No.315 流れに関わる人間として
流れに関わる人間が、最も注意しなくてはならないことは、動静系へ転落することだ。流れとは何であるか? それを説明することは数学的すぎて困難だが、唯一正しい言い方としては、「それは動静ではない」ということが言える。一方、動静とは何かというと、「流れてはいないもの」となる。動静とは、静止したり、動いたりはしているが、流れたりはしていないものだ。人間がこの世界に関わる、能レヴェルの区分として、人間には動静系でこの世界に関わることができ、また流れ系でこの世界に関わることもできる。
流れ系の人間は、「感じる」ということを大切にする。もとより、流れ系の人間としては、パラメーターはこれより持ちようがないのだからしょうがないことだ。流れ系の人間にとって、理解や認知という能力は、付属はしているが、付属する計器でしかなく、それ自体を動力とできない。流れ系の人間は「感じる」ということしか実際にはできない。この、「感じる」ということが、どこから来ているのかわからないまま、それを手ごたえにして手探りに進んでいくのが流れ系の人間である。
流れ系の人間は、たとえば音楽について、感じ取られる音の流れとして「音楽」があり、それが楽譜に記録されて断片となる、と捉えるだろう。動静系の人間はそうではなく、まったく正反対に捉える。動静系の人間は、静止した楽譜の中に音楽があるのだから、楽譜通りに動け、と言うだろう。わかりやすいのは動静系のほうだ。楽譜に書かれているとおりに音を出すことは、楽器演奏のための機械的技術訓練を受ければ誰にでも一通りできるようになる。一方、流れ系人間の言うことはよくわからない。「感じる」? すでに鍵盤を叩かれて響き渡った音ならともかく、まだこれから演奏するという手前の、無音の空間に何を感じろというのだ?
動静系の人間は、まず「動け」という。動かないと何も始まらないのだからと言う。一方、流れ系の人間は、何かを始めるということがよくわからないのだ。流れ系の人間は流れ続けており、動くまたは静止するということを持たない。流れ系の人間にとっては、止まっているときも動いているときも一つのことだ。同じく、そこにある流れを感じ取るしかしていない。
流れ系の人間は、自身にも他者にも、理解されないようにひそかな道筋を探す。自分が流れてゆくための道筋を。動静に固定された堰も、隙間はゼロではないから、流れようとしていくとき、必ずその隙間は見つかる。流れ系の人間は、固定された理解と認知の中に自分はないと感じている。だから、他者に理解され認知され、固定されて納得されて……と、自己を犯されるのを嫌うのだ。自分が感じ取られるのはよい。固定された理解と認知の隙間を、ぶつからず流れていく自分について、それを清流のようにも溶液のようにも、感じ取られるぶんについてはかまわない。それはまさしく自分だというふうに、流れ系人間には感じられるからだ。流れ系人間は、流れる時間の只中に、自分が立っているようには感じていない。自分に関わって流れている時間そのものが自己の存在そのものだと感じている。だから履歴書に書かれるような特徴と個性への理解などは、自己の存在を毀損されているようにしか感じないのだ。自分が他者に感じ取られてゆく事象そのものが、流れ系人間にとっての出会いとふれあいであり、一方、自分が他者に理解されきったとき、それはビーカーに集め取られた雨滴のように、それはすでに彼にとって雨ではない。
流れ系の人間は、物事を、人を、感じ取ることしかできない。それはそもそも、感じる・感じ取るということ自体が、流れ系の事象を時間軸上に直覚することを指して言うからだ。難しい言いようになるが、たとえばふんわりしたクッション。自動車に同乗したときの、気が利いた滑らかなブレーキング。クッションには、座り込めばふんわりするのだし、自動車は、すーっと、えも言えず制動して信号停止する。その「ふんわり」だとか「すーっと」だとかは、感覚的なことだから、理解も認知もしようのないもので、言葉としては理解と認知を諦めきった言葉だ。擬態語だ。動静系の人間は、たとえばそのふんわりしたクッションについて、「どう"ふんわり"なのか? しかるべき測定器で測定し、運動量の衝突に対してどう反作用力が生じるのか時間軸上のグラフにして表せ」と言うだろう。流れ系の人間はこれをバカバカしく不毛に感じるのだ。ふんわりし、すーっとしたものは、グラフ化して認識可能にするよりも、体験して感覚に感じ取ったほうがよいと信じている。
