No.356 人気者のテーマ!
人間が生きていくには様々な困難がある。
が、そんなことはさておき……
「人気者」になることで、ほとんどのことは解決するじゃん? という事実もある。
多くの人の煩悶、苦悩、悲嘆や焦燥も、事実として人気者になってしまえば別にまあ……ということがある。
だから、何もかもすっ飛ばして、人気者になってしまうという手もあるのだ。
人気者といっても、アイドル稼業でもしていない限りは、別に超人気者になる必要はない。
人気者になるといっても、別に「人気取り」というような、いかがわしいことはしなくていい。
ただ、人気者になってしまえばいいのだ。
ひょいひょいと、そうなってしまえば、生きることなんて楽勝だ。
そしてそんなことは、たいして難しくない。
難しく考えるようでは人気者失格だ。
最善を尽くしたまえ、さっさと。
どうもこの日本には、「人気者」ということを悪く捉える向きがある。
わからないでもないが、かといって「むつかしい根暗者」ということになるともっと目も当てられないぐらいひどいじゃないか。
そんなむつかしいことになるぐらいなら、土台、人気者ですね、ということでやっていったほうがいい。
どうせむつかしいことにしてみても、大した利益が得られるわけでもないのだしね。
人気者になるための秘訣は、第一に、「人気者っていいねえ」と宣言することだ。
そうしたら扉が開く。
なんてカンタンな扉なんだ……
一方、一部のむつかしい人が言いたいこともわかる。
人気があるということと、愛されるということは違う、と言いたいのだろう。
それはすごくわかるし、まったくその通りだと思う。
が、別にいいじゃないか。別に愛されなくても……
というのは、人によってはシャレにならない、そういう状況があるのかもしれない。
でもまあ、一般論として、愛されようなどという重〜いテーマをぶら下げて歩くのはあまり健全ではないし、賢明な方法でもない。
賢明さで言えばやはり、「人気者っていいねえ」と素直に明るく憧れているのが一番だ。
それでも、時と場合によって、人気者になれないとか、なりにくいとかいう場合もあるだろう。
その場合は、次点として、
「人気者っていいなあ」
と、指をくわえてうらやましがっているというのがいい。
決して、
「わたしも人気者になりたいです」
とか、悲愴な感じになってはならない。
「でもわたしには無理だと思います、自分でわかるんです」
とか、それはまったくそのとおり……かもしれないが、そんな悲愴なことを公共の場にブチまけてはいけないし、むろん自室のベッドに涙と共にブチまけてもいけない。
人気者は、基本的にイイものであるに決まっているし、そんな単純なことにまで悲愴感を持ち込んでいたらキリがない。
どんなに哲学を勉強しても、カントやデカルトやヘーゲルが、人気者というようなテーマで悲愴になっているシーンは見つけられない。
だからまあ、人気者というのは、人気者というだけでグッドなのだ。とてもイイのだ。
そして人間が、そうして無条件でイイものを目指すのは当たり前のことで、疑念の余地のないことだ。
間違っても、人気者ということを、斜に構えて批判的に捉えるとか、そんな愚かなことをしてはいけない。
それは自分の生きる時間を墨汁で塗りつぶして黒ペンキでコーティングするような愚かさだ。
人気者の定義とは何か?
