No.332 快感
快感だ。
日々を生きていくのは、それだけで快感だ。
そうだと思えない人は、日々を生きていないのかもしれない。
対処はなくて、ただそういう生き方もあるのだな、としか誰にも言えない。
時間は誰にだって貴重だ。
時間の貴重さについて言い合いだす神経がわからない、というぐらい貴重だ。
時間は実在しているが、流れている、とは僕は思わない。
時間が流れているとわかるのは、結果論に過ぎないのじゃないか、後になって「流れていたんだな」というだけの。
時間はいつも目の前にある。本当は誰にとっても、そうして目の前にあるのだろう。
時間というのは、無限にある。
三年間があるなら、それは、無限の三年間、として実在している。
あれこれ言わなくても、目の前にあるのだから手触りでわかるだろう。
それに触れていると、いつもくる、胸を貫くような、この感じ。切なく、あわただしく、いてもたってもいられないような。駆り立てられ、それでいて満たされ続けているような。
だから快感だ。
このことを、わかりあっている、というようなヒマはない。
なんでもかんでも、わかりあおうとする人や、理解しあおうとする人がいる。そういう人はたくさんいて、いつでも手ぐすねを引いて待ち構えている。
僕にはそういった人たちが、交通取り締まりをしている警官に見える。
交差点ごとに、「あーそこの、ちょっと止まって」と、高圧的に命じてくるのだ。
それで、立ち止まらされて、あれこれ事情を説明させられるのだけれど、結果的に何もなくて、「それじゃいいよ、行って」となる。
そんなもの、一つ一つの交差点で足止めされていたら、やっていられるか、迷惑きわまりない。
そんな取り締まりが流行している世の中はどうかしている。
快感のない人が、快感のある人の足止めをしていい権利などないと思うが、とにもかくにも高圧的に命令されることが横行しているのだから、厄介なものだ。
それで、何はともあれ、人間は何かをしなくてはならないのだ。
何かができる時間が、目の前にゴロンとある。
このことが、胸を貫いてきて、快感だ。快感というには、胸が苦しすぎるところがあるが。
最も足を引っ張るものは、「癒し」かもしれない。
「癒し」とはつまり、その胸の苦しさ、胸を貫いてくるものを、弛緩剤で麻痺させることだ。
それは確かに「癒し」かもしれないが、そんなところを癒してしまってどうする。
何だってできる時間があり、何かをしなくてはならないが、何をしたらいいかはわからない、そう簡単に定義はされない。
それでもこれに向き合っていくしかないのだ。考えこむのは、一見誠実に見えて、実は逃げだ。
考えたって、わかりゃしないのはミエミエなのに、考えこむふりをして、体よく逃避を決め込んでいる。
まあ誰でも、そういうときもあるのかもしれない。
「癒し」というのも、ごくわずかな、合理的に限られた時間でなら、発想の切り替えによいのかもしれない。
が、だいたい、「癒し」に手を出す人は、始終「癒し」に嵌まりっぱなしで、もう何もかもを見失っているものだ。
「癒し」にも典型的だが、この胸を貫くこの感じ、この無限の時間から目を逸らすと、いろんなものが見えてくる。
いわゆる、迷いというやつだ。
立ち止まると、いろんなものが見えてきて、選択肢が見えてくる。この、選択肢が見えてしまうことを「迷い」という。
そのとき見えてきた選択肢は、全部ハズレだ。
選択肢が見えてきてしまったということが、すでに敗北の確定だ。
このことは絶対に間違っていない。
正しい時間の中にいる人間にとって、選択肢を認識できるのは、選択をしてから後のことだからだ。
正しい時間の中にいるときは、「選択する」という行為はほとんどなくて、せいぜい後になってから、「まあ違うやり方もあったんだな」ということを、ぼんやり思いつくぐらいだ。
