No.358 平成二十八年/西暦二〇一六年の情熱
時代に適合するには、情熱を失くすことだと思う。
一年間を振り返って、今年の一年間は、誰も彼も情熱に満ちていたなあ……と追憶する人はごく少ないだろう。
情熱、こればっかりはどうしようもない。
情熱が無い、足りない、といって、「そうでっか」とガソリンスタンドで給油できるものではない。
情熱が無いという場合、こればっかりは、「そうか」と受け止めて、あとはどうすることもできないのだ。
なにしろ情熱がないのだからな……
誰も手抜きをして生きているわけではない。
楽しいことがないかというと、そうではなくて、楽しいことは身の回りにあふれかえっているだろう。
夢中になれることがないかというと、ないわけではなく、むしろ夢中になりうるものばかりで身の回りはひしめきあっているはずだ。
最近は、マンガやアニメやゲームにしても、あるいは動画サイトにしても、自分を夢中にしてくれる何かの工夫が凝らされている。
が、どれもこれも、とても楽しいし夢中になれるのだが、情熱に満ちているかというと、「いやそれはちょっと……」という具合になる。
逆に言うと、近年、人がまともに生きていくためには、情熱なんて必要ないということが証明されたということなのかもしれない。
情熱がなくても、楽しいことはいくらでもあるし、夢中になれることはいくらでもある。成長もする。物事に興味は尽きないだろうし、テクノロジーはいくらでも進歩するだろう。
その意味では、情熱なしでも全然大丈夫なんだ、ということが明らかになったが、それでもやはり、情熱が有ると無いとでは、人間の営みや関わりや作品はまったく異なる性質を持つようになるということも明らかになった。
情熱なしに作られた名作と、情熱を垂れこめて作られた駄作とでは、あくまで情熱という面で見るかぎり、名作は駄作に勝てないのだ。
このことには大きな問題が含まれている。
大きな問題というのはこうだ。人は、情熱なしでもバッチリに生きていけるということが証明されてしまった一方で、
「誰も自分に情熱を向けてはくれないが、どうしよう?」
というようなことが問題になってきた。
男性の99パーセントは過剰なほどの性欲を持っていると思われるし、また女性のほうも、似たような性欲のようなものは当然持っているだろう。
だから、そこで男女が結ばれたりセックスしたりすることは何もおかしくないのだが、そこに情熱がない場合、
「ほら、彼とキスしなさい」
となったとき、何かが「アホくさい」と感じられてしまう。
楽しいことはいくらでもあるし、夢中になれることもいくらでもあるし、男女はお互いを求めているのだが、そこに「情熱」が見当たらない場合、ギリギリのところで、
「アホくさくない?」
という感情がどうしても混入してしまう。
このことは、男女関係やセックスのことだけでなく、仕事のことや、趣味のこと、あるいは生きることそのものへも忍び寄っているだろう。
多くの人は、健全な精神を持ち、意識を低くせずに自分の仕事をきちんとこなそうとして生きているが、そこに「情熱」まであるかと言われると、
「うーん……自分では、あるつもりだけど」
というあいまいさに留まる。
昔の、ダヴィンチの絵画や、あるいはサグラダファミリアなどの建築物を見てもそうだが、どれ一つをとっても、
「なぜここまで」
という、基礎の情熱量に圧倒されるところがある。
宮崎駿の描き続けた絵コンテは、技術も量も余人の追随を許すところではないが、そもそもそれだけ膨大な絵を描いて際限がないという、基礎の情熱が真似できない。
多くの人は今、残業を減らそうとし、八時間かかる仕事を四時間で済ませるという方法を模索している。
そうすることで、余暇が生じるし、生産性が高くなるじゃないかという発想であり、それは、
「四時間で済ませられたら、これまでの八時間で倍の仕事ができるぞ!」
という発想に基づいてはいない。
適度な仕事や、適度な恋愛は、合理的な発想で何の誤謬もない考え方だが、その意味でいうと情熱はどこか非合理的なものであり、合理化を進める精神が情熱に到達することはないだろう。
それで何の問題がある? と言われたら、むろん何の問題もないのだが、一方で、世界中の誰もわたしに非合理的なほどの情熱を向けてはくれないということが確定するとき、何ともいえず、