熱い湯に手を差し込むと、ただちに皮膚が熱い。それが熱いと感じ取られるのは、皮膚に起こる温度上昇の流れが急激だからだ。もし手のひらの温度上昇がゆっくりした流れであるなら、それを熱いとは感じないだろう。あたたかいと感じる。「感じる」とはそのように、流れ系の事象を感覚に直覚する時間軸上の体験のことを指している。1たす1は2である、ということを、理解して認知することは容易だが、1たす1は2であることを、感じ取る、ということはできない。代わりに、もし1リットルの水が1リットルの水に足されるとき、それが「じょろじょろ」なのか「ザバッ」なのか、そのときはその音を鼓膜に聞けば、水の流されようが感じ取られはするけれども。
流れ系の人間は、同じように、人間同士で触れ合うときも、その相互の存在、人格を、流れ系に属する流れの事象として感じている。彼は人間とその人格を「感じる」のだ。流れ系の人間にとって、Aさんと出会うということは、Aさんという固有の、個性の流れに触れて、それを感じることだ。それこそ、人によってその存在の触れ方は、「じょろじょろ」であったり「ザバッ」であったりする。「熱い」であったり「あたたかい」であったりする。その中で、よく感じ取られる人間のありようだけがよろこばしく、それが偉いだの卑しいだのの差別はない。「じょろじょろ」と「ザバッ」のどちらが偉いということはない。どちらが穏やかで、どちらが大胆か、ということはあるけれども。「熱い」と「あたたかい」というのも、どちらが偉いということはない。流れの様相が個性によってさまざまだということでしかない。やたらに熱くてザバッとしたものでは、いつでもは使いづらいということはあるかもしれないけれども。
流れ系の人間は、そうして人間同士も、それ自体が本質的に流れの事象だと捉えていて、そこに何をよろこぶかといえば、人間同士が感じ取られあうことをよろこぶ。だからそのぶん、感じ取られないということ、感じ取られる流れが急に消失するということを、その場合があれば悲しむ。流れAと流れBは、どのように邂逅しても一つの流れに和することができるが、そこに流れでない動静系Cが登場した場合、CはAともBとも和することができない。それは流れ系と動静系という所属の系が違うからだ。それでこのことを「違和感」という。AもBも互いに個性の異なる人格だけれども、両者は流れ系としての人格であるため、個性を持ち寄ったまま和して一つの流れとなることができる。そこに違和感は起こらない。AとBは互いに互いの流れを感じあうことができる。Cはその流れの只中で、一人にょっきり立ち尽くすしかできない。川面に突き立てられた杭のように、身の回りに流れを泡立てて流れに参加しない。そこには、いくらかの理解と認知は得られるにせよ、本質的には違和感しか起こらない。
流れ系の人間は、自分にも他者にも、この違和感が起こることを悲しむ。流れ系の人間はただ、それぞれ流れとしての人格を互いに持ち寄り、そのときごと、新しいその日の流れが生まれていくことをよろこんでいるだけなのだ。その流れはまた、いつものメンバーで、いつものとおりになるなあ、ということでよろこばれてもよい。太く激しい流れになってもよいが、ときには、細く繊細な、優美の流れになってもいい。流れ系の人間は、それぞれが個性ある流れであることを大切にし、それを同じ流れに決めつけられることがあれば悲しむ。AとBが同じ流れである必要はまるでないと、流れ系人間たちは信じている。一方、CDEFGHと、流れでない動静系の杭がそれぞれバラバラに突っ立ち、孤立の群れとして増大していくことを、流れ系人間はさらに悲しむ。無数の孤立杭が互いに連絡しあい、理解し、認知しあい、同時に互いにどこかで「自分が一番よい」と秘密の競争をしているようなところのある、動静系の景色に、流れ系の人間は馴染めないのだ。
