No.308 あなたの髪のすばらしいコサージュ
女の子が可愛いと思えなかった。
髪にすばらしい花のコサージュをつけていた。
友人同士、待ち合わせをしていて、はしゃぎ、抜群の肌色をしていた。まだ幼いぐらいに若い。
それが可愛いと思えなかった。
僕は最近自分の情動に気づき始めている。
(可愛い……のか?) いや、かわいくない。
かわいくないということでたくさんのことが解決する。だからこれは重要なことだ。
僕は、青春という状態を愛しているし、若い人間が青春を見せ付けるなら、それをうらやましく思って苦しみたい。そうすることさえよろこびだと言えるぐらい、青春という状態(状態というよりはそれ以上のもの)を愛している。
しかし、そういったものをうらやましく思うとき、これはどの男だってそうだと思うが、
「あの子の、あの微笑みが、自分にも向けてもらえるようだったら」
という夢想が、切なく美しいほどで、逆にみじめさに勇気が出る、というふうのはずだ。
僕はそういった状態、体験が起こることも愛している。そういった体験の積み重なる日々は無為ではない。
その、「あの微笑みが、自分にも向けてもらえたら」という夢想が起こらない。その夢想を引き起こすだけの、微笑み、というものがない。
まだ幼いが、眉目秀麗なのだ。はしゃいで、よく笑っている。髪に飾られたコサージュは本当にすばらしかった。
笑っている、きれいな子だが、微笑みが向けられるということがなかったし、何かが向けられているということはなかった。
アイデンティティの問題なのだ、と即座に気づいた。
「わたし」が誰かに向けられる、「わたし」が友人に向けられるというときの、「わたし」がそもそも存在していない。だから、あの微笑みが自分にも向けてもらえたら、という夢想が起こらない。
だからかわいく見えない。可愛い、という現象が起こりうる要件を満たしていない。
気を退廃させて、頭を弱くして、腐敗的な人格になれば、「可愛い」と思えるかもしれない。きっとそうだ。
ただしそこで得られる「可愛い」という感興は、ほとんど感興ではなく、神経の爛れみたいなもので、それが得られることによろこびはない。
これはアイデンティティの問題なのだ。彼女が彼女のアイデンティティにおいて、僕に微笑みを向けてくれたなら、僕は歓喜と恋と死の念慮を起こすだろう。死の念慮が起こるのは生に直面しているからで、このときそれは何もおかしくない。
十五年前から、ファストフード店を皮切りに、人間が人間に対するのに「マニュアル」を励行するようになった。一時期流行した、空気を読むという間柄も、一種のマニュアルにすぎない。リア充、というようなイベントの空気もマニュアルのそれだし、今上手くやっている人ほど、頭の中に活発なマニュアルが入っている。
僕は、たとえ職業としての接客業でも、それをマニュアルにして励行するのは、「気が狂っている」と断じている。木村さんと山田さんの接客が、同じ仕事だったとしても、同じ接客になるはずがない。木村さんと山田さんはそれぞれ別個の、それぞれのアイデンティティの持ち主なのだから。
接客業をするということは、そのアイデンティティのうちに、接客業をできるための成長を必要とする、ということだろう。
そのアイデンティティのうちに、接客業ができるだけの成長が得られなかったら、その人間は接客業ができない、はずだ。
それを、マニュアルを押し込んで、表面上、接客業ができるフリを続けさせる。
一人の人間が、接客業ができるようになることを期待せず、接客業なんか出来なくていいという前提で、組み立てられたマニュアルだけをこなすように言いつけられる。それを合理化と言うそうだ。
マニュアルを覚えこなすのは、人間の、人格上およびアイデンティティ上の、成長ではない。だから、いくらそれに習熟しても、生きている実感や人間としての自信にはまったくつながらない。
マニュアルというのは、本来の用途がある。兵隊が敵拠点を征圧するときや、震災などの有事のとき行政機関がどう動きを取るべきかなど、前もって手順を合理的に決めておく、そういうのがマニュアルだ。