「生きていることが、全体的にアホくさい」
という感情が発生してしまう。
かといってもちろん、情熱がある「フリ」をしても何の意味もないことだ。
せっかく合理的に上手くいっているものを、非合理的に変形するまで破壊するというようなことには何の意味もない。
これは何の話をしているかというと……
今、平成二十七年/二〇一五年の、大晦日、午後一時五〇分だ。
そして僕は、この年末に、ひどい風邪を引いて気管支や顔面をぐっちゃぐちゃにしたので、今もまだ意識が不明瞭でいる。
いくらか自分で心当たりがあり、この風邪は、単なる罹患ということに留まらず、わたしを打ち倒し強制的に休養させる何かの力を帯びていた。
昏々と、ソファの上で全身がゲル化するまで眠り続けた。
何しろ結局のところ、体調をぶっ壊されない限り、僕は休まないらしいので、いつも本当に休むときといえばこのときなのだ。
休むということがどれだけ重要なことかは、理屈ではわかっているつもりなのだが、どうもだめで、体力と気力がわずかでも残っていると、それを使って何かをしようとしてしまう。
今回ばかりは、さすがにその気力も根こそぎイカれた。
それで、今年の年末年始は、もう重病人のように過ごす羽目になるかと諦めていたところ、今朝になってややスッと体調が持ち直したのだった。
必要な分の休養が済んだのだろう。
眠っている間、一体いくつの夢を見たのやら見当もつかない。
みんな騙されているが、本当はこの地球に集団で詰め込まれて、宇宙を漂っているだけだという、ヤバい直覚の夢も見てしまった。
よくよく考えると、事実そうなのだが、これは気づくと大変おそろしいことなので、普通の生活者はこんなことを直覚しようとはしない。
一人で宇宙服を着て、何もない宇宙空間に漂い続けるだけだとしたら、それはとてもヤバいということは誰でも想像したことがあると思うが、それが地球という星の単位になっただけで、実は本質的に変わらんというのが事実だ。人間はこの宇宙で何をしたらいいのかさっぱりわからないし、何もできないし、最後までやはり何もわからないままだ。
おそろしいなあ……
まあでもそんなことはいい。
情熱、という言葉は、ピタッと当たってる気はしないのだけれど、説明のためには敢えてこれでいいのだろう、という気がしている。
どうせもう大晦日で、時間もないのだ。
情熱は、なくてもやっていける。
情熱なんかなくても、楽しいし、夢中になれることはいくらでもあるし、人それぞれ、真剣になったり意地になったりすることはいくらでもある。
が、情熱がないと、どうしても、
「ほら、彼とキスしなさい」
と言われたとき、
「アホくさくない?」
という致命的な不快感が混入してしまう。
人間には願望があるし、プライドもあるし、性欲もある。また、生きることを楽しもうとする心もあるし、親和欲求というか、「人と親しくしているほうがさびしくなくていい」という気持ちもある。
が、それらの全てを前向きに合算しても、実は男と女がキスをする正当な動機には到達しない。
だからどこかが「アホくさい」と反発してしまう。
女性は、男性の性欲そのものを毛嫌いするわけではないが、男性に性欲「しか」なく、また自分の側にも性欲「しか」ないとき、その性欲だけの合意に基づいてキスやセックスをすることを、どうしてもどこかでアホくさく感じてしまう。
そうして、自分の唇やヴァギナの尊厳をアホくささに放りこんでしまうと、自分の全身がアホになってしまう気がして、やりきれなくなるのだ。
セクハラ課長のセクハラが、典型的なハラスメントになってしまうのは、課長に万事についての情熱がなく、またハラスメントをされる自分にもこれといって情熱がないことを自覚していることによる。
誰もまともに情熱と言えるものを持っていないのに、性欲だけが鼻息を荒くして跋扈する状態は、すごくアホくさいものだ。
そのアホくささに巻き込まれたとき、自分の性的な尊厳が最も汚損するから、それは許しがたい侮辱の行為だとして、セクハラという不快さの受け止め方が為される。
課長に「子供は作らないの?」と訊かれるよりは、拉致されて拘束されたまま、銃のメンテナンスをしているテロリストに、「お前は子を作らないのか」と問われるほうが、セクハラという感触はなくなる。
