No.360 (二日目) 怒りの日、「こころ」とは何か
(怒りと恐怖の戦い。恐怖による抑圧、怒りのみが抵抗する)
(怒りが勝利するときその先は明るく、恐怖が勝利するときその後は暗い。恐怖が勝利するときそれは弾圧であり、怒りが勝利するときそれはしばしば革命、もしくは伝説である)
僕は腹が立っている。怒りによって、今はもうすべてのことに節度のある書き話し方をしようとする意欲が失せている。何もかもを、本当には僕がこう体験しているということを、あるがまま話してしまえばいいと、いくらか投げやりな気持ちも含まれて決断している。
あまりにも多くの女が僕の前に来て泣きすぎている。僕自身は泣きつかれるのは構わないが、なんとか全て受け止めきってみせようと構えると共に、「このコの周りはいったいどうなっているんだ」という怒りが湧いてきて気が遠のきもする。僕は一晩で五人の女の子が泣くのを引き受けたことがある。こんなことはもはや珍しくなく、すでに僕と親しくしてくれる女性はすべて、僕と会って泣かないことのほうが珍しいという状態だ。僕が彼女を泣かせようと悪だくみをはたらかせているのではない。ただ僕が彼女に何かを話し、何かを歌い、あるいは彼女の話すのを聴き遂げようとするだけで、彼女が色んな涙を流し始めるだけだ。みんな学歴や職歴を立派にした、美人できちんとした人たちばかりなのに。僕が一声触れるとだいたい女性は息を呑んだふうになって、慣れない何かしらの高まりに素直になっていき、色んな形で泣き始める。泣きたいことが溜まっているのだ。溜まりすぎているのだ。それは何時間も掛けて涙を静かに流しつづけ、「わたし何にこんなに泣いているんだろう」というありさまだったり、倒れて痙攣して止まらないというほどであったり、言葉が支離滅裂になってすでに僕でしか聞き取れないインビジブルな文脈に成り果てているものだったりする。
僕にとっては、僕を慕ってくれるすべての女性は宝物だから、その彼女が泣こうとするとき、何がなんでもそれを聴き遂げてやりたいと思う。思うが同時に、「このコの周りはいったいどうなっているんだ」と思って怒りが湧く。僕は僕の生きている世界しか知らない。僕は常に僕自身をぶら下げて歩くしかできないわけだから、僕のいない外側の世界というものを直接には知りようがない。すべての女の子は僕の前で、かわいくて幸福そうに見えるのだが、それは僕の前だからであって、僕のいない外側の世界で彼女がどういう表情をしているのかはわからない。彼女は僕のいない外側の世界でさんざん傷つけられてきて、その場所で泣くわけにいかないから、いろいろ壮絶な身構えをしてすべてが破綻しないように潜り抜けながら生きている。そうして僕の前に久しぶりにやってくると、すぐ安心してくれて、安心に身構えがほぐれると途端に堪えていた涙がボロボロとあふれだす。そんなことは構わない。いくらでも泣いてくれて構わないが、やはり僕は「僕のいない外側の世界」で何が起こっているのか、思いを馳せると気が遠くなって怒りが湧くのだ。
多くの人は、自分がどのような人間であるかという自意識において、僕のようなわけのわからない人間より、「自分のほうがまともで偉い」と思っているだろう。それはまったくそのとおりだと僕は思う。僕はわけのわからない人間で、これという長所もないから、どこをどう見ても世間一般の誰かより良人だとは言えない。僕自身についてはそれでまったく構わない。
が、そうして僕などより「自分のほうが偉い」と思える人は、同時に「自分のほうが人のこころがわかるはず」「自分のほうが人のこころにやさしいはず」とも思えるだろう。そう思えるならばよしで、地球上に人口が七十億あったとしたら、その七十億が全員僕より偉くてこころがやさしい者であって構わない。ただそういう自負ならそういう自負で、女の子が泣くのを堪えざるを得ないような凄惨な空間を作って世の中に放置しないでほしい。彼女がわざわざ僕の前までやってきて泣くというのは、それだけどこかで傷つけられているからだろう。今はギョッとする言い方を採らざるを得ない。僕より下だと思わない人間の全ては、その自負において、彼女のこころをそうして傷つけるのをやめてやってほしい。あるいはもし、人間の養うべき強さというものが、徹底して冷血さに尽きるというのならば、そういう人は先に「強さとは冷血さに尽きます」ということを看板に立てて明言しておいてほしい。そうでなければアンフェアだ。やさしいふりをして近づいて冷血さを実売するのは羊頭狗肉の売り子でしかない。そのことも冷血さのやり方に含まれていると言われればそうなのかもしれないが、誰もそんな詭弁を上等なものだとは思わない。やさしいふりをして冷血というのは単に卑怯な話で、卑怯か否かというのは冷血さに関係がない。関係があるとすれば低劣さのほうだろう。
誤解に混乱が起きて、話がつまらなくならないよう、いくつかの前置きをしておきたい。まず「こころ」という言葉を振り回しているが、これが何のことを指しているのかという問題がある。第一に確認しておかねばならないことは、
・「こころのことがわからない」なんて思っている人は世の中にほとんど誰もいない
ということだ。よっぽど慎重なごく一部の人を除いて、ほとんどの人は「自分は人のこころがわかっている、ある程度は」と思っている。だがもし、本当にそうしてすべての人が「こころ」をわかっているのなら、人々が傷つけあうことは鎮静するか、そうでなければわざと傷つけあっているのだということになる。その仮定はいささかわれわれの実際と整合しないところが大きすぎるのじゃないか。誰もわざと傷つけあってはいない。にもかかわらず、傷つけあうことは拡大へ進んでいる。
「こころ」のことに限らず、多くの人は、自分は料理の味がわかっていると思っており、酒の味がわかると思っており、音楽や絵画がわかると思っており、文学や感動がわかると思っている。自分は友人や交際相手を愛せていると思っており、父は息子を、母は娘を、誰よりもわかっていて誰よりも愛せていると思っている。
本当にそうなのか? もし本当にそうだとするなら、それは「自分はかなりの程度、全知全能であり、人々はほぼ完璧な形で幸福を極めている」「人と人とが傷つけあうことはほとんどゼロに等しい」と言い放っていることになる。そのことはわれわれの生きる実際の空間をよく言い得ていると言えるだろうか? まったくそんなことはなくて、率直に言うならむしろその逆行を突き進んでいるのではないか。
このことは単純に言って科学的でない。科学的に言うなら、今あるこの世情の中、
「自分は料理の味もわかっていないし、酒の味もわかっていない、音楽も絵画もわからないし、文学や感動もわかっていない。友人や交際相手を愛せていないし、父は息子を、母は娘を、まったくわかっていないしまるで愛せていない」
という立場に自分を仮定する人がかなりの程度いていいはずなのだ。だがこういう人はほとんどゼロに等しい。その中でも特に、
「自分は人のこころというものをまったくわかっていないのではないか?」
というシリアスな疑いを自分に向ける人がほとんどないのだ。
