No.314 解きほぐされていく宵の僕
理屈ばった世界はいやだね。こう、すべて、解きほぐされてゆくのがいい。
性欲について考えるが、性欲なんてものは、あってなきがごとしじゃないか。
性欲は、オナニーして射精したら消え去る。かなり、どうでもいいものだ。このどうでもいいもので、生物の繁栄が担われているのも不思議なことだが……
人間を除くほかの動物には発情期があるらしい。発情期にフェロモンが出て、それに引き寄せられてオスが飛びつく。そして交尾して受精が起こる、と。
このことは、動物にとってはさして官能的なことではないのかもしれない。
犬なんかを見ていると、当人はわけもわからず、ぷるぷるぷる、としているだけに見える。
犬の場合、ご主人様に叱られたときのほうが、もっと複雑で切ない顔をする。
人間には、性欲のみならず愛があるが、この愛というのも理屈ばっていて、しんどくていやだ。
疲れずに生きていくためには、愛について語られるのを聞かないようにして生きるに限る。
仕事が疲れるのではなくて、仕事に関わる理念とかプライドとか、そういう余計なものが語られることに疲れる。
立派な仕事が果たされていれば、たぶんそういった余計なことは語られないので、何かが語られているということは、だいたい失敗しているのだ。
そして失敗してしまっているものは、成功しなおすよりほかになく、語りつくされることは何の成功の補いにもならない。
成功、これは、努力や知恵によって達成されるものではない。
成功とは、単に、うまくいく、というだけのことだ。
成功が、努力や知恵によって達成される場合、それは何をもって成功かというゴールを、人為的に前もって決めてある場合だけだ。
受験勉強があり、何点取れば勝利、成功、と、人為的にゲームが作られている。
スポーツも同じで、相手より先に5セット取れば勝ち、成功、とゲームが初めから決められている。
努力や知恵「向け」に、成功が設定されているのだ。
もちろんまったく別のゲームもあって、努力や知恵向けにゴールを設定していないゲームとしてはギャンブルがある。ギャンブル、たとえばサイコロをチンチロリーンと振って勝負する遊びについては、これは努力も知恵も無意味なことだ。
努力と知恵と、そうでないものとを、中間にとって、麻雀などはバランス型のゲームだと言える。
人間が生きていくことそのものは、その中間でありながら、中間でさえなく、そもそも生きることがゲームではないので、それを「成功する」というのは、ただうまくいくだけだ、としか、やはり言えないのだった……
じゃあ、このうまくいくとかうまくいかないとかは、運しだいで、何もできないのかというと、それも違う。
何もできないのは、できないのだが、うまくいく人はうまくいくし、うまくいかない人はうまくいかない。
うまくいく人と、うまくいかない人の、違いはわからないし、誰も知らないのだが、ただ、うまくいく人と、うまくいかない人は、それ自体はなぜか見ただけでなんとなくわかるのだ。
成功する人とは、あまりむつかしいことではなくて、単に今日のこの時間を目の前で成功している、というだけなのかもしれない。
うまくいかない人は、うまくいく人のことを、じっくり観察し、分析するのだが、その観察や分析は成功ではないので、時間は失敗の側へ傾いている。
うまくいかない人は、「もういいや」「わたしにはこの人のようにあることは無理だ」と早々に諦め、「せめてこの人と遊ぼう、遊んでもらおう」とするほうが、まだ成功に近い。自力に依らずとも、一時的に成功を掴める可能性はある。
うまくいかない人は、うまくいく人を質問攻めにする傾向にあるが、そうしてうまくいく人をうまくいかない人へ肩入れさせることほど無意味なことはない。うまくいかない不成功の談義を積み重ねても誰も得をしない。
それよりは、うまくいかない人が、うまくいく人を賛美して肩入れするほうが、まだ良い展開への逆転がありえそうなものだが、うまくいかない人はとにかく観察と分析をした上で、「自己努力」がしたいので、その努力願望が満たされるまでは、なかなかそうはいかない。
「自己努力がしたい」という、そればっかりなので、結局、自分のことしか考えていない、という状態が続く。
やがて、努力願望が満たされて、
「あ、そうか」
と、努力は努力だが、努力は何も成功につながってないわな、何言ってんだ? ということに気づき、努力に愛想をつかして距離をとるということに、自分自身でたどり着かないと、その先の展開はない。
努力願望の強い人ほど、努力のメリットと、デメリットを、うず高く引き受けることになるのだろう。
うまくいく、ということが、どういうことなのか僕にはよくわからないが、とにかく、性欲なんてものはあってなきがごとしだ、と感じている。
A子に対してはA子に、B子に対してはB子に、そのときごと、何かしらの欲求が向けられて起こる。
それは、同性に対しては起こらないものなので、やはり性欲であったり、異性愛であったり、分類上ではするのだろう。
だが、こうして個別に起こる無数の性愛に対して、陰茎を摩擦しての射精、ということを性欲の中枢に捉えることは、あまりにも馬鹿げている。
それはまるで、緻密なデッサン画を観た上で、鉛筆を絵画の中心に置いているようなバカバカしさだ。
たしかに、鉛筆があり、それを紙に擦り付けるということなしには、絵画はありえないだろう。
が、鉛筆をコスコスすることが、絵画の中枢だなんて、アホなことは誰も言わない。
絵画の中枢は、たとえばモンマルトルの景色があれば、モンマルトルの景色が中枢だ。
睡蓮の池があれば、睡蓮の池が絵画の中枢であって、それに向けて、やはり鉛筆が使われるだけだ。
風景画家にとっては、目の前に景色がなくとも、「描きたい!」という欲求が湧くのだろうが、その欲は欲として、それでも景色なしに絵画のことをあれこれ言うのはバカみたいなことだ。
こんなことの説明から、もし入らねばならないとしたら、それは成功がはるかに遠く、時間をかけて失敗を周回するのみになるだろう。
こういった、説明されてみれば当たり前のことを、説明によって知らされたということは、それだけでビハインドであり損だ。
ガスコンロを設置して使用するとき、わざわざ説明書を読むだろうか?
