No. 336 爆発
心が燃えている。
僕は友人や恋人より夢を大事にする。
優先順位の話ではなく、明らかな筋道の話。
夢のない人間が、誰かの友人であれたり、誰かの恋人であれたり、するわけがない。
大丈夫、友人だ恋人だと、いちいち点検しなくても、それぞれ真実ならついてきてくれる。
じっくり考える悪い習慣。
それは、自分が何でも知っているという、誤った思い込みからくる。
自分は何でも知っていると、いつからか思い込まれて、何でも知っている自分は、考えさえすればすべてのことがわかると思っている。
そんなことはありえない。
明日のことを知っている人間などいない。
新しい一日には「ようこそ」と言おう。
それが正しいことなのかどうかは誰にもわからない。
まだ新しい一日は過ぎていないのだから。
予定がある?
予定的に過ぎていくだろう。
そうしてすべてが過ぎていってしまうだけだ。
それが予定通りのことだったのか?
新しい一日に「ようこそ」は、まるまる自分に跳ね返ってくる。
自分もこの一日を知らない者として、この一日の時間に招かれた。
「ようこそ」と。
何が有意義なのかは知る由もない。
いや、有意義とは違うが、自分が何をするべきかは、心のどこかで知っている。
知識の中にはないが、心のどこかで知っている。
今日一日を、自分以上の何かで生きるのだ。
これまでに知ってきた自分と縁を切って生きるのだ。
計画を立てるならそのために計画を立てるべきだ。
昨日までの自分、昨日までの知識、昨日までの記憶は、全て不燃物だ。どれだけ加熱しても決して爆発は起こらない。
今日なのだ。昨日とは接続していない。
そうすれば、自分が何をすればいいのか、具体的には知らなくても、感覚的に知っている。
具体的に知らないからこそ感覚的に知りえるのだ。
心が燃えている、この感覚がよみがえる。
自分の目指すものは、今日の中にあり、記憶の中にはない。
子供のころから爆発にあこがれてきた。
爆発的なものではなく爆発にあこがれてきた。
それが芸術なのだと、入れ知恵されたのはずっと後のことだ。
僕には芸術は要らない。
「芸術は爆発だ」なら、僕には爆発があればいい。
僕は芸術家にはならないが、爆発家であり続けよう。
よりよいもののイメージが消し飛んでいく。
イメージなど、記憶のこなれた映像化物でしかない。
イメージに旨みを探して自らの動機にすることの、なんという浅ましさよ。
そんなことで人間はわずかも豊かにならない。
断ち切れ、断ち切れ、断ち切れ……
過去の一切を断ち切れ、予定の一切を断ち切れ。
そして現時点の夢にのみ生き続けるのだ。
人間にとって、過去は未練でしかなく、予定は打算でしかない。どれだけ工夫しても、この定義から逃れることはできない。
過去のよい方法を探す未練、予定へよい方法を探す打算。
そんなことをしなくても、あこがれは直接爆発を知っている。
「新しい一日にようこそ、あこがれの通りにやったらいい」
足場は無いのだ。
それは空を飛んでいるということ。
今日は飛んでいる、飛び続ける。
イメージの打算で妥協することのないように。
イメージとあこがれの違いは何か、それは胸の苦しさだ。
あこがれに飛び立て。
何も知らなかったあのときに還れ。
未来が予定ではなく、未来が未来のままだった、あのときに還れ。
新しい一日に、すべてを知っていると言い張るつもりか?