つまりほぼ全員が、「世の中が冷たくなったとしたら、それは自分以外の全ての人のせいだ」という判断をしていることになる。「何しろ私は、なんだかんだ、全知全能みたいなものだと思うから」……
少なくとも僕自身は、自分がかなりの程度全知全能だというような立場は採らないし、特に人の「こころ」がわかっているのかどうかということについては、慎重な認識を採るようにしている。その上でなお、自分自身を「こころがわかる人間」と自称する方策を採ったのだが、それは状況証拠を掻き集めての決断だ。状況証拠の集合は、確からしさを高めることにしか作用しないので、最後は確信犯として踏み出すよりないにせよ、永遠にやってこない決定的証拠を待っていては、僕が本来できることを何もしないまま終わることになってしまう。
もうずいぶん長いこと、目の前にいる人の「こころ」について、「なんでわかるの!?」と驚かれることが続いている。ずっと連続でそのことがあり、そのシーンは複数の人に目撃され続けている。まだ自我の整わない赤子が母親の手元で泣いているのを、通りすがりの僕が泣き止ませるということも、ここのところ百発百中で成り立っているのだから、これらの状況証拠を掻き集めて何らの決定材料にもしないのはむしろ非科学的で不誠実だ。すでに僕は人のこころが「わかる」のだと言うよりない。それが「完璧」というのではないにせよ。数ヵ月ぶりに会うなり「あれ? ひょっとして新しく男ができた?」「すごい、なんでわかるの」というようなことや、「こうして手をつなぐと、身体の中が熱くなるだろ。今は背中かな」「すごい、なんでわかるの」というようなことが、直感的には僕自身「そりゃそうだろ」というふうに感じ取られている中、これをもって僕自身を「人よりこころがわかっていない可能性がある」とみなすのはほとんど暴論の類だ。
そうして、ひとたび「こころのわかる人間」と自分を認定したからには、僕と同程度の「こころ」の読み取り、および「こころ」へのはたらきかけができない人間は、さしあたり「こころがわかっていない人間」とみなすよりなくなる。そのことは人をギョッとさせるところがあるとはいえ、そのぶん読み手の興味も惹くだろうし、何より「こころ」のことへ本当に取り組んでいきたいと望む人へ、話し合われる構造をシンプルに仕立てることができる。このメリットは最重視されていい。
「こころがわかっていない人間」。それは水族館を歩いている子供のようなものだ。まだ震えるような頼りなさで。その脇に、漁師でもあり学者でもあるヴェテランの男が付き添っている、「魚がわかる人間」として……。この場合、両者の間にどういう営みが起こるべきかは構造的にシンプルだ。「あのお魚さんは怖がりだね」「あのお魚さんは、おなかが空いているね」「あのお魚さんは、いらいらしているね」「ごらん、あのお魚さんは、まもなくサメに食べられてしまうだろう」「お魚さんのことを、よく見てあげてね」……
誰であっても、「こころ」のことへ真剣に取り組もうとするとき、まずは自分自身を「こころがわかっていない人間」という立場へ位置づけるのは正しく好い手続き。そうすれば話はシンプルになる。料理や酒の味が「わかっている」という立場へ自分を置くと、自分は料理や酒についてウンチクや講評を垂れなくてはならなくなるが、「わかっていない」という立場へ自分を位置づけるならば、自分はウンチクや講評を垂れなくて済み、正しく味わい勉強するというすがすがしさへのみ向かえる。そうした構造の単純化へ、合意というのではなくても、この場かぎりのフィクションとして付き合ってみようと遊べる人は、まず知られるべき前置きとしてこのことを理解いただければいい。
・こころは胴体にある
ということ。こころは精神的なものではなく具体的なものだ。「具体/体を具える」もの。
より正確に言うと、古代の人間が「気」と呼んだ、現代で知られるところの人体の生理メカニズム(おおよそ神経回路)が胴体の中を流れており、その流れる/流れ込むところの「センター」、中心が、そのまま「こころ」となる。だから「こころ」に対しては「心」という字が当てられている。「中心」「重心」というのも全て何かしらの「センター」を意味している。
ごく簡単に言うと、人間の胴体には「気」と呼びたくなる何かが実際に流れており(流れていなければ死体になるのだから何かしらが流れているには違いない)、その流路の中央ターミナルが、おそらく心臓付近にあるということ。それを「こころ」と呼んでおり、またそれは実際に「こころ」と呼ばれるはたらきのすべてを担っているのだ。
このことが説明しづらいのは、単純な話、「こころ」という事象の実質が「流れ」そのもののことを指すからだ。「こころとは何か」ということに答えるのに、「これだ」と示し返せる静止画がない。
そのことはたとえば「物流とは何か」ということについて考えてみればわかりやすい。物流といえば、下北半島の端っこでダンボール箱を運んでいるそれも「物流」だ。ところがそのダンボール箱が目的地に届いて静止した途端にそれはすでに「物流」ではなくなる。貨物が流れているうちが「物流」であって、それが静止すればもう「物流」ではなくなる。こうして事象の実質が「流れ」そのもののことを指している場合は静止画的な説明がしにくくなる。そして「物流」といえば「センター」がある。日本最大の物流センター・ターミナルがたとえば東京の江東区にあれば、そこを指して、「ここが物流の中心です」と言いうることになる。人間の場合も、胴体および四肢末端まで流れている「気」のような何かがあり(つまりは神経回路を流れる信号のこと)、その「流れ」のセンター・ターミナルが「ここです」「ここが『こころ』です」ということになる。その直接の場所は、さしあたり胸の中央、心臓の近傍だと捉えていい。「物流」という事象が、下北半島の端っこにまで及んでいることのように、人間の「こころ」呼ばれる事象も、人間の全身の末端にまで及んでいる。つまり人間の全身に「こころ」と呼ばれる現象が普遍的に現れているのだが、それらの連絡がつながってある始発駅および終着駅の場所が特に「こころ」、胸の中央あたりだと捉えてよい。
そして、話が難しくなってしまうが、胸の中央にある「こころ(こころ事象のターミナル)」は、総括として人間の脳に接続もしている。それは言うなれば、物流ターミナルの実際を、丸の内にある本社ビルで統括しているというような状態だ。丸の内にある本社ビルに直接の貨物は届かないが、ターミナルに何が届き、またターミナルから何を出荷するかは、上位レベルで本社ビルの側が大きく管理している。物流において、われわれの実際の貨物が本社ビルを経由するわけではないから、われわれが物流を利用するとき、その全体を統括している本社ビルにはわれわれとしては直接の用事がない。それと同じように、「こころ」の全体は背後で脳が統括しているのだが、そのことにはわれわれは用事がない。われわれが用事がある「こころ」は、ほとんどイコールでつないで「胴体」と捉えてよい。胴体、特に胸の中央が「こころ」だと、われわれは実際的には捉えていていい。
