No.307 健全な射精のテーマ
男には、まず、射精しなければならない、というテーマがある。
テーマは、シンプルであればあるほどよい。
ただしシンプルだといって、貧しく、平板であってはいけない。それはつまらない。
シンプルだが、豊かであっていいし、シンプルなほうがいいというのは、こじれていたらサイアクだ、という意味だ。
射精しなければならない、というテーマごときを、わざわざこじらせてややこしくすると、もう面倒くさくてしょうがない。
あわれな男というのは、この、射精しなければならないというテーマについて、女にまったく構ってもらえない、相手にしてもらえない、という男だ。
そうなると、ひたすら自分でしこしこするしかなくなるのだが、それは射精という同じテーマに取り組みながら、結果的にあまりに貧相である。
お金を払って、プロにお願いするというのは、ある意味では合理的だが、自分のテーマにプロの手を借りるというのは、自分のテーマなのか何なのかわからなくなるので、本質的にさびしいことだ。
自分で買ったプラモデルをプロに組み立ててもらって塗装までしてもらったら、ばっちりに仕上がるだろうが、それでは自分がプラモデルを買ったのは何だったのか、よくわからなくなる、というのと同じだ。
男は、射精しなくてはならないというテーマを持っていて、その点で、いつまでも女に用事がある。
何度も言うが、こじらせているのはだめだ。
人間にとって、性欲が気持ち悪いのではなく、こじらせてややこしくなったものや、それにまつわる独特の興奮ぶりが、気持ち悪いのである。
最も健全な状態において、男は射精について女に用事があり、女のほうも、「あら大変、彼がわたしに射精したがっているわ」ということを、当然に最優先のことに感じられる、というのがいい。
どうしても、愛だの何だのといって、性欲とセックスを正当化しようとする思想があるが、自分たちのやっていることが正義だと当然に直感できているとき、そこにわざわざ正当化の思想は必要ない。
愛というのは、別にセックスのことだけではないし、たとえば彼の指先に傷口があって血が出ている場合、そこに絆創膏を貼ってやるのは、明らかに直感的に正義なので、そのことにいちいち正当化の思想を挟み込まなくていい。
血が出ているのは、よくないことだし、痛そうだし、かわいそうだわ、ということだけで、ただちに手当てをしてあげるという、それだけのことなので、「この絆創膏は愛を確認するため」とか、そんな余計なことを考えなくていい。
愛というのは、何もセックスのことだけではないし、彼に何かをしてあげることが直感的に正義だと感じられるなら、それは何であれ愛ということでいいだろう。
セックスなんてどうでもいいが、わたしは彼を愛しているから、彼の射精をほうっておけないわよ、彼がしこしこするなんて、かわいそうじゃないの、と確信できていれば、そこに何のややこしさも起こらない。
男が、射精しなければならない、というテーマのまま、射精の用事のために、すれ違う美しい女たちを見つめるのは、それ自体は何もいやらしいことではない。
性欲がいやらしいのではなくて、
(強調しよう)
<<いやらしい奴でも性欲だけはムンムンに持っているという事実がいやらしい>>のだ。
いやらしくない男が健全な性欲を持っていることは何もいやらしくない。
いやらしい人間を根拠に性欲を考えれば、何をどうごまかしても結局いやらしいし、いやらしくない人間を根拠に考えれば、性欲は何をどうしたって別にいやらしいものではないのだ。
単に、人前でやるものではないので、普段は直接見かけることはないそれを、赤裸々に話すと目立つというだけで、別に毛虫や深海魚じゃあるまいし、それ自体に複雑な気分になるグロテスクさはない。
ただ、問題としては、現代社会における少年たちは、性徴を起こすごく初期のころから、パンチラ等々の「そそる」ようないやらしいメディアで性欲を漬物にされているので、そのまま成育すると、れっきとした発酵済みの性欲の持ち主になってしまう、ということはあるのかもしれない。