選択肢を選ぶとき、数秒は立ち止まってしまうだろう。
そしたら、そこからはもうどれを選んでも、選択肢の全体が数秒前の過去のものなので、どれを選んだってどうせ何も間に合わない。
選択肢を選んでいる時点で、もう乗り遅れたのだ。
だから、立ち止まって選択肢が見えてきてしまうという、「迷い」の発生、この「迷い」の発生が確認されたとき、すでにもう敗北してしまったのだ。
じゃあもう選択肢のことなんかほったらかしておいて、まったく別の次のことを考えるしかない。
胸を貫いてくる、この苦しさと切なさと、ときめきのものへ、正しく向き合いなおすしかない。
時間が無限にあるということ。
三年間なら三年間という、無限の時間があるということ。
これがときめきの正体だ。
ときめきを見失った人にこのことが説明で伝わらないのはどうしようもない。
老けた大人には、たとえば三年間というと、「タイムリミット」というふうに聞こえるらしい。
これはもう、老けた人間にとってはどうしようもないことのようだ。
だから老けた大人は、たとえば、「一年以内に彼氏を作って、三年以内に結婚する、それができなかった場合は五年以内に婚活で結婚するわ。それが時間的に限界ですもの」という発想をする。
それによって、自分で「焦る」。焦りをわざわざ自分で作り出している。
焦るのはだめだ。これはしょうもない話だが、あえて言うと、焦りというのは一種のパニック状態で、そのパニックぶりを自分にごまかしている状態に過ぎない。
こんなパニックごまかしの状態では、力が出るわけがないし、そもそも判断力が著しく低下してしまう。必ず、全てのハズレを引くだろう。
それも一つの、生きた証かもしれないが、そんなゴタクはどうでもよく、誰もそんな哀愁を好きこのんで実感なんかしたくない。
焦った人は、パニック状態であり、実は右も左もわからなくなっている。
だから立ち止まる。パニックだから、どちらに行けばよいのかわからなくなっているのだ。
そうしたらますます選択肢が無数に見えてくる。全部ハズレだが……
もうこうなってしまったらだめだ。こんな人はもう、目の前に素敵な人が現れても、「素敵!」と思えなくなっている。
何もかもが、選択肢の一つにしか見えなくなっている。
選択肢ばかりが空中に浮遊していて、事実とか実物とかは存在しなくなっているのだ。
事実とか実物とかが存在しなくなっているので、誰かのことを引き留めては、「わかりあおう」「理解しあおう」とする。
「最近パンケーキが流行っているわよね」「そうね」というようなことを、わかりあい、確認しあおうとするのだ。自分では事実も実物も見えなくなっているから。
もはや、自分の気持ちさえ選択肢の一つになってしまい、「がんばる」「やりたくない」という選択肢が入れ替わるだけ、というような状態になっている。
そうしたらやはり、
「がんばろうね」
「そうね」
「でもやりたくないね」
「そうね」
「でもがんばろうね」
「そうね」
「がんばれる気がしてきた」
「そうね」
「でもやっぱダメかも」
「そうね」
と、えんえん、気持ちをわかりあうとか理解しあうとか、わけのわからないことを続けるしかなくなる。
僕は生まれてこの方、やる気なんて持ったことがないが、そんなものなくても、胸を貫いてくる実物があるのだから、おのずと自分の状態なんて決まってくる。
やる気なんかないが、僕を支配するものがあるのだ。
それを僕は快感と呼んでいる。
快感と呼ぶには、やや胸が苦しすぎるけれども。
でも、快感といえば、これ以上の甘美な快感はないから、これを快感と呼ぶことこそ、きっと正しいのだろう。
これからどうしていくのか?
