No.350 才能が必要なあなたへ、簡単に
危険なタイトルでお話ししています。どのように工夫しても、才能という語がそれ自体危険なのでやむを得ないことです。
才能という語は、それだけで、人を躍起にさせるところがあり、同時に、人を攻撃するところがありますから、しょうがありません。
そういったところは、気を穏やかにしていただいて、気にしない、という単純な方法でくぐりぬけることにしましょう。
話の本筋は、先の稿と変わりませんが、こちら側ではより簡単な説明の仕方をさせていただきます。
中には、ずいぶん年少の方も読まれるからです。どのような方にもわかりやすい、実際的な話が必要ですね。
では、まいりましょう。
***
まず、人間というのは、アイデンティティのためになら、パッと動きが取れるものです。
比べて、アイデンティティに関わらないことでは、なかなか動きが取れない。「やらなきゃ」と、頭ではわかっていても、どうしても動きが取りにくいものです。
これはアイデンティティの問題です。
そして、このアイデンティティの形成については、二つのタイプがあるのでした。
仮に、タイプAが、才能型のアイデンティティだとし、タイプBが、封建型のアイデンティティだったとしましょう。
封建型という言い方は、ここでは難しく聞こえてしまうかもしれませんので、ここではタイプAとタイプBという分け方で捉えていただいて結構です。本筋を理解するにはその捉え方で差し支えありません。
ここでは、最も分かりやすい例として、あなたが、
「歌って踊れるアイドルになりたい!」
と望んだとしましょう。
このときに、タイプAはどうするか。
タイプAは、ただちに、歌って踊る、ということをやり始めます。それこそ、真夜中にでも、部屋で一人でやり始め、そのまま何か月でも夢中になって一人でやり続けています。
その結果、才能がもしあれば、眠っていた才能が掘り出されてくるでしょう。「歌って踊る」ということが直接できるようになってゆきます。
タイプBはどうするか。
タイプBは、ただちに、歌って踊るアイドルの、オーディションを探し始めます。夜中にでも書類選考のための書類を作り始めます。明日にでもオーディションがあるとなれば、大慌てでそれっぽい洋服を仕入れ、明日の午後にはオーディション会場に駆けつけています。
その結果、適性がもしあれば、必要とされていたキャスティングに採用されていくでしょう。「アイドル」ということを現場でどんどんやることになってゆきます。
それがタイプAとタイプBの違いです。
同じような例を挙げてみましょう。
たとえば、目の前でダンサーの男性が、くるりと綺麗なターンをしてみせました。
それを見て、タイプAはどうするか。タイプAは、その場で直ちに、「何っ」と思い、即座に「自分もやりたい」と、そのターンを真似し始めます。実際にやってみると難しい。けれどもタイプAはそういった難しさにトライすることは慣れっこです。すぐ夢中になります。何時間でも、執拗に練習しますし、一週間経っても二週間経っても、何か月経っても、人知れず思い出してはくるくるとターンを練習しています。そのうちにやがて、タイプAは綺麗なターンができるようになります。「どこでそんなもの身に付けたの」「器用だね」「多才だね」「才能あるね」という扱いを受けます。
タイプBはどうするか。タイプBは、その場でターンを真似してみるものの、難しいね、ということで落ち着きます。そのまま夢中になるということはありません。ただ、その男性のダンサーが、「こういう教室やっているから」と名刺を取り出します。タイプBは、これを受け取って「何っ」と思います。こんな教室があるのか、ということに火が付きます。ここで「自分もやりたい」となります。その教室が少々遠くても、時間をかけて通い詰めることには慣れっこです。その教室が週に五日もあり、練習が厳しくても、へっちゃらで通い続けます。そのうちにやがて、タイプBは教室でよく知られた存在になります。「いつの間にそんなに入り込んだの」「ガッツがあるね」「活発だね」「エネルギッシュだね」という扱いを受けます。
このタイプAとタイプBは、どちらが良いとか悪いとかいうものではありません。ただ、それぞれのタイプに特徴が生じるので、その特徴を、誰しも自分において知っておいて損はないのです。
