No.324 余談、小説を求める心について
まったく僕自身にしか関係のない話題で申し訳ない。
慌てて題名に「余談」と付け足すことにした。
小説は衣食住のように生活の必需ではない。
バラエティ番組のような気楽さや、マンガ・アニメのような刺激性もないし、映画のような娯楽性も低いので、いわば人間にとって最も必要がないものだといえる。
ヴィデオゲームのようなアクティビティもなければ、知識本やノウハウ本のように、読んで役に立つということもないのだ。
気分転換してスカッとしたいというなら、旅行に出るほうが断然よく、小説を読むのはおっくうだろう。
小説は人間に最も必要ないものであり、必然、人間には小説を求める心がない。
それによって、僕も無理をしないたちだから、小説を求める心がない。
小説を読むのが趣味、という人なら、小説を読むかもしれないが、僕には趣味そのものがないので、
「ああ、そろそろ小説が読みたい」
とはならない。
このことは、人間関係や男女関係によく似ている。
街中をすれ違うおじさんやおばさんについて、友人になりたい、とは別に思わない。
何かの機会で、知人にならねばならない、という場合、決まって本心はおっくうだ。
渋谷区や目黒区を歩けば、たくさん美人とすれ違うが、その美人といちいち友人になりたいかというと、別になりたくない。
はじめから、あなたの言いなりになってあげる、ということなら前向きになれるが、そんなウマイ話はないので(いや、ないとも限らないが)、とにかく基本的にはおっくうだ。
よほど友人のいない人なら、「誰か友人が一人でもいてくれれば……」みたいなところはあるのかもしれないが、さすがにそんな人は珍しいもので、すれ違った誰かと友人になりたいとはふつう思わない。
すれ違う誰かが、よほど面白い人なら、友人になりたいと思う、かというと、そういうこともやはりなくて、面白い人と友人になることが別に面白いわけではないし、だいいち「面白い人」などというものは、そうして切り取って存在するものではないだろう。
試合をしている格闘家は、観ていて面白いからプロ興行が成り立つわけだが、プロ格闘家と相席で食事をしても、きっと何も面白くないだろう。
僕は、自分の生活に特別な主義があるわけではないが、ただしんどいことはしたくないので、面白くないものを面白がっているふりをする、というようなことはしたくない。
充実しているフリや、楽しんでいるフリや、面白いフリをして、何かのきっかけが起こるチャンスに賭けるというよりは、そのまま充実せずに過ごすほうがマシだ。
よって、内心ではなんとも思っていない人付き合いを続けていく気にはなれないし、内心ではなんとも思っていない小説を、趣味として読んでいくこともできない。
おそらく、僕は、空白を埋めないたちなのだ。
空白が、うれしくないという気持ちはわかるが、それをフェイクで埋めるとしたら、その埋め立て作業にかかるしんどさのほうが、僕にはうとましいのだ。
前、中目黒で、信じられないぐらい不味いラム肉のソテーを食べたことがある。
渋谷駅地下の「フードショー」でラムチョップを買ってきて、ガスコンロでデタラメに焼いたほうがはるかにマシだ、というようなソテーだった。
僕は、泣きながら、新小岩の玉川屋で天ざるが食いたい、と思った。
その不味い店で、金持ちそうな外国人の大ファミリーも食事をしていたのだが、きらびやかな内装と合わせて、あれはみんなで「食事しているフリ」をしていたのではないだろうか?
