No.348 パーティへの誘い その5
みなさんおはようございます。
いつのまにか眠り込んでいた。
そうか、そうだったのか……
いやね、情熱の話で。
えーっと、あれだ。
まず、これはパーティを宣伝するコラムなのだ。
それを忘れないように。
宣伝するぞ。
みんな、遊びに来てね。
パーティやるからね!
と、これでよし。
ふぅ、これでよし、と。
なんとなく、夢うつつで考えていた。
何が違うのだ? 何も違わないじゃないか、オラァ、みたいなことをだ。
それで、あっそうか、と気づいたのだけれど……
多くの人は、僕の話していること、および僕自身のことについて、「わけがわからない」のではないだろうか。
そういうことなんじゃない!?
確かめるすべはないけれど……
ひょっとしたら、そういう人が実は多いんじゃないか、と勝手に思った。
的外れだったらごめんね。
しょうがないけどね。
なんとなーく、自分が時代錯誤をしていることは、僕自身もわかっている。
わかっているし、時代錯誤、というのも、何かこう、それだけじゃないな、というのも、僕自身わかっている。
別に何年前にさかのぼろうとも、僕は基本的に、クラスメートの輪とか同僚の輪とか、そういう輪に馴染まない人間だったからだ。
それでいて、別に、嫌われていた、ということでもなかったと思う。
もちろん、明らかに嫌われている場合もあったが、その場合は、そいつのことを僕も大キライだったのだから、それはただのヘイト仲だ。そんなことは問題ない。
そういうことではなくて……
「輪」が形成されている中には、僕はあまり入れなかった。
排斥されているわけではないのだが、だめなのだ、その輪に首を突っ込んだだけで、「輪」という状態を壊してしまう。
別にそれは、いいとか悪いとかいう類のことではなかっただろう。
ただの、僕の性質であり、今も僕の、性質なのだと思う。
別に嫌われているわけではなかった。
輪というほど親しくないが、どこか、一人一人に、味方されている気がしていた。
輪という状態でなく、一人一人にばったり出くわしたときなどは、向こうから親しくしてもらえることがあった。
急な打ち明け話とか。
夜中に急に呼び出されたりとかね。
「なんでオレなんだ」
と、よくびっくりしたものだった。
明らかに、そんな親しい仲じゃないだろ、という女性から、急に呼び出しの電話があって、
「部屋にごきぶりが出た」
とか。
そりゃ、わかるけれど、なんでオレなんだ、お前他にも親しい奴がいくらでもいるだろ。
というか、お前、おれとはほとんど話したことさえないじゃないか。
まあでも、呼び出されたので、「え、あ、うん、はい、おう」と、返事して、何か知らんが行ってみるしかない。
クラスメートの輪とか、そういった「輪」は、いわゆるネットワークの一つだと思う。
僕の場合、どうしても、性質として、そのネットワーク状態に貢献できないみたいだ。
別に何かをブッ壊そうと思っているわけじゃない。
が、自分でもわかる。そりゃ何十年も生きてきたらいいかげんわかる。
僕が何か話すと、声のトーンが明らかにヘンだ。輪、という中で交わされる声とは、まったく違う声質が出てしまう。
それは、わかるのだが、わかるのはそこまでで、その先の、「輪」「ネットワーク」に貢献する声質の出し方はわからない。
声質の出し方なんてわかってたまるか。声なんて勝手に出るものだろう。
僕は、ネットワークには貢献できないが、それでいて、孤立しているという感じではなかった。
一人一人に、ネットワークとは別次元で、味方してもらえているようなところがあった。
それを僕は、リニアワークと呼んでいる。
ネットワークの反対の概念だ。
複数の基点からそれぞれの基点へ網目状を為して接続する、というのではなく、僕の基点から「相手」の基点へホットラインで接続する。
別にこんなもの、リニアワークとネットワークのどちらが偉いとも思わない。
ただまあ、これだけ何十年も徹底してこうなのだから、とにかくこういう性質のものなのだろう。
パーティの宣伝をしている。
してねえだろ……
みんな来てね!
遊びに来てね。
もう一歩引き下がってもいい。
ただしこれ以上は絶対に引き下がれない。
遊びに行ってね!