タイプAの場合、良い特徴は、くるりとターンする仕方を覚えるとしたら、それが本当に自分のものになるまで手放さず、いったん出来たとしても、それを延々磨き上げるというところです。完全に自分のものにしているね、というところまでやります。いわゆる自然体の雰囲気の中で、くるりとターンできるようになるまで、一人でえんえんそれを続けるのです。それは、努力という次元のものではなく、ただ当人にとって「気になってしょうがないから」、いつの間にかやり続けてしまっているということなのでした。このタイプAがえんえんやって身に付けたくるりとしたターンは、タイプBがみっちり習ったターンのそれより、脱力した流麗さにおいて勝ります。これがタイプAの良いところです。
タイプAの悪いところはどこでしょうか。それは、タイプAは、たとえば右向きのターンをやり始めたら、そればっかりで、左向きのターンはどうかというと、「それはまあいいや」と手を付けないところにあります。タイプAは、自分の目撃した「何っ」というそれを身に付けたいばかりで、そのジャンルを網羅したいという意欲をほとんど持っていません。タイプAは、そのときくるりとした右向きのターンができるようになりたいだけで、左向きのターンも含めた、ダンス動作を身に付けたいわけでもなければ、ダンスプレイヤーになりたいわけでもないのです。このため、タイプAはひたすら右向きのターンが綺麗になるばかりで、ダンスプレイヤーとして活躍はしませんし、活躍する場も得られません。ただ右向きのターンだけが異様に上手いだけで、その他の全域にはまったくツブシが利いていませんから、何かの役に立つということがないのです。これがタイプAの悪いところです。悪いところというよりは、不利なところと言うべきでしょうか。
タイプBの良いところはどこでしょうか。タイプBは、タイプAとは逆に、ターンと言えば右向きだけでなく左向きも、そしてその他のステップや上半身の表現や、筋力のトレーニングやジャンプ力の実現といったようなことも、全てに取り掛かるというところです。一つの演目をやりきるのに十のステップを覚えなくてはならないとしたら、その十のステップを猛烈な勢いで覚えていきます。そうして、先月教室に来たばっかりなのに、来月にはもう発表会の舞台に立つというふうに、活躍の場への到達が早くなります。これがタイプBの良いところです。短期間にでも、覚えなくてはならないこと、特訓せねばならないことには、人一倍の意欲で取り組んでいきますから、全体で活躍の場を成功させようというとき、よく役に立ってくれる、非常に頼もしい存在になります。
タイプBの悪いところはどこでしょうか。それは、右向きのターンなら右向きのターンで、早く身に付けたいと燃えるあまり、機械的な、力ずくの、流麗さに欠けるターンを、表面上覚えて通り過ぎてしまうところです。本当には自分のものにはなっておらず、それでもそのまま先に次のステップへ進んでいってしまいます。そうすると、活躍の場では活躍を誇るのですが、やがてどこかで頭打ちになり、行き詰ります。あるレベルからは肝心要となる、流麗さであるとか、いわゆる自然体であるとかが、まったく身に付いていないからです。これがタイプBの悪いところになります。やはり悪いところというよりは、不利なところと言うべきでしょうか。
さて、先の稿でお話ししたように、厳密な意味での「才能が必要なあなたへ」という意味では、やはりタイプAのほうが優れており、タイプBのほうが不利になると思います。たとえば先の、「歌って踊れるアイドルになりたい」ということで言えば、タイプBのほうは、歌って踊れるアイドル・グループがあったとして、そのセンター役を勝ち取るという方向においては強いでしょう。何しろガッツが違います。けれどもよくよく見ると、その才能は、「役を勝ち取る」という方に向かっており、厳密に見れば、それは歌って踊るという才能ではなく、役を勝ち取るための「競争の才能」と言うべきです。その点で、先の稿では、タイプBは歌って踊るということの本来的な才能に対しては、それを開花させない「キャップ」を自分に持ってしまう、とお話ししました。何しろ、本質的な才能を開花させなくても、センター役を勝ち取れてしまうからです。潜在意識で、才能の開花は要らないと判断しているところがあるのでした。キャップがされるというのは、フタがされてしまって芽が出なくなるという意味です。
