No.311 奇妙な仕事、奇妙な恋あい
大江健三郎の"デビュー前"の作品といえば、「奇妙な仕事」が代表的です。奇妙な仕事といえば、大江本人が自分の小説家という仕事をまるで奇妙な仕事だと言い張っているようなところがあります。四国の深い森の中で、読んだ本の「まとめなおし」をする、そのまとめなおしを出力しつづけるユニットだ、というような言い方をします。また大江本人だけでなく、大江の書く作品の登場人物たちも、それぞれに「奇妙な仕事」を背負っていることが多くあります。主人公は、「鯨とケヤキの代理人」であったりします。あるいは、書庫に押し込んだ兵隊ベッドに眠る老作家が、タガメと呼ぶようになったテープレコーダーから故人の声を聞き取って向き合う仕事をする、というような作品もあります。
これは一般に流行するエンターテインメント小説のありようから完全に逸脱しています。多くの小説では、たとえば主人公は広告代理店に勤めている若手であり、ひょんなことからある女子大生と同棲するようになった、というような書き出しから始まります。広告代理店業の若手は、「奇妙な仕事」ではありません。
ところが、奇妙な仕事と奇妙でない仕事を見比べると、なぜか「奇妙な仕事」の側に、何か見逃せないものが潜んでいるような気がしてきます。自分が生きるということの上で、自分の仕事とは何だろう? と考えたとき、それに「広告代理店業」というのは当てはまらない気がしてきます。どのような職業名を当てはめても、そう簡単に解決しない問題がそこにはある。だから、別に大江の作品を引き合いに出さなかったとしても、人はそれぞれに「奇妙な仕事」を、知らず識らず自分の内に抱えているところがあるということです。奇妙でない仕事のほうは、たとえば「広告代理店業」としてわかりやすい。「奇妙な仕事」のほうはわかりにくいのですが、そのわかりにくいことこそ、自分の生きることの中心をつらぬいていて、これをやらねばならないという気がどこかでしているものです。これはそもそも、人間が生まれ持って奇妙な性質の生きものだということなのかもしれません。
同じようなことが恋あいにもあります。奇妙な恋あいと、奇妙でない恋あいがあるのですが、やはり奇妙でない恋あいのほうはわかりやすいものです。広告代理店に勤める彼が、優秀で、格好がよく、自分を大切に思ってくれるし、色んなものを与えてもくれる。だから「付き合って」いるし、そうしてお互い認め合い彼氏・彼女の関係になろうと、申し出て合意もしたのでした。
そのようなことはよろこばしいことですし、ぜひ生きるうちのよろこびとして獲得したいものの一つです。ですが、同時に、それはよろこばしくありながら、それだけではどこか自分の中心を貫いてはいない、という気がするものでもあります。多くの人は、結局そういったことに敏感なため、自分の中心を貫いていないそれにやがて首を傾げ出すか、もしくは堂々と「興味がない、なくなった」と認めるようにもなってきます。
「文学は世界のモデルを作る」といいますが、文学のみならずいくつかの文化芸術の類は、人々にモデルを与えています。たとえば若い人間が恋愛をするドラマがあったとしたら、それは「恋あいはこうじゃないか」という提案をしています。人々はどこかで、このモデルを想像力に捉えて元とし、実物を我が身で現成させようとしているところがあります。
その上でということになりますが、ここしばらくの間、人々は文化芸術に示される「奇妙でない」恋愛のモデルに向き合わされてきました。その恋愛のモデルは、奇妙ではないのでわかりやすいものです。広告代理店業の優秀な若手である彼に、求められて交際し、与えあうことの豊かな中で、やがて「サプライズ」のイベントも含めたプロポーズがあり、婚姻へと進んでゆく。
これらは何も奇妙な恋あいではありません。が、それだけに、何か自分の中心を貫いている気がしない。この、自分の中心を貫いている気がしないことに向けて、人生の多大なコストと関心を費やして、モデルどおりのことを成就させなくてはならないということに、人々はいよいよ納得のゆかなさを耐え難く覚え始めています。あるいは、経験の浅い幼いうちに、そのような「奇妙でない」モデルに無邪気にあこがれていたものが、やがて自分の身でそのことを実現させていくとなると、何かとたんに嘘くさく、自分の中心に無関係な、誰かが決めたシナリオをパントマイムでなぞらされているに過ぎないような感じがしてくる、ということも、多くの人が経験しています。
