No.340 (慾望2)
さてそれで、だ。
僕は慾望において生きたい。
これは、間違いないし、有為で有用な方針だ。
この方針だけで、たちどころに見えてくるものもある。
これはこれで問題ないが、実際のこととして、いくら慾望だからって、南青山で見かける女性の全員にいきなり飛び掛かって暮らすわけにはいかない。
それは、僕が権力状態にないからだ。
じゃあどうすればいい?
いやあ、こういうことを考えているとき、楽しいなあ……
「二人きり」ということには重要なヒントがある。
「二人きり」、つまり、「あの人はもういないよ」というようなこと。
世間からの離脱だ。
漠然とした不満がある。
(この話はきっと僕自身にしかわからないが、我慢してくれ)
漠然とした不満、つまり、慾望を抑圧した世間状態が、今徹底的にあるのが気に食わない。
昼間はしょうがないのかもしれない、とも思うが、それにしたって、エネルギー源に惹かれるところはないのか、と不満だ。
エネルギー源なしに活動的であり続けるには、きっと意識的な努力が膨大に必要なはずで、とてつもなくしんどいはずだ。
そのしんどいことを、意地で続けるなよ、と思うが、まあ他人のすることだし、しょうがないのかもしれない。
とりあえず、僕は権力状態にないので、代官山を歩く全女性にいきなり襲い掛かることはできない。
そんな権力状態に、なりたくないのかと言われれば、なりたくないわけはもちろんないが、それは何かちょっと違う。
どんな社会的な権力も、そこまでの権力は与えてくれないし……
そうか、社会的な権力も、暴力的な権力も、そこまで完全な権力を与えてくれるわけではないのだ。
それが気に食わないのだ。しょせん、頭打ちである権力が。
女性に拳銃を突きつけて強姦しても、それはつまり単に「無理やり」でしかないのであって、暴力的な権力などでは、女性の本心や素直さにまで権能を行使はできない。
だから今いち、つまらないのだ。
権力というなら、もっと完全な、超能力のような権力がないと、面白くない。
(超能力による完全権力というのは、なかなかいいモチーフだ)
そもそも、女性に拳銃を突きつけるなんて、権力がないから暴力の器具にすがっているにすぎない。真の権力を持っていれば銃なんて要らないはずだ。
結局、「あなたになら殺されてもいいの」と言ってもらえる恋人以上には、真の権力なんか持ちようがない。
僕が「殺す」と言えば、自らその細い首を差し出してくるのだから。
話が逸れた。
とにかくだ。
慾望において生きたいということ、これは間違っていない。
が、この世界は、ピカソのゲルニカのような世界ではないので、やり方を工夫し、磨き上げる必要がある。
十九年前のようにだ。
いやあ、楽しくなってきたねえ。
やり方を工夫するといっても、それは「方法」になってしまってはいけない。
方法を作り、それを持つことは簡単だが、実際にはそれを使えるシーンは一度も来ない。
鍵穴を無視して鍵だけを作ってみました、というような愚行だ。
必要なのは、方法じゃなくて「術」だ。
鍵を開けたいなら、鍵開けの「術」を身につけるしかない。
鍵開けの術を身につけるには、まず、今世間にどういったタイプの鍵が流通しているのかに詳しくなって……
そうそう、漠然とした不満があるのだ。
あくまで、その前提の上で。
その前提の上で、何であれ、通用する自分、でなくてはならない。
自分は、いついかなるときも、通用する自分でなくてはならないし、逆に言えば、通用してしまえば他のことはどうでもいいのだ。
通用する、というべきところに、むろん、迎合する、というようなやり方を持ってきてはならない。迎合は、表面上がなじんで見えるだけで、自分の通用度はゼロだ。
通用する、という次元のところで、慾望において生きる、営む、ということが為されねばだめだ。
ボクシングのリングに裸拳で上がったら、その時点で反則負けの退場になる。そうなると、どんな必殺パンチも通用以前の役立たずになる。
当たり前だが、自分が通用するというのはうれしいことだ。
何の説明にもなっていないが、自分が通用するということは、相手に背後の世間を見ない、ということだ。
つまり、「二人きり」というやつ。
今、この、「二人きり」ができる人は少ないように思う。
「二人きり」ができない場合、それは自立していないのだ。
背後に世間がくっついてきているのだから、自立できているわけがない。
自分が人に通用するということは、相手にも、自立した自己としての通用を強いる、ということでもある。
これが、良いわけだ。
最近の若年層は、ずっと身内世間の群れで過ごしているように見える。
一方、一人でいるときは、極限まで閉鎖的だ。