情熱の典型をテロリストに求めるのは明らかに誤っているが、わかりやすくいうとそういうことだ。
情熱がなくても全てのことはやっていけるが、情熱がないとすべてのことはアホくさいという致命的な空隙を混入させてしまうことになる。
この「アホくさい」という致命傷が、特に性的な分野において、今や無数ともいえる腐女子の大群を作りだしたのだろう。
興味本位からの同性愛者も増えているらしいが、いま増大しているその種の人々の多くは、単にヘテロセクシャルにつきまとう「アホくささ」に抵抗する方法が見当たらなかったので、性欲がストレスの少ない同性愛のほうへ流入しているだけなのではないかと思わされる。もちろん、本当に生来の本性がそれの人は除いてだ。
その上で、時代に適合するにはやはり、情熱を失くすことだと思う。
情熱など持ち込まないでも、すべてのことは上手くやれると証明されているのだし、今情熱なんか持ち込んでもほとんど誰にも受け皿がなく、平たくいえば近所迷惑にしかならない。
情熱があって、情熱が呼応しないと、男女がキスするなんて不合理なこと、成立しようがないだろ? と説得しようとしても、どこか前もって、
(もう無理です)
と、弱々しく首を横に振る映像が予感されるところがある。
情熱、こればかりはどうしようもない。
情熱は、足りないからといってどこかで足してくることもできないし、どれだけ自分のプライドや願望に鼻息を荒くしても、それで情熱が湧いてきたりはしない。
きっとインターネットの多くは、情熱の無い人間に大きな発言権を与えたのだろう。
人が人に向かって何かまともなことを言うには情熱が要る。何なら、歩き去ろうとする相手の肩をグッと引き留めて、
「聞いてくれ」
と語りかけて、しかもその語りかけに説得力の眼差しを伴わせるには、人並み外れた情熱が要る。
情熱があった場合、その情熱に呼応して付き合わされる人間も、ずいぶんなエネルギーを使わされるものだが、そのことが非合理的であったぶん、そこにはかけがえのない「可能性」がやはりあった。
昔、僕が女の子をナンパしたとき、女の子がパッと僕の手を取り、引いて歩いていき、そのまま彼女の下宿へ連れていかれたことがあった。
彼女がナンパの相手をしたのは、そのときが唯一で初めてのことだということだった。彼女はただ、
「この人は大丈夫って、なんかわかったから」
と言った。そのときたぶん、大げさに生きる僕より静かに生きる彼女のほうが秘めた情熱が熱く確かだった。彼女は自分の生きる時間を確かめていたし、自分の判断や感じたこと、自分の信じたことで、泣いたり笑ったりしたがっていた。彼女は聞きかじりで生きないという覚悟をしていた。僕も彼女もどこか微笑んではいたがほとんど笑っていなかったと思う。そういうとき二人の肌は一〇〇年来の出会いを待っていたかのように完全な馴染み方で吸い付くものだ。興奮はほとんどなく肌は湿気て冷たい。
男と女なのだから、その肌が互いに吸い付かないほうがおかしいけれど。
こんな話し方をすれば、話の内容共々、僕という人格に大いに距離を取られてしまうだろう。いわゆる「ドン引き」か、もしくは「キモい」とか「くっさ」とかいうやつ。きっしょ、という言い方の後ろに笑いを示す記号が並ぶ形でレスポンスが生じる。たとえ内心にでも。反発か、嫌悪感か、距離感。抵抗の感触。とっさに起こる軽やかな嘲弄の準備態勢。それはこの時代の条件反射みたいなものだ。そこまで露骨な反応でなくとも、何かしら断絶的な距離感を生じさせて僕の話は遠くから聞き流されるに違いない。
それで、この場合は、僕の人格がどうこうということはどうでもいいのだ。僕の人格のことを話のモチーフにしているのではないから、僕の人格がいかに人に「うわあ」と思わせたとしてもそのことは本筋に関係が無い。
そうではなくてこの場合、一年間を振り返って、
「情熱は十分にあったか?」
ということなのだ。
ここにおいて僕の人格がタヌキだのキツネだのいうことは関係が無い。
情熱があるかないかの問題であって、情熱が無い場合、「情熱」、こればっかりは本当にどうしようもない。
情熱が無い、という人間に対して我々ができることといったら、もはや感情的でない、「正当な差別をする」というぐらいしかない。
