No.316 二〇一五年の全メニュー
今、大晦日の、午後十時だ。
新小岩の、平和橋通りの、ファミレスジョナサンにいる。
新小岩で年越しをしたくて、わざわざ目黒区から来てしまった。
そういえば、新小岩から目黒に引っ越しをしたのも、まだ今年のことだったのだ。
今年、二〇一四年は、異様に長く感じた。
特に、今年の秋は、いつの間にか秋になっており、このまま永遠に秋なんじゃないかと思われるぐらい、長かった。
「今年もあっという間ねえ」という声が、この日には聞こえてくるが、僕にとってはまったくあっという間ではなかった。
この一年、また、使うあてのない能力が伸びた。能力の向上でいうと、今年は異常な一年だったかもしれない。
身体的な、ある種の感覚についていうと、すでに去年の自分と現在の自分は、まったく別の人格のように感じる。
僕は別に、能力を向上させたいと思って過ごしてきたわけじゃないのに、皮肉なことだ。
これから二時間足らずで、何か説得力のある話が書けるだろうか?
もちろん出先だから、ウェブサイトにはアップロードできず、強引にブログか何かに放りあげる形になるが、こうして二時間足らずで、テキストエディタの携帯機で入力して、何か説得力のある話を書けるだろうか。
今年一年、一番強く思ったことは何だろうか?
たぶん、特にないのだが、いつも似たようなことは思っている。
STAP細胞に関わる、ある意味女傑の、「いつも研究室で割烹着を着ています」とかいう、わかりやすい演出に、だまされてしまう人が思いがけず多かったのはなぜなんだろう。僕は当初、「そんなわけあるか」と思ったのだが、それは僕だって過去に大学では化学系の研究室を経験しているからかもしれない。白衣は基本的にドロドロに薄汚くなるものだ。ただケミカルに強いので防護用に着ているにすぎない。視界の背景として、試験管溶液の色を視認しやすくなるという効果もある。
なぜ、叡智と集中力の痕跡がない人間の、安易な演出にコロッとだまされ、一方で、たとえば一分当たり千枚のセル画を仕上げてアニメ映画を創った宮崎駿の仕事ぶりを、誰もさして評価しないのだろう。
どちらの人間に犯しがたい尊厳が具わっているか、見た目の雰囲気だけでわかりそうなものなのに。
僕は、だます人間はともかく、いちいちだまされる人間のことを、疲れてしまって好きになれない。
そして、どれだけ能力が高くても、誰かの言いなりになって能力だけ伸ばしたというタイプの人間が苦手だ。
スポーツ選手に多くて、まるでお前はアジリティの訓練をされた血統犬の……
愚痴っぽくなってしまったからやめよう。
僕はとにかく、バカバカしいものが苦手なのだ。
空気印象の演出にコロッとだまされる人や、訓練された犬みたいな能力を自負にしている人や、またよりにもよってそんなものにあこがれを覚える神経の弱いタイプの人などは、何も悪くはないのだけれど、僕には何かがバカバカしく感じられてならないのだ。
誰にとっても、この一年間は一年間としてあったはずなので、それを振り返って、「つまらなかったぜ!」というのは、別にふつうのことなので、それでいいじゃないか、と思う。
が、さして振り返って感慨深くなりうる何かもないのに、前もって感慨深くなろうと決めて、自分自身にも空気印象の演出を仕掛けていこうとするやり口を見ていると、あまりにもバカバカしすぎて、他人事でも「うわあああ」という気持ちになる。
一年間、特に何もありませんでした、ということなら、そのままにしておけばいいのに。
バカバカしいことはやめなくてはならない。
バカバカしいことを続ける人は、来年も二〇一四年を生きるように。二〇一五年への乗船券はすでに締め切られました。
そうやって、バカバカしい類を時空に置き去りにできたら何よりだな。
時刻は午後十時半になってしまった。
***
もうちょっとリキを入れて、せっかく最後なのだから、少しはまともな話をしよう。
最近は、そもそも、誰かのことを本当に好きになったことがない、という人がとても多い。
そのことはきっと、別に悪いことでも何でもないのだと思う。
が、冷静に考えてみて、僕はこう思うのだ。考えてみてというか、考えるまでもなく、こうではないか、と僕は思うのだが、
<<誰のことも本当に好きになったことがなく、これからも誰かを本当に好きになることはきっとないだろうと予感されている中で、本当に心の底から楽しく生きられるなんてことがありえると思うか?>>