そんなもの、自分が生きているうち、誰か一人でも自分のことをよろこんでくれたら、それで「人気者」を自認していい。
あ、「人気者」を、主張してはいかんよ。主張されたら困る。周りのみんなが困り果てる。
そんなこと、別に主張する必要もなく、また証明する必要もなく、ただ自分で自認していればいいのだ。
自分は人気者だし、人気者ということはイイことで、つまり自分の生きる時間はイイものなのだと、自認していればいい。
別に根拠が無くても、どうせ悪い方へ思い込むのだって大した根拠があるわけじゃないので、どうせ思い込むなら良い方へ思い込んだほうがマシだ。
人気者の、何が「イイ」か。
それは、ダサい言い方になるが、人気者のほうが人生が拓けるということだ。
思い切って言えば、人生が拓けるのは、叡智によってではなく人気によってなので……
と言うと怒られてしまいそうだが、でも実際にそうだからしょうがない。
人気があれば日々は拓けるが、人気がなければいかんともしがたい。
叡智といったって、叡智だけでは誰かと温泉旅行に行くことさえできない。
人気が無いと、人生に誰かと連れ立つ旅の一つさえできないのだ。
ただ、人気者がイイといっても、「どちらが人気あるか」とかいうことで、競争しようということではない。
人気者といえば、全員が人気者であるに越したことはない。
百人いたら百人とも人気者というのがベストだ。
その中で順列をつけようとするようなことは、根本的に人気者でない人間の発想だ。
もっと直接に、単純に、簡単に、人気者ということを目指せばいい。
どれだけ哲学的になったつもりでも、わざわざひび割れの入った皿から売ろうとするべきではない。
自分ではひび割れした皿なんか絶対に買わないくせに、そんなものを売りつけようとしてはいけない。
できるなら、自分の中に、人気者モードのスイッチのようなものをこしらえて、そのオン・オフを操作できたらいい。
あとはそのスイッチをオンにして、ずっと死ぬまでオフにしなければいいんだ。
それは決して、無理をしろということではない。
なぜだ? 人気者になるということ、および人気者でいるということは、まったく無理をしているということにはつながらないはずだ。
人気者ということを、そんなヒネて歪んだ形で捉えないように。
別に異様にチャラくなる必要もないし、異様にブリっ子になる必要もない。ただ人気者になるだけでいいのだ。
人気者といって、人気で「商売」をしている人は別だ。それは人気に応じた何かしらの実力があるべきだと思う。
が、別に商売でするのでなければ、人気者はただの人気者でいい。
人気者であれればいいし、人気者になれなかった場合は、唇を尖らせて残念がっていればいい。そういうときもある。
明日があるさというやつで、確かに明日はあるのだ。一日や二日ぐらい、うまくいかない日もある。
いちいち重く捉えないこと。
(自分が人気者になりそこねて「ちぇっ」というだけで何が「重い」んだ)
ちょっと真面目に話してしまうけれども、ときおり、重たく考えることが重たいテーマを解決してくれるという思い込みに耽っている人がある。
それは断じて間違いだ。
たとえば、巨大な冷凍庫の中にある巨大な氷を融かすにはどうすればいいか?
まず氷の大きさ、重さに向き合い、改めて圧倒されるべきだろうか。
違うだろう、そんなもん冷凍庫の電源を引っこ抜いて放っておけばオシマイだ。
重たいテーマを重たく考えたからといって解決はしない。
人気者になっておいて損することは何もないのだから、そこは功利的な精神においても、人気者になっておいたほうがいい。
人は、一部上場企業の課長になりたいのではなくて、一部上場企業の「人気者の」課長になりたいのだ。
そりゃ当たり前だ、嫌われ者の課長になりたいなんて思うのはド変態だけだ。
人それぞれ、何かしらの「道」を極めて生きたいと思うのなら、「我が道を極めて……」というような甘いことを言っていてはいけない。
「我が道」なんて言うと、だいたい人は我が身に甘いものなので、自分にもっとも負担のない甘い道をエロ本のように選ぶものなのだ。
そんな甘いことは許さずに、まず入口の登竜門に、「人気者道」を据え付けて自分に課したほうがいい。
すべてのことは最低限の人気者になってから考えろと。
それまでは一切の考え事や自問自答を許さないし、知恵をたくらむことさえ許さない、と。
男性の場合、女性を誘ってフラれるのは構わない。
誘ってフラれた結果、自分の人気がさらに向上すればそれでいいのだ。
「絶対、友達多そうじゃん」
と女の子に大声で責められるぐらいでないと、まず初級さえ卒業できない。
女性にとっては、人気者の男性に誘われたなら、その誘われたこと自体は不快ではないので、そこから結果的にオーケーだったかノーだったかは別にどうだっていいのだ。
女性のほうも、もちろん人気者であるほうがいい。
別に超人気者である必要はないが、倍率が低すぎる女ってどうよ? というのはさすがにアレなところがあるだろう。
人はそうして、基本的に人気者であるべきだし、人気者であるためには、あるていど自分の背中をエイヤと押しておく必要があるのだ。
大丈夫、人間は、自分の選択を「これ」とはっきり持っていれば、そのことには割と動けるものだ。
人気者のテーマが自分に捉えられていれば、そのことに関して「だけ」はそれなりに動けるものだ。
というわけなので、人気者でいこう。
人気者でいくためには、いくつかのルールがある。
いくつかの、といっても、実質的には一つだけだけれども。
唯一のルール、それは、「人気をよろこぶこと」だ。
何のことを言っているかわからないと思うが、ここが真実だ。
そもそも「人気」とは何のことを言うか?