どこにでもいいから、遊びに行けよ。
これだけは、譲れないというか、譲る義理がないので、譲らん。
そうそう、それでだ。
僕の言っていること、および、僕という人間そのものが、根本的に「わからない」、わけがわからない、と感じている人が、実は多いのではないか、と、ふと思ったのだ。
昔より、時代は流れて、文化は変化したのだし、その「わけがわからない」という感触は、今は絶望的な谷になっているかもしれない。
それでも、僕の書き話すことを、繰り返し、えんえん長く、聴き続けてくれている人がいる、というのも事実なのだ。
僕にとって、長年わからず、ずーっと「?」だったのはここだ。
「わけがわからないです」、だから、「さようなら」、と、そういうことなら話はわかる。
僕だって、わけのわからない奴がわけのわからないことを言い続けていたら、さようなら、となるしかない。
ただ、僕の場合、ヘンなのだ。
たぶん、わけがわからない、という感触はあるのだと思う。
にもかかわらず、どうやら、「さようなら」とはならないようなのだ。
これのせいで、僕は長年、ずーっと、「?」のままになっている。
思えば、別にこうして書き話すことを始める、はるか以前から、そうだったのかもしれない。
子供の時分の、クラスメートの輪から見ても、僕は「わけがわからない」奴だったのかもしれない。
それで、「輪」に首を突っ込もうとすると、その「わけがわからない奴」の気配と声が、「輪」を解体させてしまうという、そういうことがあったのかもしれない。
それでいて、別に、「さようなら」となるわけでもなかった。
だから、「輪」の中には入れないまま、別に排斥されているという感触もなく、一人一人からはむしろ味方されている感触がある、という、奇妙な状態になっていた。
今もなお、そういう状態があるのかもしれない。
と、夢うつつに、何か根っこを掴む感触で気づいた。
根拠は何もないから、的外れだったらごめんね。
今、いくつか、過去のことを思い出してみたが、思い返せば結構ブルーにならざるを得ないほど、僕は「輪」という状態に無縁だ……
でもそれは、なんといえばいいのか。
「あいつ、無いわ〜」みたいなものではなかった。
「あいつ、無いわ〜」みたいなものは、あくまで輪の中で、排斥されている存在だと思う。
僕の場合、そもそも輪の中に入っていない。入っていないから、排斥もされない。
そもそも、「あいつ、無いわ〜」の前に、輪のリーダー格にとって、僕は「あいつ」でさえない。輪に入れないものは、輪構造の中でそんなリアリティをもって扱ってもらえない。
輪構造の中から見て、「あいつはアリ」でもなければ「あいつは無いわ」でもないので、僕はそういう輪の光景の隅で、いつも見て見ぬふりをされてきた。
それは、疎外感というのでもなかったな。
傷ついたことは一度もなかったし、傷つけるようなはたらきかけは一度も受けなかった。
リニアワーク、なんて言い方をしたけれど、今これを読んでいるあなたもきっとそうだと思う。
何かしら、面白いと思って読んでくれてはいるのだと思うけれど、これを「面白いよ」といって、あなたは友人に勧めないだろう。
だから、リニアワークなのだ。あなたはあなた単独で、僕のことを「何こいつ」「わけがわからない」と、耳を傾けることを選んでいる。
なぜかこれを、友人と共有しよう、という気持ちには、あまりならないものなのだ。
それは、どうしても僕の気配と声が、この書き話すシロモノにおいてさえ、「輪」を解体してしまう作用があるからかもしれない。
確信があるが、間違っても、クラスメートの「輪」の中に、こんなシロモノをぶち込めないだろう。
クラスメートでも、職場でも、家族でさえもそうだ。
僕は読み手のあなたと、クローズドのリニアワークで接続して、話し続けるしかない。
別にそれでいいし、結局なんだかんだで、その感触自体が僕自身の感触なので、僕はその感触を愛しており、どうしようもないのだろうな。
パーティの宣伝をしている。
いいの、してるの。これで一応。
しょうがないの。
あまり僕をいじめないように。
