No.353 フィクションは胴体の本能
フィクションは胴体の本能であって……
どうだ、この絶望的に人に伝わらない話は。
まあ別に、みんなおれのことが好きなのであって、おれの話が好きなわけではないのだから、いいだろう。
僕の話に耳を傾けて、解読しようとすることほど無為な鋭意はあるまい。
別にウソを話しているわけではないのだが、もうここのところ、話したってわかるわけあるかというような次元なのである。
さあだから、あなたも肩の力を抜いて……なにしろ書き話す僕の側が、肩に力を入れていないのだから、そちらだけ力を入れてもらっても何の足しにもならない。
膝の力も抜いてもらって、油断だらけの隙だらけになってもらいたい。女性は特に。
結局ヤリたいだけじゃないのかと言われたらそのとおりで、三十余年、そればかりでやってきた。
正確に言うなら、ただヤリたいだけではなく、タダでヤリたいのだという但し書きがつく。
全てのことに料金を払わずに済めばいいのに、と思っている。
そうしたらもう億万長者になる理由さえないのだ。
この豪邸ちょうだい、と言えばそれだけでもらえるという、非常に手軽なキャッシュレスの時代がやってくる。
僕は頭がおかしくなってこの話をしているのではない。
タイトルにちゃんと、「フィクションは胴体の本能」と書いてあるはずだ。
タダでヤリたいとか、タダでヤラせてほしいというのは、カネ払っちゃうとリアルになっちゃうでしょ? ということなのだ。
もちろんここに至るまでの数行には何の意味もないし何らの文学的滋養もない。
まあでも、フィクションが胴体の本能であることは事実なのだ。シャレにならんぐらい、科学的な事実である。
この指摘はひょっとすると、明確な指摘としては、人類史上まだ為されていないものかもしれない。
とすれば、僕はこの偉大な発見をもって、人類史に名が残るだろう。やったね。別にうれしくはないけどね。
ただまあ、人類史といっても、人類もさすがにそこまでヒマではないかもしれない。もし人類史に僕の名が残らなかったとしたら、それは日本という国が悪いということにしておこう。
おばさんたちがいつもプラカードと共に叫んでいるように、国というのは常に悪いのだ。いくらでも悪しざまに言い、全てを国のせいになすりつけてかまわない。
なぜフィクションは胴体の本能なのかというとこうだ。まずそもそも、ウソとフィクションの境はどこにあるのか? ということになる。
僕ほどの天才になると全ての物事の本質が一撃でわかるものだが、ウソというのはだ、自我に関わることで、「自我をあざむく」ということによって生じている。
だからその証拠に、生まれたての赤子にウソをつくことはできないし、イヌやネコややハダカカメガイに対してウソをつくことはできない。
人間は「すごくきれいなシジミね」といって買って帰ったシジミを容赦なく熱湯に放りこむものだが、それについてシジミの側から「わたしのこときれいって言ったじゃない、あれはウソだったの?」と難詰されることはない。
生まれたての赤子に対して「1+1は、無限大!」と教えたって、それで赤子に対してウソをついたことにはならない。赤子の側から、「否、+1という概念は数直線上の一単位を前進することを意味しており……」という反論はされない。
こうして説明することで、話はよりわかりづらくなったのだが、これは僕が話す上ではしょうがないだろう。わかりやすく適切な話を聞きたい場合はもっと他の人をあたることだ。
とにかく意識というのは「自我をあざむく」ということによって生じているのだから、確たる自我の無いものに対してはそもそもウソをつくということ自体ができない。マンホールのフタに「○○は安全です」というウソを教え込むことはできないし、エリンギの石づきに「このシャンプーは儲かりますよ」というウソもつけないのだ。
対してフィクションとは何であるのか? たとえば「桃太郎」の話などがそうだ。「むかーしむかし、あるところに……」という語り出しから始まる桃太郎の話は、ほぼ確実に現実の話ではないが、そのことについて目くじらを立てる人はいない。それは「お話」だという約束が社会的に為されているからだ。社会的な約束の上、「桃太郎」という「お話」は、何ら自我をあざむきにかかっているわけではないから、それはウソだとはみなされない。