ここで言われる「こころ」、および、「こころがわかる」ということは、単純化して言えば、
「胴体全体、そして胸の中央へ、どのようなものがどのように流れ込み、そして流れ出ているかが、直接感じ取れるようになる」
ということだ。これをもって、「こころがわかる」と言いうる。
むろん、このことを"知識"として得たとしても、「こころがわかる」ということにはまるでならない。ここで話されている知識のことがまざまざと「自分の感覚によって感じ取られる」というとき、目の前に起こっている「こころ」の現象が初めて「わかる」と言いえるだろう。その「わかる」へ到達するには無数の体験、鍛錬、あるいは修行のようなものが要る。身にこたえる体験を重ねる。それによって胴体が鍛えられ、やがて洗練されていくうち、ずっと先にその明確な「わかる」に到達する。胴体がヘトヘトになるまで泣いたり笑ったりを繰り返していくのだ。誰かと胴体を向き合わせながら……。それは筋力トレーニングなどよりはるかに繊細でかつ身にこたえるものだ。
補足すると、物流のターミナル・センターとおぼしき箇所は、胸の中央以外にも存在すると感じ取られている。それはやはり丹田と呼ばれるヘソの下であったり、あるいは身体の各所の突端・点であったりする。そのことは、東京江東区に物流ターミナル(心臓近傍)がありつつ、大阪南港にもまた大きな物流ターミナル(丹田近傍)があることは何もおかしくないということにすぎない。胴体や四肢の各所にそういったターミナルや支店・営業所のようなものが遍在している。肘、膝、つま先、指先、頭頂部など。その他にもまだまだあるのだろう。
人間には「腹が立つ」という言い方がある。似て非なる事象の言い方として「頭に来る」という言い方もある。動物が怒りを示すことについては「腹が立っている」とは言わない。「あのライオンは腹を立てている」とは言わない。なぜならば「腹が立つ」というのは、人間の怒りの状態、人間の腹(丹田近傍)にあるターミナルへある種の強い気の流れが起こっていることを指すからだ。そうして腹が立っている状態で話す人間の声は、当然ながら「怒気」を帯びている。怒気は下腹部の温度を上昇させるので、そのことを指して「はらわたが煮えくりかえる」とも言われる。一方、「頭に来る」「カチンと来た」という言い方は、胴体に怒気が満ちたということではなく、人間の持つ自我の機能を苛立たせたということを指している。「ムカつく」という言い方もされるが、これもおそらく「ムカッときた」という顔面上部の神経興奮の感触からで、自我の苛立ちのことを指しているように感じられる。
これらは人間の「こころ」の仕組みだ。同時に、「こころ」とは別の「自我」のはたらきもまた人間の持つ仕組みのひとつとしてある。「自我」は人間の思念機能の中に宿り、「こころ」は人間の胴体に流れる何かによって成り立っている。
だからこそ、「こころ」の事象として「腹が立った」という場合と、「自我」の機能として「ムカついた」というとき、それぞれ両者は似ているようでいながらそれぞれ別個の様相を持っている。「腹が立った」という事象は「こころ」のものなので、怒りの対象の「こころ」と向き合ってコミュニケートしうる力を持っている。たとえば父親が丹田近傍の怒気によって息子を怒鳴りつけたとき、息子の胴体は「怒られた」という体験を受け取る。胴体を流れている「こころ」の機能は、それぞれの胴体ユニット同士でかなりの程度の共鳴を起こすと捉えていい。それはあくまで胴体−胴体の間で起こる。父親の丹田近傍に起こった怒気は、そのとき息子の丹田近傍にある種のショックを起こす。それによって息子は父に「怒られた」ということをまさに「こころ」で理解する。「こころ」が怒気を体験する。それは身体が直接ビクンと跳ねてもまったくおかしくないほどのことだ。それはまさに胴体・こころに「直撃」するのだ。またそれによって息子の胴体は気の流入・流出について成育するということでもある。父親の怒気が息子の胴体に気の流路を掘るのだ。物流で言えばこれまで荒野だったところに道路が拓かれたことになる。下腹部(丹田近傍)に「こころ」が発達した。幼子は父に怒られたあとショックによって泣き、そのあとなぜかただちに眠り込むように見えるが、それは胴体にある気の流路およびそれを統括する脳が新しい編成をすることに集中しようとして自然に眠り込むのだ。そのことの積み重ねのずっと先に、「あいつも男として肚(ハラ)ができてきたな」と認められることが起こってくる。
こうして「こころ」に生じた怒りはコミュニケートの力を持っているが、一方、「ムカついた」という自我の苛立ちはコミュニケートの力を持ってはいない。だから多くの人は「アルバイト先の店長がムカつく」というとき、「顔も見たくない」ということでコミュニケートの断絶性を表明する。それは友人との愚痴話にこぼれでたり、ときにはツイッターでつぶやかれたりもするが、その「ムカついた」というつぶやきが当の店長に何かしらで伝聞されたとしても、それをもって店長はアルバイト員に「怒られた」とは受け取らない。店長はある種の心境についての「情報」を得たには違いないが、その情報の取得はレポートの取得であってコミュニケートではない。「情報」は自我に届くのみだ。
母親が子供に向けて「○○ちゃん、そんなことしちゃダメでしょ!」と、キツい口調で言ったとする。その苛立ちを帯びた声はキツい口調に聞こえるが、あくまで自我の苛立ちを帯びている声に過ぎず、丹田近傍の怒気を帯びた声ではない。そういった声は実は「キツい顔」から出ているに過ぎない。自我を担う端末はおおよそ「顔面」だから。よってこの叱責の声は子供の胴体へは届いていかないし、子供の胴体の気の流路を掘りはしない。ではこの声はどこに届くかというと子供の自我の機能に届く。母親の自我の苛立ちが子供の自我の機能に届き、子供に自我の苛立ちを学習させる。子供の自我機能を成育しているのだ。こうして育てられた子供は自我が過熱する性質になってゆき、街中や公園で奇声を上げ始め、物の取り扱いが乱暴になり、子供同士でも順位づけに鼻息を荒くするようになり、子供同士でも互いに見栄を張ることを発達させていく。子供は偏ってプライドの高い性質になり、そのプライドが庇護されない環境に至ると、プライドを防御するために他者や世界と関係性を閉ざした表情の暗い人間へと育っていく。あるいは「外面」と「内心」がはっきり分かれた性質に育っていく。仮に能力の天分に恵まれたとしても、そのことを鼻にかけて「鼻もちならない」性質の人間へと育つ。こうして自我に関わる機能のことは、「鼻高々」であったり「面子が保たれる」であったり「眉をひそめる」であったりと「顔面」に結ばれて慣用句にされている。このことは胴体に結び付けられた慣用句が「こころ」の事象を捉えていることとはまったく対照的だ。子供ながら、親に連れられて海外旅行へ行くというとき、そのことを「鼻にかける」子供もあれば、そのことに「胸が躍る」という子供もあるのだ。「こころ」は胴体に宿っているが、「自我」は顔面に宿っている。本当は顔面も「身体」の一部なのだが、さしあたっては「胴体」「顔面」がそれぞれ「こころ」「自我」なのだと区分して捉えておくのがいい。