厳密に見れば、「人気」というのは、好評とか評判がいいとかいうことではない。
「人気」とは、「人の気配」「人の気」のことだ。
「人の気」が集まり、「人の気」をよろこぶということ、「人の気」が栄えることを、人気者と呼ぶのだ。
「人気」、「人の気」、いいじゃないか。ついでにそこに異性の成分が混じると「色気」が生じる。そうなるとさらにいいな。「人気」はニンキとも読むしヒトケとも読む。
真夜中の誰もいない地下鉄のホームで、誰がイセエビ弁当を食いたいと思うか。思うわけがない。そんな「人気」のないところで誰がメシを食べたがるか。そんな人気のないところに「食い気」なんか起こらない。
人気者になるための唯一のルールがこれで、とにかく人の気をよろこぶことだ。
つまり誰に対しても基本的に、
「いてくれるだけでいいの!」
と掛け値なしに言えるということだ。
誰でも来てくれたらいいし、誰でも居てくれたらいい。
それは、「別に誰でもいいし」というネガティブなことではなくて、「人気」そのものをよろこんでいるから、誰でもうれしいの、ということなのだ。
「人の気」とか言うと、ナンノコッチャと思われそうだが、こんなことは本来何も難しくない。
たとえば、夜に墓場に行くとして、あなたは一人で行くのと誰かと二人で行くのとならどちらが怖いか。どちらのほうが「怖気(おじけ)づく」か。
夜の墓場に、四百人の大学生で参集したとして、それでもあなたは怖気づくか。
怖気づかないだろう。それは、怖気づくことより「人の気」が勝っているからだ。そのとき墓場は心霊スポットではなく「人気スポット」になっている。
そうして人は、当たり前のように「人の気」を感じ取っている。
人気者というのは、この「人の気」というものに敏感になり、ただそれをよろこぶタイプの人、というだけのことだ。
決して八方美人になったり評判のために作為的な態度を見せつけて回ったりすることではない。
仮に、十匹の犬が周りにいてよろこぶなら犬気者だし、十匹の猫なら猫気者だ。それがヒトになるだけのことだ。人の気だから人気者。
だから人気者はやはりイイじゃないか。
人気者というのは、とにかく「人気」があれば何でもイイ、というバカ正直な人間のことをいうのだ。
人気者を否定したり、斜めに見たり、批判的に見るような人は、今夜から誰もいない地下鉄のホームで一人でイセエビ弁当を食うこと。
それがイヤならそれは結局「人気者がイイ」ということじゃないか。
正直になりたまえ。
いつもおれだけ正直でバカみたいなんだから。
人気者の唯一のルールから派生して、こうも知っておかないといけない。
挨拶をするというのは、人の気に対して挨拶をするのだ。
そこにある人の気に向けて、「おう!」と挨拶するのだ。
相手が誰だって構いやしない。
「人気者」なんて、突き詰めればその「おう!」という挨拶に尽きるのだからな……
女性なら宝石を見たら「おう!」となるだろう。黄金を見ても「おう!」となるだろうし、エルメスの革靴を見ても「おう!」となるだろう。
人気者というのは、人の気をその宝石か黄金かのように感じているのだ。
だからつい「おう!」となる。
簡単なことだ。
犬の鼻先にハンバーグを置いたようなものだと思いたまえ。
ワン! となるじゃないか。
大好き! というのは、それで伝わるのだし、そういう大好きというのは、人の気そのものが大好きということであって、特定の誰かが大好きということとは異なるのだ。
人の気が大好きと言えない人は、金輪際これからの旅先で一切の人と関わりませんという誓約書に捺印するように。
その捺印はどうせイヤなのだろう。
じゃあやっぱり人の気が大好きなんじゃないか。
それならそれで、あとはその大好きな人の気にボサーッとしていなければそれでいいのだ。