世の中が物騒だからしょうがない。
とはいえ、事実上、「世間の群れ」と「一人の閉鎖」を、えんえん往復しているように見える。
自分単独で、同じく単独の誰かに出会うということが、もはや皆無なのではないか、などと危惧されてしまう。リアルに考えて。
一生、そういったことなしに行く時代なのかもしれない。
物騒な世の中だからしょうがない。僕だって、女性には、「危ない無理はしてはいけない」と、いつも諭したくなるからには。
不自由な時代だな……
ともかく、現実的な困難はさておき、「二人きり」は良いものだ。良いものといえば、結局そこにしかないのかもしれない。
「あの人はもういないよ」というとき、初めて人は人と向き合うことができる。
「あの人」とは、代表的にはお母さんだ。
「そうか、お母さんは元気だけど、お母さんはもういないんだ」と気づいたとき、初めてオルタナティブ・ロックの音楽が、良いものとして響き、聞こえてくる。
就職して、何かの業界に入り込むと、業界世間が背後にくっついた人間になってしまいがちで、そうなるともう、誰とも二人きりにはなれなくなる。
誰とも出会えなくなる。
「業界」のほうは、別に自分を大切に思ってくれるわけではないのにだ。
いわゆる共同体とか、世間への、甘えであり、依存だ。
そうなるともう、自分は、ギョーカイ的にしか通用しなくなる。
それで、じわじわ、絶望に嵌まっていく人は実に多い。
ギョーカイの身内感とか、世間感って、そんなに良いものだろうか? 僕にはどうもピンとこない。
僕はたぶん、一生、何のギョーカイにも居心地を覚えずに生きるだろう。
性分だからしょうがないが、それなりに厄介なことだ。
(場所移動)
あれ、これはまずいぞ。
さっき、所用で渋谷を歩いていたのだが、とんでもないことに気づいてしまった。
ここ数年来の違和感はこれだったのか。たぶん、震災以降ぐらいに起こってきたことだ。
渋谷だから、たくさん人がいるのだが、そこには「人」が歩いているのではなかった。
「身分」が歩いていた。
それぞれの所属するギョーカイを、「身分」として歩いているのだ。
これはとんでもないことだぞ。
美容師は、「美容師です」という身分で歩いていた。
飲食店のスタッフは、「飲食店です」という身分で歩いていた。
雑貨店の店長は、「雑貨店の店長です」という身分で歩いていた。
芸能関係のADは、「芸能関係のADです」という身分で歩いていた。
IT系のサラリーマンは、「IT系のサラリーマンです」という身分で歩いていた。
仕事熱心、ということもあるのだろう。
が、見る限り、全員がそうして歩いており、誰一人自分の顔で歩いていないというのはさすがにヘンだ。
在りし日のコンスタンチノープルの光景は決してこのようではなかったはずだ。
少し脱線するが、合わせて面白いことに気づいた。
「選ぶ」という瞬間には、人間の一種の隙というか、無邪気さがあるのかもしれない。
スーパーマーケットに立ち寄ったのだが、スーパーマーケットで生鮮品の商品を選んでいるとき、そのときはなぜか、多くの人が「自分の顔」をしていた。
不思議だ。
やはり慾望と関係があるのだろうか。
自分の食べるものを選んでいるという、原始的な慾望が、人を世間身分から引きはがし、一時だけその人自身に還らせるのかもしれない。
なるほど、人類が食事を文化にした理由、また、特に用件がなくても、人が外食をしに行きたくなる理由は、この「選ぶ」という時間の中に、自分自身に還れる瞬間があるからかもしれない。
証券会社の人間も、警察官も、土方の肉体労働者も、コンビニエンスストアで昼食のカップラーメンを選んでいるときは、無邪気で真剣だ。僕はその光景が好きで、あの光景だけは、誰であっても邪魔されてはならない、と感じる。
自動販売機でジュースを買うとき、どのボタンを押すか、人が選んでいる瞬間もたまらなく好きだ。どれだけ憎たらしいジジイがそれをやっていたとしても、その瞬間だけは、決して邪魔してはならないと感じる。
僕は人が世間身分から離脱する瞬間がたまらなく好きなのだろう。
もうひとつ、今日は気づいたというか、改めて思い出すことがあった。
話が散り散りで申し訳ないが、我慢してくれ。
僕は、幸運なことに、ストレスに強いたちだ。
ある種のストレスに晒されることが、むしろ好きだ、というところがある。
根性はないのだが、タフなのである。
ストレスに耐えるという言い方があると思うが、僕は、それに耐えろと言われると、根性がないのでまるで耐えられない。
が、ある種のストレスについては、別に耐えなくても、「割と好きなんですが」というところがあるのだ。
