No.367 立てなおし
さすがに色んなことをやりすぎた。
状況がバラッバラであり、アプローチの方法も、メソッドも、僕自身の指針さえバラッバラになってしまっている。
僕自身の、セオリー/理論は、バラバラにはなりようのないものだが、それだけが救いだとはいえ、セオリー/理論だけで何かができるわけではない。
人が何かをするのは、理論によってではなくまず意志によってだし、意志の土台がバラバラのままでは、何をどうしたらいいのやらわからなくなる。
ということで、いくらなんでも立てなおしが必要だと感じて、今これを書いている。
こんな与太話を広げているヒマは、今本来ないのだが、しょうがない、立てなおしを済ませてからでないと余計に路頭に迷うのは目に見えている。
今回は、そういう話なので、文学的な趣向は凝らされていないし、示されるべき主張なども含まれていない。
ただの、個人的なたわごとに過ぎない。
まあ、たまにはそういうことを書き話すことも必要だろう。
必要といって、僕自身にとって必要ということでしかないが。
まず、何といって、この夏から秋にかけては、いくらなんでも身体を使いすぎた。外部的身体を使いすぎた。文学的な表現というのは、外部身体を停止して(つまりデスクの前にずっと座して)、内部身体的な流れから文脈や文体を織りなしていくものだから、身体を内部から外部へ動かすということをやりすぎると、エネルギーの流路が変わってしまう。
こんな説明は、読んでくれている人にとっては「なんのこっちゃ」でしかないだろうが、たまにはそうして意味不明の話を「ふうん、こんなことをマジに考えてやっている人がいるんだなあ」と面白がってみるというふうに楽しんでもらうしかない。
文学および、その他の「身体そのものをメディアにしない芸術」においては、身体の内部的な流れの爆発を、紙やら木やらに映しこむ。それが文章の形を取っていたり、絵画の形を取っていたり、音の形を取っていたり、彫刻の形を取っていたりするのだが、この流路が多岐に開拓されるとそれは逆に混乱するのだ。
どう説明すればいいのか……つまり、僕は今、わけのわからない状況として、身体操作のワークショップを開講している立場にあるが、それは本来文章を書くために使われていた内部身体的な爆発を、外部身体に流入させれば「ホラこの通り身体は動くでしょ」ということを見せびらかしているに過ぎない。つまり、本来は文脈という流れを作りだすエネルギーを「転用」して身体操作に使っているだけだ。
そんなことをしたら、混乱および、エネルギーが枯渇するという見込みは、むろん当初からあったのだが、僕ぐらいのものになればそれぐらい平気で乗り越えるだろうという概算で取り掛かっていた。その概算は間違ってはいなかっただろうが、例によって何事もやり始めると際限なくやってしまうところがあるので、身体操作のほうも「一般的にはできてはいけない」という次元の操作が可能になり始めた。そのことをネタバラシすると、ヘンな趣味の人に絡まれそうなので控えるが、まあとにかく単純に言ってやりすぎたのだ。
「おれのことだからエネルギーは無限にある」と嘯いてやっていたのだが、さすがに少しだけ反省している。いやおそらく、僕自身のエネルギーはほぼ僕自身を満足させるだけ無限に湧いてくる感触ではあるが、それについて人に教えるというのはまったく別のことだった。教えるといって、教える先のみんなはそれぞれに外部身体的にも内部身体的にも苦労したりトラブルを引きずっていたりこわばっていたりするわけだ。そこに道理を押し込もうとすることには負担が発生する。F1パイロットのルイス・ハミルトンでも、渋滞の国道246号を運転すればストレスが溜まるだろう。
僕は「教える」ということが苦手だ。正確に言うと、教えるのがヘタというわけではたぶんないのだろうが(学生のころはずいぶん多くの人に「先生になれ」「教師になれ」と言われた)、ただ性質として表現者と教授者はあまりに違いすぎるのだ。自身を表現者兼教授者として成り立たせるというようなことはおそらく不可能だ。無理に可能にしようとするとどちらも不完全なものになってしまう。
岡本太郎も、「弟子入りしようとするような奴は、それだけで芸術家失格」と言っていたしな……
とにかく、立てなおしが必要だ。