われわれの誰が「こころがわかる人間」と言えるだろう? ここに話されたことは誰の知力においても単純で明快なもののはずだ。人間にある「こころ」および「自我」の機能。その機能はおおよそ、「こころは胴体」「自我は顔面」という形で接続されている。それぞれ、胴体に「流れて」いるもの、顔面に「貼りついて」いるもの。いうなればただそれだけだ。
なぜこの単純明快な「こころ」および「自我」の仕組みが、誰にでも平易に常識として知られていないのだろう。おそらくほとんどの人にとっては、この単純明快な「こころ」および「自我」の話が、ほとんど初耳として聞かされる話であるはず。「胸」に手を当てて考えてみろ。誰でも胴体をもって生きており、いつでも見下ろせば眼下にあるはずのこの胴体について、ここに「こころ」の機能が宿っているということをなぜ誰も言わない。なぜ誰も気づかない。なぜ誰にも教えられない。なぜ誰も常識として、人にまず「胴体」を向けようとする習慣を持っていないのか。
第一に嘆かわしいことは、子供の時分からでも、その胴体が「こころ」の実体として育成されないということだ。母親は自我で説教をし、父親は自我で子供に遊びを与える。教師は自我で教育をする。そうすると子供は顔面に宿る自我の機能を発達させる。カメラ映りにどういう「キメ顔」がいいか? ということばかり学習する。子供向けに作られるアニメーションは顔面をきらびやかにし、いじめっ子の体躯、お金持ちの顔面、ヒロインの怒る姿、といった描写の描きわけに精魂を込めない。顔面に記号的な表示だけを大げさに貼りつけていく。この中で子供は自我機能ばかりを成育させ胴体の成長を凍結させられている。顔面だけが成長する。子供は自我が激高しやすくなる。自我が激高すると大声を上げるが、その声を発する胴体の器官が鍛えられていないため、その声は何の「こころ」も帯びない。すると子供は、つくり声か、奇声か、嬌声か、何にせよ「癇に障る」声をしか出せなくなる。その中で声を交わす友人関係も、つくりものか、奇抜なものか、騒がしいものか、「こころ」を帯びない友人関係になっていかざるを得ない。そのとき苦しいのは他ならぬ当人たちなのだ。
第二に悲しむべきことは、子供の時分を超えても、その胴体に宿る「こころ」の機能が無視され、粗雑に扱われ、傷つけられ、やがては損傷させられていくことだ。「こころ」は胴体の中にある何かの「流れ」だ。子供がうつくしい蝶々を思いがけず捕まえたとき、それを母親に見せようと家に駆け戻っていくことがある。そのとき子供の胸は弾んでいる。胸が躍り、胸が昂り、胸がときめいている。顔面の表情は透明だ。そうして母親に蝶々を見せに来た少年に向けて、母親は咄嗟に「褒めよう」「かわいがろう」と発想するかもしれない。自我に蓄えた情報と価値観に沿って。母親は「笑顔」になり、「きれいねえ、よく捕まえたわねえ、○○ちゃん」と子供を褒める。褒められると子供はよろこぶ。けれどもこのとき、子供を褒める母親の声は冷たい。どれだけ甘やかした声にしたつもりでも、それは「こころ」とつながってない以上必ず冷たい声になるのだ。子供の弾む胸を引き受けて、母親の胸から出た母親の声ではないから。このとき子供の「こころ」は、母親に褒められながら実は傷ついている。顔面から出てきた声に傷ついている。子供はそのことに自分自身で気づけない。褒められて「うれしい」という自我の認識が勝つ。だから表面上、まさかそこに不幸が生じているなどとは、よほど訓練を積んだ感性の人間にしか気づかれない。表面上は幸福の光景に見える。
ところが「こころ」のほうはその冷たい声を受け取っており、冷たい声から受けた「痛み」を覚えているので、次にうつくしい花を見つけてそれを手で摘んだとき、今度はもうそれを母親に見せに行こうという気になれない。「気になれない」というのはつまり、胴体にその「気」の流れが起こらないということを指している。かつて冷たい声で「こころ」を傷つけられ、そのとき「気」の流路が断線して閉塞しているのだ。子供の胴体の中に流れるべきものが流れなくなっている。子供の「こころ」はその傷ついたとき以来さびしがっている。さびしがっているからこそ、母親にそのきれいな花を届けたいとも思う。でもどうしてもそれができる気がせず、なぜか「怖い」という感情を覚える。母親に花を届けるのが「怖い」。「どうして……?」と子供は子供心のまま立ち尽くしている。
こうして補えないさびしさを「こころ」に覚えてしまった子供は、あるとき突然何でもないことで泣き始める。「朝ごはんはパンがよかった」というようなことで泣き始める。母親としてはわけがわからない。子供は、こころの見る「夢」があり、それが閉ざされてばかりだよお母さん、さびしいよ、という文脈で泣いている。インビジブルな文脈がある。だが母親は自我の生き方をしているので、子供が泣いている「理由」がわからないと考える。「朝ごはんはパンがよかった」という口上を真に受ければ、母親はますますイライラしてくるだろう。
本来このとき、母親はその「理由」などを知る必要はなく、何であれ「胸を痛めて泣いている」ということが自身の胸で受け止められればいいのだ。子供の素直な胴体はそのまま「こころ」に起こっていることを直覚する。自分の胸の痛さが、お母さんにも胸の痛さとしてつながっている、ということを体験できれば、子供はそれを直覚し、「さびしくない」という確信を得る。自分の胸の痛みは同時にお母さんの胸の痛みでもある。それならさびしくない。このとき子供は、まだ言葉としては学習しないまま、「こころ」の実物を持って「こころが通い合う」という現象を体験する。子供の「こころ」は、これこそ一番やさしいことなのだと「こころ」そのもので学習する。本来そうあるべき。
ところが、自我において「よい母親であろう」としている母は、子供のことを理解しようとするが、母親自身の胴体がクローズなので、いくら理解しようとしても肝心の子供の「こころ」が自分の「こころ」に入ってこない。子供の「胸」の痛みが自分の胸に映りこんでこない。母親はジョギングをして筋力を鍛えているがそのことは「こころ」の活性には無関係だ。母親は熱心なつもりだが子供の「こころ」にとってそのすべての声は冷たい。母親がしているのは本当は「熱心」ではなく「頭熱」だから。
あるとき子供は算数のテストで百点を獲って帰ってくる。子供はそのことに「鼻が高い」という自我の興奮を覚えていた。百点のテストを母親に見せると、自我において「よい母親であろう」としている母親は、これは得意分野として「まあ、○○ちゃん! すごいわね!」と子供を自我において褒める。子供は自分の「鼻が高い」という状態を祝福される。顔面が紅潮する。テストで良い点を獲ることが「よい子」であり、その「よい子」を祝福されるのが「愛される」ことなのだと誤解し始める。だがその誤解はあくまで誤解であり自我の受け持つところだ。ふとしたとき気づかされる。「こころ」のさびしさはとてつもない空洞にまで広がっている。子供の胴体はあるとき動かなくなったり、あるいは急に痙攣し始めたりする。子供はなぜか胴体を掻きむしり始めたり、刃物で傷つけてみたりという自傷行為を始める。すべて胴体・こころのさびしさが上げる悲鳴だ。自我の認識においては自分は「よい子」であり、お母さんについては「大好き」なのに。
