No.341 響け
声は響く。
どこに響く?
自分(たち)の声が、狭く押し込められることを求める人間などいない。
自分(たち)の声は、高らかに無限に響いていってほしい。
声が無限に響くとはどういうことか。
物理的な空間や、実生活の環境の中には、無限はない。
その意味で言えば、無限なんてどこにもないのだが、もし本当に無限がどこにもないのであれば、そもそも人間は無限という概念を発見できなかったはずだ。
無限の反対は有限だが、有限の中を探し回ったって、無限が見つかるわけがない。
有限です、と初めから書いてあるのだから。
そういった間違いをしなければ、自分(たち)の声が、無限のどこかへ響くということは、体験の上でありうる。
そんなはずは、と言いたい人には、そう言わせてあげればいいじゃないか。
われわれの声が、ふつう無限に響いたりしないのは、われわれが有限の空間にこだわっているからだ。
有限の空間について話し、有限の空間に向けて話しているから、声は有限の空間に消費される。
かといってもちろん、無限の宇宙にイメージを湧かせるというような、メルヘンチックなことを勧めているのではない。
あるのだ、体験上の、ひとつの「無限」というやつは。
感覚上のことなので、説明したところでわかる類ではない。
体験したとき、「あれっ」と感じる、「今のは……」と感じる、そのことからしか始まらない。
実際に、自分の声が、無限のどこかへ響いていく感触を、直接得るときがある。
そのとき、自分でも「あれっ」と感じる。「あれっ」と感じ続ける。
「まあいいや」とも感じ続けるのだが……
この声は、どこへ響いているんだ? という、謎の感触だ。
もちろん、音というのは、空気(媒質)の振動であり、熱力学的に有限の物理現象なので、音が無限に響くということはありえない。
われわれは、「声」を物理的な音として聞いているのではない。
キング牧師の演説だって、それを「音」として見れば、新宿駅のホームで流れる乗車アナウンスと大差ない。
音というと、オシロスコープでその波形を視覚化することができるが、そういう音のデータを見てどうこうという話ではない。
音ではなく「声」の話だ。
「声」が、どこか無限のところへ響いていってしまう。
それが起こると、そのこと自体がなぜかわからないがよろこびになる。
誰だって、自分(たち)の声が、有限の空間に押し込められたいのではないからだ。
自分(たち)の声は無限に響いていってほしいから。
声はもちろん、日常の、業務上の連絡などにも使ったりする。
「今日中に銀行に信用状の発行を依頼しといて」というように。
「はーい」とやるのだが、これはあくまで用事を済ませるために、声を道具に使っているのであって、そういうことが人間にとってよろこばしいということでは本当はない。
音といえば、楽器などは音を出す道具だが、楽器もやはり、無限のどこかへ響く「声」を生み出すための道具として、本来はある。
もしそうでなかったら、アンティークのバイオリンに何億円なんて値段はつかない。
もし、楽器が声でなく「音」を出すものだったら、わざわざ反響の仕組みを具えて、単純に言って「音がうるさい」というだけの品物になるはずだ。
声でなく「音」を出し、それで用事を済ませようとする道具は、たとえばサイレンだ。
サイレンがウーウー鳴って、緊急事態ですよ、対応してください、という連絡の用事を済ませている。
電話の着信音だってそうだ。
人間の喉からは、「声」が出るから人間なのであって、もし喉からウーとかピーとか「音」が出るような人間だったら、うるさくてかなわない。
無限のどこかへ響く、といって、無限とはどこか? というと、たとえばフィクション世界などがそうだ。
人間の生みだしうるフィクション世界は、それこそ無限にある。
無限の種類も作り出せるし、無限の奥行きを創り出すこともできる。
寝ている間、どれだけの種類の夢を見られるか、ということも無限だろう。
紙の上にX軸とY軸を書いただけでも、それは「無限」だ。X軸にもY軸にも端っこはないのだから、XY平面は無限の広さを持っている。
人間は、そうして容易に、想像力の中に「無限」を創り出すことができる。
そして、「声」というのは、「音」とは違う、きわめて人間的なものだ。
だからこそ、「声」は、ある種のやり方をすると、そのXY平面やXYZ空間といったような、人間が創り出す無限のどこかへ、響いていってしまう。
そういう声の響き方があるのだ。
テクニックなんかないし、方法もなければ、心構えもない。
そんなものは、いわば「夢の見方を教えて」というようなもので、教えられるはずがない。教えなくても人間は勝手に寝ている間に夢を見る。
子供だって、何も教わらなくても、想像力の世界を膨らまして遊ぶということを勝手にする。教わらなくても知っているし、教えろと言われても教え方は存在しない。
フィクションも、夢も、数学も、もともと人間が生まれ持った感覚だ。
フィクションや、夢や、数学などに、無限は堂々と存在している。そちらに声が響いていってしまう、ということが、感覚上の事実としてある。
もちろん、そうしょっちゅう見かけるような現象ではない。