今になって改めて明確に思い知るが、文学なんぞをやろうとしたとき、外部身体的には「不能」になる必要がある。外部身体を不能化するからこそ、その内部身体的エネルギーは紙面に流れ込むのだ。
ちなみにここでいう「エネルギー」とか「流れ」とかいうものは、脳の取り扱う感覚・感触が時間軸を伴って変動する「流れ」の系に属している……という話であって、オカルトでも何でもないのだが、そのことは今話すと面倒くさくなるので割愛する。そんな話はずっと割愛していたいものだ。
ひとまず、この夏から秋にかけて得られた、身をもって思い知らされる知見のひとつがこれ。
・文学は外部身体を不能化することで生成する
宮崎駿が似たようなことを言っていた。
「仕事で追い詰められて、ワーッと走り出したいようなとき、アニメフィルムの中でキャラクターをワーッと走らせる。それをしないで、自分がワーッと走りに出てしまうような奴は、ろくなアニメーターにならない」とか、だいたいそんな話だった。
そのとおりなんだろうなと思う。
ワークショップ「ちゃんでき教室」では、色んなことをパフォーマンスする。身体操作そのものもそうだし、人と人が「つながる」というようなこと、主従・リードフォローの「関係」が生じることとか、そのほかには話芸をしたり漫才までしてみせたりする。芝居じみたことも実演したりするし、歌を唄ってみせたりもする。僕は元々マジシャンだった時期もあるから手品もするし、その他歴史の話をしたり数学や物理の話をしたりもする。いくらなんでもやりすぎで、こんなものはいいかげんバラバラになるのは当たり前のことだ。
ついつい、「これが一番ウケがいい」などと言って、見世物にして盛り上げてしまうのだが、「相手が攻撃してくるところを踊りながら止める」というようなことをしてしまう。インチキダンスをしている中で、相手が攻撃の行動を解発しようとした瞬間、それに対して従体となり「ここ」と割り込んで制止する。同時に動かないと制止できない。見てからでは間に合うわけがない。相手の意志の変動に同調して、相手の意志に乗っかって自分が挙動する(動かされる)という現象でなければ間に合わない。
つまり、僕がヘラヘラ踊っているところの目前で、紙コップを投げつけようと、Aさんが紙コップを振り上げる。が、その振り上げられようとしたコップは「ここ」と伸びてきた僕の手に遮られてガツッとぶつかる。紙コップに割り込んでいるのではなく、Aさんが「動こうとした」瞬間、その意志決定の中に割り込む。Aさんは「なんでわかるんだよ!?」と思わず笑う。Aさんの意志決定が僕の胴体感覚に流入して僕が挙動する仕組みだ。そりゃそんなことをすればウケるのは当たり前かもしれないが、こんなことは文学志向者のすることではない。
と、こんな話をしながら「あ、そうか」と気づいたのだが、外部身体を使いすぎたというのもそうだし、主従における従体を使いすぎたということもある。表現者が何かしらを表現するというとき、それは明らかに客に対して主体のものであって、従体を誘いかけるものでなくてはならない。のだが、どうしても教室で教えているぶんには従体の側を教えることが多くなるので、それを教えるときに僕も従体の挙動を使ってしまう。そのことも今のバラバラぶりの要因だろう。
立てなおしに必要な知見の第二はこれ。
・表現者は徹底して主体であり、客に従体(のみ)を誘いかける。(以前からf式と呼んでいる)
人間関係というのは二通りの捉え方があると思うが、一つには社会的な立場としての人間関係と、もう一つには直接の胴体(こころ)が向き合っての人間関係がある。そして、それらが無関係でなく一定の一心同体の関係で結ばれてあるとき、随時のことではあるが、それは「主従」の関係によって結ばれている。簡単に言うと、話す側と聞く側は片側が主、片側が従として成立している。共に話す側だけでは聞く者がいないので会話は成立していない。共に聞く側だけでも話す側がいないので会話は成立しない。
もちろんここでいう「主従」というのは、武家ではあるまいし、社会的立場の主従のことを言っているのではない。