誰だってそんなことを考えているように思える。
それを考えるのも悪くないときがあるが……
でもたいていは、その話、交差点に立つ交通取締官だ。
これからどうしていくのか、その快感をまっすぐ噛みしめ直すのは悪くないかもしれないが、これからどうしていくのかという「選択肢ごっこ」はごめんだ、選択肢は迷いで立ち止まりなのだから。
どうせ僕は恋をして生きていくのだろう。
恋も夢も似たようなものというか、完全に同じものに思える。
胸を貫いてきて苦しいという、同じものなのだから、どうせひとくくりに「快感」と呼んでかまわない。
僕は興奮している人間が好きじゃない。
恋といって、興奮してそれを話す人があるが、聞くたびにニセモノだなと思う。
胸を貫いてきて苦しいものを、人間がはしゃいで話せるわけがない。
胸を貫かれて、苦しく、快感にしびれている人間は、何も言わず手を横に振るだけでも、なんとなく「ああ」とわかるものだ。それだ、と、なぜかわかるものだ。
もちろん、胸を貫くこの感じに、大きな声で応えて返す、という方法もある。
それは、いわゆる「情熱」だ。
情熱は好きだ。情熱は自然なものだし、いかにも人間らしい。
問題はきっと、この快感が、苦しさを伴うことにあるのだと思う。
苦しいのだ。ものすごく苦しい。胸を直接貫かれているのだから当たり前だが、そうとはわかっていても苦しいものは苦しい。
加齢の問題は、人間は加齢につれて、この苦しさからの逃げ方を知ってしまうということではないだろうか。
人間は青春を失うのではなく、青春に耐えきれなくなるのだ。
もう若くないので、苦しさの負担に、耐えきれず、支えきれず、ギブアップしてしまい、逃避してしまうのだ。
そのひとつが、いわゆる「癒し」でもあるだろう。
胸を貫くこの苦しさには、すさまじいものがある。甘美だが、耐えきれない。
僕もいつの間にか弱くなったのか、気が付けば、かつての自分より、熱心に逃げたがっている自分がいるのを感じる。
まあでもな……
逃げるのは、本当に耐えきれなくなってからにしようか。
苦しいのは、苦しいが、苦しいといっても、ただ苦しいだけじゃないか。
そういえば、昔はよくそれで叫んだものだ。僕がそれで叫ぶとき、よく周りは「いいぞ」と笑ってくれた。
僕が人を笑わせる唯一の方法がそれだったかもしれない。
あのときは誰も、僕が叫ぶことを、「理解しよう」なんて思わなかったからな……
交通取締官の問題はどうすればよいか。
そんなものは決まっていて、無視すればいい。
彼らはまるで取締官のように交差点に立っているが、本当には公権力じゃない。
たとえ本当の公権力だったとしても、無視するなら無視してしまえばいい。
胸を貫かれて、貫かれたままで、毎日「いいねえ!」と叫んできた。みんなそれでよく笑った。
僕なりの情熱だった。
今も僕は変わらない、情熱といえばそういうタイプの人間だ。
すでに選択肢の浮遊に憑りつかれている人間がいくら叫んでも無駄だ。うるさく、気に障るだけになる。
選択肢の一つとして、「叫んでみました」なんて、だめに決まっている。
叫んでみた上に、分かり合ってもらおうとか、そういうのは一番近所迷惑になるだろう。
輝けるものが、なぜわからないのか。この問いかけにはあまり意味がないけれど。
わからないなら、わからないでしょうがないが、ではなぜその輝けるものについて、なんとなくほほえんでいるのか。
見えてもいないものに微笑みかけるとかいうフェイクをやるべきではない。
今日はかまわないが明日からはやめたほうがいい。
空っぽのグラスに口をつけて、「おいしいワイン」といってほほえむようなことを、芝居という。
輝けるものが見えてから笑え。なるべくな。
胸を貫く、この快感が、苦しく突き刺さってから、「苦しい」と言って笑え。
そうでないと、何に腹が立つといって、こっちは本当に苦しんでいるんだ。
こっちは本当に苦しんでいるのに、その苦しみがないままに、同じようにいるつもりの芝居をされたら、さすがに腹が立つだろう。
人を交差点で立ち止まらせて、わかりあおうとか理解しあおうとかするのは、ひょっとして、その芝居をするための情報集めのためにそれをしているのか。
わからない、し、わかったところでどうしようもないが……
どこかの誰かが、I love youを日本語訳するのに、「月がきれいですね」と当てたという。
僕にはそんなシャレっ気はないので、僕が日本語訳すると、「時間は無限だなぁオラァ!」と叫ぶ具合になるだろう。
I love youというのもつまり、胸を貫くこれの、快感と苦しさを言うのだろう。
じゃあやはり、僕もそのまま、僕の情熱として訳するしかないわけだ。