それで、人がグッタリする環境の中でも、むしろいきいきしてくる、というところがある。
たとえば満員電車のストレスなどがそれだ。
暑苦しさや、息苦しさがあり、人々が死んだ魚の目のようになっていく環境が、割と好きだ。
僕はなぜか、そういうタイプのストレスには、抜群に強いのだ。
ただし、女性を連れているようなときはだめだ。連れている女性がグッタリしていくのを見ると、それのせいで僕もグッタリしてしまう。
男同士でいるときや、自分一人でいるときは、そういうタイプのストレスは、むしろ「はいはい」と自らもぐりこんでいきたくなる。
これは僕の、特殊な性質かもしれないが、そうしたストレス環境下においてこそ、人とつながりうるところがあるように感じる。
これこそ、工夫するべきやり方の一つかもしれない、と、目をつけている。
人とつながるためには、互いのストレスレベルを揃えることだ。ストレスレベルを同調させる。
それで、感覚的に、「お互いに話が通じ合いうる」という直感が得られてくるところがある。
イメージとして、田舎から来たオノボリさんが、「東京モンは冷たい」とショックを受けるという話があるが、それはきっと、田舎から旅行で来られた人と、東京在住の人間とでは、それぞれの所属するストレスレベルが異なるのだ。会社員ならよくある話、東京本社と大阪支社とでは、話のリズムもテンポも噛み合わない、通じない、ということがある。それもきっと、それぞれのストレスレベルが違うのだ。
きっと、相手のストレスレベルに同調することが、相手にとって、「話のわかる人」になる第一の方法だと思う。東京の証券会社の人間と僻地の商工会議所の人間とでは、互いのストレスレベルが違うはずだ。毎朝五時に起きて外国語を含めた新聞を五誌読むのが日常の人間の、そのストレスレベルに同調するのは容易なことではない。
ただし、ここでいうストレスレベルの同調というのは、観念的なものではなく、あくまで実際に心身に課されているところのストレスレベルの話だ。相手のストレスレベルに同情したって、話が通じ合ったりはしない。
ひょっとすると、就職面接なども、第一には、「彼はわが社の業務におけるストレスレベルに適合しうるだろうか?」というようなところを、直観的に見ているのかもしれない。少なくとも、総合商社にホンワカした女子大生が面接に来たら完全なお門違いだ。実際にそういう人も面接に来る。そのときは、面接の内容以前に、まず互いに話が通じないものだ。
鍵と鍵穴の話をした。そして、自分というものは常に「通用する自分」でなくてはならないと話した。その、通用する、という部分に向けて考えている。もし、あらゆる相手と場面に応じて、ストレスレベルを同調させることができれば、それは鍵穴を開く術となる。
もちろん、同じストレスレベルにあれたとしても、そのとき自分がグッタリしていてはだめだ。むしろ、同じストレスレベルにいながら、こちらはいきいきしていないといけない。同じストレスレベルにいながら、なおいきいきしている人がいれば、その人は希望であり、魅力的だ。
このことについて、僕は幸運にも、ある種のストレスに強いたちだから、その生来の性質を、有利に使うことができよう。
この、ストレスレベルについての話は、まだ僕自身としても仮説だが、これがもし的を射ていれば、すばらしいことだ。これまで考えもしなかった発想だ。自分にストレスが、無い、というのではだめなのだ。「ちょっとストレスでも買いに行くか」というところがないといけない。
そしてそういったことに、僕は心当たりがないでもない。僕はストレスが人を輝かせるものだと思うし、そういう経験が十分にある。
ストレス愛好者、であってよいのだ。
人は漠然と、「人は心があるほうがいい」と捉えているだろう。そのように思い込まされているのかもしれない。が、ストレスレベルの程度によっては、心があまり無いほうがよいこともある。ストレスレベルの程度によっては、「心ある」というようなことは、しばしば場違いなのだ。自分の「心ある」振る舞いがどこにでも通用すると思っていたら、それは甘い話だ。もちろん最後まで心が無いままではどうにもならないが、少なくとも、まずは鍵が鍵穴に入ることがなければ、鍵が開くことは決してないのだから。
そういえば、新宿などに行くと、とんでもない軽薄さでナンパをしているナンパ師がいるが、あれも経験上、ある種の女の子のストレスレベルに適合するためには、ああいう調子のほうがよいのかもしれない。事実、あれで実績を上げているから、ああいうやり方になるのだろう。
ストレスレベルの同調という発想。これを「通用」の糸口にする。我ながらいいideaだし、僕はストレスに強いたちでまったく幸運だった。