主でもなければ従でもない、というあいまいな状態は「孤立」と呼ばれる。主従関係がなければ「関係」がないわけで、それは「無関係」と呼ばれる。無関係ということは互いに「孤立」している。どれだけ人当たりがよく見えて、スマイルが絶えず、陽気で気さくなふうであっても、孤立は孤立だ。僕が主従関係を実演したとき、僕が右を向くと、目の前にいる従体は「そちらのほうへ身体が引っ張られる」ということを体験する。僕が主で彼が従なのだから当たり前だ。これは「従おう」とする意図で挙動するのではなくて、感覚的に「なにか引っ張られる」のだ。その感覚機能は胴体の性質に由来しており、その胴体の中心/センターを特に重視するときそれを「こころ」という。つまり、主従においてそのとき互いは無関係でないので、僕のこころが向いたほうへ彼のこころも「引っ張られる」ということだ。またそこに完全な主従呼応が起こるとき、主従関係者は「お互いのことしか見えない」という視覚的現象も体験する。
主従関係における「従」とは、「従おうとする」ということではなく、意識するより前に「ついていってしまう」ということだ。これはしばらくやられてみれば誰にでもわかる。
そういった「こころ」の現象が、具体的にあるということは、やられてみれば誰にでも「わかる」のだが、それが「わかる」のと「ちゃんとできる」のはまた別だ。それを「使いこなせる」というとさらに別になる。
実際に色んな人にお会いして実際に色々やってみると、やれ主従やら人間関係やらで、驚くほどヘタな人が多いのにびっくりする。僕の目の前に立っているだけで膝が震えている人もいるし、あるいは、まだ膝が震えている人は可能性があって、より苦しく感じられるのは人の目の前に立っただけでスマイルが硬直してパニック状態になる人だ。現代、少なからず、「愛想笑いはパニックの一形態」なのだなあと感じさせられる。
それがいいとか悪いとかは思わないが、差し当たり、目前にすると当人がとても苦しそうに見える。
かといって、こういったものは厳しいもので、完全に社会性を失ってしまっている人にあれこれ手ほどきをするような教室はない。そんな教室はどこにも存在しないだろう。社会性を失った人は差し当たりご両親や身内に頼るしかないはず。
僕のやっている教室(何か「教室」という語に自嘲してしまうが)も基本的に、「人並みのことはできるつもりではいるが」「満たされない」「何かもっと別のことがあるはず」と感じている人に向けてのもの。
なぜか東大卒が二人もいて、歯医者さんも看護師さんもいるし、ダンス経験者などもいるので、そういった意味ではレベルは低くないはずなのだ。
が、僕が勝手な物言いで見るかぎり、率直には「みんなえらくヘタだな」と思える。
どうヘタかというと、主にもならないし従にもならないという状態。主として関わっていく覚悟を持たないので、顔つきに「様子を伺っている」「協力を願い出ている」「空気を読んで上っ面だけ似せようとしている」という表情が出ている。一方、従になろうというときも、「わたし」といういわゆる自意識が大きく残ったままだ。結果、及び腰の主体の「つもり」になったり、自意識的「わたし」が出しゃばったまま「わたしがついていく側だわ」みたいな状態になっている。言い方が適切でない気がするが今はそれを整える気が起こらない。
主と主がぶつかったり、従と従がモゴモゴし合ったりするのは、まったく一心同体ではなく、孤立だ。孤立しているからこそ空気を読み合わねばならなくなり、そこには不要な愛想笑いがつきまとう。
胴体/こころが孤立してしまうのだが、さらに言えば、その個体の胴体そのものもバラバラになってしまっている。一心同体という以前に、すでに個人の内においてさえ自分が一心でもなければ同体でもないのだ。「思うことが色々あって、でもがんばりたくて、でも……」という散り散りの思いと、「膝を曲げてから腰を捻って肩を回して腕を振って肘から手が出るんですよね」というような身体のバラバラぶりだ。「腕を腕として使っちゃダメ」と教えているのだが、率直に言うと「うーん、よくそんなに腕だけを分離して使えるなぁ、逆に不思議だ」と僕自身には見えている。
たとえばメシを喰うときにだって、茶碗を持つ手と箸を使う手、および咀嚼する口と嚥下する喉と蠕動する食道などは、一まとまりに連動していなくてはならないはずだ。それらがバラバラにパーツ化していたら、メシはまともに喉を通らないだろう。
基本的には「胴体をひとまとまりで」「ねじったり曲げたりしちゃだめ」「身体をあちこちパーツ化(分離)するな」と教えている。