第三に恐れるべきことは、大人であれ子供であれ、「こころ」の機能が損傷することで、もう生きることを遊べなくなり、休むときに休めなくなるということだ。たとえばいわゆるトランプ遊びとしてババ抜きをしていたとき、避けて選んだつもりがついに指先がジョーカーを摘み上げてしまった。ジョーカーの絵柄はおどろおどろしく描かれている。その絵柄に合わせてゲーム性の示すところの「ババ」が、子供のこころを「ゾクッ」とさせる。胃の腑が冷える。背筋に寒気が走り抜ける。たとえババ抜きに少額の賞金が掛けられていたとしても、その本質的な遊びは「こころ」にある。「誰がババを持っているか」「どのカードがババか」「引いたカードが揃うか」「自分は次にアガリになることができるか」。心臓がどきどきする。そして「ババ」を引いてしまったときに起こる「ゾクッ」と起こる背筋の寒気、胃の腑の冷却。「こころ」に起こるスリルの体験。これによってババ抜きは単なるゲーム性を超えた「遊び」になっている。だがそれが「遊び」になりうるのはそうして「こころ」の現象が伴っているからであり、「こころ」の機能が損傷している場合はそれは単なるゲームであって遊びにはならない。その意味で、実際、現代の子供にババ抜き遊びをさせたとしても、すでに胴体・こころの機能が損傷しているので、「胸がドキドキする」「背筋がゾクッとする」という現象が起こらないことがよくある。その場合、単なるゲームとしてプレイしていることになる。プレイする動機は、ささやかな賞金と、家族仲の「空気」を読んでのことと、あとは何であれ勝ち負けに興奮する自我の性質によってだ。彼はババ抜きを「遊び」とは捉えられず、ゲームに勝利すれば異様に得意満面(自我は顔面に結び付いている)になり、敗者を興奮のままこきおろす。そして敗北が数回続くと異様にイライラし始める。
「遊ぶ」というのは本来「こころ」のものであるから、「みんなで遊ぶ」ということは前提として「(みんなの胴体を並べて)遊ぶ」ということで成り立っている。けれどもこの子供はすでに、感覚として「胴体を並べて」ということを感じ取れていない。「胴体を並べてババ抜きをする」ということができないのならば、ババ抜きほどくだらないゲームはないだろう。子供は勝敗に興奮したりイライラしたりしつつ、誰とも胴体を並べずにくねくね体勢を崩しながら「ババ抜き」をしている。よくよく見ればそのとき子供は誰とも「一緒に遊ぶ」ということはしていない。母親はそれを見て、「ウチの子は集中力がないのかしら?」と情報誌的な心配する。本当に起こっているのは集中力の欠如ではなく、「孤立した胴体の液状化」だ。
こうした子供はすでにババ抜き「遊び」をさせるのに性質として不向きに成り果てている。それで彼の愛好する遊びは、絵柄の派手なカードゲームであったり、プレイヤーの自我を撫でこすって興奮・酩酊させるように作られた何かしらのヴィデオゲームになる。彼がいかにそれらのゲームに興奮して熱中しているように見えても、そのとき彼の「こころ」はますますさびしさに巣食われているのだ。彼の自我は興奮と酩酊を繰り返し、自我を酩酊させてくれるものを「癒される」と捉えるようになる。(もちろん、そういった陳腐さを超える良作があって、酩酊ではないイマジネールそのものを与えてくれる場合は話が別だが)
これが「こころ」だ。今、われわれの誰をして、「こころがわかる人間」と言いえるだろう。教育評論家はこのことに言及したか。大人というべき両親はこのことを知ってきたか。聖職と呼ばれる教師はこのことを教育の念頭に置いてきたか。これまで「こころの教育」としつこく言われてきたモットーは、「胴体」を育成するのに必要な知識の常識化と鍛錬のメソッドを確立させてきたか。
そして、今誰が実際に、「こころ」を通い合わせるということは「こうだ」と、目前に示せてやれるだろう。
そのことができようもない大人は、いったい今何の自負においてふんぞり返った姿を見せているのか。
僕は今怒りにおいて、このことに引き下がる余地を持たない。
ここにおいてのみ、引き下がるのはあなたのほうだ。まだ震えて水族館を歩いているだけの子供、「こころがわからない人間」。
すべてのことを無益にしないために、僕はここで突如としてこのように申し上げる。僕は「こころがわかる人間」を自称する。そのことの主張をさんざんした。
それについて、一定程度の了解を得てもらえたとしても、ここで、
「でも、あなたにわかるのは、こころのことだけなのでしょう?」
という嘲った言い方がありうる。
それについて僕は、
「まったくそのとおり」
と答える。
この応答自体、何のやりとりをしているのか意味不明に思われるかもしれない。けれどもこの表明は省略するべきでないものだ。
「こころ」があるとしても、何も「こころ」がすべての物事の上位にあるとは言えない。
何をもってしても、「こころ」こそが上等だとは言えないし、「こころ」が偉いのだとも言えない。
ここで話されているのは、あくまで「こころ」のことだ。ありふれた、「こころを尊崇しよう」という陳腐な立場のことではない。
「こころ」とはそれだけで、「こころ」が上位なのだとはまったく言えない。
ただそれでも、「こころ」とはこれなのだ。
そのことにのみ、僕は今さら引き下がる余地を持たない。
それを上等と見るか下等と見るかの標準には介入しない。
「こころしかわからない下等な人間」
僕はそれであっていいし、それについて正当な嘲笑の対象であっていい。
ただ、それでもなお、ここで「こころ」とはこれだ。
胴体に流れているものだ。
それを直接感じ取り、直接自分のものとし、直接触れ合わせることのできない者は、今ここにおいてのみは引き下がれ。
そうでなければすべてが無益になるだろう。
別に上等な者が下等な者に引き下がっても構わないはずだ。
怒り狂った下等者、つまり犯罪者のような者には、引き下がるのだって合理的な一手じゃないか?
怒りに基づいてしか、ここまで話されたことの文脈は成立しえない。
こころしかわからない僕が下等な者であったとしても、こころを傷つけられた少年少女、あるいはこころを傷つけられた女まで、下等な者とは言えないはずだ。
そのことへ向かえ。それ以外、ここで唾を吐こうがどうしようがどうだっていいことだ。
「こころ」を救えとは一言も云わない。そうではない。救われるべきは少年少女と女だ。
それさえ救われれば、ここで「こころ」のことを話したゴミのようなことはさっさと忘れてしまって構わない。
世界がグッと良くなれば、そのとき僕は世界に一人の知人もなくすだろう。そうなればあなたも色々気分がいいし、それこそがお互いに最もよろこばしいんじゃないか?