幸いというか、幸か不幸か、ということになるが、情熱がなくても人間はちゃんとまともにやっていけるということが、近年わりと市民権のある定説として根付いてきた。むしろ時代に適合しているのはそちらだと言える。
楽しいことは、本当にいくらでもあるし、夢中になれること、関心を惹かれること、向上心を刺激されることは、本当にいくらでもある。
ただ、キスとか、そういうことは、アホくさくなるから、そういうことだけはやめておけばいい。
実際、そうしたことから手を引くことで、現代のムードは成り立ってきただろう。
現代に適合するためには、情熱を失くし、情熱のことから手を引くことだ。そうしたらすべてがうまくいく。
それでも情熱を持ち続けようとすると、時代に適合せず、どうなるかというと、やはりどこかで気管支をやられて、顔面を鼻水でぐちゃぐちゃにして、全身がゲル化して倒れこむのだった。平成二十七年/二〇一五年の大晦日だ。もう日が暮れてしまった。
***
情報が多いということは、つまり「カンニングができる」というだけで、実はたいしてよいことがない。
情報を多くして、自分を刺激するつもりでも、その刺激は精神を散り散りにするだけで、むしろ情熱は情報量に反比例して減少するものだ。
夜空と星空の正体が何だったかわからないままの縄文人はそれによってむしろ情熱的に生きられただろう。
むろん、そうした情熱的な世界は、非合理的な側面も持つから、理不尽な悲劇も無数に生んだに違いないが……
自己に情熱を豊かにしたいと望む人は、情報を少なくするべきだが、このことは時代的に見てほとんど不可能だと思われる。
もちろん、情報を得たとしても、それらを一切斟酌せず、アテにしなければそれでいいのだが、ふつうの人間の神経で、多数の有力な情報を根源から無視するということはなかなかできない。
たとえば僕自身、あふれかえる情報に照らし合わせて考えれば、僕などは男性として最低で、女性に嫌われる存在の最高峰だと判断せざるを得ないが、僕はもうそうした合理的な判断を一切アテにしないようにしている。
情報と照らし合わせれば、よりよい自分が形成しうるというふうに見えるが、そんなもの、よくよく考えればカンニングでしかない。カンニングであれば、たとえそれで一〇〇点の人格に到達したとしても実は何の値打ちもないことだ。
情報が多く得られるということは、戦争の場合を除いては、実はたいしたトクがあることではない。情報が多いというのは情報が多いということであって、有利とかトクとかいうことではないのだ。
考えてみれば、情報の多さというのは、「死なない」ということに関してはたいへん有利にはたらく。たとえば戦争の場合、敵兵がどこにいるか、地雷がどこにあるかというようなことだ。あるいは医療に関して、この症状はこういう病気で、治療法はこうだ、というようなこと。
こうして、「死なない」ということに向けては、情報の多さはてきめんに有利にはたらく。
が、情報とはそこまでのものであって、それ以上の、「生きる」ということには有利にはたらかない。
情報の多さは、人を死から遠ざけるが、同時に人を生からも遠ざけるのだ。
人間が、遺伝子や生命のすべてを知ったとき、人間はついに死を克服するだろうが、同時に生も克服してしまい、何のために存在しているのかを完全に見失うだろう。
平成二十七年/西暦二〇一五年が終わろうとしている。
まだ喉も目も鼻もぐちゃぐちゃだが……
僕はただ、人が情報に引きちぎられず、情熱によってわかりやすく存在することを望んでいる。
人が人に、メールを送ったり、手紙を送ったりする。そのやりとりが、もっと情熱と共に、活発に飛び交うようでなければならない、と思っている。
わからん、といって、もう何がわからんのかも自分でよくわからないのだが、つまり僕は、通りすがる誰に対してでも、できれば「キスしても何もアホくさくないと思える人」であってほしいと望んでいる。
そういえば、僕自身にしたって、まあふつうの趣味をした女性は、僕のことなんか好きにならない。
好きにはならないが、割とそばにいてくれて、キスさせろとかやらせろとか言えば、そのことをきっとアホくさくは感じずにいてくれるだろう。
たぶん女性のほとんどからすれば、僕などは、「かわいそうだから」ということで相手してあげるというような対象でしかなかろうが、それでいいのだ。