ただ人間は、それでも胸をドキドキさせたりするものなのだ。たとえ「お話」だといっても、胸がドキドキすることもあるし、腹が立つこともあるし、肝が冷えることもある。
このようなことは、構造的にどう発生しているのか。それは、人間が一まとまりの情報を受け取るとして、頭・顔面には自我があるが、胴体にはそもそも自我がない、ということによって発生している。
B&Wのスピーカーの前で裸で音楽を聴くことには意味があるが、喫茶店で裸で日経新聞を読むことには意味はないのだ。フィクションは胴体で感じるものだが、新聞にフィクションを書きこめば「ウソ」になってしまう。新聞は自我で読むものだ。
シャープ社の液晶テレビが敵戦闘機を七万五千機撃墜! というような記事を一面に出すと、それは「ウソを書くな」と扱われてしまう。
社会的な約束の上で、新聞記事はフィクションではないという約束がされているからだ。
これ以上わかりづらい説明もないだろうということで、今僕は心の底から誇らしい気分でいる。
それもこれも、タダでヤラせてもらうためには致し方ないことなのだった。
新聞記者にタダでやらせてあげる女の子なんて世界中どこにもいないだろう。
自分がタダでヤラせてあげたことなど新聞で報道されたらたまったものではないからだ。
それよりはまだ、僕が「あのコは天使だった、いや女神か」と偽名で言いふらすほうがマシだと言えるだろう。
そんなわけで、銀座のホステスさんが言う「ウチの猫ちゃんだけはワタシにウソをつかないの」が真実なのではなくて、本当には人間の側が猫にウソをつけないのであり、それはそもそも猫の側にはウソの機能がないということなのだった。
ひょっとしたら、猫にはフィクションの機能はあるかもしれない。
明らかに獲物ではない猫じゃらしにだって、胸を躍らせて飛びついてくるからだ。
新聞記者の前に猫じゃらしを振り回しても新聞記者は飛びついてこないだろう。
だからどちらが高等生物かは言わずもがな一目瞭然と言える。どちらが、とはあえて明記しないで想像に任せておこう。たぶんあなたが撫でたくなるほうがかわいいほうで、かわいいほうが高等である。
そもそも高村光太郎さえ指摘したように、「遊ぶ」ということ自体が高等生物のすることなのである。たとえば最も下等と思われるバクテリオファージなどは日々ひたすら自己の複製と繁栄・拡大にばかり執心しており、遊ぶという余地を持たない。
「もしかすると生まれたのは遊びをするためなのかもしれない」という名言もあるし、高等な生物こそ遊ぶものだ。まじめに言えば梁塵秘抄にも同じことが書かれている。あの哲学者カントでさえ、「酒は人の素直さを運ぶ物質、ウヒヒヒ」と粋なことを述べている。
胸が躍らないヤツというのは何なのだろう……そんなヤツは半透明の袋に入れて火曜日の朝に集積所だ。だいたい博物学的に見れば胸が躍らないヤツというのは分類上ではコウガイビルとかそのあたりに分類される。どれだけ意識を高くして髪型とモバイル機器を最新にしても胸が躍らなければ分類上はコウガイビルだ。不意に道路に現れて人をビビらせるのである。
猫だって猫じゃらしが揺れるのを見ると胸が躍って飛びついてしまう。僕だってレディが目の前に揺れていたら飛びついてしまうが、それは胸が躍ってしまうからだ。美女はつまり男じゃらしのようなもので、それに飛びつくなと言われても生物学上の無理がある。
胸が躍らないヤツというのは一体何なんだまったく。大至急、メイウェザーに素手で殴られるアルバイトに就職するべきだ。
そろそろあなたの自我もいい具合にやる気をなくしてきただろうか。宣言したとおり、僕の話を読み解こうとする鋭意は何の役にも立たない。それは箱根で水風呂に入るぐらいの無為といえる。
胴体にはそもそも自我がない。だから胴体に対してウソをつくということは不可能だ。たとえば映画を観て胸を打たれたり嗚咽したり腹を立てて嘆いたりすることがある。それはあくまで映画なので自我から見ればウソ話だが胴体としては何もウソではない。胴体の覚えることにウソはない。こうして頭・顔面の自我と胴体の体験が矛盾して起こることを、人類は文化として「フィクション」と呼び認めているのだ。