(ここまで書き話すのに、自分自身、なるほど、なるほどなあ、とつぶやきまくってしまった)
話を戻そう。
僕は慾望において生きたい、という話だった。
それで、僕は慾望そのものを、いいかげん純粋に取り扱えるようになっていると自分自身感じているが、それがそのままで「通用」するかというと、そうはいかない、という話だった。
世間は何も芸術的ではないからだ。
世間の様相は、今や、多くの人が自分の顔ではなく「身分」の顔で歩く、というような様相だ。
単純にいって、気持ちも実情も「忙しい」のだろう。
それならそれで、そこに通用していくようでなくてはならない。
むろんそれは、様相に迎合するということではなくて。
警戒されていたら、人を殺せない。
だから、「弱く入るべきか?」と、色々なことを考える。
弱く入る、という発想は悪くないが、そう単純なものでもないだろう。
「術」だ。方法になってしまってはいけない。
何を目指すべきかといえば、まず、「二人きり」を目指すべきだ。「二人きり」ができたら、あとはどうとでもなる。
いやあ、現実的だな。
僕はよく、「流れ系」の話をする。動静系では人は衝突してしまう。
それで、肝心なのは、流れ系は人間にとって快楽なのだから、相手こそがその流れ系に入ってしまわなくてはならないということだ。
僕だけが流れ系に達者であっても意味がない。
むろん、僕自身が、流れ系を十分に使いこなせることが大前提としてだ。
今、万年筆の先を「鼻セレブ」で拭いたのだが、ティッシュペーパーに「鼻セレブ」とは、いつ見てもすばらしいネーミングだと思う。
このネーミングだって一つの糸口に違いない。「鼻セレブ」というわかりやすさと手短さで、購入者のサイフの鍵を開けることに成功しているのだ。
人々が忙しくしているところに、「通用」させるのに、現実的でよい訴えかけ方をしている。
「二人きり」の現成へ至らしめるのが、さしあたり僕の方針だ。
それを、難しくしてしまっても意味がないので、シンプルに、ストレスレベルの同調、というやり方で狙っていく。
相手が流れ系の端緒を踏むこと。踏ませるよう導くこと。
そこは条件反射的になっていなくてはだめだな。数および量をしつこくこなしてからだ。
ストレス愛好者であり続けるほうがいい。熱心な。
まずは卓球から始めればよいのだ。いきなり日本刀を抜いたら逃げられてしまうから。
逃げられてしまったら、いかな剣術も役に立たない。
そんな殺し屋は二流だ。
有能な殺し屋は、剣術に長けねばならないが、それは最終局面の話に過ぎない。
そもそも最終局面へ到達できない場合はどうするんだよ、ということを現実的に考えねばならない。
思えば、ここ長い間、最終局面で使える術を研究してきたのだった。
最終局面で使えるものがないと、それはそれで、最終局面まで行っても意味がない、ということになるからには。
それで、だ。
そのことはさておき、現実的には、まずは卓球なのだ。卓球なら逃げられずに済む。
そこから、卓球で「二人きり」になり、「二人きり」になってから、日本刀を抜けばいい。
そうしたら、「二人きり」だから、相手も自前の剣を抜くしかなくなる。
そこまで全てを、流れの中に取り込んで、初めて現実的に「通用」する術と言えるだろう。
ストレスレベルの程度によって、人の感覚は卓球になるのだ。
コツンカツンと、小気味のよい感触。
「わかる」と受け取られる。
話が通じるという状態だ。
湿ってベトベトしていたり、玉が重かったりしたら、卓球にならない。
「心ある」という状態でなくていい。
卓球のコツンカツンに心なんかない。
日本刀を抜くのには、心があってしまうけれども、それは「二人きり」になってからだ。
卓球台の前に、日本刀を抜いて現れたら、心はあるのかもしれないが、渾身のアホウだ。
覚えやすいように、卓球的世間、と呼ぶことにしよう。
ピンポン玉がコツンカツン跳ねるのはなぜか。ピンポン玉が、中空で、軽く、その外殻が硬いからだ。硬くて乾いているからだ。
小気味がよい。
ストレスレベルによって、人間の心も、中空、軽くなり、外殻が硬く乾いて、小気味よくなるのだ。
だから、卓球的世間が成立する。
僕がストレス愛好者というのもそこだ。
中空にして、外殻を硬く、カラッと、小気味よくするのが、わりと得意なのだ。趣味としても、とてもいいと感じている。
そして言わずもがな、まったく逆のこともある。
夜の浜辺に、それぞれが日本刀を抜いて、殺し合いをするというところに、卓球スマイルで割り込んできたら、それだってやはり渾身のアホウだということだ。
お前にはできないことだから、すっこんでな、ということになる。
だいたいまとまってきたかな?