さて、どこにでもある風景として、赤子を抱きかかえているまだ若い女性がいる。どこにでもある市井の公園の入り口だ。そこで赤子は、母親の胸元に抱えられながら、何かしらの理由によって泣き始めた。体調不良でない限り赤子はさびしさによって泣いている。まだ若い女性は母として我が子をあやすが、泣き止まない。「よーしよし、○○ちゃん」という声がしきりに掛けられる。けれども泣き止まず、むしろ母親が声を掛けるたび、赤子の声は悲痛になって泣くことをぶり返すようにさえ感じられる。赤子といっても嬰児ではないのでもう十分に声は大きい。周囲から騒音に向けたヤレヤレという視線が集まる。公園の入り口で若い女性は母として困り果てている。そういうところに僕が通り掛かることがある。
もう何度も僕の直接の友人は目撃している。僕は泣いている赤子の視界に入りこんで、ある作業をする。僕から赤子へ「こころ」を向ける。具体的には胴体を向けるわけだが、そのとき両肩が照準となって角度がきっちり赤子の胴体のほうへ向かっているのがいい。もちろん形だけ真似しても不毛なことだ。が、かといって形をおろそかにするのも的外れだ。
重要なことは「流れている」ということ。「こころ」とは静止的なものではなく、かといって動的なものでもなく、もちろん思念的なものでもなく、「流れている」ものだ。このことは直接感覚で知るよりない。そもそも「感じる」ということは流れているものについてしかできない。
僕から赤子へ「こころ」を向ける。すると赤子はふと「気を取られた」というふうに、僕のことを見つけて僕のことをまっすぐに見る。「こころが通う」ということが起こり始める。「気」ということを肯定するならば「気ごころが通う」と言ってもいい。
このとき、母親は僕の気配に気づくので、僕のことを見て「何この人」という表情を見せる。わずかに警戒および退避の準備体勢になる。僕はそのことには頓着しない。僕は「こころ」を赤子に向けつづけている。赤子はさびしがっているのだから、何かしら身体の動きを示してやる。無意味な動き。「こころ」に届きさえすれば意味はなくていいし、小さな子供に向けて大きな動きは不必要だ。泣き止ませるのだから何かしら「楽しい」動き。ただしこの動きも「流れている」ものでなければ赤子の「こころ」には届かない。僕の顔面はほとんど無表情だ。少々、おかしさから表情が崩れているところもあるが、表情にこれといった用途や効果はない。なお胴体を内部的に動かせば(「流れ」を与えれば)、表面上の動きは本質的には必要ではない。ただ表面的にも動いたほうが単純に目を惹きやすいしわかりやすいというのもある。
あるていど時間を与えてもらえたほうがよいが、だいたいの場合は十数秒のうち、赤子は泣き止む(極端なパニック状態を除く)。赤子の胴体はまだ柔弱で、当然ながら鍛えられてはいない。その胸はささやかなさびしさでも強く痛むのだろう。そうしてさびしさですぐに痛むぶん、その胸は楽しさでもすぐに弾むようだ。泣き止むのみならず、パアッと表情を明るくする場合もよくある。その途端、むしろ母親のほうがホッと胸を撫で下ろすのが常だ。そして母親は僕に軽く頭を下げて去っていく。何割かは、「○○ちゃん、お兄ちゃんに、バイバーイって(しなさい)」と子供にあいさつの習慣を与えようとすることもある。
「こころがわからない人間」および、なお「こころがわかる人間」を目指す人へ。このときあなたは、むしろここに示されている母親に起こる挙動について注目しなくてはならない。なぜ母親はホッと「胸を撫で下ろす」のか。そして先ほどまであった、僕に対する「何この人」という表情はどこへ消えてしまったのか? その間、わずか十数秒しかないのに。<<強く注目せよ>>。<<なぜ母親にこんな挙動が起こるのか>>。
正解はこうだ。赤子はさびしさに「胸」を痛めて泣いている。それによって泣いているのだから、その泣き声は母親の胴体に届き、母親の「胸」を痛めてもいる。母親は、そのことを感じ取れないだけで、感じ取れなくても胸が痛んでいるのだ。だからこそ、子供が泣き止んだとき、母親は「胸を撫で下ろす」。胸が痛かったものが、済んだので、胸を撫で下ろした。ただそれだけのことだ。
ついでに言うと、僕は<<あまり子供が好きではない>>。好きではないにも関わらず、「こころ」が通って泣き止むということは起こる。つまり、僕の自我が認める好き嫌いと「こころ」の現象はまったく別ということ。僕は子供が好きではない。が、その身体にある「こころ」そのものが好きだ。僕は子供・赤子に触れたわけではなく、ただ「こころ」に触れたのみ。よってここに起こったことに矛盾はない。僕の目には、そこにいる赤子も母親も、ただ同じ存在する「こころ」として見えている。何しろ僕は「こころがわかる人間」を自称するわけだから。「お母さんと赤ちゃんがわかる人間」とは事象していない。そこにあるのはただの「こころ」だ。
本当にそうして「こころ」そのものが「見える」人間がいるのだということを、この場のフィクションとしてだけでも認めてもらえれば、あなたが今読み取っている話はあなたにとって有益なものになるだろう。「こころがわかる人間」。僕は「こころ」だけがわかる不快で下等な人間だ。
母親は本来、赤子がさびしさで「胸」を痛めて泣いているのを感じ取り、その「胸」をなぐさめてやらねばならなかった。赤子の胸の痛みを、我が身の胸に映して感じ取りつつ、かといってもちろん、赤子と一緒になって胸の痛みに泣いているわけにはいかない。母親は痛みに負けず、胸を弾ませ、胸を打つ、胸があたたかくなる何かを赤子に向けねばならなかった。そうすれば、僕がしゃしゃり出なくても赤子はさびしさを癒されて泣き止んだろう。
母親は当然、大人として、普段の日常を自我認識の選択・判断の繰り返しで生活している。信号が赤になれば停止すること。あの家のおばあさんには近づかないこと。八時までには買い物を済ませて食事の支度をしたいが、なるべく割引のシールが付くのを待ちたくもある、ということなどだ。その自我認識の選択・判断の一つとして、「子供が泣いているので、あやさねば」「泣き止ませないと、周りに迷惑だ」という選択・判断をしている。
その選択・判断は間違っていない。けれども、泣いている子供の「胸」をどうあやすか? ということは、自我の持つ知識の中には入りこみようがない。母親は自我に入っている「あやす」という記憶に基づいて、子供の身体をゆすってみたり、「やさしい声」を掛けてみたりした。自我に入っている記憶と情報においては、それで子供は泣き止むということだったが、実際にはそのようにならない。すべて母親の胴体・こころから出たものではなかったから。泣いている子供の胴体に届かない。それで母親は方途がなくて立ち尽くしていた。そこに僕が通りかかったとき、母親の自我は当然僕のことを「見知らぬ赤の他人」とだけ判断するので、「危ない人じゃないの?」と警戒する選択をした。そして警戒の「顔」をした。このとき僕自身も、当然の自我判断としては「僕には何の関係もないことだし、赤の他人だ」という判断をしている。自我サイドはそういう判断だ。