挨拶だ、挨拶。
世界は全部ご挨拶〜
(いくらなんでもテキトーすぎた)
もちろん今、世の中は微妙にむつかしくなってきているので、人の気をよろこぼうとしても、とっさに上手くいかないと感じられるときがある。
そういうときは、知能を高くしすぎなのだ。
知能をもっと、僕レベルにまで低く設定しなおさないといけない。
上手くいかないと感じられるときは、だいたい価値観の問題になる。
その人間の風貌や、表情、考え方、声、あるいは職業、その他いろいろなものに、人は価値観を読み取っている。
その価値観が噛み合わないと、とっさに、その人の気をよろこべないものだ。
だがその場合は、そもそも価値観などというものを持ち込まなければいい。価値観を持参していなければ、価値観の衝突は起こりようがない。
いかなる場合も、別に「価値観を持参すること」なんて書かれたレジュメを手渡されているわけではないので、価値観というのはそれぞれが勝手に持ち込んでいるだけのものだ。
そんなものは家に置いて出ればいい。
価値観をぶら下げて歩けるだけ知能が高いのがまずいのだ。
僕など知能が低すぎて価値観を持ち運ぶだけの知能のパワーがない。
だから価値観と言われても、
(おれの価値観って何だっけ……)
という程度にしかならない。
その中で、女がサイコーと言われたらサイコーなのかなと思うし、思わないし、アニメがサイコーと言われたらサイコーなのかなと思うし、思わない。
まあとにかく、価値観なんてむつかしいものを所有できるだけの器を持っていなければいいのだ。
いっそ、人気の犬種なのだというつもりで出かければいい。そうしたら価値観なんて持って出ない。
割と冗談でなく、こちらが価値観を持参して出ると、向こうも価値観を取り出して迎えてしまうぞ。
こちらが頭を下げたら、向こうも頭を下げてしまうように、こちらが価値観を掲げて歩いていくと、向こうも価値観を掲げて迎えてしまうものだ。
うーむ、ここは少し難しい話になってしまうのだけれども。
お互いに、人と人だから、話せばわかる、という部分は確かにあるのだ。
が、価値観を持参して話すと、お互いに価値観がわかってしまう。
そしてお互いの価値観がわかるということは、たいてい戦争の準備が進むということにしかならない。
そうではないのだ。
「話せばわかる」というのは、価値観をわかってもらうということではない。
「話せばわかる」というのは、話すことによって「人気」をわかってもらうということなのだ。
向こうから見て、
(ああ、この人は、こういう感じで人気があるのね)
というふうに見えないといけない。
それによって、相手が「わかる」と感じてくれないといけないのだ。
このことは理屈では説明しきれないので、とにかく「人気者」なんだ、ということでまとめておこう。
○気者、という言い方で変数を取ったとする。
○に何が入るかだが、これが病気者とか陰気者とかになったらたまったものじゃない。
人によっては、鋭気者とか才気者とかいう場合もあるかもしれない。
でも基本中の基本は人気者だ。
人の気が振る舞われ、人の気をよろこび、人の気が挨拶を交わすようでないといけない。
人気者でないままデートに誘っても、女性からはブーイングされるだろうし。
人気者だ、人気者。
人気者が自分の人生を拡大する。
***
人気者が自分の人生を拡大するわけだけれども。
逆に言うと、拡大することがイコール人気者になることでもあるわけだから、とにかくヒマな時間は全て「拡大」に充てればいい。
拡大といって、何を拡大するか明確でないと、拡大のしようがないが、この場合の拡大は明確だ。
人気を拡大するのだ。
人気拡大! と、部屋のふすまにデカデカと書いておいていい。
これほどハズレのない提言も他にないだろう。人気拡大!