説得ではない、説得を破壊するもの。
理解も感性も飛び越えたもの。
それを定義することはできないが、定義する前からもともと知っている。
もともと、それに憑りつかれて生まれてきたはずだ。
ふと落ち着けば見えてくることもある。
それは、自分のやろうとしていることのすべては、何も魅力的ではないということ。
魅力的なことは、やろうとしていたことの外側にある。
いつだってそうだ。
いわゆる「自分」は、貧しさのかたまりだ。
打算に明け暮れているだけの貧しさのかたまり。
自分がこの「自分」の言いなりになっているうち、人は永劫に貧しい。
「自分」は、隠匿された「制限」でしかない。
この「自分」をいくら加熱したって無駄なことだ。
必ず、この「自分」の外側に、あこがれがあるのだから。
いわゆる、自分と向き合うというようなこと。
これにはまだ続きがある。
自分と向き合ったなら、まず「自分」に意見を求めてみる。
そこで応えて、「自分」が意見を言おうとする刹那、その喉元に短刀を打ち込め。
意見を言う前に絶息させる。
必ずそれができるタイミングがある。
「ほら、死んだ」と。
本気になれば討ち取れる。意見を言わせてもらえるなどと甘えきった刹那、必ず隙が生じて、そのときなら討ち取れる。
人間は、自分など失っても何も困らないぐらい豊かだ。
豊かさを、本来追い求める必要がないぐらいに。
爆発が全ての鍵を握っている。
善良でも悪でもない唯一のものが爆発だ。
ただ許されるだけの唯一のものが爆発だ。
音のない爆発。音さえ消し飛ぶほどの爆発、あるいは、静かな空気圧のような爆発。
生まれつき人間があこがれているものが爆発だ。
小爆発、中爆発、大爆発、極大爆発……それぞれに値打ちがある。
爆発をするために生まれてきた。
爆発は手段ではなくてそれ自体が目的だ。
ずっと爆発し続けているのだ。
だから僕は友人より、恋人より、自分の夢を大事にする。
僕が爆発し続けないわけにはいかないから。
僕は僕を困らせるすべての人を愛している。
どうにもしてやれなくてごめん、とずっと思っている。
どうにもしてやれないのは、僕の責任だ。
すべて、「自分」の外側にヒントがある。
爆発というのは常に、閉じ込められたエネルギーが、内圧によって外側へはじける現象だから。
閉じ込められたといって、そう必ずしも、ストレスフルでなくてもよいのだけれど。
新しい一日にようこそ。
あなたは、何かしら、爆発するためにやってきた。
一日でも、そのことをおろそかにせぬよう、惜しんだらいい。
人格なんてものはなくていい。
そうしたものから解き放たれるために、あなたは新しい一日へ来たのだろう。
誰も間違うことはない。もともと予定がないのだから。
今このとき、僕は、何を書けばいいとも思っていない。
何を書いたって何にもならない。ならなくていい。
何かが何かになるなんていつの間に思い込んだ?
ずっとこのままだ。何も変わったりしない。
だから安心して爆発したらいい。
「自分」の外側も、自分と大して変わらない。
心が燃えている。燃えているので、当然苦しい。
うまくない方法だ。うまくない方法だからいい。
不恰好でいい。不恰好ならなおさらいい。不恰好で許されないなら、許されたことになっていない。
ヘッタクソな文章でかまわない。今僕が実例に示しているとおりだ。
悪いくせが出たら身体を動かせ。パンクのように、ゾンビのように。
心が落ち着こうとしたら暴れまわれ。暴れ続けろ。心が落ち着くなんて欺瞞だ。心はずっと爆発を求め続けている。
それは心が落ち着いたのではなくて失意だから。そして、失意というのは、ひどい習慣になってしまうから。
火を止めたら沸騰はすぐ収まってしまう。そういう物理だ。ガスコンロとヤカンでずっとそう見てきただろう。
(液体に閉じ込められた水が蒸気となって離脱する)
火をつけっぱなしでなぜいけない。百年間、そうするために生まれてきたのではなかったのか。
愚かでいい。
愚かさのままゆけば、自分の愚かさに気づけないのだから、立ち止まったりしない。
新しい一日に、新人、何を知ったかぶりする?
習うのはこれからなのに、何を習ってきたと言い張るのか。
心が燃えていれば、当然心が苦しい。
それが「夢」だ。
なんだってやれるということ。
それは、「自分」の外側で生きてゆけるということ。
これから何年間もそうしていくことができる。
すぐのことだ、すぐ、「自分って何だっけ?」と笑えて仕方がないときがくる。
僕はずっとそうしてきた。
「切符をどこへやったっけ?」と、全身をまさぐる、それを永遠に続けているだけの生き方はいやだ。
切符なんかあろうがなかろうが、改札を突破してしまえばいい。
真の用事は、切符じゃなくて突破なのだから。
改札を通るのにそんなに切符が重要か。
突破すると決めていれば、切符なんてそもそも手探りもしないよ。
百年生きるということは、百年苦しむということだ。
胸が苦しいのは快感だ。
百年も続くのなら、数日そのことを気に掛けたってしょうがない。
慣れろよ。胸が苦しいのにずっと。
人間は胸を苦しめるために生まれてきて、よりお互いに苦しめうるように、文化と生活を豊かにしていく。
それは素晴らしいことじゃないか、引き下がれるものか。
心が燃えている。
心が燃え続け、両腕は開かれている。
全部間違いなのだ。苦しみがあること以外。
"全部間違いなのだ"
間違いは悪じゃない。いうなれば、間違いはゼロだ。何も違わない。だから惜しみなく間違え。
そして惜しみなくすべてを燃やせ。間違いかどうかを審査する前に燃やせ。
そうして心は燃え続けている。
自分の滓を燃やし続けることは痛みと熱において苦しい。
でもそれでいい。
苦しかろうが何だろうが、燃やすと決めてあったらひたすら燃やす。
そうしたら荷物はない。
自分の滓を燃やすたび、爆発が明滅する。小爆発、中爆発、大爆発、極大爆発。それが「自分」の使い方。
[爆発/了]
←前へ 次へ→