流れ系の人間は、そうして、何をするにしても違和感の起こらない充実をよろこぶ。できあがった充実ではなく、充実が思いがけず作られていく渦中をよろこぶ。充実することが彼らの目的ではなく、そこに思いがけず起こる流れを感じ取ること、および自分もその流れの力に参加することが目的だ。流れは流れ自体として決壊しない。動静系に固着された積み上げの堰があり、流れの側は、やがて大きくなり、その堰を"決壊させる"側だ。堰を決壊させて、何もかもを飲み込んでやろうというときの、あの痛快さが好きなのだ。
人間には流れ系と動静系があるが、本当は誰しもその双方の能力を内に具えている。もし、動静系に属しながら、動静系をそろそろ疑い始めた人があれば、その人に向けて、あるいは流れ系にあこがれを覚える人や、認める人、もしくは現時点で、どちらの系にも属さず中間でゆらめいているような人へ、僕は次のように話しておく必要がある。
あなたが、まず、自分で正しいと信じていることを、自分で疑い、否定することは、なかなか容易なことではない。あなたはあなたの理解と認知について、絶対に正しいというものを抱えているのだ。僕はそれについて否定はしない。ただ、絶対に正しいと理解できて認知できるものは、所属する系として動静系だ。動静系だからこそ、そうしてそれが正しいかどうか、判断し理解し、正しいと改めて認知する、ということができている。あなたがそれを正しいと「感じている」と、自分に言うならば、その語法は誤りだ。正しさを「感じる」などということはできはしない。もしそれができるというなら、あなたはテストの採点をする側に立つとき、正解を知らないまま「正しいものを感じ取って」丸をつける、というようなことをしなくてはならない。それは答案に対する不正でしかないだろう。
あなたはきっと動こうとする。そして残念ながら、あなたが動くたび、あなたが動いてしまうがために、それは「違和感」を引き起こしてしまうだろう。周囲にも、あなた自身にも。あなたには、静止したあなたがあり、そこから「動く」ということしか、まだ発想に捉えられない。<<止まってはいるが流れている>>というものがありえるのは想像がつくだろうか? また同様に、動いているものが流れているものだというわけでもないということも、漠然とであれ直感できようか。「流れ系」においては、見かけ上に止まっていても、動いていても、どちらも同様に「流れている」としかいえない。このことはいくら説明しても理解されないのだ。止まっていても流れており、動いていても流れている、そういうものだということを、あなたが身をもってどこかで感じ取る、その体験をどこかで得るしかないのだ。体験を得たからといって、すぐに何かができるというわけでは、到底ないにしても……
動静系人間が流行する現在、「印象づけ」が当然のごとく流行している。人間が人間を感じ取れない時代だ。人間が人間を感じ取れないのに、どうして誰かのことを、「ふんわりしている」などと言いうるだろう? パッケージに書いておくしかない。ふんわりしたクッションそのものの、受け止めて変形するその流れを、実際に感じ取ることはできないのだから、梱包にそれっぽい装飾をほどこして、ピーアール文ともども、「ふんわりしています」という「印象づけ」に長けていくしかない。
だがくれぐれも、「印象づけ」は、錯覚への刷り込みにすぎず、実際に感じ取る感覚の事象ではない。「ふんわり」した印象の人……その人のことをよくよく見るべきだ。そこにふんわりした何かが、流れているわけでは決してない。ふんわりした印象が、切り取られて貼り付けられているだけだ。