何を話せばいいんだっけ? あれだろう、夢うつつに、根っこで掴んだ、あれのことだ。
あなたにとって、僕のことは、「わけがわからない」のではないだろうか、ということ。
それでいて、なぜか「さようなら」にはならずにあるんじゃないかということ。
それで、僕自身、省みてみれば、何十年間もずーっとその中を生きてきたんだから、今回もきっとそれだよ、とほほ……ということだった。
誤解のないように言うと、僕は、これまで生きてきた時間の中で、友達のいなかった時間なんてない。
今、ここで、子供の頃からの友人関係のありようを、点描で並べてみようかと思ったが、それが実にめんどうくさいということがわかった。
たとえば中学生のときは、なぜか僕の家にテスト勉強をしにくる勢があり、僕は「教室」を持つ羽目になり、一方で通常通り遊びにくる奴もいるので、遊ぶ奴はこっちの部屋、勉強するやつはこっちの部屋、と、僕はその間を行ったり来たりしていた。
にも関わらず、女の子にはまるでモテなかったのだから、ひどい話だ。まあそれはいいか。
そんなことはいくらでもある。
とにかく、まとめて言うけれど、僕は全般的に言いうる「自由時間」を、一人で過ごしたことはほとんどないのだ。
ファミコンをしていた時間は、一人に見えるが……それは甘っちょろい話で、僕は作中世界で誰よりも豊かに友人たちと過ごしていた。
そういうところは、今も変わらないので、今さらプレイステーション4を買うと大変危険だ。
かなりの長期間、帰ってこられなくなる可能性が大だ。
まあそれはいいとして。
放課後、友達と遊んだ、ということではなく、放課後といえば、帰るという概念がまずなかった。
友達とどこかに「突撃」するのが、放課後という概念だった。
たぶん、一生に一度も、放課後にまっすぐ帰ったことがない。
それはもう寄り道とかいう次元ではなくて、ひとつの「生活」だ。
風邪をひいて欠席しても、友達は家に遊びにきたし、ゲームセンターに行くときは、必ず呼び出された。
学校への出席・欠席なんて、誰も何も気にしていなかったな……
学校の、授業中なんて、完全なる「無」だ。「無」。
授業終わりのチャイムが鳴ることで、ただちに凍結が解凍されて、動き出すのだ。突撃だ。
その生活の仕方に由来して、たとえば東京丸の内で働いていたときも、結局、金曜日の夜などには、まっすぐ帰ったことは一度もない。
金曜の夜は、誰かとどこかに突撃で、その他平日の夜も、しばしば突撃するので、ピーク時には、「睡眠不足で歩きながら眠って植え込みに突っ込み、しかも財布を見たらもう会社に行く電車賃もない」みたいなときもあった。
しょうもない昔話をしてごめんね。
自分でしておいて何だが、昔話というのは、人が話したがることの中でもっとも頂けないものだ。
人間が退化するぞ、思い出話なんかしていると。
僕が話したかったのは、思い出話ではなくて、友達はいるわいということで、それどころか友達といない時間のほうが少なかったわ、ということだ。
それでいて、「交友関係」は無かったのだ。「輪」には入れないから。
まったくそこのところだ。
「交友」というやつができないのだ。
きっとそれは、能力や工夫以前の、性質として出来ないのだろう。
僕と、友人になりたいと選んでくれて、はるばる飛行機に乗って、会いに来てくれた、みたいな人はこれまでたくさんいた。
一方で、「交友関係に招かれた」ということは一度もない。
性質が違うのだ。
自分で考えただけで笑ってしまう。
僕を、「交友関係に招き入れる」などというのは、何のつもりだろう。
そんなデストロイなことをするのは、よほどジョーク的な状況を欲しているからに違いない。
面白そうだけれどね。
あー、ちょっと休憩。
みんな、遊びに来てね。
「みんな」、という呼びかけがヘンなのかもしれない。
お前だ、お前。
もう、そうして微妙な距離感で、よくわからない笑いを浮かべているなんてことは、やめたらどうかね。
本当には自分でまったく満足なんかしていないことを、ハーブティを飲みながらごまかし続けても意味のないことだぞ。
あれ?
