戻してやってもいいが、そのことはよほど特殊な例なので、そのことができなかったからといって、あなたが気に病む必要はない。常識的に考えれば無理をきわめるような話だ。
あなたはお母さんのことをきちんと諦めて、あなた本来の希望と拡大を十分にやりきり、ときどき里帰りをしたようなときは、しれっと、過去から何も拡大していないあなたの娘です、というふりをしてやればいい。
そのときは母親も、薄々それは嘘だと気づきながら、その嘘の中でも安息を見つけられるだろう。嘘とはいうが、それは百パーセントの嘘ではない、何パーセントかの事実も含まれてはいる。
「おばちゃん」のことは、何も母と子に限ったことではなく、職場、学級、友人、共同体の各所で出くわすことだろうが、どれについてもきちんと諦めること。
諦めるというのは、何も陰残な気持ちで「終わったババア」に唾を吐くということではなく、自分の希望と拡大についてのことと、区分けをする、というだけのことだ。まだ希望と拡大のさなかにあるあなた自身とは区分けされて、区分けされた一部分として「おばちゃん」と付き合うしかないということ。
そのときはまあ、「おばちゃん」に付き合う時間は、希望と拡大については休憩時間、ということになるだろう。
そんなことで、別に希望と拡大は破綻しないだろうから、休憩時間は堂々と休憩することだ。
「おばちゃん」が、致命的に自信を失っていることに、配慮をしてあげればいい。それはとてもつらくて寂しいことだ。
何しろ、自信を失っているというのが、若い人間のように一時的なものではなくて、「この先もう二度と自信を持ちなおす時間は決してこない」と確信した状態なので、それはとてもつらいことなのだ。
おばちゃんは、そのことをなんとか、涙をこらえて受け止めようとしながら、一方で「だからせめてこれ以上はもう奪わないで」という悲鳴を上げている。その切実さは、正当ではないのかもしれないが、同情を覚えざるを得ない。
ついでに、横道に逸れるが、自信を持つためには、自分を変えることが必要だ。
しかし、その自分を変えるということに、まず自信が必要になる。
だから、まるで「カネを借りるにはカネが要ります」と言われているようなもので、持たざる者は初めからどうにもできませんというような、人を馬鹿にしたような構造的行き詰まりがある。
この場合、どう考えても、まずは自信を不正所有するしかない。
カネを盗み、それを預金担保にしてカネを借り、借りたカネで盗んだカネをこっそり返す、ということをするしかない。
自信を不正に所有して、それで自分を変えて、後づけで自信を正当化するしかないのだ。
そのために、自信を不正所有するという、その不正の部分を、図太くやれる人がまず少ない。
まず密入国してから、後づけで国籍を取得するしかないのだが、それを「なるほど」といわず「えー……」と尻込みする人がほとんどだ。
話を戻そう。
何の話だったっけ?
おばちゃんの話だ。「おばちゃん」については、諦めるしかない、という話だった。
諦めるというのは、巻き込まれないようにするということだが、つまり、やっぱり、諦めるということだろう。
おばちゃんは目貼りをする。人の、希望と拡大に目貼りをする。最優先でそれをしてくる。しょうがない。
その、目貼りされた状態で、自分の希望と拡大をディールしないことだ。
途端に全てがバカバカしく感じられてしまうから、目貼り状態のときは、堂々と休憩にするしかない。
男が性風俗嬢を買うようなもので、さすがに性風俗嬢を買うのに希望と拡大を重ねる阿呆はいないだろうし、それは単純な癒しと発散の休憩だろうから、それに倣って言えば、おばちゃんになった母と子の場合、それは「家族風俗」みたいな癒しの休憩だ、ということにすればいいが、この言い方は猛烈に風当たりが強そうだ。
発散にもならないのに、そんな風俗は要らない……と言われそうだが、風俗というのは何も性風俗だけではないし、風土や文化の一種だから、まあそういうものだということで、「風俗」と捉えることは何もおかしくない。
「家」にそういう風俗がくっついているのは何もおかしくないだろうし、風俗のある家に帰るのも別におかしくはない。
日本で家とか身内とかいえばそういう風俗になっている。日本はそういう国だ。
希望と拡大に目貼りをして……という状態も、一時的には気楽で、休憩にはよいかもしれない。
というのは、僕にとってはひどい嘘だが、まあそういう人も少なくはないのだろう。
(別に疲れていないのに休憩させられると余計疲れる)
先ほど、おっさんについては考えなくていい、などと言ったが、急に修正したくなった。
今気づいたが、男でも「おばちゃん」みたいな人がごっそりいる事実を忘れていた。
まあ、面倒なので、男でも「おばちゃん」は諦めよう。「おっさん」としての男のほうは、引き続き、やはりインパクトが無いので考えなくていい。
「おばちゃん」については、諦めて、希望と拡大うんぬんは、何なら自分から目貼りしておいてあげてもいい。
知るべきは、おばちゃんの、性質ではなくて、その背後にあるさびしさへの恐怖だ。
「おばちゃん」は、あなたに目貼りをしているのではなくて、恐怖が漏れてこないように目貼りをしている。
だから無条件に必死なのだ。
あなたは、その目貼りをされた状態で、自分の希望と拡大をディールしないこと。
<<何もかもがバカバカしくなってしまうから>>。これは本当にポイントだと思う。
一方、あなた自身も、希望と拡大の中にある人に、目貼り状態で会わないこと。
そのときはあなたが「おばちゃん」になってしまい、あなたが彼に全てをバカバカしく感じさせてしまうから、そういったことのないように。
何かわけのわからないまま、全てがバカバカしく感じられるとき、それは全て「おばちゃん」による目貼りが効いているせいなのだ、気をつけよう。日本がおばちゃんしかいない国になりませんように……
[おばちゃんのする目貼り/了]