誰かのことを本当に好きになったことがなく、また、自分も誰かから本当に好きになってもらえたことがない、という人間が、心の持ちよう一つで、希望と歓喜に包まれた生き方になれると、本当に信じられるだろうか。
僕にはまったくそのようには信じられない。
もちろん、そういう人だって、何も好きこのんで、自分の選択として、本当に好きになるとか好きになられるとか、そういうことのない人生を選んだわけではないのだろう。
たぶん、気づくといつのまにか、そうなっており、そのままできあがってしまったのだと思う。
その場合、あなたには責任がなくて、時代の責任だから……とかいう、話になりがちだが、そういう話は正直どうでもいい。
ただ単に、何かが間違っているのだ。何が間違っているとか、どうすれば正せるとかいうことの以前に。ただ間違っている。
どう考えたって、人が人を好きになる、特に異性を心の底から好きになる、ということがあって、現在もそうしたよろこびと苦悩に包まれており、この先もきっとそうだろうと信じられるからこそ、生きるということが、眩しくもあるし苦しくもあるのじゃないか。すべてのことが、うまくいこうが、うまくいくまいが、そこに希望と歓喜があった、あのときはすべてに包まれていたなあ、ということになるのじゃないか。
僕は、そうしていつの間にか間違ってしまった人、間違ったままできあがってしまった人に、指を差して嘲弄する、という趣味を持ってはいない。
ただ、間違っているのが明らかなそれを、わざわざ自分で信じるなよ、と思うのだ。
本当は、間違っているとわかっているくせに、それを強引に信じて話をされると、聞いている側はバカバカしくなるのだ。
「日本人」という総体が、もしそろって不幸になることがあったとして、そのことは何も珍しいことではない。いくらでもありうるし、驚くには値しないことだ。
そういったことは、ありうるよなあ、と本当はわかっているくせに、「そんなことないさ」と、明らかに間違っている言いようを強引に信じて話を組み立てないでほしい。
悲惨なことって、あるじゃないか。一番考えたくないようなストーリーに、引きずりこまれていって、最悪に何のヒネリもなく、幸福を取り逃していくケース。
誰も悲惨なことにはなりたくないので、対策を考えねばならないが、対策を考えようとするときに、感情的になられてはバカバカしすぎる。
二〇一五年を生きていくにあたって、まず、誰のことも本当には好きになれなかったとしたら、その一年間はゴミなのだ。非常に残念で、口の端に乗せるにも憚り多きことながら、そうしてゴミになってしまう一年間はありうる。
だからこそ、ゴミにしてはいけないと、この二〇一四年の年末に、ひとしお思うのではないだろうか。
誰かのことを本当に好きにならず、誰かに本当に好きにもなってもらえない、と、そのことを諦めきった上で、回復可能な心の持ちようなんて存在しない。当たり前だ。
生き甲斐とかやりがいとか、バカバカしいことを言わないように。時刻は午後十一時になった。
***
まもなくやってくる、新年を目の前にして。
あなたの思っている「満足」、あなたの予想している「満足」は、まったく見当違いであって、その見当違いがあなたの足を引っ張っている。あなたはまるで、ティースプーンを手にもって棒立ちしているような有様だ。大きなダチョウをしとめてその心臓を食おうという話をしているのに、あなたはそのティースプーンの上に何かおいしいものがちょこんと乗っけられるのを待っている。そんな形で見当違いをしているのだ。人を本当に好きになるとか、本当に好きになられるとかいうのは、あなたが思っているようなティースプーン上のウフフなことではない。見たこともない色の夜の海に、一人投げ出されて、図鑑に乗っていない巨大クラーケンの触手を目撃しながら、夜空に叫んでも誰も助けに来ない、というような体験が本当の恋だ。夜空に星ってこんなにあるの? そして夜空の雲ってこんなに輪郭があって、こんなにびゅうびゅう流れていくものなの? と、全身の周囲すべてが未知の畏怖に取り囲まれる。あなたが生きたことも、あなたがこれから死ぬことも、あなた以外には誰も知りようがないのだ、ということが突きつけられる。神様がにょっきり顔を出すが、神様の顔は思っていたより遙かに険しく恐ろしく、あなたはそれが神様なのか悪魔なのかわからない。すべてがあなたの知らない言語でやりとりされていく。そういったことがあってから、初めてあなたは何かを「経験した」と言っていい。あなたの予想しているウフフなティースプーンは、あなたのつましい空想が創る、見当違いだ。