思えばどうか、マンガであれアニメであれ、映画であれ小説であれ、寓話であれその他○話であれ、人類の文化はフィクションまみれである。なぜ人類の文化はこぞって人間が子供のうちにフィクションの絵本を読み聞かせようとしてしまうのか? それは人間が年を取るとすぐにバカになってしまうことを経験からよく知っているからだ。フィクションがフィクションのまま胴体に流れ込むうちにと、子供のうちに佳いフィクションの絵本を読み聞かせて子供の胴体を育てようとしているのだ。自我が育ってしまうとだいたいダメである。自我はだいたいバカに育つので、バカに育った自我はフィクションを捉える胴体の能力を阻害してしまう。自我はえんえんと「だって……」と言い続けることにしか機能しない。そうなるともう彼の仕事はメイウェザーに殴られて土日は東京湾を遠泳してクラゲに刺されるぐらいしかなくなる。そうなる前にフィクションの効用を胴体に流し込んでやったほうがよいのだ。
もちろん人間には自我だって必要だ。自我が正しく機能していなければ、就職活動の面接に西部劇のガンマン・ファッションで現れてしまい、そうなるとそこからは自己PRも難しくなってしまう。あるいは自衛隊に入隊した少年は真っ先に与えられた手榴弾のピンを「どれどれ」といって抜いてしまうだろう。そうなると生活が困難になる。
最もバカな人間とはどのようなものだろうか? それはきっと、車内で助手席の女性にマジメな話をし、一方では車間距離を取らず車線変更するときに適切なウィンカーを出さない人間だ。これは困る。正しくは、助手席の女性には「お前はおれに奉仕するために生まれてきた」「はい」と会話をし、一方で車間距離を取ってウィンカーを適切に出して安全にハイウェイを走行するようでなくてはならない。フィクションとノンフィクションをあべこべにしている人間が一番バカだと言える。ハイウェイで操作ミスをしたら爆死するというのはノンフィクションで悲惨なのだ。一方、助手席の女がおれに奉仕するために生まれてきたと思いこまされて胸がドキドキしたとしてもそんなことは何の悲惨さも生み出さない。
だいたい人間は年を取るほどに自我をバカに育て、その自我のバカに邪魔されるので胴体のほうもアホになる。そうなると車内でクソマジメな話をして一方で車間距離も車線変更も危なっかしいというあべこべになる。このあべこべが特にひどくなってしまって回復不能になった状態を○人という。○の中には好きな字を入れるように。これは僕が悪口を言っているのではない。悪口を言っているとしたらそれは○の中に不穏な字を入れたあなた自身だ。僕は生まれて一度も人の悪口なんか言ったことがないので安心していい。
フィクションが胴体の本能であるように、ノンフィクションもまた頭・顔面の本能だ。それぞれの本能を正しく生かしてやらねばならない。それぞれの本能において、フィクションは胴体を熱くし、ノンフィクションは頭・顔面を涼しくする。これが一番正しい。キングバカはこれの正反対をすると言えよう。つまり頭をカーッと熱くして胴体をハーゲンダッツのように冷え冷えにする。それは使い方が間違っておりやはりバカがすることだ。キンキンに冷やした唐揚げでアツアツにぬくめたビールを飲むようなアホだ。それで「おいしい」とか「充実」とか言っているヤツは確実にウソである。同情してカタログから墓石を勧めてやるべきだ。
急転直下でいきなり本格的なことを言うと、フィクションが胴体の本能というのは人類史上において巨大な発見の一つであり、人間の生き方をまるまる変えてしまうおそろしい真実を含んでいる。フィクションが胴体の本能ということは、言い換えれば、フィクションなしには人間の胴体は正しく動かないということなのだ。胴体が動かない。このことによって人間の「どんくさい」というタイプが生成している。
料理を作るにせよ男性と寝るにせよ、歌うにせよ踊るにせよ、あるい人と話すにせよ、全ては胴体の動きなしには不可能なことだ。人と手をつなぐのだって胴体のことで、顔面で人と手をつなぐことはできない。これら胴体を使って営む全てのことがヘタクソで危なっかしい人のことを一般に「どんくさい」という。それがただどんくさいというだけならゴキゲンでかわいらしいものだが、実際にはそうではない。人から人へ、自分から誰かへ、コミュニケーションができない、通じない、ということが出てくる。人生を天空からハンマーで叩き割るのがこれだ。胴体でするあらゆる「営み」がうまくできない。そうなると月曜日から金曜日は悲惨であり、土日はびっくりするぐらいヒマになってしまう。