もちろん、読まないとわからないアンポンタンもいるから、説明書があるのだが、まともな人間なら、さっさと設置してさっさと点火してさっさといい具合に使うだろう。説明書なんてものは、ひとしきり使えるようになったあとで、念のため、というふうに目を通すものでしかない。
人間のやる営みのことごとくは、ふつう説明書なしにさっさとやれるものばかりであり、仮にそのすべてを説明書を通してでしか理解できない人間がいたら、その人間はひどいアンポンタンで、ひどいビハインドだ。
たぶん、ことごとくに間に合わず、何事も成功に至らないだろう。
うまくやる、というのは、ガスコンロのコックをひねればカチカチと火花が飛んで、火が付き、「火力が調整できるわね」と、二秒ぐらいで理解することだから、こんなものに何年もかけていてはだめだ。
努力や知恵と、成功は関係がないのだから、生きている時間、なるべく成功していきたいし、うまくやっていきたい。
成功と言ったって、何も大したものではないが、成功しないともっと悲惨でむなしいので、せいぜい成功しない日がないようでありたい。
世の中には、ガスコンロが付かない人のための、大会議や大グループワークの集いがあるのだ。
そういうものがあるのは、かまわないし、必要だからそういうものも開催されているのだろう。
が、おれのガスコンロは、ふつうに火が点くし、初めからよく使えるものだから、幸いそういった大グループワークに、お世話にならずに済む。
そんな、いちいちのことに、グループワークに参加していたら、時間が足りるわけがないじゃないか。
しかも、グループワークといったって、それに参加しても、結局のところ問題は、自宅のガスコンロが点くかどうかなのだ。
グループワークが燃焼したって、それはそのときはいいかもしれないが、帰宅してから「あっ」と、
「やっぱりうちのコンロは点かないじゃないか、おかしいなあ」
ということになる。
そういった、不成功と失敗に努力の華を添えるわけのわからない時間で生を埋め尽くすことはしたくないのだ。
ガスコンロは初めから使えるし、鉛筆も初めから使える。セックスも初めからある。ガスコンロは、何かの料理のために使いたいし、鉛筆は何かの風景や何か数式のために使いたい。セックスは出会った誰かのために使いたい。
そうして目の前にやってくるいちいちのものに、成功すればいいだけで、グループワークに参加しなくてはならないのは、よほど自分が鈍くてアンポンタンなときだけだ。
人間には得手不得手があるから、どうしてもこれだけは、グループワークでも経験しないとどうにもできない、というものがあったりする。僕の場合、たとえばモノを投げるのが下手だ。ソフトボールを投げようが、ダーツを投げようが、ボーリングの玉を転がそうが、ロクなスコアが出ない。これを改善するためには、きっと自力だけではダメで、何かのグループワークで教わる必要がある。
が、そこまでしてモノを投げたいと思わないので、まあいいか、というより、「しょうがない」と、自分の欠点を欠点のまま諦めている。幸い、自分にとって致命的なマイナスとなる不得手でなくてよかったと思う。
マンガリッツァ豚の、バラ肉の塊を、香りまみれのコンフィにするとき、愛が無くては作れないということはない。必要なものは、せいぜい自由な両手、そのフリーハンドぐらいのものだ。
それと同じように、A子ちゃん、B子ちゃんの、存在に向き合うとして、そこにいちいち愛は要らない。
フリーハンドがあれば十分だ。
それ以外に何を使うのだろう?