なぜか、僕自身、呼びかけを「みんな」から、はっきりした二人称に切り替えると、心象と言葉遣いが変わってしまうな……
お前呼ばわりなんかしてはいけません。
さっさと遊びに来い。
面倒くさいんだ、こんないちいち、宣伝なんか書いているのは……
お前がさっさと来れば、それだけで済むものを、こんな茶番をいつまで続けさせるつもりだ。
別に僕のところじゃなくていい。そういうことの問題じゃないな。
お前の行きたいところに行けよ。
交友関係は交友関係として大事。
「輪」というのも大事だよ。
でもそれとこれとは話が違うだろ。
自分の本当に行きたいところに行けよ。
怯むな。キリがない。
交友関係の表情を、いったんその顔から消すんだ。
そうしたら色々わかる。
本当に行きたいところ、といって、交友関係のところや、新しい交友関係のところに、行きたい、というのも、別にウソではないと思うよ。
それだって一つの、大切な、本当の「行きたいところ」だ。それはわかる。
でもそれだけではないはず。
交友関係を、ただクラウドのように広げることなんか、あなたは元々求めていなかったはずだ。
交友関係が漠然と広いと、ただなんとなく、安心できるからだろう。
そういう安心の買い方はおすすめできない。
それは、友人をバカにしているからだ。
友人を友人と思うなら、その友人の一人一人だって、「本当に行きたいところ」を、胸の内に秘めている、と認めてやるべきだ。
そう認めてやらないで、何が友人だ。
交友関係の輪の中で、くつろいでいる姿だけを見て、「この彼はこういう人」だなんて、それは友人に対する侮辱だ。
交友関係の中で、くつろいでいる姿、安心して一時を過ごしている姿。
それは、その人間の、片面的な姿でしかない。その片面だけを見て「こういう人」なんて、ウソの友人像をよろこんでやるな。
交友関係は、とても大切なものだが、それ以外の関係も要る。それ以外の関係を、強く求める心がある、それを胸に秘めていない人間などいない。
そう一人一人を認めてやらないなら、誰一人もあなたにとっては「友人」ではない。
僕の口出しする筋合いではないが、友人を友人と呼びながら侮辱はするな。
パーティの宣伝をしている。
(ブフッ)
何かこう、もっとシンプルで、有効な、わかりやすい宣伝の方法はないものだろうか。
こう、どこかの鐘楼で、鐘をカーンカーンと打ち鳴らすから、それだけで「おっ、パーティだな」と、わかってもらえるようなことにならないだろうか。
鐘楼はいかにもデカブツであれだから、とりあえず鐘でも買ってこようか。
どこかのデパートの屋上からでも鳴らせばいいわけだから。
音が響いて、伝わればいいんだからな。合理化というやつだ。
鐘を鳴らすだけでメッセージが受領されるというのはとても合理的だ。
カーン、カ、カーン。カーン……
「おっ、パーティだな」
なぜこうならない。
次の段で、情熱について述べよう。
***
んああ!
あなたは頭がいいので、僕の話なんかソッコーで理解するだろう。
(この行に何か書いてあったが、間違って消してしまった。そして何を書いたのか忘れた)
つまりだ。
僕はメカニズムとして、情熱で挙動しているのだ。
動力、および動作のシステムが、情熱原理なのである。
だから、あなたから見ると、僕の挙動は、「わけがわからない」。
駆動している原理が違うのだから、「わけがわからない」で当然だ。
これは、パーティの宣伝をするコラムである。
帰ってこられるかな……
ひとつ、言い忘れていたことがあるな。
パーティに、もう長いこと来てくれている人でも、やはり同じなのだ。
彼らにとっても、今もなお、「九折さん」のことは、「わけがわからない」のだ。
見ていてもずーっと、わけがわからないのだ。
それぐらい、徹底して、別の原理で駆動しているのだ。
すごいだろう。
別にがんばっているわけではない。
がんばっているわけではないが、わざわざ人を呼んで、遊ぶということになると、僕が見世物にできるのはそれぐらいしかないからな……
今のところ、パーティに来てくれている人は、回数的に「見慣れた」という状態になっており、「見慣れた」「わけわかんないですよね」と、問題なく安定するという状態になっている。
なぜそうなるかね。
問題ありまくりだろ。
まあとにかくだ。
情熱だ、情熱。
たとえば、今あなたが読んでいるこれは、文章力としてはサイテーの出来で、救いがたいぐらい文章がヘタだ。
にも関わらず、あなたはここまで読み進めている。
パーティ宣伝のコラム、「その5」だぞ、これ。
何かしら、特殊な作用でもなければ、文章力サイテーの文章を、「その5」まで読んだりするわけがない。
未知の作用があるのだ。その、原理が違う挙動の機構のことね。
色んなところに、その証拠を残してきている。
たとえば、「その1」のところで、僕は「やる気がない」「努力なんかしてたまるか」みたいなことを書いたはずだ。