その「かわいそうだから」ということで付き合うということが、彼女にとってアホくさく感じられなければそれでいい。
情熱というのは、願望とは違うものだから、出しゃばりになってもしょうがない。
情熱というのはやっかいなもので、「引きこもり」はもちろん情熱のやり方ではないのだが、かといって「出しゃばり」というのも情熱のやり方とは違うのだ。
情熱なしに出しゃばりを続けると、どうなるかというと、「うるさい」という感触になる。
情熱が無いのに、動きまわり、情熱が無いのに、唄い踊り、情熱が無いのに活発化し、情熱が無いのに主張を続けると、
「もう、うるさい!」
という不快を猛烈に蓄積するものになってしまう。
最近はそういう「うるさい」ものが大量にあふれかえっているのだ。
もし近隣の居酒屋で、大学生が酔っ払って大声でうるさかったとすると、それは本当に声が大きくてうるさいのではなく、
「情熱が無いくせに自己顕示欲で声がデカいから、うるさい!」
ということなのだ。
情熱があってのものなら、それは案外うるさくは感じられない。
逆に、情熱がないのに何かをしていると、それはたとえ無音であってもうるさい。
人に微笑みかける情熱が無いのに、それでも人に微笑みかけようとすると、その顔面の表情は人にとってたいへん「うるさい」という感触のものになってしまう。
そりゃあ、よくよく考えれば、情熱が無いのにわずかでも動くというのはそれだけでおかしいことだから、うるさく感じられて当たり前ではあるのだけれど。
よく、「人に伝えたい○○」ということが言われるが、人に伝えたいという願望だけがあり、人に伝えたいという情熱が無いと、その「伝えたい」というのが一番「うるさい」と感じられてしまう。今はそうしたものがたいへんあふれかえってしまい、誰もが薄々気づいてはいるが、もはや収拾がつかなくなっている。
願望と情熱はしばしば区別がつきにくいが、冷静に見れば実は見分けは簡単で、要するに願望というのは自分が何かしらの益を得ることにすぎない。
比べて情熱というのは、明らかに自分の益という範囲を超えている。もはや自分に何の益もないと思わせるものが情熱だ。自分を損耗してでも何とかしてこれを……というのが情熱。
わかりやすく言うと、子供に対して「良いママ」になろうとしている母親はきっと願望の人だが、「この子のためになら鬼にでもなる」と考え始めている母親は情熱の人だ。
女が「俺」に対して冷たいというとき、男がその女を殴ったとしたら、それはただの暴力だが、女が自分自身や自分の友人に対して冷たいというとき、男がその女を殴ったとしたら、その暴力には情熱が混入している。暴力には違いないが。ただ同じ暴力にしても、
「お前の人生をお前が貧しくするな」
という理由で振るわれる暴力は自己利益のために振るわれる暴力と性質が異なる。情熱で振るわれる暴力は男に何の利益も与えないから利益に係るおぞましさがない。
願望の男は、自分を豊かにするために女を口説くだろうが、情熱の男はたまに、女を豊かにしようとする衝動から女を口説くことがある。このとき男は、女にはフラれて、何のトクもしないのだが、それでもこっそりガッツポーズをしていることがある。女が口説かれたことに上機嫌になったら、男はそれだけでこっそりガッツポーズをするのだ。もともと彼は自分がモテることが目的ではなかったから。
情熱というのはそういうものだから、情熱というのはまったく時代にそぐわないし、情熱が無いという人は、こればかりはどうしようもないのだ。
情熱が欲しいとか、情熱を持ちたいとか、そういう願望は誰にでもあるだろうが、その願望こそ情熱から最も遠いものだから……
情熱というのは、自分を評価してもらうためのものではまったくない。
僕だって、この荒唐無稽の情熱がなければ、もうちょっとマシな人間でいられたろうに、この情熱が何もかもをぐちゃぐちゃにしたのだ。情熱は利益には縁遠い。
今年最後のメッセージとしては(メッセージなんてひどくガラではないが)こうだ、あなたが今やっているそれ、またこれから直後にしようとしているそれ、そのやり方や態度や発想の全ては、「情熱が不足していないか」。情熱がプアじゃないか。あなたが本気で情熱から突っ込んでそれなのか。あなたってそんな程度の人なのか。