僕以外の人にはまったくわからないような内容で、またそういう書き方で、ごめんなさい。
でもまあ、本当の本当に、わけのわからない話というのでもないはずで……
僕は慾望において生きたい。このことは、何度繰り返しても、自分で気分がいい。
慾望のことしか考えないし、他のことを考えるのは、あまり意味がない。
慾望のままであれたらいいが、それが「通用」する形でなければ、面白くもなんともないので、工夫が必要だ。
ストレスレベルを同調させるというやり方。
まずは、話がわかる、話が通じる、という直感を交換すること。
卓球的世間だ。
コツンカツンと跳ねて玉が飛んできたら、「卓球ね」と、これは誰でもわかるのだ。
そこから、相手の側にこそ、流れ系へ入り込む端緒を踏ませる。
流れ系は、それ自体が快楽だから、端緒を踏んでしまえば、そこから「二人きり」の現成へ接近してゆける。
ストレス愛好者として、中空になり、軽くなり、外殻を硬く乾かして、コツンカツンと、小気味よく。
卓球で、打ち損ねをしても、誰も傷つかないし、怖くない。平和なものだ。
それが交友というものだな。
交友の、方法、なんて、疲れることは考えない。
いいねえ、現実的で。
そして、僕だって昔は、そういうコツンカツンのやり方を、誰より能動的に使っていたのだ。
十九年前のことだ。
今さら、それを取り出して使うのに、苦労なんてしないだろう。
昔取った杵柄というやつだ。数と量は、そのときにさんざんこなしたのだったな。
あのときも、考えてみれば、確かに慾望のままだった。
あのときと今とで、何が違うか。
僕には深刻に技術が必要だったのだ。
だからここしばらくは、自前のやり方を封印してきた。
f式がどうたらこうたらという、バカみたいな話をどこかでしたと思う。
まあ、そのバカみたいな技術の獲得が、必要だったので、これまで顔を伏してきたのだ。
ようやく、その用事は済んだ。
ようやく、改めて、再び慾望のままに生きていくことができるな……
ピンポン玉は、外殻ですよ、外殻。
最後にもう一度確認する。
慾望は抑圧されている。
不可解で、危険で、怖いものだから、世間はそれを抑圧している。
「体験」を失うことを代償にしてだ。
怖いからこそ抑圧をしている。
だから、慾望もそうだし、「体験」そのものも、それ自体が怖いものだ。
自己の死の体験は怖いし、それだけでなく、暴力や迫害や殺人など、体験となったらとてつもなく怖い。
抑圧していた「不可解さ」が噴き上げてきて怖い。
怖いが、エネルギーに満ちている。
このエネルギーに、コンプレックスの不純物さえ混じらなければ、人はエネルギーと共に、体験を積み重ねて生きていくことができる。
怖いといえば、出会いだって怖いし、恋だって怖いし、愛だって怖い。それが体験となるとき、全ては不可解なので、不可解さが怖い。
自分が、この世界で、生きている、ということが体験されたら、立っていられなくなるぐらい怖いのじゃないか。
それでも、案外、倒れない人は倒れない。
それは、自立している、ということだ。
人間は結局、慾望と体験の渦中に、自立するか、もしくはパニックになるか、その二者択一しかできないのかもしれない。
慾望には、当然それが向けられるべき対象がある。
慾望は何に向けられるか。
自立していない人間は、慾望の対象にならない。
自立していない人間は、慾望の対象にならないから、欲求の対象にされるだろう。
そうなると、当然、住む世界が違ってくる。
体験がないのに、わずらわしい、という世界だ。
体験がないのに、求められるし、自分も求めてしまう、という世界だ。
慾望でなく、欲求の対象……そちらのロマンも、わからなくはないのだが、残念なことに、僕は欲求不満などとっくの昔に使い果たしてしまった。
それで僕は、やむを得ず、慾望において生きるしかない。
[(慾望2)/了]
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