そして重要なこととして、
・力を入れたら「止まる」
・力を抜くと「動く」
・一般的に思われているのと逆です、人間はパワーで動きません、パワーで「止まり」ます
ということを教えている。
そして「抜けて動く」ということができたら、その動きの特徴は、
・流れて、まっすぐ、ひと調子
となる、と教えている。先ほど言った主従関係とやらも、この動きがある程度守られていないときちんと成立しない。
まっすぐというのは、弧を描かないということで、ひと調子というのは、加速減速をしない、カウントを取らない、ということだ。カウントをとったらカウント調子になる。いち、に、さん、し、と分離カウントすると四調子になる。
説明は文章ではしづらい。
実際にこれらができるようになると、人を横から軽くポンと押しただけでも驚くぐらい飛んでいったり、逆に抑え込まれていてもスッと動くだけで押さえている人の側が吹っ飛ばされたりしてしまう。コツはただ抜けて動くだけだ。抜けて動くと、その動きは流れてまっすぐひと調子になる。
本当に抜ければだが。
色々証明の仕方はあるのだが、そういった挙動の仕方は、人間が何をするにしても基本動作として必要になるものだ。この基本動作ができないほど身体が不能化していると、あとはもうどう気持ちを強く持っても実際には何もできなくなる。
こういった動作は、必要なものだし、楽な動作でもある。力を使っていないかわりにエネルギーが使われている。だから力がぶつからず、その代わりエネルギーがよく流れていく。何をするにしても「有効な動作」の土台になる。
そして何より、この動作で挙動するほうが万事について「速い」。特に、抜けて動く、ということにわずかな「圧縮」の行程を加えると、動作は爆発的になり、それを「爆発体操」と呼んで教えたりもしているのだが、この爆発的な動作で「流れて、まっすぐ、ひと調子」をやると、傍目には「何か瞬間移動しているように見える」と言われる具合になる。むろん本当には瞬間移動ではないのだが、それでもすべての動作が「えらい速いな」という具合になる。何をするにも速くなるので、たとえば缶コーヒーを買って戻ってきただけでも、「えっ、もう買って戻ってきたんですか?」と言われることがある。僕は自分の挙動がそんなに速いのかどうか比較観察したことがないのでよくわからない。が、これも率直に言えば、僕は近年周囲の人々を見ていて、すべての動作や判断や意志決定や行動が「なぜこんなに遅いんだ」と驚いているところがある。途轍もなく遅い、と感じてびっくりすることがよくあるのだ。「ひとつのことを言うのに、二分ぐらい使っているよな」と感じることがよくある。普通に話せば十秒で済むところを、なぜかその十二倍の時間を費やしている。力を入れているから止まっているのだ。
「抜けて動く」に、ごくわずかな「圧縮」の行程が加わる。それをなんとかわかりやすく、エクササイズふうに「爆発体操」と呼んでいるけれど、これが「運動」になったら台無しで、筋力を使わないからこその旨みがある。筋力を使ってしまったらエアロビクスになる。そして岡本太郎が言ったように、この「爆発」には音が無い。動作に思わせぶりなところは何もなくて、ただ動作の起こりから到達点までが早いということに過ぎない。加速減速をせずひと調子に済むので、擬音的には「スッ」とか「パッ」とか「ポン」とかになる。
腕を腕だけで動かすと、エネルギーが少ないので遅い。脚も同じだ。腕も脚も小さく、胴体のほうがデカいのだから、胴体のほうがエネルギーが大きい。よって、胴体も腕も脚もひとまとまりにして、瞬間的に全身の全エネルギーを一つにしてパッと使ってやるほうが結果的に動作が速くなる。実際に見ればわかる。
実際に見ればわかるが、実際にやるとわからなくなる。実際に自分がやらされると、まず力を使ってしまうからだ。力を入れたら人間の身体は止まってしまうのだが、そうは言われてもこれまで長年動作してきたやり方のクセがある。急に力を抜けと言われても抜けるものではない。力を「抜き切る」には何十年もかかるのだろう。僕もその種の達人ではないのでわからない。とにかくふつうは、「動く」はイコール「力を入れる」だと思っている。頭では修正が利いても全身では修正が利かない。力を入れたら人間の身体は止まる。腕の力を入れると腕だけ止まり、胴体から分離してパーツ化する。