大人になれば、その「そそる」というような部分もあってよいだろうし、無いと原始的すぎて文明人として情けなくなるが、本来の射精はただ美しい女にそれをしたいというだけで、「そそる」を前提に射精を考えさせられている状態は根本的に異常である。
そそらないとセックスできない、というような、一種の病的な状態が蔓延しているかもしれないが、それでは本人は酩酊して楽しくても、ふっかけられる側はいやらしくて気持ち悪いのである。
男の持つ、射精しなくてはならないというテーマは、本来何もいやらしくないが、そのテーマを健全なまま持てている男というのは、今おそらくとても少ない。
男は、朝目覚めて、「ああ、今日も射精しなければ。うーん、起きよう」と直覚して起床するのがもっとも健全だが、たぶん今そんな男はほとんどいないのではないだろうか。
若い男女が深い仲にある場合、朝からメールが送られて、
send:>>射精したい
re:>おいでよ。
というやりとりになっているのが最も健全だ。
射精の周辺に起こる愛や励ましあいや官能を軽視しているわけではないが、そうして射精の周辺に感動が起こるのは当然にしても、思い入れをテンコモリに盛り込むのはいやらしいからやめよう、という話をしている。
愛し合うということや、健全に保たれた射精のテーマと、それを受け止めて一種の感動を得られた女という、本来のあるべき姿から遠い人ほど、「セックスとは」「オーガズムとは」といったことに、異様な思い入れを溜め込んでいる。
貧乏コンプレックスの人間が金銭に妄執的空想を溜め込むのと同じで、それはとにかく気持ちが悪いものだ。
だいたい、男のくせに、女に対して第一に射精の用事を持たず、「キミの話が聞きたいんだ」みたいなことをしらふで言う男は、聖職者を除いてはとびっきりで気持ちが悪い。
これは僕が言っているのではなく、多くのまともな女性のほうがそう告白しているのだ。
「わたしの話って面白い? 女の話って面白い? 特にたいした仕事もしていないけど? こんな女の話すことなんかに興味を持つ男の人なんて、いると思うとそれだけで猛烈に気持ち悪いのよ」
と、女性の側が告白している。
社会的な活動と生産におけるジェンダーの格差については、ここで話していることと何も関係が無い。同僚のタイトスカートの中に興味を持つのはただのヘンタイだし、それは単にヘンタイ男がまったく仕事をする気が無いというだけに過ぎない。彼は同僚にセクハラをしているのではなく、それを同僚にやるからセクハラになるのだ。
同僚でなければセクハラにはならない。というのは、同僚でなければ、そのヘンタイ男はそもそもレディに口も利いてもらえないのだから、そもそもセクハラをする機会がない。その先は、というと、もう強制わいせつしか残っていないので、それは別の話になる。
おじさんは、単に社会的な活動と生産の仕組みの上で、若いオフィスレディとお話しさせてもらっているだけなので、おじさんが「おじさんが口説いてあげる会」を開催しても若いレディは誰も来ない、そのことをわきまえた上で、社会的活動生産の仕組みの中で、勝手に「口説いてあげる会」の気分になってはいけない。それはセクハラになり、性的に裁かれるのではなく社会的に裁かれることになる。
独自に「口説いてあげる会」を代官山の路上で開催するぶんについては、別にセクハラ呼ばわりはされないだろう。
(といっても、無垢な童女も通りかかる場所なので、公共の福祉の観点から、やっぱりやめておこう)
僕は射精というテーマおよびその周辺におこる何ともいえない感動が好きだが、あくまで健全なそれが好きなのであって、何というか、わけもわからずそこで顔がこわばる女性の、そのこわばった顔を見たくない。
フラれるフラれないはどうでもよいのだが、こわばった顔を見たくないのだ。
(ああ、この人、何かものすごい誤解が、内側で大爆発しているんだろうな)
と、気の遠くなるような感覚を、もう味わいたくないのである。
誤解がどうあれ、そうして顔がこわばるからには、心理的なショックがあったはずで、その不要なショックを与えてしまうようなことは、さすがに僕のような冷血漢でも、傷ましく感じて気が引ける。
せいぜいこうして、文章に書いて晒すぐらいなら、そのショックというのも、目を逸らせば済むことなので、まあちょうどよいところなのかもしれない。