認知度の拡大じゃないよ。
幅を利かせろということではなくって……
あくまで人気の拡大だ。
人気、人の気に、接触すればするほどイイ、ということだ。
初めのうちはちょっと想像しにくいかもしれないが、人の気にただ接触する、その接触行為を繰り返していれば、それだけで自動的に人気者になっていくのだ。
だから、どんな機会であっても、人の気に触れられる機会があれば、とにかくその機会をよろこび、自ら馳せ参じるほうがいい。
たとえばあなたが十人の前で話させていただくことがあったとする。
そうしたらあなたは、その十人の「人の気」と接触することになるので、また一段階、グッと人気者に近づくことになる。
こんな機会を逃がしたら損だ。
人気者になるということは、人格の問題ではないし、経験の問題でもないし、技術の問題でもないのだ。
人格の問題だったら人格者になるし、経験の問題だったら経験者になるし、技術の問題だったら技術者になるだけだ。
人気の問題だから人気者という話になっている。
人気、人の気だ。それにどんどん接触していくこと。
人の気に触れる機会というと、「えー、しんどい……」という気持ちが起こらないではない。そういう気持ちもよくわかるが、それはいわゆる「気後れ」という状態だ。それは人気者から遠ざかろうとしている状態になる。
気後れの問題は、どこかで目覚めて解決するしかない。
「そんなもん、自分を人気者から遠ざけるだけじゃん」
という、極限の当たり前さに気づけば、誰だってあっさり解決できることだ。
気後れというのはたいてい、ご立派な価値観を持ち込んで、ご立派な何事かを成し遂げようというような、TPOがブラックホールに吸い込まれでもしたかというトンチンカンから発生しているにすぎない。
いいのだ、気後れなんかどうでも。
人の気に、接触しなさいというだけで、それを上手にやれとかカッコよくやれとかいうことではない。成功しなさいということでもない。たくさん接触しろというだけのことなので、こんなものに成功も失敗もない。
気に接触するだけでいい。人間にとって「気」とはそういうものなのだ。割と冗談ではなく科学的に。
焼肉屋の前を何軒も歩けば、やがて焼肉を食べたくなってくる。そういう「食い気」が起こってくる。当たり前だ。それと同じように、人の気に接触していると、やがて自分にも人気が起こってくる。
人気とはそういうもので、これはツイッターのリツイートで主張の拡散を得ることとは違うのだ。ツイッターのリツイートに「人の気」は乗っかってこない。
だからこそ、ツイッター含めSNSには、気後れということも発生しないのだが、そのぶんそこに注力していても自分はまったく人気者にはなれない。人気者は「気」の問題だからだ。
まあむつかしい話はさておき、人気拡大! だ。こんな気分のいい四字熟語もないだろう。人気拡大!
人気拡大ということが、まさか人の気に接触することの拡大、およびその機会の拡大なのだという、単純なことに結論づけられるとは、一般に知られていないだろう。
できたら毎日のように、人気者の誰かと、人気店のどこかへ行って、さまざまな人の気に接触していたらいい。
ただもちろん、人の気といって、人の気なら何でもいいかというと、完全にそうだとは言い切れないのはある。たとえば混雑している病院に行ってたくさんの病気の人の気に接触してきても、それでイイことになるとはさすがに言えない。
気という言い方でいえば、元気のない人もあるし、気難しい人もあるし、陰気な人もあるし、気の短い人もある。
それでも、原則、どんな人でも人の気だということで、貪欲に接触していくべきだし、いちいち差別や選別などするべきではないが(選別していたらたぶん99%の機会を失ってしまう)、できたらやはり「これは」と思える特別な人の気に触れにいきたいものだ。
それはなぜかというと、できたらやはり自分も「ただならぬ人気者」になりたいと思うからだ。
まあでもそれは、プラスアルファの考え方であって、その土台にはまず問答無用の人気者だ。問答無用、東西南北に区別なしの人気拡大。無節操なら無節操なほどなおよろしい。
それぐらいのつもりでいないと、たぶん思っているような人気者の自分へは到達できないだろう。
人気者、ということで、人気者になりたいのは誰だって当たり前だが、人それぞれにとって「人気者」の捉え方がある。
その捉え方はほとんどイメージに過ぎず、人気者が生じる機序にまで目をつけて考えるような人はほとんどいないだろう。
そこのところの機序、自分が人気者になろうとする手段のロジックが、ビシッとまとまっていないと、いくら考えても自分の力には結びつかない。
こんなところのロジックは、ナルホドと納得したら誰だって共有してよいものだ。
人気者とは、人の気をよろこぶもの。
人の気をよろこぶことをそのままに、「おう!」と挨拶ができていたら、人気者ぶりにも説得力が出てくるものだ。
そこがイメージだけの人気者努力では説得力が出てこない。
人気者のテーマはこれだ。
内心で明確に、
(ごめんね、人の気が好きなの、無節操にね)
と捉えられていれば、その人は人気者の説得力を帯びるのだ。
そうしたら、やはり人気者はイイものだし、人生は拓けて拡大するしで、いいことずくめになる。
誰も彼も今日この瞬間からそうなってしまえばいい。
「人の気が好きなの」は、「ハンバーグの焼ける匂いが好きなの」ということと、別に違いはない。
だから何も気負うようなところはない。
冒頭に、人間が生きていくには様々な困難がある、と言った。
が、今さらだが、これほどひどいウソのつきかたもないな。
(ごめんね、人の気が好きなの、無節操にね)
そんなわけで、当たり前だけど、誰も彼も今日から人気者でいきましょう。
以上、人気者のテーマでした。
じゃあ、またね。
[人気者のテーマ!/了]