No.313 引き受けられるものと消費されゆくもの
しばしば、「良いもの」と「重要なもの」は異なります。たとえば車好きの男性にとって、高性能の自動車は「重要なもの」ですが、車に興味がない女性にとってはそれは重要なものではなくなります。女性にとってはこの春に発売されるブランド新作のハイヒールのほうが「重要なもの」かもしれません。男性にとっては、そのハイブランド品がどれほど良いものでも、「なぜ女性はカバンと靴を無限に欲しがるのだろう?」と不思議がるだけのものかもしれません。このように、何が「良いもの」で、何が「重要なもの」かは、それぞれまったく別のものです。「良いもの」は一般化できても、「重要なもの」は一般化できません。たとえば多くの人にとって、自分の両親は決して「良いもの」ではない、出来の悪いところもある両親でしょうが、それでも自分にとっては両親なのだからやはり「重要なもの」です。それが他人にとってはさして重要なものではないことも誰もがわかってやっていることでしょう。
なぜ自分の両親は、良いものではなかったとしても、「重要なもの」になるのでしょうか。それは両親の場合、それが自分の両親であると当人が<<引き受けて>>いるからだと言えます。自分にとって何が重要なものたりうるかは、自分が何について何を引き受けるかによります。車好きの男性は、自動車を乗りこなして遊ぶその快楽と遊び方を、自分の遊び方だと<<引き受けて>>います。ですから自動車が重要なものになります。新作のハイヒールに心を奪われる女性は、自分が女性として生きるということは、こういったおしゃれをすることだと、その装いのおしゃれを自己の生に<<引き受けて>>います。ですから季節ごとの新作が重要なものになるのです。
自分にとって、そうして何かをそこに<<引き受けて>>いるものが、自分にとって重要なものになります。中には春のハイヒールに興味を示す男性だっているでしょうし、高性能の自動車に関心を持つ女性だっているでしょう。けれども、そうしてただ好奇心から関心のおこぼれがいく、というのは、そこに何かを<<引き受けて>>いるということには及びませんから、やはり自分にとって重要なことにはなりません。このことを最もわかりやすく言えば、たとえば自分が卒業した母校が、改装や取り壊しになるという報せを聞くと、誰だってただごとならない、切なく焦る気持ちが起こるということがあるのではないでしょうか。それは自分がかつてそこに暮らして学んでいた、そこの生徒だった、と、その学校の存在を生身に引き受けてきたからです。そこに<<引き受けた>>ものがかつてあったからこそ、あなたはその学校を「思い出」にしているのでした。
最近はあまり写真を現像してアルバムに貼り付けるということをしなくなりましたが、それでもデジタルデータでも、この写真は消せない、捨てられない、という写真を誰もが何枚か持っていると思います。それはそこに自分が引き受けているもの、あるいはかつて引き受けていた何かが映り込んでいるからです。今や音楽データのほとんどはCD音源から圧縮されてmp3となり、所有に物理的なかさばりを持たなくなりましたが、それでも少なからざる人が、思い出に残る歌のカセットテープを、それ自体を廃棄できずに保管して残しています。それは、その歌にもカセットテープにも、自分がそのとき引き受けていたものがびっしりこびりついているからです。
こうして、いちいちのものまでが「重要なもの」になってしまった場合、それはこれまでにいちいちのものを<<引き受けて>>きたということですから、そのときごと、重要な時間を生きてきたということの証なのかもしれません。少々、かさばって困りものではありますが、それぞれの人間の居宅は、それらを保管しきれないほどには手狭ではないと思います。
二〇一四年に、「アナと雪の女王」というアニメ映画が大流行しました。ドラマチックな挿入歌と共に有名になり、実際に観た人も多ければ、それについての感興を強く残している人もいらっしゃると思います。僕はまだ当の映画を観ていないので、その内容について何とも言えないのですが、それだけ大流行したからには、何であれ良い映画であったには違いないでしょう。
ただ僕は、その「良い映画」ということにも、慌てて絶賛や肯定を向けないで、注意深くしていたいのです。
「アナと雪の女王」は、少なくとも日本では、映画興行成績の歴代記録を次々に塗り替えていったそうです。今のところその内容についても、激しく悪く言うというような向きは耳にしません。ただその上で、「アナと雪の女王」は、観る人間に何かを引き受けさせていっただろうか? 観衆たちはその物語に何かを引き受けていっただろうか? そういったことを、僕は考えずにいないのです。
「引き受ける」といって、もちろん「アナと雪の女王」はプロパガンダ映画でもなければ思想の啓蒙をする作品でもないでしょうから、そういった理念上の引き受けが求められるわけではないのです。けれどもそれを言えば、自分が両親を両親として「引き受ける」というのも、別に理念上の何かを引き受けているのではない。「引き受ける」とは、存在を引き受ける、ということです。存在を引き受け、自分とそれとの関係を引き受けるということですが、「引き受ける」という言葉だけで、それが本当にはどのようなことを指すか、ほとんどの人にはなんなとくわかるところがあると思います。