やる気がないのに、事実としては、何かしている。
休憩もしないし、ヘトヘトになるのは必須だね、と、テキトーなことも言うし、まあそれなりにヘトヘトにもなる。
だから、駆動原理が違うのだ。
駆動の原理が違うから、やる気とか努力とかは、要らないし、役に立たないのだ。
あなただって、まあ赤裸々には……今もなお、パーティうんぬんとか、わかるけど、「その気」にはならないまま、これを読んでいるはずだ。
そんなことは、ちゃっかりわかっているんだぜ。
それは、それでよくってね。
(よくねえよ、早よ遊びに来い)
あなたは、今、「その気」はないじゃないか。
「その気」がないのに、読んでいるだろう。
だから、ほら、「やる気」がなくても、何かをすることは可能じゃないか。
あなたが今していること、そのまんまのことだ。
僕が情熱であなたを引きずっているのだ。
もう、あまり工夫した言い回しをする気がなくなってしまった。
あなたにとって、僕は「わけがわからない」奴だけれど……
本来、「わけがわからない」なら、そのまま「さようなら」になるものだ。
にも関わらず、あなたは、(ブフッ)、「その5」までヌケヌケと読まされている。
情熱が届いているのだ。
わけがわからないままに、未知の作用が、あなたにはたらきかけている。
そう仮説を立てられる確からしさは、今こうしてあなた自身が、「その気」のないまま、ここまで読み進めてしまっているという、そのコストの事実によって担保されるだろう。
難しい言い方をしてしまった。
でも、あなたは頭がいいので、わかるだろう。
今、ちょっと気になったので、調べてしまったのだが、このパーティ宣伝のコラム、その1〜その5までで、五万字ぐらいある。
文庫本換算で、100ページ近くあるのだ。
そんなものを、「その気」がないままに、あなたは読んでいるのだ。
だから、ほら、やる気なんかなくていいし、努力なんかしてもしょうがないだろ?
情熱だ、情熱。
最近、時代として、情熱はあまりにも流行っていない。
いかんね。
まあ、何もかもが情熱でなくてもいいのだけれどね。
でも、たとえばだ。証拠を残してきたのだけれど……
「交友関係」は、いいものだし、大切なものだが、交友関係は「情熱」か、というと、それは何か違うな、となる。
あるいは、たとえば、最近はユーチューバーの動画が流行っている。あなたも観ることがあるかもしれない。
でもそれだって、観ていて面白いし、楽しめるけれど、それが「情熱」か、というと、情熱ではない、ということになる。
だからこそ、あなたがユーチューバーの面白い動画を発見したとき、
「ねえねえ、これ、超面白いんだけど」
と、その動画を、交友関係の輪の中に放りこむことができるのだ。
どうだ。
いろいろ謎が解けるんじゃないか?
そうでもないかな。
僕は、パーティ企画うんぬんをやっている。
どうせやるからには、ちゃんとするか、と思っていて、それで今になってテコ入れみたいなことを、しているつもりなのだけれど、それだって僕自身、「何やってんのこいつ」「わけがわからん」という気持ちがあるのだ。
わけがわからないが、そうしているのだ。もう慣れっこのことだ。
価値観としての、判断としてではなく、情熱で駆動しているのだ。
だから、「わけがわからない」ということは、僕自身にとって何も問題ではない。
僕などは、逆に、わけのわかるもののほうを、忌避して回るクセがついている。
わけがわかるものには、「やる気」が出てしまうじゃないか……
そして、「やる気」が出てしまったら、つい努力をしてしまいそうになる。
そういうのは、ダメなのだ。
ダメといって、普遍的にダメなのではないが、少なくとも僕にとってはダメだ。
情熱のものではないからダメだ。
何がダメかといって、実は決定的な、説得力のある言い方がある。
もし、この先に、とてつもなく美しい、情熱的な女に出会ったらどうするんだ。
そのとき、自分がすっかり、やる気と努力の人になっていて、情熱については鈍く、情熱で駆動していません、となったなら、僕はもう無力じゃないか。
その情熱的な女性を口説けなくなるだろ。
そうなったとき、僕はもう、何のためにこの世に生を享けたのか、意味不明だ。
ひたすら渋谷区のドブを掃除してボランティアに尽くして死んでいくしかなくなる。
「情熱の無い女しか口説けません。情熱の無い女と気が合うからです」
そんなのはさすがにイヤだ。頓死だ。
情熱なのだ、情熱。
こんなパーティ企画に、意味などないし、やる気があるのかと言われたら、やる気はない。
ただ、やる気はなくても、情熱はあるのだ。
パーティ企画に情熱が湧くのではない。
そこは、情熱というものの性質について、誤解があるだろう。
情熱というのは、合目的的に湧くものではないのだ。
情熱というのは、ただ湧き、ただ余るのである。
特に意味なく湧いてきて、余るのだ。
余ったものを、どこかへ遣るしかないのである。
だからみんな来てね!