なぜ見かけることが少ないかというと、われわれが、この有限の実生活空間に、強いこだわりを持っているからだ。
こだわりを持っていなければ、それは一種の精神病なので、こだわりを持っているのが正常だ。
自我人格が鍛えられることなしに、こだわりだけが消失してしまったら、単にこの有限の実生活空間が「わからない」「認知できない」ということになり、精神病になってしまう。
ただ、たとえば子供が、昼間にも夢見がちに、とつぜん聞いたことのない必殺技の名前を叫んでもおかしくない。
そしてそれは、想像力に生み出された、フィクション世界の中への声なので、その声は、無限のどこかへ響いていく感触があってもおかしくない。
事実、フィクションを職業にする、たとえば俳優や舞台役者などは、フィクションの世界へ声を響かせるのが当たり前なのだし、一流や名人の声は、無限のフィクション世界のほうへ響いていっているのだ。
だからこそ、それは聴衆にも特別な声として聴きとられる。
だからこそ、そういった名人の声は、素人には真似できないし、プロでも天才のそれは真似できない。
名人の声は、単に声量がデカいのではなく、響いていく先が違うのだ。
こんなことを話していたって、何の足しにもならないかもしれない。
が、僕はこのことをここに書き残しておきたい。
実生活空間で、有限に生きていくのがわれわれだし、その有限空間に強いこだわりを持つのがわれわれだ。
一方で、紙の上にへっちゃらで数直線を書き、容易に無限を創り出してしまうのもわれわれだ。
どちらもわれわれの事実だ。
有限をやるし、無限もやるという、その二つともが、われわれにとってよく知られた、ありふれた事実だ。
どちらもわれわれの事実なのだから、どちらか一方を、特別だとか、特殊だとか、しゃちほこばって捉えることはない。
自分(たち)の声が、高らかに無限に響いていってほしい、というのは、神秘的なことではないし、メルヘンチックなことでもない。
われわれは、有限というジャンルもやるし、無限というジャンルもやるのだ。
その、無限というジャンルのほうに、声が響いていくことが、なぜか知らないがよろこばしいというだけのことだ。
声はもちろん、身体から生み出される。
ここに、重大な問題があるのだ。
有限の空間の中、われわれが、一番のこだわりを向けるのが、われわれの自分の身体に対してだからだ。
われわれは自己の身体と生命が有限であることに永遠のコンプレックスを覚えている。
いざ身体を使うとき、コンプレックスから、自分が無限だと開き直ることがどうしてもしにくい。
生命を永らえ、生命を繁栄させようとする、動物的個我としてはやむを得ないところだ。
動物的個我をしか重視しない人間がいたら、彼にとっては数学など、どれだけ便利か? という用事ものにしか見えないだろう。
いざ身体を駆動して、声を出そうとするとき、身体には有限へのこだわりが染みついている。
それで有限ジャンルに向けての声しか出ない。
無限に向けて響いていかない。
われわれはまた、こういったこともする。
有限の生命へのコンプレックスから、有限の身体の、「最大値」を誇ってみせようとするのだ。
それは、努力の末、大きな声をもたらすかもしれない。
しかし、有限に向けての声は、有限にしか響かず、その最大値を極めたとしても、それは有限でしかない。
われわれはそうして、しばしば、好きでもないことに憑りつかれている。
われわれは、誰しも一度は、有限の生命と身体を、最大にまで押し広げて、コンプレックスを慰めようとするものだ。
人間の生命が若いうち、生命と身体は拡大する。その中で、有限の最大値は実際に更新されてゆき、コンプレックスはやや慰められる。
そうして、慰められる代償に、好きでもなければ、本当にはよろこばしくないことに、いつの間にか憑りつかれていく。
憑りつかれながら、誰もが心のどこかで、本当によろこばしい無限への到達を求めている。
われわれは実際、よくそうしているのだ。
速く走ろうとする者は、有限の最大値を追い求めながら……有限の最大値にしか興味がないように見える。
けれども心のどこかでは、有限の最大化に向かおうとするその誠実さこそが、やがて自分の走る姿を無限のどこかへ響かせてくれるだろうと、信じて走っているのだ。
どれだけ役に立たないにしても、僕はこのことを書き残しておきたい。
声が無限のどこかへ響いていくということは事実ある。
われわれは、有限をよくし、また無限もよくやる存在だからだ。
無限のどこかへ声が響いていくということは、やりようによっては、何も難しいことではない。
紙面に数直線を書くことのように、何も難しくない。
ただ、無限をよくやるわれわれにとっても、有限のコンプレックスをこびりつかせた、この自分自身の生命と身体を、無限のほうへ持ち込むのは難しいのだ。
だが言い換えれば、難しいのはそこの難しさだけだ。
われわれには、生きる意味があるし、生きる値打ちもあるし、しょうもない努力や研究を、しつこくしてみる理由もある。
自分(たち)の声が、高らかに無限に響いていくことに、よろこばない人間なんていないからだ。
[響け/了]
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