(ここに電話が来たが時間がないくせにきっちり応答しておしゃべりした)
あなたはいうほど賢くはないのだ。
賢くはないくせに、いろいろ考えて、あなた自身の「予想」をもとに、自分の決断をするから、肝心なものが得られないのだ。
あなたは、無能ではないが、賢くはないと知れ。知ってしまえ。
そして、「予想」をするのは、いくらでもしていいが、そこで立てた予想をアテにするな。
「この人と寝たらこんな感じだろうなあ」
という予想を、あなたは立てるだろう。
立てていいが、
「だからこの人と寝るのはやめておこう」
と、自分の予想を決定の根拠にするな。
この人と寝たらこんな感じだろうなあ、イヤだなあ、と予想しながら、その人と寝てしまえ。
そしたら、必ず、あなたの予想は裏切られる。予想より良かったか、予想よりなお悪かったか、それはわからない。ただ、あなたの予想なんか当たりっこないのだ。あなたはそれほど賢くないから。
本当に何かを経験するというおそろしさを知らないので、あなたは本当の賢さで何かを予想するなんてことはできないのだ。
そういう人が、実は多くて、そのくせ予想ばかり立てているから、STAP細胞の件ではコロッとだまされたのかもしれない。
予想が、外れたのだ 。「この人が研究したらこんな感じだろうなあ」という予想を立てたが、それが見当違いだったわけだ。
いよいよ時間がなくなってきたぞ。
あなたがあなた自身の「予想」を、格下げして、そんなもの役に立たないとみなしたら、あなたは何を根拠に自己決定すればいいだろうか?
ひとつには、もう霊感だ。霊感によって、「ババだけは掴まない」ということを、自分の責任に引き受けるしかない。
ババを掴んでしまうやつは、もうしょうがないのだ。麻雀でいえば、どう手を尽くしても確実に負けるやつなので、こういう奴はもうどうしようもない。
「運が悪いのは全部自分の責任」
と、考え方が真理に改まるまでは、本当にどうしようもないのだ、ババを掴んでしまうような人間は。
霊感において、ババだけは掴まないということを、自分の責任において約束する。ババだけは直前で回避する、霊感だけで十分です、と、自分に誓いを立てるしかない。
ちなみに霊感というのは、死にそうな人に宿るのではなく、生命力が爆発している人に宿るものなので、誤解しないように。死にそうな人に宿るのは霊感ではなくて霊感風味の妄想だ。
そのことだけに誓いを立てたら、あとはどう自己決定していくか。それはもう、自己決定なんてするな。運命の側に決定してしまえ。もっと身を投げ出して生きるしかないのだ。何もかもに引き込まれ、何もかもを引き受けて、何もかもを弾き飛ばして、生きるしかないのだ。
一年間だけでいい、それができるか。
あなたはレストランに行けばメニューを見るだろう。そして注文を選ぶだろう。そうする権利があると思っているだろう。だがそれは違う。
あなたがメニューを見て食べたいものを選んでいるのは、全メニューを出されても食べきれる自信がないからだ。
全メニューを出されても、全部食べきれる、何を食ってもおいしいとしか感じないし、どうせ栄養になるならまずくても別にかまわん、
「早く全部もってこい」
ということなら、あなたはメニューを見る必要がなくなる。
あなたは二〇一五年の、全メニューを食べきるのだ。
だから、あなたはもう自己決定する必要がない。
あとは霊感で、毒入りと、アレルギー性のものを、その直前で回避しますと約束してあればいいだけだ。
そんなわけで、時刻は午後一一時半になった。
今年は本当に多くの人にお世話になった。
こんなに長く感じる一年は、生涯のうちもう二度とないんじゃなかろうか。
正直、もう一度この厚みで来ますというのは、勘弁してほしい。
もう、生涯、能力なんて伸ばさないぞ、しんどいのなんてたくさんだ。
今年、お世話になった人、本当にどうも、ありがとう。
そして、どなたに対しても、新しい年、どうぞよろしくおねがい申し上げます。
新小岩のジョナサンで、耳にイヤホンを突っ込みながら、インペリテリの「ラットレース」を聴いている。今から、なんとかしてこのテキストデータを、ブログあたりに転送して、それが済んだら煙草をプカプカ吸い、そのまま年を越して香取神社に初詣に行ってこよう。
みなさま、よいお年を。
二〇一四年師走末日
九折空也
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