僕は、不味いメシに激怒するタイプではないが、それで「食事をしているフリ」をしてくれと言われるのだけは、ごめんこうむるのだ。
僕は別に美食家ではないので、チープなメシでもよろこんで食う。鶏肉を、醤油とマヨネーズでねっちり合えて、オーブンで焼いたものはすこぶる旨いと思う。
美食も、もちろんするが、美食というのは、コストが膨大にかかる。支払いのコストというより、「どこどこまで食べに行く」という労力のコストだ。
すでにこれまで、魚を食うためだけに、富山に十回近く行っているが、これを年に四回行け、ということになると、さすがに労力のコストを負いきれない。
あ、新幹線が通れば、もう少しマシになるな……
銀座のオステルリーに食べに行くとなると、さすがに身なりを整えないといけないので、それもめんどうくさい。平井の……あの店でも、十分なものを出してくれるので、どちらかというとそちらのほうに行きたい。
それでも、前日には予約を入れなくてはならないのだから、明日の予定を決めることが大の苦手である僕にとっては、それだけでも多大なコストだ。
美食家とか、努力家とか、いろいろな「○○家」という言い方があるが、それで言えば僕は「楽家」みたいなものなので、しんどいことは受け付けないのだ。
もちろん、文章を書きながら、丸二日ぐらい徹夜したりはするが、それは別に頑張りたいのではなくて、最大限の楽をしてもそれぐらいのコストはどうしてもかかるということだ。
労力のコストが最低限かかるということは、別に美食と変わらない。
そんなわけなので、僕は、見知らぬ人と友人になりたいとは思わないし、見知らぬ小説をわざわざ読みたいとは思わない。
その小説の、「いいところ」を探す気になんか到底なれないし、聞こえてこない主張を汲み取ってあげようなどという気持ちにはまったくならない。こちらに迫ってこないキャラクターの名前を覚えてあげる気にはまったくならないし、努力して理解しないと見えてこないストーリーなら、ストーリーなど知らないまま放り投げてしまうことにしている。
こうして、僕には、小説を求める心がなく、小説を前向きに認めようという姿勢もない。
テレビドラマはほとんどこれまで一話も観たことがないし、思えば、マンガさえあまり読んでいない。家の近くには小さな劇場があるが、罰ゲームでもない限り観劇に行くことはないだろう。
つまり、僕は、小説に限らず、物語作品が好きではないのだ。かといって、別に特別に嫌っているのでもない。無関心だ。
僕が、見ず知らずの人間に対して無関心であるように、見ず知らずの物語作品に対しても僕は無関心だ。
この二つはよく似ている。
僕がもし、「人間が好きだよ」などと言い出せば、周囲が僕を緊急入院させるだろう。僕はケンタッキーフライドチキンが好きなので、ときどきテイクアウトを買いに行く。それは必需なのでわかるが、小説が好きとか人間が好きとかいうことはまるで必需ではない。
***
だからこそ、小説や人間が、いつの間にか自分に触れてきて、いつの間にか「自分のもの」になっている、そういう現象が起こることに、特別な尊厳を覚える。
人間に、小説を求める心なんてないのだ。人間を求める心などないように。
男が、女をナンパしようとするとき、このことを肝に銘じておかねばならない。
ナンパしたくなるほどきれいな女が、きっと正体が素敵でないと確信できる男との出会いなど、求めているわけがない。
女性がナンパ男をハンドガンのホローポイント弾でメッタ撃ちにしないのは、単純に良心の呵責と法律によってのみだ。女性には、腕と雰囲気のいいエステティックサロンで150分癒されたい、と求める心はあるが、ナンパ男と15秒話したい、と求める心はない。
そこのところを誤解していると、まず誤解において気持ち悪いし、女性にとっては恐怖だ。法律が改定されたあかつきには、翌日にもマシンピストルで蜂の巣にされるだろう。
ナンパ男を、マシンピストル二丁で、メッタ撃ちにしたい、「どうなるんだろう?」と求める心は、それなりに女性にはあるのではなかろうか。
それでもし、引き金を引こうとしたら、その瞬間、
「よけられちゃった」
ということがあれば、その女性も、そのナンパ男の話を15秒だけ聞いてみたい、「今何が起こったの?」と、求める心は起こるかもしれない。
よくよく考えてみれば、そういうのは、路上で歌っているストリートミュージシャンなども同じだ。たとえ新宿南口の壮絶な人通りの道端で歌ったとしても、それを立ち止まって聴くのは病的にさびしい人だけだ。そんな人は数万人に一人しかないので、ほぼ100%の人は立ち止まって聴くことはしない。
僕はそういう人のことをバカにしているわけではない。
かといって、尊敬するわけでももちろんないが、そうして「自分が世界にいかに求められていないか」を生身で確認しようと手探りしている姿は、どれだけ不恰好で気持ち悪くても、バカにする気にはなれない。
通りすがりの人々に、迷惑をかけて、内心で死ぬほど申し訳なくても、自分はそれを確認したいんです、そこからやっていきたいんです、ということなら、やはりバカにする気にはなれないし、それぐらいの迷惑行為は許容する度量が人類には必要だと思う。
話が、逸れたのか、逸れていないのか、それさえよくわからないが、話を戻そう。
人間には小説を求める心などない。
が、もしそうなら、小説など悪趣味以外の理由に存在しえなくなるので、それだけでは事実に反する。
小説が読まれる・受け取られるということの前後には、何が起こっているのだろう?