もし人間の身体が船体だったとする。その全体エンジンを、
「そうだ、腕エンジンと脚エンジンと、腰エンジンと肩エンジンと、膝エンジンと肘エンジンに分けて、分離的に使おう!」
なんて決定をしたら、それは面倒くさい上に全体として動きが遅くなるに決まっている。なぜ腕エンジンだけで旋回しようとしたり、脚エンジンだけで前進しようとしたりする必要があるのか。全体エンジン一つのままのほうがよいに決まっている。
そして「力を入れる」というのは、言うなれば碇を海底に降ろしているようなものだ。碇を海底に下したまま発進すれば、ゴリゴリゴリと引きずることになり、ろくすっぽ船は進まない、そして船体にもゴリゴリゴリと負担がかかる。この「ゴリゴリゴリ」の感じを、「がんばっている」と誤解する人が少なくない。身体操作系の用語で言うといわゆる「力感」だ。この「力感」が好きな人は少なくないので、こういった人は筋力の強化に憧れて筋力の強化へ進んでいく。
またこうして、どうでもよいような技術的な説明をしてしまった。
立てなおしに必要な第三の知見はこう。
・「完全に」可能化することが重要。同様に、「完全に」不能化することも重要
身体操作が万全に出来るということは、「不能化もできる」ということを含めて万全と言える。このことはおそらく他の身体操作系のワークショップでは言われないことだろう。
いかなる爆発の中でも外部身体的に動作しないということ。文学はそういうものだ。そこで動作するのは具体ではなく文体だ。
第四の知見はこう。
・文体も抜けて動く、本当に抜ければ……
***
大勢の女の子を連れて熱海に行った。ある女の子の母御さんが所有する温泉付き別荘が熱海にあるというので、その母御さんが外国へ旅行に行っている隙に、一行でお邪魔させてもらった。
その日はやや肌寒かったので、カセットコンロと土鍋を購入して、大量の食材を買い込んで鍋料理をした。別荘の主娘である彼女が「出汁の利いた醤油系の鍋がいい」というので、僕は羅臼昆布と厚めに削られた鰹節を買い、割と丁寧に一番出汁を取った。さすがにスーパーマーケットには本枯れ節は無かったが、伊豆も近いのでよくよく探し回ればどこかには売っていたのかもしれない。が、いちいち鍋料理に本枯れ節まで使い込むのは大仰だろう。
食材を大量に買い込んだとき、女の子たちは「こんなに食べきれないですよね?」と怪訝な表情をしていたが、実際に僕が鍋料理を作りこんで振る舞い始めると、みんなしてバカスカ食い始めた。そして用意されていた食材のほとんどを食らいつくした。慌てて温泉に浸かりにゆき、戻ってくると主娘が「わたしまだ食べられるかも」と、残ったスープで予定されていたラーメンを作るように僕をせっついた。僕は鍋料理そのものを作るときよりもなお慎重に、「この場合、胡椒でまとめる」と繰り返し強調して言い、その通りにした。一番出汁も一部新しく取り直して注ぎ足し……このときは我ながら、ほぼ完璧と言える思い通りのまとまり方でラーメンスープを作ることができた。またしてもみんなでそれをバカスカ食った。普段は甘い酒を舐める程度にしか飲まない女の子も、僕の山崎ハイボールのグラスをひったくって飲み、「おいしい」と確信して言った。
ここまで来るといいかげん認めるしかないことだが、飲み食いというのは、材料や調理の行程以上に、「誰が作ったか」「誰と食べるか」ということが強力に作用する。誰もがそのことを確信したのは、みんなして辛子明太子を箸でつついたときかもしれない。それは僕が酒のつまみ用にスーパーで買っていたものだが、「食べるか」と勧めると女の子たちは箸を伸ばしてきた。そして口々に「明太子っておいしいんだ」「こんなにおいしい明太子ってなかなかないよ」と言った。だがそれはスーパーで特に安売りの298円のものだった。このときの明太子は、たしかに値段の割に品質と塩梅もよかったものだが、それにしてもごく一般的な小売りの明太子であって、ありがたがるようなものではない。
「旨い」という現象は別なのだ。
明太子は数分で皮だけになった。
主娘がソファに寝転がって、おだやかに歓喜を確かめていた。