気持ちや心で動いていては破綻することがある。たとえば戦争などの場合、兵隊は気持ちや心で敵兵を殺すことはできない。少女がゲリラ兵となってナイフで襲い掛かってきたとき、その眉間に銃口を向けて引き金を引くことは心理的にしにくい。だがそんな躊躇をしていては自分が殺されるし僚友も殺されてしまう。作戦の任務が遂行できなくなる。だから、そういった場合を想定して、気持ちや心で動くことのないように、マニュアル行動ができるように訓練をする。そういったところに用いられるのがマニュアルだ。
人間が人間らしく集団で生きていこうとするとき、局所的に、非人間的な、個々のアイデンティティを無視した行為を達成しなくてはならないことが出てくる。そのことも含めて、人間の集団は人間的に生きようとしていると言える。そのマニュアルの大元、一番大きなものは、法律として公文書化されている。たとえば殺人を犯した人をどう扱うか、それを裁判にかけ罪と認められれば刑に処す、というマニュアルが施行されている。人間の集団的な営みには、局所的にそういったマニュアル導入が必要になってくる。裁判官が木村と山田で判決が変わるということはなるべくあってはならないから、マニュアル化が必要になってくる。裁判官個人のアイデンティティで判決が変わるようであってはいけない。
マニュアルとは本来そういうことのためのものだ。「わたし」が「あの人」と向き合うときに使われるものではない。
すばらしい花のコサージュをした女の子が、かわいくなかったのは、彼女にアイデンティティがなかったからだ。人間を人間たらしめるアイデンティティが存在しなければ、彼女は可愛いかわいくないの以前に直感的に人間の感触がない。アイデンティティがなければ、彼女が「誰」なのかわからない。彼女が誰で、どんな人なのか、何の人なのかわからない。そんなものはかわいくないし、彼女から誰かに向けられる微笑みなどという現象はない。だからそれが自分にも向けられたらなんて夢想は起こらない。
この数年で、毎年感じることだが、状況は進行している。
これ以上、次々にすれ違う人や集団について、「何の人だかわからない」ものとすれ違いたくない。
何の人だかわからない人を、可愛いだなんて思えるわけがない。
接客業のマニュアルは、人格やアイデンティティの上でまだ接客業をできる成長を得ていないに人間に、かりそめに接客業ふうをやらせる台本としてはびこった。
その台本に習熟し、慣れることは、何の成長でもないし、何の自信も実感も与えてはくれない。同様に、友人や恋人ともマニュアル交際をしていると、その交際には何の成長もないし、何の自信も実感も与えてくれない。
マニュアル交際をしている人間は、まだ人格やアイデンティティの上で、友人や恋人と交際できるだけの成長を得ていないのに、かりそめにそれができるふうを、台本になぞらされているのだ。
このことは現代を俯瞰する上でまったくミソで、マニュアルに習熟して活発な人は、「何もできない自分」をアピールして回っていることになる。
何度でも言いたくなるが、マニュアルに習熟して慣れることは、何の成長でもないし、学習でもないのだ。マニュアルを獲得することは、マニュアルが力を持ち、マニュアルが点数を取るだけのことで、あなたが力をつけあなたが点数を取ることではない。
接客業にせよ、友人や恋人との交際にしても、それが実際に出来ていれば、マニュアルなんか要らないのだ。マニュアルが必要なのは、人格とアイデンティティの上で、まだそれが出来るだけの成長を得ていない人で、それでもかりそめにそれが出来るふうを装わねばならない、という場合だけだ。
マニュアルというのは、骨折時に嵌めるギプスのようなものだ。身の骨が折れており、まだ治癒せず使えないから、表面上のギプスで固めて、なるべく健常状態に近似させる。そうして生活をさせやすくする。
そのギプスが、骨折の治癒するまでの一時しのぎ、ということなら正当な使い方だが、全身をギプスで固めて「立って歩けます」というのは、人間の健常な姿ではないし、まして成長や完成ではない。