それで現在、多くの人が、恋あいのことが「わからない」と感じています。奇妙でない恋愛のモデルは、わかりやすいのですが、なぜこのわかりやすい、自分の中心を貫くでもない何かを、必死にやらねばならないのか、それがわからない、というのでした。
仕事についても恋あいについても、構造的には同じことがあるかもしれません。奇妙でない仕事と奇妙でない恋愛のモデルがあって、どこか社会的なムードとして、このわかりきったことを「爆発的な意欲でやれ!」と押しつけられているような圧力があります。こうして、わかりきったことを威圧的に強制されることのしんどさと、馬鹿馬鹿しさに比べたとき、たとえば「鯨とケヤキの代理人」という、先ほど仄聞したときには奇妙にしか聞こえなかったことは、今改めて、奇妙だからといって無視して嘲弄すれば済むような、単純なだけのことではなかった、という気がしてきます。あなたに与えられた「奇妙な恋あい」がもしあったとして、それは鯨とケヤキの代理人を支えることだったのだ、彼に一定期間付き添う女として……ということだった場合、それは果たして荒唐無稽の無為だったのか、それとも、自分の中心を貫く何かになりえる可能性を秘めたものだったのか?
このことは、さかのぼって突き詰めるところ、はたして人間は奇妙な生きものなのか、それとも奇妙でない社会的な生きものに過ぎないのか? というところに行き当たります。社会的なもののすべては、奇妙なものではない、社会通念に沿ったもので成り立っています。けれどもその中の、確かに社会の構成分子であるには違いない一個の人間は、はたして奇妙なものではなかったのか。自分の中心を貫く何かを求めるとき、自分の中心が何かしら奇妙なものであったとしたら、それらを貫く仕事も恋あいも何か奇妙なものたらざるを得ないのです。
人間は奇妙な生きものではないでしょうか? たとえばリーマン予想というような数学上の難問に、何十人もの天才たちが命がけで取りかかって解決の証明をしようとしています。毎年、あたらしい服飾を発明しようとし、鳴らせば音波となって過ぎゆくだけの音符を演奏して、それを多くの人が寄り集まって鼓膜に収めようとしています。舞台や映画にフィクションの世界を創り出し、ただでさえ辛かった戦争の記憶をあえて受け止めなおそうとしたり、あるいはまったく他人の誰かの恋あいへ、自分のこと以上の思い入れをもってその顛末を見送って祝福しようとします。
そしてそういった奇妙なことへ、正面から向き合って生ききることのできた人は、何かしらの成功者であり、勝利者だ、ということも、人は漠然と感じるものです。彼らは奇妙な仕事に向き合ったし、彼らを取り巻いては、奇妙な恋あいがそれぞれを支えて励ましあったに違いない。彼らは奇妙でありながら、何も偽らずに誠実に、自分の中心を貫く何かをまっとうしていった人々なのではないか。そして、そうしてそれぞれの中心を奇妙さが為しているということについて、否定せず、受け止め、それをこそ大切にしていこうとした、彼らはやさしい人々であったのではないか。そのような彼らの群像を前にして、それぞれが自分のことについて、「自分は彼らの精神的な仲間たりうるだろうか?」というようなことを、自己に切実に問うてしまうところが誰しもあるはずです。
奇妙な仕事、奇妙な恋あいといって、それが単に奇妙ぶっただけの、人間の中心を貫いていない何かであれば、それは特別ぶりたいだけの欺瞞でしょう。そういったことはもちろん論外として、僕はあなたに、心の半分未満だとしても、奇妙な仕事と奇妙な恋あいに、油断ない受け入れの余地を持つことを勧めたく思います。そして僕自身も、「奇妙な仕事」の仕手の一人として、今まさにあなたに呼びかけるのに、今まさに「奇妙な仕事」をあなたに向けて振る舞っています。これはまったく奇妙なことですが、僕の中心を貫いている何事かであることには違いないからこうなるのでした。
[奇妙な仕事、奇妙な恋あい/了]