しかしそれらの判断とはまったく別に、人と人の「こころ」が通うという現象がある。まず僕が赤子に「こころ」を向けると、赤子は「こころ」が通ったことによって泣き止んだ。そのとき母親のほうも、先ほどまでの自我判断とはまったく別に、「この人が子供を泣き止ませてくれた」ということを感じ取っているのだ。母親の胴体、「こころ」がそこに起こったやりとりを目撃して共有している。「見たまんまでしょ」という感触で。それによって、僕とその母親の間にも一定程度「こころ」が通い合っている。赤子を仲介として、僕−赤子−母親という「こころのつながり」が起こった。それで母親の表情はゆるみ、すでに「気ごころ」の知れた誰か――赤の他人にせよ――に向けて、親しい会釈の挨拶をして別れた。
なお、こうして「こころ」が通い合うとき、それは胴体のことだから、胴体(に流れる気)そのものが活性化して、胴体の体温を上昇させる。体温のみならず、何かしらの湿り気や蒸気も伴うようだ。具体的に汗を掻くというのもある。つまり胴体が熱気を帯びる。そのことを一般に「(こころが)あたたかい」という。そして胴体があたたかくなったとき人はどうなるか。入浴のときに知られているように、誰でも「ホッ」と一息をつく。それで母親は、子供が泣き止むと同時に「ホッと胸を撫で下ろした」のだ。
ここまで話されてきた通り、「こころ」はそもそも精神的なものではない。このことは何度繰り返されて強調されてもよい。「こころ」は精神的なものではない。「こころ」が精神に属するのではなく、むしろ「こころ」の状態によって精神が影響を受けると捉えるのが正しい。
たとえばこの場合、母親はこころが「あたたかく」なったのだから、その後の歩調を軽くするだろう。胴体が活性化して(「流れているもの」が活性化して)いるのだから歩くのも軽い。そして帰宅すれば、「今日、ヘンな人がいたんだけど、実はすごくいい人でね」と、体験した一通りのことを彼女は話すかもしれない。その後、子供を寝付かせてから、
「わたし、母親なのに情けないな。ちゃんと自分で出来るようにならないとな」
と熱い思いとしてそのことを思えるかもしれない。このときつまり、「こころ」があたためられたことによって、精神に「物事を明るく捉えて発想する」というたくましさが付与されている。「こころ」のあたたかさが精神を励ましたのだ。もしこの母親が、自身の胴体に鋭敏な感覚を残していれば、一連の体験について「そうか、わたしは胸を打たれたんだ」と気づくかもしれない。「目が覚めたわ」と感じるかもしれない。「目が覚めた」といって、もちろん母親は眠っていたわけではなかった。そうではなく、自分の見るもの全てが改めて明るく鮮やかになったから、そのことが「目が覚めた」というように感じられるだけだ。
「こころ」とはそういうものだ。「こころ」は胴体にあり、驚くほど「理に適っている」ものだ。
多くの人は、「こころ」を「精神」だと誤解している。それで、自分の精神がいくらでも動揺することに合わせて、「こころが弱いなあ」「メンタルがね」という誤った認識を育てていってしまう。意欲的な人はそのことについて「メンタル強化」のトレーニングや学習をするだろう。胴体のことは完全に置き去りだ。そうして「こころ」を空洞にしたまま「メンタル」だけを鍛えてきた人は、まるで冗談ではなく、「我が子が泣いてもメンタルがブレない」というような、悪鬼羅刹のような自負をもって自分を強い母親だとみなしていたりすることがある。この母親は子供の「こころ」に対しては完全に不感症のまま、一方的に写真を撮り、ホームビデオを撮影し、誕生日を祝い、子供を習い事に通わせる。子供の胸が痛もうが弾もうが「知ったこっちゃなし」だ。母親の愛が受けられず、すさまじいさびしさを宿した子供は必死になって母親の認める「よい子」像を追跡する。そのことは子供を努力に向かわせるように見えるが、そうして努力の道を進んだ人間はずいぶん後になって、自分が「家畜」のやり方で育てられたということに気づき、とてつもない憎悪と苦悶に陥る。「こころ」が通い合うことなしにただ経済生産性の高いユニットとして育てられれば、それは育て方として家畜なのだ。自分がどう育てられたかはさておき、仮に自分が誰かを育てるとしたらあなたはそのような育て方をしたいと望むだろうか?
「こころ」は胴体にある。胴体に起こる何かの「流れ」。それが「こころ」であり、その性質はまるで物流にたとえて差し支えないほど理に適っているものだ。人間の「こころ」が育つというとき、それは国内の物流網とシステムが発達するということに重ねて捉えて構わない。今では宅配便は時間指定をして配達してもらうことが可能になったが、二十年前はこのシステムはなく、当時は「そんなことは絶対に不可能」と言われていた。そもそも貨物が翌日に届くという早さでもなかった。それが今日では当日に着く便も珍しくなく、中には数時間と待たず手元に届く配達システムまで始まっている。高速道路はじめ、交通網そのものが拡充したこともあるだろう。人間の胴体およびそこに流れる何かの流路も同じようなものだ。ターミナルである心臓近傍から「何か」を指先にまで速やかに流すことはまるで不可能に思える。けれども「流れ」が発達し拡充すると、かつて不可能だったことが可能になる。それが「こころ」が発達するということだ。
むろんそのためには、息子が父に怒られることのように、身をもって学び、身をもって付き合う何かしらの関係が必要だ。ツイッターで伝わってきた何かはすべて情報であって、そこに起こるやりとりはレポートであってコミュニケートではない。胴体は育たない。「こころ」は胴体にあって、胴体に注目しなくてはならない。胴体に注目し、胴体を並べて遊ばなければ胴体は育たない。
通信端末にフリック入力を行い、チャット・システムを通して「好きだよ」のメッセージを送る。そのとき胴体は? 胴体まで一緒にチャット・システムで送信はされない。「好きだよ」のメッセージ一つに、確かに「思い」は乗る。ハートマークを添付すればその「思い」も乗る。だが「こころ」は乗らない。「こころ」を乗せようと思うと文章そのものに「文体」を生み出すしかないが、そんなことはごく特殊な人間にしかできないことだ。胴体(こころ)から文章を出力できる人間にしか文体を具えた文章は書けず、そのことにはふつう膨大な訓練が必要なものだ。
だから、胴体を人前に持ち込むよりない。人前に胴体を晒して、そこに「こころ」を見つけるよりない。胸の高さほどもあるテーブルは邪魔なもので、なるべく胴体と胴体の間には障害物がないほうがよい。たとえば「こころ」を伝えるわけではないニュースアナウンサーは「デスク」に座してアナウンスをするが、歌手が同じ「デスク」に座って歌うのではよほど特殊な演出を除いては変なことだ。「こころ」を伝えるときは、なるべく胴体そのものが相手の胴体にまるごと向き合う形がいい。胴体を並べて向き合わせる。一人で学問に向きあったり、仕事に向きあったりするときは、学問に「胴体」を向き合わせ、仕事に「胴体」を向き合わせるしかない。