遊びに来てくれ。
この余剰分を何とかせねゃならんのだ。
パーティの宣伝といって、何を話せばいいかな。
あ、そうだ、あれだ。
さっき、パーティによく来てくれている人も、やっぱり「九折さん」のことが、引き続き「わけがわからない」ままなのだ、と言ったけれど。
だから、あなたもそのようでいいのだ。
あなたも、僕に対して、「何こいつ」「わけがわからない」という状態、にもかかわらず、なぜか「さようなら」にはならない、という状態なら、ぜひ遊びに来てくれ。
あなたは会場で一人ぼっちになることは決してないだろう。
一人ぼっちになるのは、どちらかというといつも僕のほうだ。
わけがわからない、のだからしょうがない。
駆動原理が一人だけ完全に違うのだからしょうがない。
とほほ……
まあでも、今のところはそれでいいのだ。
もし、駆動原理が、僕と同じように完全にコッチ側になった誰かがいたら、それはそれで、「お前そんなんで大丈夫か」と、身の上を案じるだろう。
誰にとってもまだ、僕などは「何こいつ」の、「わけがわからない」扱いのままだが、それでもやはり、情熱は情熱として作用している。
作用の結果、最近は、健全だった女子大生ちゃんなどが、グビグビ酒を飲むようになってしまった。
それに引き連られて、女性陣全体が、割と「飲まなきゃ」と、勇ましくなってしまっている。
いいぞ!
中には、ここ最近は、「週に二回は、男性とデートしないと、損です、負けです」と、意見表明して憚らなくなった女性もいる。
彼女は最近、実際に、そうしてデート生活を、満喫し始めているところがあるみたいだ。
うらやましいな……
「謳歌したいんですよ、謳歌したいんですよ」と、大事なことなので二回言う、という女性も出てきた。
いいじゃないか。
どうせ、本気を出したら、情熱なんて、若い人間のほうが強烈にあるに決まっているのだ。
若い人間の本気の情熱に比べたら、僕なんかは森に置き去られた腐乱死体みたいなものである。
若い人間というのは、すべからく、年長者をバカにするために存在している。
それでいいのだ。
ただし、バカにするというのは、この場合、情熱の量で圧倒して、老いぼれの恬淡をバカにするべきであって、若い人間が先に韜晦してバカにするべきものじゃない。
それでは立場が逆だ。
若い男性などは、朝起きたならば、およそ2フェムト秒ぐらいで、女の子ちゃんのことを思い、好きだ、欲しい、と悶絶せねばならない。
そうでないと……だって、情熱のない男に口説かれたら、女性としては意味不明じゃないか。
情熱がないという状態は、たとえば、ガガーリンが初めて有人飛行として宇宙に出たのに、
「地球の色ですか? そんなん興味あります?」
と交信してくるような状態だ。
ロケット燃料代を返せ! ということになるじゃないか。
パーティをやるので、みんな来てね。
遊びにおいで。
それで、もうパーティのことはさておきだ。
情熱についての謎を解かねばならない。
僕の情熱についてではない。
あなたの情熱についてだ。
(今、台風が、遠いはずなのに、なぜか知らんが窓の下の全ての植木をなぎ倒している。風がウーウー唸っている。突然どうした)
あなたから見て、僕は「わけがわからない」、そういう原理で駆動している。
あなたの場合はどうか。
あなたの内側にも、当然、その「わけがわからない」駆動の装置はあるのだ。
あなた自身、そうして、情熱を原理に駆動することは、もちろん可能なのだ。
ただ、それには、たくさんの経験がいる。体験がいる。
情熱によって動けるようになりたいと思います、と、思いを強くする人は多い。
情熱で、と言っているのに、なお、「思い」を強くするばかりのことをする、そういう人はどうしても多い。
違うのだ。
「思い」で動く、という原理は、他の誰から見ても、「わけがわからない」なんてならない。
みんなそうして動いているからだ。
じゃあどうすれば、と、訊きたくなるところじゃないか。
でもそんな、「どうすればいいですか」なんて、努力する気マンマンの、やる気を振り回すような状態では、情熱なんてナイガシロだ。
あなたの内側には、ちゃんと、あなた自身を、情熱で駆動させる仕組みが具わっている。
ただ、それを、「がんばりたいと思います」で、使えるようになるというのは考えが甘い。