現代ではそれを<<空気印象>>という。あなたはいつかしら、空気を読み取れ、というようなことを教育されてきた。空気の印象というのが確かに形成されるということを、あなたはさんざん学ばされてきた。
しかし、風は流れ系だが、空気は動静系だ。風を感じ取れとか、風の流れを起こせだとかは、あなたは言われずにきた。よい空気にせよ悪い空気にせよ、それらはしょせん動静系の、息の詰まりそうな何かでしかないことは、あなたもすでにご承知のことのはずだ。
空気印象の印象づけという、このあまりにバカバカしいもの。これに慣らされてしまった人間は、そのあまりのバカバカしさに厭気が差し、やがて人間的能力の中枢を退化させてしまう。<<感じ取れもしない空気印象を、感じているフリをさせられ>>、まるで自分の感じ取る能力を要らないものとされ侮辱されてきたせいで、自分の「本当に感じ取る」という当たり前のことに、捨て鉢になってしまった。
膨張する動静系人口の、その群れの、やり口は見え透いている。どうせ徒党を組み、空気印象の錯覚に付き合え、と同調を強制してくるだけだ。それに反抗する者は、強烈な違和感の直撃を食らわそうという。だが強制力の根拠などしょせんそのようなものでしかない。
長年にわたる厭気の中で退化してしまった、流れ系人間としての能力、流れを感じる・感じ取るという能力。これを賦活せねばならない。
流れとはオカルトのものではなく、むしろ数学的なものだ。われわれの理解と認知の能力では、数学を直接体験することはできないけれど、感じる・感じ取るという能力においては、その数学事象を直接体験することができる。たとえば、数学知識上に認知される球体の概念がずいぶん難しいのに対し、子供でさえ「すっごく丸い」ものは、手で撫でるだけですぐわかることのように。
流れは基軸として時間軸上の現象だ。時間は常に流れ続けている。極端な、ブラックホール上の時空の破れを除いては、この世界に時間の流れていない場所などありえようか。時間は、止まったり、動いたりするものだろうか。時間は常に"流れて"いる。この時間軸を基軸として事象が成り立つ以上、動静系の認知など本当は生きる方法としては欠格の仮想概念でしかないのだ。一方、感じる・感じ取るという能力は、赤子にさえ具わっており、自身で獲得した能力ではないまま、自身をこの世界で本当に生かすために天賦に与えられている。
この、感じる・感じ取るという能力を、退化から掘り起こして、呼び起こして賦活しなくてはならない。そのためには、まず誤解に吸い込まれてゆくことのないように、動静系に別れを告げる切符として、ここまでに示した説明をする必要があった。<<「感じる」というのは、「流れ」に限定されるということは忘れてはならない>>。動静系のもの、静止と動くことが切り替わるだけのものについては、それを「感じる」ということはできない。動静系が感覚に与えるものは違和感だけだ。違和感を覚えることは間違っていない。
そしてあなたは、今もなお、自分が正しいと信じる理解と認知にしがみついている。そのことは間違っていないとあえて言おう。あなたの信じるその理解と認知は、何も間違っておらず、正しいのだが、その理解と認知は、流れていない。その点において間違っている。
本当には、人間が、流れ系人間と動静系人間に、分離されているわけではない。人間には本来、その双方を同時に運用できる機能が具わっているのだから、本当には、流れ系人間から動静系人間に向けてモノを言うなどということはできはしない。
だからせいぜい、僕が言えるのは、流れに関わる人間としてのことだ。流れに関わる人間として、同時代に生きる誰かに向けてこのように話し切る必要が僕にはあった。
僕は僕自身の信じるところによって、流れ系と動静系の理論が理解され認知されることより、僕という人間が誰かに向けてこのことを話していること、それ自体が人間的に感じ取られることが先に必要だと信じた。それで、いつも通りのこの奇妙な書き話し方も、改めて「流れに関わる人間」として、このようにするしかないのだと、僕自身にも前向きに確かめられたところなのだ。
[流れに関わる人間として/了]