もしあなたがそんな程度の人で、情熱とか目の輝きとかいうのもそんな程度にしか持てないというのでは、まあ、鼻で笑って正当に、差別するしかないなあ……というのが、本年の僕からのメッセージだ。我ながらなかなか最悪ではある。
まあでも、いいかげん、まるで本気でないものを本気であるふうに糊塗するのはやめよう。印象が好いのと情熱とはまるで違う。半笑いの前向きふうも、半笑いの「ぶっちゃけ」ふうも、どちらも無力だ。達観ふうも無駄だし、悪趣味ふう・オゲレツふうも無駄だ。
すべて、
「情熱?」
と訊かれたら怯むしかないようでは、イキがってもしょうがない。
もちろんこんなことは、今僕が長々と話しているからそれっぽく聞こえるのであって、ただちに年が変わりゆく現今の世情を顧みれば、僕の方がズレているのだ。
時代に適合していない。
それは僕が情熱を捨てる気がないからだ。
僕はこの平成二十七年/西暦二〇一五年を、「いつまで経っても終わってくれない」という長さで感じていた。
もしこの一年が、同じボリュームで来年もやってくるとしたら、初めからギブアップしてしまうというぐらい、異様な長さと重圧で時間を感じていた。
そう思っていたところ、去年の書き物を調べてみると、まったく同じように述懐していたので、去年の今ごろも同じような感触でいたのだろう。
つまりこの二年間はしんどかった。一日一日が、アッという間に……過ぎてくれない。一週間がおそろしく長い。
周囲には、「一年があっという間ですねえ」という定番の声があるのだが、僕はそれに同調しつつ、まるきりのウソで、僕にとってはもう数ヵ月前のことが、もう十数年も昔のことのように感じられている。
それで結局、この年の最後まで、走り抜けられず、ダウンして、今この顔面がぐっちゃぐちゃの状態なのだ。今、この顔面の状態だから、どんな聖女が歩みよってくれても、決してキスはしないだろう。今仲良くできるのは感染の系統が違う柴犬だけだ。
しんどかった二年間、僕は何をしていたかというと、半笑いと引きこもりと出しゃばりの世界の中で、こうも情熱の受け皿がなくなったのかということに驚き、やり方がわからず七転八倒していた。
まさに、時代に適合するには、あのとき情熱を失くしてしまうしか方法がなかったのだろう。
まあでも、結果的に、今は走り切れずに最後になって気管支と顔面をぐっちゃぐちゃにしているわけだが、それにしても結局こちらを選んできてよかったと思っている。
今からでも情熱を失くせば、時代に適合し、全身から漂うムードそのものから、何もかもがうまく周囲に馴染みはじめ、すべてがうまく滑らかにゆくだろう。
が、そのかわり、キスやセックスやその他のすべてが、どこかで「アホくさい」と感じられることを甘受しなくてはならなくなる。
だから、身体をゲル化させて最悪の気分の中で見たあの夢も、あるていど正鵠を射ていて、啓示にはなっているのだ。
人間の生き死にのことだ。
そもそものところ、合理的に考えるぶんには、人間が八十年もあくせく生きることには、何の意味もないのだ。
だから根源的に「アホくさい」となる。どれだけ理由を捏造しても。根っこがそうだからしょうがない。
宇宙服を着て、一人で無限の宇宙空間を八十年漂うとしたら、それは何かとてつもなくヤバいだろう。
それがただ、地球という惑星に集まって、集団的に生きているというだけで、やはり本質的には変わっていないのだ。宇宙服が地球になっただけだ。集まっていたって何にもならない。
おっそろしい話だなあ……
地球という星に集まって、宇宙に漂っている気がする、というのじゃない。
文明があって、社会があって、人がいて家族があって人生がある、気がしている、というのが正しいのだ。そっちが「気のせい」なのだ。
この「気のせい」が長いから、われわれは本来の事実をすっかり忘れることができ、だからこそ気が狂わずに生きていけるのだろうけれど、僕はあのときはっきり見てしまった。
まあ、そんなことはいいか。
ようやく今年も終わる。
僕は一年の暮れに、こうして自分の過ごした一年間を振り返る。
そして、
「よかった、アホくさくない、アホくさいという致命的な空隙が無い」
ということをよろこぶ。
毎年のことだ。
まるで自分の過ごした一年にキスするみたいに。
だからそれが半笑いで「アホくさい」と、すごく悲しい。
ではでは、みなさん、よいお年を。
[平成二十八年/西暦二〇一六年の情熱/了]