じゃあ土日を忙しくすればそれでいいのかというと、むろんそうではなくて、土日を外出やイベントに忙しくしたって、その外出先で内心ヒマでしょうがないということがありうる。別に外出したからといって何をしたということにもならないし、知人と二時間飲んだからといって何をしたことにもならない。SNSに大量の充実画像を上げたからといって本当に充実しているとは限らない。中には自分の内心のヒマぶりを画像で自白してしまっているケースさえある。また同様に、どれだけ笑顔とナイス髪型で出勤したとしても、内心では月曜日から金曜日までやはり悲惨ですというケースだってあるだろう。そういうケース例を聞かされると、僕だって考えさせられ、鼻をほじる手が止まってしまう。
唯一の解決策としては、「自由、ライブ、サーロイン、フィクション」と唱え続けるしかない。こんなもの僕は唱えたことはないが、たぶん何かいいことがあるだろう。
フィクションは胴体の本能だ。だからフィクションなしには胴体は動かない。これは、頭のいい人ならわかると思うが、とんでもない空前絶後の大発見だ。
「巨人の星」を読んで、胸を打たれて、野球を始める、という手続きでないと、人間の胴体は動かないのだ。たとえ野球に向けてであっても。「巨人の星になるんだ」というフィクションを掴んでいないと、人間の胴体は動いてくれない。
フィクションが胴体の本能だからだ。
そんなわけあるか、と思うか?
でもあなたは本当に、セックスのときにそんなに胴体が動いている自信があるだろうか。
野球の場合、野球という競技空間そのものにあるフィクションを捉えられたらそれでいいのだが、そのことの説明は難しくなる。
説明はこうだ。ホームランを打ったら偉いというのは、あくまで競技空間におけるフィクションであって、選手はその身体文化の空間に生を見出しているのだが、このことが最近は見失われがちだ。野球選手の年俸を知ることはノンフィクションであり、野球空間の文化を逸脱する。
だからそういう人間の胴体はどんどん動かなくなっているだろう。
人間の頭・顔面には自我があり、自我は思念を生む。その思念において人はそれぞれ、「何かしなきゃ」と思う。たとえば「何かスボーツぐらいしなきゃ」と思う。その中には「野球部に入ろう」という思念へたどり着く人だっていておかしくないし、社会人ならそれがジョギングやフットサルになってもいいだろう。現代ではボルダリングだろうか。彼はその思念において、「やるからには頑張ろう」「結果を出さないと意味ないしね」と思う。身体鍛えなきゃ、という健康上のこともモチベーションの足しにする。自我はますます思念を強くする。
でもその思念によっては、実は身体は動かない。「がんばらなきゃ」とは頭では思う。人によってはそれをとても強く思う。自分で自分に鞭を打つように、叱りつけてでもそれを自分にやらせようとする。でも身体は動かない。科学的に「動かん」のだ。一時的に、数回は動けても、そんな無理はやはり続かない。怖い先輩や厳しいチーム、あるいは怖い先生に強制されてでしか動けない。
それで強制されて、何かが身に付けばまだよいけれども、結局何も身に付かなかったということもよくある。がんばって動いたはずが、活躍はできなかった。身体が動かなければ根っこは「へたくそ」のままだ。がんばった結果、身体をむしろ傷めてしまったし、がんばってから以降、何か自分が生きるのがつまらなくなった。自分の中の何かが粗暴になり、熱がむしろなくなってしまった。多くの人がこのことに心当たりがあるはずだ。自分のことではなかったとしても。
多くの人が実のところ、「やらなきゃ」という思念のカタマリで、「でも動けない」という事実のカタマリで、「無理してたの」という思い入れのカタマリになり、さらに「でも何にもならかった」という結果のカタマリになっていく、そういうことがあるのではなかろうか。
そうなるのは当たり前なんだよという科学の話を今している。
ここから先の話は、一括払いでお振込みいただいた後、ということにしたいのだが、今回はめんどうくさいので特別に話してしまおう。出世払いでいいので、後々ちゃんと僕にサービス換算で数百万円相当を支払ってくれたらいい。女性限定で……男は仰天鼻毛抜きパフォーマンスで近所のババアを笑わせればいい。