僕は、小説を読みましょう、と呼びかける思想運動を始めるつもりは一ミリもない。
むしろ、小説なんか読んでいるやつを、バカにしよう、という運動のほうが、「いいねえ」と思えてしまう余地がある。
真相は、おそらくこうだ。
人間には、小説を求める心などない。
が、目の前に小説があり、示される、その瞬間は別だ。
小説が目の前に示されている、その瞬間、人間は人間らしい心を失っている。
それをこそ人間らしい心というのかもしれないが、それはまあ今は言わなくていいだろう。
目の前にあるそれが、小説に見えてはならない。
人間には、小説を求める心などないので、目の前にあるそれが「小説だ」と見えた瞬間、「要らない」と判断されてしまうからだ。
小説そのものには、罪はないが、今は印刷技術や省コスト化によって、すでに小説は有象無象の大量生産をされており、人々を辟易させている。
「辟易」によって、人をゲンナリさせることは、それ自体が罪になる。今、書店は、それによってことごとく閉店に追い込まれている。
映画や音楽CDも似たような状況だろう。
「辟易」によって、今小説は、「要らない」というレベルを超えて、「要らねぇつってんだろ」にまで昇格している。
何かしらの事情によって、「やさしい人」になっている人は、「要らねぇつってんだろ」とは言わないだろうが、僕には事情もないしやさしくもないので、「要らねぇつってんだろ」とそのまま言わざるをえない。
「小説」というと、タイトルがあって、「著者」か何かをあれこれ言いだす、という感じのものだ。
ああ、文学風だな、ああ、私小説ふうだな、ああ、ミステリーふうだな、ああ、エンタメものだな、と、「著者」がやりだすそれを見ながら、「はいはい」と社交的に受け止めて、「お付き合いしますよ」と、一時的な「やさしい人」になって、こちらが頭を下げて耐え忍んでいかないと、成立しないものだ。
今、そういう具合に、本当になっている。
みんな辟易しているのだからしょうがない。辟易しているが、いくらかはお付き合いしないと罪悪感があるので、「今日は十分ヒマがありますから」というときぐらいは、付き合いますよ、と鷹揚さを発揮する、そういう形態に今なっている。
そして、食事の誘いや、職場での気乗りしない飲み会のように、それでもひとしきり付き合ってみれば、「まあ悪くなかった」「以外に面白かったかもな」と、肯定的に評価できるようになるものだ。
ただし、肯定的に評価できる理由の根本は、もうそれが「済んで」いるから、気楽になれる、ということでしかない。
人間には、小説を求める心なんかないし、「著者」に「お付き合い」する動機も、「ちょっとは付き合わないと、気が咎めるから」という罪悪感においてしかない。
だから、目の前に示されたそれが、「小説だ」という認知に当てはまり、「小説だ」と認知されたら終わりだ。
辟易の心が立ち上がり、「要らねぇつってんだろ」という、当然の反応が起こってしまう。
これで、明らかになるが、「小説」を書くことはとてもむつかしくなる。
逆説的だが、「小説」を書いてはいけないのだ。
それはもう、あふれかえって辟易のものだからだ。
ただ、目の前に示されたそれが、「小説だ」という認知を起こさせずに、目の前にあったとき、人は人間らしい心を失うので、そこが糸口だ。
「著者」が聞こえてこない。主張が聞こえてこず、文学風が聞こえてこない。ミステリーが聞こえてこず、エンタメが聞こえてこない。
そのとき、人間は、<<目の前にあるものと溶け合っている>>が、この溶け合っている状態になって初めて、小説を求める心というのもありうるのだ。
人間には小説を求める心などないが、目の前のものと溶け合っているとき、その「溶け」の中には、小説を求める心もあるのだ。
それは人を求める心も同じだ。
人間には、人を求める心などないが、目の前のものと瞬間、溶け合っているとき、その「溶け」の中には、人を求める心もある。
「溶け」とは何か?
それは、理解や価値観にまったく興味を持てなくなった状態で、酩酊の状態に近い。
人間は、小説に「いい」なんて言わないので、思わず「いい……」と言うことがあるとしたら、それは何でもかんでもに「いい……」と言ってしまう状態だけだ。
それは男女の恋仲によく似ている。
酩酊で、何でもかんでもに「いい……」と言ってしまう。理解や価値観にまったく興味を持てない状態。意識が起立する気をまったく失っている状態だ。
小説家は、読み手に、「いい」と言わせてはだめなのだ。
小説家は、読み手に、何でもかんでもに「いい……」と言ってしまう、そういう状態があるのだということを、思い出させるか、もしくは、教えなくてはならないのだ。
[余談、小説を求める心について/了]