一方でもちろん、タイプAのほうは、「歌って踊れるアイドルになりたい」ということであっても、その活躍ができる役を勝ち取るための競争にまず勝てないのです。何しろガッツが不足していますから。タイプAは、競争することより、根本的に歌って踊るということそのものへ入り込んでいってしまいますので、そのうち歌と踊りはますます詩的に、芸術的になっていってしまい、どんどんと競争にふさわしいそれから遠くなった、浮世離れしたものになっていってしまいます。こちらタイプAは、そうして本質的な才能が開花していく代わりに、単純に言えば「出世」の才能にキャップがされてしまいます。何しろ、本当にただ歌って踊るというだけのことなら、別に大舞台を用意してもらう必要はないからです。潜在意識で、出世は要らないと判断してしまっています。
ですからどちらも一長一短です。また、どちらをより本質的な「才能」と呼ぶかなどは、ほとんど人それぞれの価値観によって決定されるところでしょう。ただ、一般的に言うと、現代ではタイプAよりタイプBのほうがかなり数が多いようです。それで先の稿には、わざわざ言われるべきこととして、タイプAの優位性に焦点を当ててお話ししたのでした。
あなたも含めて、それぞれ誰もが、自分がタイプAであるのかタイプBであるのか、それもどの程度偏ってどちらのタイプであるのかを、知っておくに越したことはありません。もちろん、その両方を兼ね揃えているのがベストですし、集団性を持つ場合、集団の中でそれぞれの得意分野が分担されているほうが全体として有利になります。一方には、ガッツがあって、競争と出世に長けた者があり、他方には、すぐ夢中になり、芸術と流麗さに長けた者があって、それぞれが組み合わさるのが何よりでしょう。
タイプAとタイプBは、お互いのことを見て畏れ入るものです。タイプAから見ると、タイプBがどんどん前進していく、そのガッツの量と在り処が、わからなくて畏れ入るものです。逆にタイプBからタイプAを見ると、タイプAがどんどん物事を深めていく、その感性の奥行きが、わからなくて畏れ入るものです。お互いがお互いを見て、すごいなあ、と感嘆し、同時に、「どうせ自分にはできないことだ」と、悔しくやっかんでいるものです。タイプAはガッツと競争と出世が、タイプBは芸術と流麗さが、それぞれキャップされています。それぞれのタイプは、己のタイプの特徴と、その有利さを知って生かしていくと共に、己のタイプの不利なところを、何とか克服する努力をせねばなりません。そのとき、タイプAはタイプBの、またタイプBはタイプAの、とても重要な先生であり教師になるのでした。ですからタイプAとタイプBは決裂しているべきではないのです。いくらかのやっかみなどでそれぞれが決裂するのはお互いにとって重大すぎる損失になります。
これはアイデンティティに関わることだと申し上げました。人間は、自分のアイデンティティに関わることなら、パッと動けるものです。タイプAは、綺麗なターンを見ると「何っ」と思い、そのときから直ちに動き始めます。タイプBは、綺麗なターンを教える教室を見ると、「何っ」と思い、そのときから直ちに動き始めます。そうしてパッと動ける方向が、自分のアイデンティティ・タイプです。アイデンティティとは、「わたしは何者か」という自己感覚のことです。タイプAは、くるりとした綺麗なターンを見たとき、「自分にもそれができなくてはならない」と咄嗟に感じます。タイプBは、教室を持って活発な活動をしている人々を見たとき、「自分にもそれができなくてはならない」と咄嗟に感じます。咄嗟にそう感じるからこそ、人はそれぞれの方向にはパッと動けるのでした。
タイプAとタイプB、どちらに偏り切っていても、それだけで何とかなるわけでもありませんし、かといって、どちらにも偏っていないというのも、根本的な魅力に乏しいことになるでしょう。ですから、それぞれが大きな偏りを持ちながら、なお何とかして自分の活路を切り開いていくしかないのだと思います。何とかして、というのは、まったくその人限りの、ケースバイケースになるでしょう。
そうして、個々のケースバイケースがどのように成り立っていったかが、人それぞれの歩んだ道筋になり、それぞれの物語になるのだと思います。その道筋はきっと平坦でなく、険しい道ほどに、だからこそ物語も豊かになるのだと信じられます。
[才能が必要なあなたへ、簡単に/了]