簡単にいえば、あなたがマジになればなるほど、身体は動かないのだ。胴体は何も感じなくなり、胴体はまるで動かなくなる。なぜなら「マジ」は自我の機能であり、頭・顔面の機能だからだ。頭・顔面の本能をオンにして、胴体の本能をオフにしたら、胴体が動いてくれるわけがない。「フィクション」の反対が「マジ」だ。人はマジになればなるほど、フィクションから遠ざかる。だから身は動かず、何かが身になるとか身につくとかいうことがなくなる。
頭がカーッとなり、顔面が大マジになった人を見たまえ。何かになる、わけがない。頭をカーッとさせて顔面が大マジになっている人間のサンプルは、たとえば近所の夫婦喧嘩を覗きこめばわかる。双方とも大マジのノンフィクションだ。ママは選択的に一番安い皿からパパに投げつけるだろう。パパは部長にもらったゴルフクラブでディフェンスをする。あるいは遺産相続の場などを覗かせてもらえばいい。みんな大マジのノンフィクションだ。ただしもちろん、自分が参戦する場合は遺産相続には大勝利するように。躊躇なんてヒマなことをしていてはいけない。自分が生涯に食べるハンバーグの量を減らしてはならない。人生の価値がなくなる。
あなたが舞台上にすばらしいパフォーマンスを見たとする。その終幕直後、あなたは客席で何をするだろうか。決まっている、最大限の拍手を打ち鳴らすはずだ。一方、会社帰りで疲れ切ったおじさんが健康診断で死にかけの判定をもらったよということについてはあなたは拍手を打ち鳴らさない。なぜか? それは会社帰りの疲労と健康診断の死にかけ報告はマジのことであって自我の捉えるところだからだ。だから大変なことだとは理解しつつも、身体のほうは動かない。拍手は出ない。比べて舞台上のパフォーマンスに熱烈な拍手を贈るのは、舞台上のことがフィクションだからだ。フィクションだから身体が動く。自分で区別してそうしているのではなく、「フィクションだから身体が動く」のである。フィクションは胴体の本能だから、胴体が自律的に動いて拍手することを選択している。
自由、ライブ、サーロイン、フィクション!
パチパチパチ……!
なぜ僕がこんな大仰なことを一人勝手に話しているかというと、僕の場合、自我が伊勢丹で買ってきた飾り物であり、まともに機能していないからだ。「やらなきゃ」という思念が生まれてこの方無いのである。だからこそわかることがある。思念で身体は動かない。そして思念はなくてもフィクションは掴める。フィクションを掴めば身体は動く。身体が動いて何かを身に付けるというのは、胴体の機能であって自我の機能ではない。僕の自我は向井理のようなイケメンになりたいということで固着しているし、「そうならなきゃ」ということで固着しているのだが、まったくそのようにはならないので、自我は物事の実現に無力ということが証明されているだろう。
フィクションは他の人間を置き去りにする。当人をさえ置き去りにすると言っていい。そのことは何も難しくない。フィクションは胴体の本能なので、胴体が自律的に動く。そうすると自我はついてこられない。舞台上の人間はフィクション世界を形成し、フィクション世界の流れに応じて胴体から自律的に動いているが、それによって当人の自我および観客らの自我を置き去りにしている。全ての自我は置き去りにされて胴体から胴体へ接続しコミュニケートが起こっているのだ。もしそこに自我を参入させるなら、「舞台上の役者らはさっき楽屋で昼食の弁当を食ったろうな」と見えるはずだ。「そのときの弁当は一人前四〇〇円ぐらいかな?」ということになる。それがノンフィクションで捉えた舞台と観客の関係になる。これは根こそぎつまらないので、客席に座る代わりに八月の海砂を吸い上げるキツいアルバイトに連れていかれるべきだ。
こんなことは、よくよく見れば本当は何も難しいことではないのだ。たとえば胴体というと、ダンス・パフォーマーなどは集中的に身体を動かす演者である。身体を動かすといって、工事現場のおじさんを集めて力技を見せてもらってもそれはダンス・パフォーマンスということにはならない。舞台上のダンスはフィクションの動きでなくてはならない。足の裏が猛烈に痒いからといって突然足の裏を掻き始めたらそれはノンフィクションでありダンス・パフォーマンスではなくなるだろう。「白鳥の湖が観たい!」という子供を連れて実際にロシアのナントカスクの湖に連れて行ってビュゴーと風雪の吹きすさぶ中に立たせたら、「お母さん、そういうことじゃないの」という話になるだろう。「このハクチョウさんは、夏期にはさらに北極圏にいるのよ?」と教えても、やはり「お母さん、そういうことじゃないの」ということになる。子供はナントカスクの湖でお母さんのするノンフィクションの解説に拍手をするところがない。