思えば、女に愛される要素が一ミリもない僕が、それでも愛してもらえることがしばしばあったのは、このI
love youのせいかもしれない。
胸を貫く、この無限の時間、時間の無限実在。快感。同時にすさまじくある苦しさ。そこにヒロインが現れて、つい叫んでしまうこと。情熱。「いいねえ!」「いいよねえ!」。主語も目的語もない叫びだ。理解されるためのものではない叫び。せいぜい言うなら、胸を貫いてくる実物へ、負けん気で呼応するという、ただの僕の性格か。
何か知らないが、確実に、何人かの女の子は、僕のことを大好きでいてくれた。たぶんほとんど、僕と初めて出会って、そのときからずっと、初めから大好きでいてくれた。
そういうものじゃないか。これまではそうだったし、これからもずっとそうだろう。
無限の時間が、輝ける日々であり、快感だというのは、たとえ戦争がおっ始まっても変わらない。
人間の差配ごときで、偉大なる快感が左右されてたまるものか。
何を快感とするか、何をどうしたら快感でなくなるか。そういった、選択肢をする権利は人間には与えられていない。
何パーセントか、早く終わりが来ねえかな、と、待望する気持ちが混ざっている。それぐらい、これは苦しいのだ。最後まで耐えきってゆきたいが、最後まで逃げずに耐えきるには、自信がどうこうと、ちょっとした弱気が混ざる。早く終わりが来ねえかな、と思ってしまうのと同等程度、生まれてきてよかったと、心の底から思わされている。
こうして話しているうちに、考え方が変わってきた。
苦しいなら、ずっと苦しんでいればいいじゃないか。
元々が、そういうものなら、ジタバタしたって仕方がない。
苦しむのをやめて逃げたら、そっちはそっちで、今度は寒いのだろう。寒いのもいやだ。だとすれば、結局逃げ場はないのだ。
だとしたら、せめて悔いの残らないように、最期まで快感を。最期まで「苦しかったぜ」と言いながら、生き切るしかないのだ。
僕は永遠に恋人募集中ということにしよう。どうだ、この懐かしい看板。
でも、最後まで苦しんで生きようというのは、つまりそういうことだ。誰だって一般論として、恋とは甘く切なく苦しいもの、ということぐらいは知っている。
僕の恋人は、僕のことが嫌いでもかまわない。どうせ、僕のことが好きか嫌いか、そんなこと初めから聞いちゃいない。どちらを言ってもらってもかまわない。別に僕のことが嫌いでも、僕が快感に苦しめるならそのときその人は恋人だ。
誰かが僕のことを大嫌いでも、無限の時間が目の前に実在するということ、この快感と苦しさが胸を貫くことには変わりない。僕とあなたと、両方苦しんでいる。叫んだり、笑ったりするだろう。そんな中に、僕のことが好きか嫌いかなんてどうでもいいことだ。この期に及んで、僕はいちいち自分のことになど興味はない。
目の前で、爆弾が燃え続けている。これはよろこびの爆弾だ。よろこびの爆弾が燃え続け、僕を痛めつけ続ける。だから苦しく、苦しみ続けるうちは、よろこびに満たされ続ける。快感だ。爆撃はごめんこうむりたいというのが現代かもしれない。みんなそうして弱くなってしまったのかもしれない。
僕はどれだけ強いだろうか。かつては我ながら、無尽蔵に強かった気がするが、果たしてこのまま強くあり続けられるのか。どこまで、途切れることなく、強くあり続けられるのか。快感の中を、胸を貫かれながら。少なくとも、僕は生きているうちは達観しないだろう。達観するのは死んでからだ。「癒し」は好きじゃないと先に申し上げたとおり。
何をどうしたらいい。そんなことはわからない。そもそもそんなことをわかるために時間があるのじゃない。ほとんど灼けるためだけに生きているのだ。何かをしなくてはならなくて、時間があって、何をどうすることもできなくて、ただただ灼かれる。永劫にそれが続く。もちろん何かをすることもあるが、それをしたからって助からない。逃げない限りは助からない。何をしたって胸は貫かれたままだ、灼け続けることは変わらない。
自分が強いと信じるなら、いつか灰になるまで灼け続けることだ。落ち込むということがわからずに生きてきたけれど、僕はそもそも選択肢を知らずにきた。だから嫌われることもたくさんあったのだと、今になってようやく少しわかる。でも嫌われたからって、何の選択肢も出ないのだから……
ただ無限の時間だけが実在している。時間はつくづく無限だ。快感は苦しくて、悲惨なほど快感だ。どうせ恋をしながら生きていくのだろうが、女性の全ては、僕を呼び止めない限り、誰だって僕の恋人だ。そう作られて生まれてきたことの、胸を貫くこと、この苦しさ。
[快感/了]
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