男は毎朝、射精するために起きている。
オナニー派の男は、オカズを探すために起きているのだし、そうでない男は、女に射精するために起きている。
こんなところに、ドドーンとした効果音が付属しそうな予感がして、その予感がとてもいやだ。
和傘を張る職人は、和傘を張るために起きているだろう、ということと同じなのに、そんなところにダイナミックな効果音をくっつける理由がわからない。
男が毎朝、射精をするために起き、女はそれを受け止めるために朝起きたとして、そのことに双方なんら異存が無い場合、何もややこしいことはなくて(純愛、みたいなサイアクの面倒くささもなくて)、ひたすら男女と射精にまつわる周辺の感動だけが残されていく。
そういうとき、季節ごとに吹き抜けていく風の心地、匂い、肌触りは、本当に甘美だ。
その甘美を知らない人が、性欲とか「そそる」とか純愛とかうんぬんして、全てをますますいやらしくややこしいものにしていってしまうのだろう。
もちろん人間はセックスのため「だけ」に生きているのではないし、男だって射精のため「だけ」に生きているわけではない。
僕でさえ、桜の咲き誇る季節になると、その満開に前後して二週間ほど、朝の桜を見にいくためだけに生きている状態になり、朝になるとハッとなって、「今日の桜は……」という想いで目が覚める。その日の桜を見るためだけに起床する。家から這い出る。早朝のうち、地面にまで満開した桜の群を歩きぬけ、誰にも邪魔されないときは幸福だ。完全な幸福があって、やはり心地と匂いと肌触りの甘美がある。
そういう桜の満開の下、女を口説こうと必死になっている男を見るのは、あまり好きではない。お花見で、酒を呑んで、若くて、スカートの中がちらちら見えるから、もう抑制が利かなくなっているのはわかるのだが、どう見たって口説くには桜が満開すぎるだろう。満開に前後する数週間だけ、僕でさえ性欲より桜欲が上回る。
似たようなことはいくつでもあるから、男だって三百六十五日、二十四時間態勢で、射精のことだけをテーマにして生きているわけではない。
ややこしいことにはしたくない。桜の花びらを写真で撮ってアップロードはしたくないし、今日するはずの射精を、射精についての議論なんかに行方不明にしたくない。
「純愛」のために射精した男はいずれ救いがたい病気に罹って人格の無いまま死んでいくだろう。
テーマというのは、自分が目指していくものではなくて、自分が引きずられていくものだ。朝起きたときから、意識が覚醒するより先に、自分の全体が引き寄せられ、引きずりこまれている。早朝から桜を見にいくのもそうだし、まだ見ぬ美しい女に慕情を起こすのもそうだ。学者なら自分の開拓している研究の行き先が、覚醒より先に自分を朝から引きずりこんでゆくのだろうし、僕だって朝目覚めれば意識の覚醒より先に手が何か言葉を書こうとしている。
覚醒前から何かを書こうと引きずりこまれるような奴の、話を聞きたいなんて誰も思わないと思うので、僕はなるべくそういったことにならないように、覚醒前から射精のテーマに引きずり込まれるよう、そのときの自分をよろこぶようにしている。目覚めの夢うつつに、女の幻影を手探りする男はよくわかるが、原稿用紙を手探りしてどうする。そういうふうになってしまったらオシマイだと、気をつけながら生きている。
射精しなくてはならないというテーマが一番健全で、原稿用紙や桜の散るなどは、混じりこむ塵芥程度の何かでしかない。そんなものを主体に人間は生きられないし、そんなものを主体にした何かなど到底読む気になれないものだ。主体はもっと身体の中心を貫いて拍動している、そこで、知っている、塵芥は塵芥じゃないか。
健全な射精のテーマ、射精は実にくだらないことだが、くだらないからこそ余計な思い入れを持たずにいられればよい。くだらないまま身体の中心を貫いているじゃないか。その周辺に感動は必ずある。そのひっそりした感動の中で季節の風が吹いてこそ、心地も匂いも肌触りも甘美だ。その甘美は膨大な威力で人間に迫る。膨大な威力で迫りつづけてしまう。まだそのことを知らない女は、色々知ったかぶりをするべきじゃない。
[健全な射精のテーマ/了]