ダンス・パフォーマンスをする演者は、だいたい音楽と共に踊るのだから、その音楽に描きだされているフィクション世界を「掴んで」いないといけない。だいたいそんなことを言われそうだと誰だって想像がつくだろう。「音楽をよく聞いて」「音楽をよく捉えて」と言われそうだ。これは正確には「音楽の描き出すフィクション世界をよく捉えて」ということになる。そのフィクションが胴体に流れ込んで胴体が自律的に動かなければダンスにはならない。
もしそこのところで、自我で身体を――自律的にではなく"意図的"に――操作するようにすれば、それは途端にアバンチュール商店街のガラス張り路面店でやられているオバチャンのEXエアロビクス体操と変わらないものになってしまう。それは割と冗談でなくそうなる。またそれに合わせて観客が自我操作から拍手をするようだと、突然関係ないがアメリカの空母が「もう人間がイヤ」といって海に沈むだろう。それぐらいやってはよろしくないことだ。ダンスの動きというのは自我ではなく胴体の感覚自律による動きであり、それは自由の動き、ライブの動き、サーロインの動き、そしてフィクションの動きだ。
別にそういった特殊な芸事に限らず、人間にとって何かをするということは必ず胴体で何かをするわけだから、その挙動のいちいちは必ず何かしらのフィクションに根差していなくてはならない。たとえば「いただきます」と手を合わせる挙動だってそうだし、「こんにちは」と言って人に頭を下げる挙動だってそうだ。胴体が挙動するとき、その背後にフィクションの接続がなければ身体は自律的には動いていない。この場合のフィクションは「文化」だ。文明はノンフィクションだが文化はあくまでフィクションに留まる。文明が日本刀を生み出したとして、日本刀で人を叩っ斬るのは文化なしにチンパンジーでも可能なことだが、人を叩っ斬る前に一礼するということは文化なしにはできないことだ。だから文明はノンフィクションだが文化はフィクションだと言える。フィクションは自我的には「ウソ」としか捉えられていないから、自我的には文化はどうでもいいように思えるかもしれないが、人類は実際には文化を軽視しておらず、コストを掛けてでも保存し継続しようとしている。それは文化がなくなれば胴体が動かなくなることを心のどこかで知っているからだ。拍手も握手も合掌も文化だし、揖拝も礼拝も文化だ。文化がなくなれば胴体はその自律的な動きを失う。たとえばクリスチャンでない我々が胸の前で十字を切っても、本当にそれらしいものには見えない。それは胴体が文化に接続しておらず、胴体が自律的に動いていないからだ。どれだけ頭の中でクリスチャンの動きを模倣してもそれはまったく違ったものに見える。われわれから外国人の「おじぎ」を見たとき、「お父さんが町長さんに向けるおじぎと何か違うなあ」と見えるのは、それが文化に接続しておらず胴体の自律的な動きではないからだ。自我で頭を下げるのは簡単な動作だが、それはフィクションに接続して胴体が「動く」という現象とは性質が異なる。
これまでに人類の文化は無数のフィクションを作りだしてきただろう。その中では特に男女の仲に関わるフィクションが多かっただろうが、それは人類の特に男のスケベが何としても男女の仲において胴体を動かしたかったのだろうということに由来する。フィクションに接続しなければ人間の胴体は動かない。繰り返し、フィクションが胴体の本能だからだ。本能の受信なしに胴体は動かない。そして胴体が動かなければ男性はベッドの上でカッコ悪い。自我で動かせばエアロビクス体操の動きになり「感じない」「ヘタクソ、アルバイトに行け」と言われてしまう。「電動モーターのアレのほうがいい」と言われてしまう。
もしフィクションを取り外したら、ベッドの上で男性がするあの動きは空前絶後のアホ動作ということになってしまう。動物の場合はそもそも確たる自我がないのでフィクションがなくても胴体は動いてくれるのだが、人間の場合はそうはいかない。人類史上、男どもは、「犬にできることがなぜおれにできないんだ母さん」ということを解決するために、ベッドの上で胴体からあの動きができるように無数の男女仲のフィクションを作りだした。男尊女卑のようなフィクションもその一つである。誰も心の底から男が偉くて女か卑しいなんて思っていない。ただそうとでもフィクションを掴まなければ男性の腰は動いてくれないのだ。またそうとでもフィクションを掴まなければお父さんは毎朝お母さんのために稼ぎに出られないのである。