人間は生きていくうち、友人や恋人を得ねばならないし、仕事を為せるようにならなくてはいけない。それが為せるようになるだけ、人格とアイデンティティを成長させていかなくてはならない。
人間は、赤子として、母親と家族の許に生まれ、未成熟なアイデンティティは、しばらく母親に依存する。
それが成長し、大人になっていくということは、未成熟なアイデンティティにギプスを嵌め、マニュアルを押し込んで「これでだいたいごまかせるだろう」と、世間に放流することではない。
今、マニュアルギプスを除去すると、どれだけの人が転倒し、まともに立っていられなくなるだろう。僕はそういう人をたくさん見てきた。ここ最近になってひどくそうだ。
ここ数年、特に若年の人たちが、器用で、万事が上手で、無理がなく、そつがない、洗練されている、という印象を受けてきた。僕は、自分自身が彼らの年齢であったときを突き合わせて、「なぜそんなに上手なんだ?」と、長らく疑問を覚えてきた。時代が変わり、情報が行き渡るようになったにしても、一個の人間が、そうも飛び級的に成長できるようになるものなのか? と謎めいて感じられていた。僕がたとえば十八歳だったとき、活発だったが、心身が活発なだけで、何をどうしたらよいかまったく知らない、右も左もわからない土偶だったと思う。僕が大学に入ったとき、クラスメートとまず「飲み会」をすることになったのだが、僕にはその「飲み会」というのがどういうものなのか、よくわかっていなかった。よくわからないまま、集団につられて商店街へ歩いていったのみだ。そして居酒屋のメニューというものを初めて見て、書いてあるカクテルの100%を知らなかった。
それに比べると、現代の十八歳は、何もかもを知っているように見える。当時の僕とは大違いだ。そのように感じてきたし、印象づけられてきた。けれど、実際に十八年間を生きた同じ人間として、そこまでの格差が生じるものだろうか。そのことがずっと謎だった。
若年の人間が、器用で上手で、万事をよく知っているわけがない。やはりそんなわけはなくて、現代においては、何事につけマニュアルを押し込まれているだけだ。人格とアイデンティティにおいて、友人と器用に付き合うだけの成長を早く得ているのではない。そういった成長をからっきし持たないままに、友人と器用に付き合うふうのマニュアル的なやり方が、イメージの中に前もって押し込まれているだけだ。そのぶん、現代の人間は、早くから何もかもができるふうに見える。ごちゃごちゃしたストレスを回避してゆける。その代わり、<<本当にそのことができるようになるだけの人格とアイデンティティに成長する機会を奪われている>>。マニュアルに基づいて五十年間接客業を続けた人間は、人格とアイデンティティにおいては接客ができない人間のまま固定されているだろう。友人には明るく微笑むというマニュアルを励行している人間は、永遠に、友人を得て明るく微笑むということが、アイデンティティ上ではできない人間のまま固定される。
アイデンティティの問題だ。これは自意識とは違うのでアイデンティティと呼んでいる。自意識なら誰だって持っているし、過剰なほど持っているので、今さらそれを高めるなんて馬鹿なことはしなくていい。問題はアイデンティティのほうにある。「わたし」のこと。何もかもを「わたし」から始めねばならない。マニュアル式でいくら上等な振る舞いを出来たとしても、それは「わたし」からの振る舞いではないから、局所的な場合を除いては役に立たない。同じ接客業をするのでも、アイデンティティとして接客のできる人間に成長するほうがよいに決まっているし、それは生きている実感にもなるし自信にもなる。
一分一秒たりとも、「わたし」から離れてはならない。一分一秒、「わたし」の言葉でなくてはならないし、「わたし」の声、「わたし」の振る舞い、「わたし」の心、「わたし」の発想、「わたし」の表情でなくてはならない。