男女が胴体を目前に向け合って「好きだよ」と言う。そのとき大半の場合は、顔がにやけるか、照れ笑いが伴うだろう。そのことを青春らしさの光景としてよろこぶ向きがあるのも自然なことだ。けれども、どの古典演劇を見ても、男女が互いの恋を告白するときに、そこに照れ笑いを浮かべてにやけること、などというト書きはない。本来そこにはにやけて笑うようなものは何もないのだ。何が起こっているか? 本来「こころ」が交わされるべきところ、正しく「こころ」が交わされきらず、「自我」でのやりとりが混入しているのだ。自我のやりとりが混入するので「顔面」のやりとりが混入している。「好きです」の一言さえ、告白にはならず口頭でのレポートになっていることがしばしばある。自我からのレポートとして、「好きです」なんてことを報告されれば、それは照れくさくてにやけるに決まっている。申し訳ない忠告がひとつある。ここでこの話を聞くことにさえ、つい顔がにやけている人もありうると思われるが、そのあなたについては基本的に「バカ」だと申し上げておくよりない。心苦しいがしょうがないことだ。そのことを申し上げるために僕は怒りを根拠にしてここまでの話を続けている。どうしてもそんなしょうもない半笑いの顔に逃げたいか? こうして僕は怒りを根拠にして書き続けるが、このことは途端に自我の読み手に向けては「ムカついた」「頭に来た」ということを引き起こすかもしれない。だが今僕はずっとその事象について話しているのだ。
フリック入力にせよ、マウスクリックにせよ、テレビモニタのリモコンにせよ、ヴィデオゲームにせよ、生活の周辺は今「指先でする自我遊び」に包まれている。寝転んだままPCを操作したい、と望む人は今かなりの数いるだろう。スマートフォンのユーザーで寝転んだままフリック入力をしたことがない人はあるまい。テレビモニタのリモコンは、むしろユーザーに「寝転んだままどうぞ」という意図で作られたようなものだ。今映画館が流行しないのは、二時間も座席に座っていられないという単純な胴体強度の問題もある。
ここで話した「胴体」「こころ」のことは、きわめて基本的なことだ。初歩的なことだけを話している。とはいえこれが「基本」であるから、この基本から逸脱する他の要素はまずないが、もちろんここで終わりではなく、この先に続く「こころ」の事象はもっと遥かな奥行きを具えている。「胴体」といっても、一人でいるとき、目の前に人がいるとき、目の前に異性がいるとき、目の前に裸の異性がいるとき、あるいは目の前に「敵」がいるときなどで、それぞれに起こってくることが違う。胴体が向き合うべきことが変わってくる。一人でいるときに「こころ」をいくらか感じ取れたとしても、初対面の異性とペアを組んで「音楽に合わせて踊れ」と言われたとき、そのペアダンスを「こころ」からのものにするというのは別次元というほど至難の業になる。ましてそれが無数の観衆に包まれて注目されており、さらにはそれが今後の自分の未来に大きく影響するものだとすれば? その中でもなお「自我」が混入せずに振る舞えるとしたら、それは相当の、格別といっていい「こころの使い手」だ。そんなことはふつう、一生かかってもできないと覚悟するよりない。ただ、その一生できないことも、何かの瞬間にできてしまうことがある。それは一種のマグレでもあるが、純粋に自分が「こころ」のままであれたという、生きる中での特別な体験になる。人間はそれを得るために生まれてきた。音楽があり、舞台があり、身体があり、ダンスがあり、声があり、歌があり、言葉があり、物語がある。街があり、男があり、女があり、子供があり、老人がある。海があり、山があり、川があり、木々がある。空がある、空気がある、雨がある、太陽がある。すべてにある「流れているもの」が、そのとき一瞬でも合一したら? どのような体験が得られるのだろう。人は生き方を様々に変形しながらも、ずっとそのことに向かって生き続けている。
今、われわれの生きる時代空間に、「こころ」はどうなっているだろうか? 「指先でする自我遊び」の中、胴体・こころを向き合わせて鍛える機会をずいぶん逃してきた。チャット遊びに費やした時間は、胴体を向き合わせて話した時間を凌駕してしまっている。自我遊びのマーケットが拡大すると、産業はそちらに野火を放ち、変わって「こころ」でする遊びのほうは衰退していった。そのことには容赦なくセックスのことも含まれている。代わって「腐女子」のブームが台頭した。
どうしてハロウィンや「コミケ」を含め、人々は「仮装」することに異様な熱狂を示すようになったのか? わざわざ旅先に「棒」を持ち込んでまで「自撮り」をする。自撮りといって、何を撮るかというと「顔面」を撮るのだ。それらの「自我遊び」の中で、成人式でさえ奇声を上げる人が増え続けて、一見すればにぎやかにも見えるところ、互いの胴体・こころには何かが届きあったのか。今われわれの生きる空間における「こころ」のありようはどうなっているか? それは一言でいえば「悲惨」というよりない。とはいえ悲惨というのも、絶望でなく怒りをもって迎えればしょせん見慣れるくだらないものだ。
僕の目の前で、しかも知人でさえない赤の他人としての女が、心をパッと向けられたとき、直後にどれほど穏やかでやさしい、無邪気で無垢な表情を返すか。あれほど険しい顔をして、冷たい気配が満ちていたこわばった化粧の女に、このような秘密の顔が隠れていたのか。そのことにたびたび驚かされたが、今はもう驚かなくなった。人間には「こころ」がある。今はほとんど使われていないだけで、「こころ」が消失したわけではない。そしていついかなるときも「こころが冷たい」ということはありえない。「こころ」につながっていない状態が冷たいのであって、「こころ」が通えばいかなるときもこころそのものはまったく冷たくない。そのことは、たとえ僕のことが嫌いな人であってもそうなのだ。僕のことが嫌いな人に、パッと心を向けたとき、その表情は嫌悪を帯びるにしても、そこに通い合うものは冷たくはないのだ。冷たくさえなければ、人は結局傷つかない。
そのとき僕は女を傷つけないで済む。
多くの人は、自分に「こころ」があることを知らない。「こころ」を知らないことによって、自分が本当には何を求め、何を望んで生きているかを知らない。自我の求めるところと「こころ」の求めるところは違うものだ。ほとんどの人は、それこそ怒りの収まらない話、ただ「こころ」の通い合うあたたかな中で健気に暮らしたいと望んでいる。まるで童話を読んだ直後にそこに「こころ」を置き忘れてきただけなんだというふうに。ここ数年のうちに、時代が大きく変わったとしても、哺乳類としての人間が遺伝子レベルで急激に進化したわけではない。そんなことは科学的に不自然なことだ。だから人間はやはり人間のままだ。今はもうそのことが確信されているので、どれだけあたたかな顔で出てきたとしても驚かない。
今はむしろ僕の目には、そちらが本当の顔だとして、日常から見透かされて見えているのだ。自我のこびりついた顔の、その自我の作用に囚われず、本来解放されるべきその胴体から生み出されうる顔を感じとろうとすれば、その表情は案外前もって見えてくる。僕は怒りにおいてもうこのことから引き下がらない。あるがままを伝えることにする。僕はすでに、通りすがる一人一人の顔についても、通常視認される人間の顔とはまったく違う顔が見えている。もし僕に明視を共有する超能力があるのなら、指差して伝えたいぐらいだ。「あれがこころだ」と。
[怒りの日、「こころ」とは何か/了]