だからお父さんに向けてはいつでも、
「男でしょ」
という言いつけが有効になる。それをいくらノンフィクションだからといって、
「XY染色体でしょ」
という言いつけにしてしまっては、それはお父さんへの励ましにはならない。ノンフィクションで通勤には出られないのだ。あくまで「男でしょ」というフィクションがあるから、お父さんは毎朝出かけて電車に乗っていけるのだし、取引先の鼻毛部長にも心から頭を下げられるのだ。
フィクションというのは一個のストーリーだと言ってもいい。ストーリーだが、いやこの話はやめておこう。ストーリーと言えば今度はまたストーリーとは何かということに誤解が出るのだ。ストーリーの流れが胴体で掴まれないとそれはどうせストーリーにはならない。胸がドキドキしたり胸が締め付けられたり許し難く腹が立ったりしないかぎりはストーリーではない。
ここに話しているのはシンプルで本来誤解のしようのないことだが、そもそもが自我で捉えられた場合は全てのことが誤解にしかならない。誤解というのはたとえば男性が、「わたしスポーツマンタイプが好きよ」と女が口走ったことを鵜呑みにする、というようなことだ。そういう誤解をする人はいっそ誤解のプロみたいなものなので、素人ではその誤解はストップのしようがない。「ラウンジの夜景にスカイツリーが見えていたらロマンチックでっしゃろ!」ということを「なるほど!」と心の底から信じてしまうような誤解のプロだ。素人が太刀打ちできるものではない。
「もののあはれ」を提唱したのは江戸後期の国学者である本居宣長だが、そのこととは特に関係なく、自分の観た映画や読んだ小説について真っ先に意見やコメントやレビューを発したがる人は自我が強いタイプだと一般に言われている。自我の強い人にとってはフィクションはそのままフィクションとは受け取られずに一種の「ウソ」だと捉えられている。フィクションが自我に受け取られたら当然そうなる。映画も小説もウソ話であるには違いないのだから。自我の強い人はその文化的に生み出されている数々にウソ話について、「空想だ」という捉え方をしている。そして良作や名作というのは「出来のよい空想」「よく楽しみうる空想」のことだと捉えている。だから彼にとってはよいストーリーというのも「出来の良い空想の筋書」というふうに捉えられている。彼はおそらく「イメージ」を重視するが、彼にとってイメージとは空想であり、彼は空想と想像力は「同じものでしょ、基本」と思っている。彼にとっては「強く思う」ということがイコール「強く感じる」ということだと思われている。すべてのことは彼の頭と顔面に起こっており、胴体のほうは四十年前に閉館した映画館のように静まり返っている。だから彼は「感動した!」と強くコメントして直後にぐっすり眠るのだ。彼には胸が高鳴って眠れない夜というのがない。
フィクションとはウソ話ではなく胴体における体験の事実なのだが、ごくまれに、フィクションを胴体の事実として受け取れないぐっすりボディの人が存在すると言われている。割合として一億人に二人ぐらいは発生すると言われている。それはモスバーガーでビッグマックを注文するぐらいまれな現象だが、ごくまれにはやはり発生するらしい。今ではモスバーガーでビッグマックを注文する人が一般に「意識高い系」と言われている。前世占いができる人によると、そういう人は前世で何かの偶然で頭部がマルチプルタイタンパーに接触したためにそのような気質になったということらしい。前世のことなら誰にとってもしょうがないことだろう。
マルチプルタイタンパーとは線路の葺石を突き固める重機のことだ。
ここでは意識が高いとか低いとかいうことはまったく何の関係もないことなので、まったく無駄に紙面を費やしたといえる。フィクションは胴体の本能であり、また胴体の本能はフィクションにあるともいえるから、「フィクションなしでは胴体は動かない」という事実が生じる。この事実の発見しづらさは、高級かまぼこには板がついているということのように発見しづらい。胴体が動かないということはありとあらゆる営みが為せないということだ。