経験、体験を、圧倒的に積み重ねていないのに、「思い」だけで何かできそうな気になるのは、本当に現代にこびりついた悪い習慣だ。
そうだな、十二年間なら十二年間、一秒も休まず、熟成し続けたら、それなりのものになるかもしれない。
ウイスキーの話だけどね。
十二年間、一秒も休まず、というのは、数字の見当として、リアルなところを突いていると思う。
時間が掛かるのだ。
どれだけ「思い」を込めて、麦芽を手のひらでモミモミしても、それが明日とか明後日にウイスキーになるということはありません。
おい休むなよ。手を止めるな。あとまだ、十一年と363日残っているぞ、続けろよ。
マジメな話をしてしまった……反省している。
さて、パーティはいよいよ明日か。
宣伝を、ちゃんとしておかないといけない。
遊びに来てね。
最後まで、どう話しておけばいいかな。
こう考えてみたらいい。
何かマジメくさくて申し訳ないけれど。
たぶん、やはり、情熱は届いているのだ。
そうでなければ、こんな「わけがわからない」奴の、話を端っこまで読み進めたりしない。
情熱は届いているんだな。
僕は、ずっと前から、おかしい、めっきりおかしい、と感じているのだ。
「遊びにおいでね」
「うん」
という、ただそれだけのことが、なぜいつまで経っても成立しないのだろう。
みんな、何を待っているのだろう?
情熱が届いていないなら、遊びにおいでと言われても、「うーん」と、身動きが取れない、それはわかる。
でも、情熱が届いたなら、「遊びにおいでね」「うん」の、それだけでいいんじゃないのか。
その先に、自己を決定する何かを待っていても、これは保証していい、絶対に何も来ないよ。
絶対に何も来ない。そりゃ、当たり前じゃないか。
来なくても、待ち続けるんです、ということなら、それはしょうがない、別の話だ。
誰にとっても、フェアに出来ることは、それぞれに与えられる顛末の、その結果に、決して後になってから不満を垂れないことだろう。
自業自得とか、自己責任とかの、話になるけれど、いやだね、そんなことで殺伐とするのは……
僕にとっては、「遊びにおいでね」「うん」という、情熱の届いた一つのやりとりで済む世界のほうがよほどいい。
そうでない世界を目指して何の利益があるのやら、僕にはわからないのだ。
一番ダサくて恥ずかしいのは、それぞれが齢を取っていったとき、
「お母さん。お母さんのときって、とにかく何も動かないで、情熱を取り逃して生きた時代なんでしょ? それって、すごく損だよね」
と娘に言われて、何も反論できない、というようなときだ。
と、僕は勝手に思っている。
娘が、
「わたしにはわかんないな。わたし、行くもの。遊びにおいで、って言われて、そこに情熱が届いちゃったらさ、わたし行くもの。情熱が、届かなかったら行かないよ? でも、ただそれだけのことじゃない。お母さんには悪いけど、わたしは今の時代に生まれてよかったって思う。わたし自身、情熱のない人間にはなりたくないし、自分の情熱が誰かに届かないなんて、そんな人間にはなりたくないって思うもの。時代って怖いね。そんなことがあるんだね。たぶん、今のわたしのことも、お母さんにはわからないんだよね。なんとなくわかるよ。だって、わたしも、お母さんのこと、自分の友達に紹介したくないもの。きっと、今も昔も、おかあさんは、情熱のことなんてわかってないよ。わかっているフリを、ずっとしてきたんでしょ」
と言い放ったとき、反論のしようがなくて、しかももう、どう言われても、「取り返しがつかない」という実感だけがのしかかってくるなんて……
そんなのはまっぴらごめんだ。
まっぴらごめんでありながら、でも、まだ見ぬ次の世代は、そうして烈しいまでの、まっすぐな強さと自信を、持つ時代だったらいいなと、これも心の底から思う。
若い人間は、すべからく、年長者なんぞバカにするべき存在だからだ。
楽しくなってきたねぇ。
怖くて震えるね。
というわけで、パーティ宣伝コラム、その5、おしまい。
パーティやるからね。
遊びに来てね。
九折
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[パーティへの誘い その5/了]