フリーハンドを使うのは、人間だから当たり前にわかる。が、「愛」というようなものは、実際にはどこに使われるのかよくわからない。
A子ちゃんとB子ちゃんについて、何をどうすればよいとか、何をどうしたいとか、そういうことは特にない。どうにかしてしまってもいいし、どうにもしなくてもいい。
ただ、うまくやりたい。成功したい。その夜を成功して、翌朝と、あさってと、来月と、次々来る季節について、うまくやりたい。
僕とA子ちゃんの物語を、成功させるといえば、そのとおりなのかもしれないが、それは何やら大仰すぎる。別にそんなことしなくても、ただうまくいった、何かが成功したねということになればそれだけでいい。B子ちゃんとの愛に成功するとか、そんなことも、何をもって成功とするのかという議論が必要になる。僕は成功したいのであって議論したいのではない。うまくやれればいい。うまくやれて、「何かが成功したね」という感触がお互いの間にニヘラニヘラと残されれば、それだけでいい。
議論とグループワーク、および努力と知恵などについては、もっと立派な人がやるべきだ。冗談でなくそう思う。そういった議論その他ゴニョゴニョは、本当に必要なのだろう。が、僕にとっては正直「耐えられない」。見る見る具合が悪くなっていく。本当だ。そのときの僕の様子を目撃した人が、
「本当だったんだ……」
とびっくりして認識を改めたぐらいなのだ。
本当に、見る見る顔色が悪くなり、意味不明の汗をかき、うつむいて消沈し、呼びかけても応答が鈍くなっていく。
「本当に、こんなに具合悪くなるんだ……」
そういうことなので、博愛の精神において、僕のところには成功以外のものは持ってこないように。
僕は純粋に成功しか探していないので、そうでないものを持ってこないように、心の底からお願い申し上げたい。
鉛筆を使う人なら、部屋で一人、鉛筆をナイフで削っていたりするだろう。
そこを指して、
「性欲がある!」
と言われたら、びっくりするはずだ。
そして、びっくりした上で、そこから議論が続くとしたら、猛烈に体調が悪くなっていくであろう、そういう予感が誰しもあるはずだ。
(鉛筆を削っていたらいかんのか……そして大議論に展開するのか)
こんなもの、想像しただけですでにこめかみに吐き気が引きつったので、もうやめよう。
僕は、成功したいのだが、より正確に言うと、成功「しか」したくないのだ。
成功以外のものは、ウェェップ、要らねえ、ということなのだ。
もちろん、全ての時間が成功だけで埋められるとは思わない。二十四時間のうち、数パーセントの時間は、失敗が混入するのは、浮世のしがらみとしてしょうがないことはわかっている。
だが、積極的にそれを獲得しにいく狂行の理由はないし、紛れ込んでしまったそれをわざわざ拡大にかかる理由もない。
成功に対してアレルギーを持っている人がいるのも知っている。
アレルギーというと、本当のアレルギー症の人に失礼で申し訳ないが、ここでは簡易に通用するための俚び言としてお許しいただきたい。
成功にアレルギーのある人は、成功の色香と、実際に生きることの手ごたえの官能が、強烈すぎて恐ろしく、努力と知恵に逃避しているのだ。
自分の時間を、有限に生きるということの、実践と実感が、怖すぎるので、時間は有限でなく無限にあるかのような、グループワークと議論に耽っているほうが、安心できるのである。
それについて、僕がどう思うかというと、ギャアアアア、としか思わない。
向こうも僕に対して、つまり成功と時間有限の生に対して、ギャアアアアと言うのだろうか、わからない。
とにかく、こんなことはいくら考えても成功にはならないし、議論というのは一人でも出来てしまう。一人グループワークというのも出来てしまう。
僕は成功だけしかしたくなくて、成功以外のものにアレルギーなのだ。
見る見る、具合が悪くなっていく。
成功には何の目標もない。
目標なんかなくて、ただ、うまくいった、ということ。それが、一人でもよいし、できれば誰かと、「うまくいったね」ということが、確認されて残ればいい。
それ自体がうれしいのだからそれ以上のことは要らないだろう。
目標なしに、ただ「うまくいったね」ということを、有限によろこぶために、ガスコンロに火をつけて、豚肉をコンフィにしたり、鉛筆で風景を描いたり、A子ちゃんに向き合ったり、B子ちゃんにちょっかいを出したりする。
「ために」、なのだろうか、自分で言ってみたところ、たいへんあやしいものだ。
あまり、そんなむつかしいことを考えていない気がする。
だから、目標がないどころか、ジャンルさえないのかもしれない。
何をしている、というようなことを、いちいち自分で認知しない。
いや、やっている最中は、その認知は当然あるのだが、
<<何をやる、という認知を先に立てて、そのことに取り掛かったりしない>>。
取り掛かるより以前にある動機は、何をやる、ということではなく、「成功したい」、だ。
うまくやりたい。成功したい。成功しかしたくない。A子ちゃんとB子ちゃんにちょっかいを出すのは、そこにA子ちゃんやB子ちゃんがいるからである。そこに恋愛が転がっているからではない。性欲の対象が転がっているからでもない。
ただ「成功したい」だけだ。
すべてが解きほぐされていくのだ。すべてが解きほぐされていくと、何か知らんが、勝手にそうなっていく。
すべてが解きほぐされると、僕が成功に向かうのではなくて、成功が僕を引っ張っていくのだ。だから僕に聞くな、成功という現象に直接聞け。僕は解きほぐされていく宵に、歩むのではない、成功に引きつられていくだけの、ただのしもべだ。
[解きほぐされていく宵の僕/了]