世界は、「わたし」と「世界」の対峙で出来上がっているように見える。が、これは正しくは、自己のアイデンティティと世界の対峙だ。世界はアイデンティティとの対峙によってのみ存在しており、アイデンティティが存在しないとき、それに対峙する世界もまた存在していない。自分が何をするために生まれてきたかといえば、アイデンティティを持ち置くために生まれてきたといえるし、それは同時に、対峙する世界を存在せしめるために生まれてきたともいえる。
わかりやすく、今ここにある僕自身のことを例にしよう。僕が今ここに書き話していることは、書き話す動機それごと、何らマニュアル化されていない。いわゆる読み物があったとして、それが社会的な価値観の上でどう価値づけられるかということも、結局のところ関係ない。強いていえば、自分が存在するために書き話しているといえるが、そんなことを言い出せば、僕は歩いているときだって存在するために歩いている。一分一秒、歩くときだって「わたし」の歩くことでなければならない。それを見失ったとき、僕は僕自身と世界を失い、貴重な時間を無駄にするだろう。
僕が書き話すこと、その行為自体、何であるかなど、マニュアルに定義づけられなくていい。六法全書のどこにも僕の行為のことは書かれていないし、社会の教科書や自己啓発本にも書かれていないだろう。もし書かれてあったとしてもそれは僕には何の関係もない。ただこれは世界に対峙する「僕」のことだ。それが何であるかと説明を乞われたら、「今説明した」と僕は答える。
アイデンティティというのは何も、社会人であるとか学生であるとか、身分に帰属する必要はないし、職業に帰属することもなければ、趣味や特技に帰属することもない。必要なことは、自分が社会人であるという自覚や理解を持つことではなくて、「わたし」というアイデンティティの中に、それが出来るだけの成長を得ることだ。社会人風情のマニュアル動作に習熟することはあなたのアイデンティティの成長ではない。同じく友人風情や恋人風情のマニュアル動作に習熟しても、それではアイデンティティは友人や恋人たれるための成長を得ていない。歌と踊りと絵画とヨガと、語学とワインと、何をやってもいいし、おしゃれをしてもいい、何だってしたいことをすればいい。ただ、そんな何もかもを気軽に一気に取り入れていけるほど、あなたのアイデンティティ能力は優れてタフで天才的か。
あなたがアイデンティティの成長をまったく得ず、マニュアルへの習熟ばかり増やしていったら、僕はあなたとすれ違ったとき、「何の人かわからない」という直感であなたを見るだろう。そのあなたがどれほどすばらしい花のコサージュをつけていても、僕はあなたを可愛いとは思えない。あなたはあなたの眼差しを持っていない。あなたがこれまで引き受けて成長させてきたアイデンティティからの眼差しをもっていない。だから僕は、あなたの眼差しを受けたい、微笑みを向けられたいという夢想を起こせない。
すばらしい花のコサージュは、「あなたの」ものであってほしいのだ。眼差しも微笑みも、「あなたの」それであってほしい。そのとき僕は、いくらでもあなたを絶賛して、死の念慮にスキップをしながら、失恋して帰るだろう。
アイデンティティの問題について話した。一分一秒、僕は僕から離れてはいけないし、あなたはあなたから離れてはいけない。それは自意識のことじゃない。自意識はいつだって過剰だ。「わたしは何なのか」、そのアイデンティティのために、自意識すら離脱することができるはずだ。僕は一分一秒、連綿と続く時間の全てに例外なく、僕として話すしかない。その中で話されることは、もはや何が良いとか悪いとか、何が正しいとか誤っているとかではない。僕はただ、僕だったという事実をどれだけ連続できるかでしかない。あなたも同様だ。一分一秒、あなたがあなたでなくていい時間など無い。あなたはあなただったという事実をひたすら連続させていってくれ。僕はおしゃれが見たいのではないし、微笑みが見たいのでもないし、すばらしい花のコサージュが見たいのでもない。全てを通して、僕はあなたが見たいだけなのだ。
[あなたの髪のすばらしいコサージュ/了]