フィクションなしに営みを為そうとすると? 表面上だけ取り繕っても、全ての営みに醍醐味がなくなる。
全ての営みは本来、胴体から胴体へ交わされ、交歓され、かつ、あるとすれば自我は置き去りにされて進行するのだ。自由、ライブ、サーロイン、フィクション! と言って、僕が美女のおっぱいを触る。すると美女のほうから抱き着いてきてくれる。このことは割とマジだ。マジでそういうことはよくある。使いこなせればだが……。そのとき美女のおっぱいはタダになる。そうしたら自我はついてこられないだろう。自我は置き去りにされる。自我が置き去りにされると、もちろん意識も置き去りにされ、ひいては意識高い系も置き去りにされる。指をくわえて見ているしかなくなる。すると「君なんで急にフェラチオの練習してるの?」と言われる。彼は傷つくし、彼が傷つくと彼のお母さんが手当てに忙しくなる。マルチプルタイタンパーはそのような罪も帯びているのだ。
よくよく考えてもらえばわかるのだが、何度も言うように自我というのは「マジ」の機能だ。利権をもらわんとウチの情報は教えんさね! というぐらいの「マジ」の機能だ。
その「マジ」の機能が活性化して、男が「おっぱい」「おまんこ」「女が……」と言い出したら、それは気味が悪いし、おっそろしくコワイのではないだろうか。そんなことにそんなにマジになられても、と思うだろう。
だから、神聖なる美女のおっぱいを希求するにしても、そのときの胴体の動きは、
――自由、ライブ、(えーっと、失礼します)、サーロイン、フィクション!
というふうにフィクションの文脈に流れ込んでいないといけない。
自分で説明していてわかるが、こんなもの無理に決まっている。
僕などは自我が伊勢丹で買ってきた飾り物だから、最大限に意識を高くしてもこんな支離滅裂な話になってしまうのだ。申し訳ない。小学校の通知簿にも長年「ちゃんとしましょう」と書かれていた。 急にやる気がなくなったので急に話をやめてしまうが、とにかく人間の営みとはすべて胴体でやるものであり、胴体で自我を置き去りに進んでいくからこそ醍醐味があるのだ。そして胴体というのは訓練されて本気を出すと実はすさまじく精密な動きをする。精密で、かつ、ことごとく有効な動きをする。
さらに言えば、営みの本質が胴体の交歓にあるのみならず、いわゆる「心」というのも実は胴体のほうにある。「心」は胴体の現象なのだ。まあ、心臓、という臓器が胸にあるのだから当たり前ではあるが。その当たり前のことがわかりづらくなるのは、胴体に起こるすべては「流れ」を伴って起こるからだ。自我はその「流れ」を認識はできない。ほーらますますわかりづらくなった。話を終わろう。胴体に流れがあってたとえば呼吸が流れるから声が流れるようになる。一方、流れていない声は自我に届くので「なーんか、頭にくる」となる。胴体から出た声は胴体に届くが、頭から出た声は頭に届く。そういう仕組みだ。だから頭と頭でおしゃべりしても「醍醐味がない」ということになる。自我が置き去りにされるどころか、自我が過熱して胴体と心のほうが置き去りにされてしまう。それは「心無い」営みになってしまう。
かといって、胴体で話すとか、流れで挙動するとかいうことは、普通に考えて無理なので、せいぜい提唱としては、自由、ライブ、サーロイン、フィクション、というぐらいになる。
心および営みの本質は、胴体にあるということ、これはまだわかりやすいかもしれない。あくまで理解はしうるというだけでも、受け取られやすいかもしれないと思った。
でもそれだけではどうしようもなくて、重大な手がかりはこれだった。胴体の本能は「フィクション」なのだということ。胴体から動けといっても、フィクションがなければ胴体は動かない。このことが大事なのだ。これを自由ライブのサーロイン原理という。胴体がなぜ自律的に動くか? それは何かしらの「フィクション」を捉えているからなのだ。
フィクションの否定は文化の否定だ。食物を箸で食べた時点からもう文化を否定することはできない。ノンフィクションなら「手で食っても同じ」だ。そんなことは初めから判りきっているので……
あなたの箸はなぜ動いている? 面倒くさがりのあなたは、なぜ指先で箸を操るなどという面倒くさいことをすっかり身に付けているのだろう?
フィクションが胴体の本能だからだ。
おしまい。
[フィクションは胴体の本能/了]