全世界で見ればきっと何億人にもおよぶ、「アナと雪の女王」の観衆があったはずですが、そのうちの何人が、どのような形で、そこに何かしらの<<引き受け>>を残したでしょうか。そのようなことに、僕は思いを馳せざるをえないのでした。
このようなことは、現代の周辺で実にひっきりなしに起こります。色んなものが流行し、それらのすべては良作として評価されて過ぎてゆきます。流行したそれへの評価は、ときに過大な誇張をされて、「神」と評価に言われたりします。ですが、それを「神」とあがめている当人が、その作品に何を<<引き受ける>>こともなく、その作品から自身への何らの影響づけも認めない、ということがよくあります。引き受けもなく、影響づけもないのですが、ただ「良いもの」ということへの評価だけを過大に与え続けるのです。現代には多くそうして、中には「神」とまで言われるようなものが、同時に重要さの地位としては「まったく重要でない」という地位に納まっていることがよくあります。人間にとって、良いものと重要なものは、まるで違うものだと先にお話ししました。
人間にとっては、良いものでも悪いものでも、そこに<<引き受け>>を覚えるなら、それは良かれ悪しかれ「重要なもの」です。逆に<<引き受け>>を覚えないなら、良かろうが悪かろうが、それは「重要なもの」ではない。現在、多くの人が、自分にとって重要なものは何か、そして重要なものがどこかにないだろうか? と、探し求めている状況があります。その探し求める声に対して、裏腹に、「良いもの」の情報がシェアされていくようです。しかし、どれだけ良いもの、すばらしいものでも、当人がそこに何かを引き受けない限りは、それは重要なものにはなりません。重要なものではない、ということは、つまりどうでもよいという程度のものです。シェアされた情報を便利がり、身の回りを貪欲に「良いもの」で取り囲んでいくと、自分は一見満たされているふうの状況になります。「良いもの」に包まれているような状況が出来上がります。ですがよくよく見ると、そこには自分の<<引き受ける>>ものが何もないのです。すると、自分にとって重要なものが何も見当たらず、何も引き受けないまま、自分の毎日が何のために過ぎていっているのかがよくわからなくなっていきます。
仮に、「アナと雪の女王」が大流行した事実の上で、その物語から、別に何かを<<引き受けた>>わけではない、という人が多かったとしましょう。そのとき、良作映画としての「アナの雪の女王」はどこに行ってしまったのでしょうか。この場合を「消費」と言います。良作が良作として「よく消費された」と言うことができます。消費はそれ自体が悪ではありませんが、<<引き受け>>と区別されます。引き受けられたものは消えませんから、消費されていません。人間はその精神的営為として、作品その他についての体験を、引き受けることもあれば、消費することもある、と言えます。どちらに偏っても極端だと思われますが、現代は圧倒的と言える程度に消費の側へ偏っているというべきでしょう。
「良いもの」の本懐は、きっと消費されることにはありません。消費されるために作られるものもありますが、そうでないものも多くあります。アニメーション作家の宮崎駿は、「今はどれだけいいものを作っても、消費されて終わってしまう」と、この消費の現象を攻撃しました。消費されるものが、映画その他のような作品ということならまだしも、友人との関係などにおいてはどうでしょうか。友人と過ごす時間や、恋人と過ごす時間は、それは「良いもの」に決まっています。ですがそれは、楽しかった! と、消費されることが本分のものでしょうか。もちろん消費的な時間もあるでしょうが、そればかりをお互いの娯楽として与え合うのは、友人および恋人の本懐ではないはずです。
自分が誰から何を引き受けるか。また、誰が自分から何を引き受けるか。我々はそうして、いつか自分が誰かと「重要なもの」同士になることを望んでいます。それを焦ったり、わざとらしく求めたりするわけではないにせよ。少なくとも「消費」して終わりにするようなものを、友人とも恋人とも呼びたくないと、我々は先に知って生きています。
我々はこのことに注意をせねばなりません。引き受けられるものと、消費されゆくものがあったとして、我々は「消費慣れ」をしてはいけない。作品にせよ、友人や恋人にせよ、半ば消費がちに過ごす側面もありながら、その中で見逃すべきでない、引き受けなくてはならない何かを、そのときに見落とさないよう、笑いながらも注意深くあるべきです。またそのときに、慣れた消費のふうへ逃げ込まず、はっきりと<<引き受ける>>というほうへ自身を向き合わせるには、それだけの勇気も必要になるでしょう。<<引き受ける>>ということに、いつまでも臆病であってはいけないと言えます。
自身から誰かに向ける、自分のこととその態度についても、消費の気楽さへ逃げ回るのみではなく、不恰好でもどこか引き受けあうことのできる余地のある人間として、踏みとどまり、一歩を踏み出せることが必要です。そうして誰かと引き受けあって生きる時間が得られたとき、後になって、お互いの出来がよかったとは決して言い合いませんが、お互いにそれが何か「重要なもの」だったことは、内心に認め合えることでしょう。
そうして互いに引き受けあう関係が得られたときは、それについてお互いつべこべ言うことはなくなるものです。それはちょうど、映画を観て何かを引き受けてしまったとき、感想めいたことなど何も言いたくなくなる気持ちに、よく似ています。
[引き受けられるものと消費されゆくもの/了]