人間にとって、「自分でもびっくりするぐらい食べた」「びっくりするぐらい飲んだ」「信じられないぐらい美味しかった」「そして胃もたれも何もない!」という体験は、思いがけず根源的な自信を得るものだ。最もプリミティブな次元で、生きている実感を得るところがある。
多くの人が「実はちゃんとメシが食えていない」という、目に見えない社会問題が水面下に広がっている。多くの人はそのことに自覚がなく、ただ「自分の食べる量はこんなもの」と思っている。だがそれは虐げられた胴体/こころの衰弱している状態で、僕はこれまでに何度も、ただ僕が作ったメシを食わせるだけで女の子がぽろぽろ泣き出すのを見てきている。当人もそのときは「なぜ泣いているのかわからない」という。このときの涙はいっそ非感情的に、ただただあふれてくるという様子になる。「生まれて初めて食事をした気がする」と言った人もあった。男性の場合は泣くというより震えることが多い。
もし、その次元でメシを旨く作りたいと望む人があったら、メシを驚くべき速さで作ることだ。熱海の夜、僕の調理する様相を注意深く観察する人があったら、その調理がスタートから完成まで一息に押し進められたことが看て取られたはず。スタートから完成まで、たぶん一般と比較するとメチャクチャに速い。物音を立てないのでよく観察していないと気づかないことだが。
人間が何を「旨い」と感じているのかはよくわからないところがある。が、経験上の主観を申し上げることが許されるなら、料理というのは決してモタモタ作らないことだ。本を見ながら作るようなありさまではメシが旨くなることは決してない。どれだけ完璧にレシピ通りに作ったとしても、それは「旨い」というメシには決してならない。そこで驚くべき速さでメシを作ろうとすると、どうせ例の「抜けて動く」というようなことも必要になってくるわけだが……
色んな問題の、解決というより恢復が、ただ僕がメシを作りつづけるということだけでかなりの程度為されるのだろうなという実感がある。それぐらい、メシが旨いというのは重要なことだ。メシが旨いというのは、料理の味が佳いということも勿論あるが、それ以上に「食う」という行為そのものが「旨い」のだ。食う、ということが直接の快楽に至らねばならない。そうなると、これはセックスと同じで、誰とでも共にして快楽的に……というわけにはいかなくなる。快楽に至らないセックスはただただ痛いだけで体力と気力を消耗させられるだけになるのと同じく、快楽に至らないメシもやはり胃もたれするだけで体力と気力を消耗させられるだけになってしまう。そんな中では人はまともに生きていけない。かといって、まさか僕が共同住居の主になってえんえんメシを作りつづけるジジイになるということも不毛で滑稽すぎる話だ。
実際に、みんなが食事をこころからよろこんでし、見るからに恢復を得て、中には涙を流す少女まであったとしたら、それを見るたびに僕はうれしいというよりは胸が痛む。何も僕が調理しなくとも、食事を共にするだけで恢復するところがあるのならば、なるべく付き合ってやりたいと思うが、その調子で食事の相伴をしていれば僕は一日に十食の食事を摂らねばならなくなるだろう。このことにはこころ苦しさおよび、それを越えての憤りさえ覚える。まともに飲み食いもできない世の中になったのか? 僕はしばしばこのように指摘する。飲み屋の多い繁華街で、若い人間が怒号のような大声を上げて酒を飲んでいる。それは「おれたち飲んでまーす!」と聞こえる。聞こえるのだが、よくよく見ると、彼らのうちに「酔っ払い」は出現していない。慎重に「飲んでまーす!」を演出してはいるが、本来の酩酊に特徴的であるはずの突発的な素直さなどが出現していない。泣き上戸や笑い上戸が出現していない。酒席にかこつけて神経の荒廃ぶりをぶちまけるということと、素直に酔っ払うということはまるで違うはずだ。驚くべき数のビールジョッキが宴席を行き来している、というような光景はもう十年ほど目にしていないように思う。
アルコールに対する感受性や分解能などは、体調および「誰の酒を」「誰と飲んでいるか」に大きく左右される。だから今は、最近強く言われているように、イッキ飲みなどはするべきではない。今は禁止事項にしておくべきだ。本来の内臓の能力で言えば、ビールのイッキ飲み程度で健康を損なうことは(よほどの下戸でなければ)ふつう無いのだが、多くの場合、それ以前にとてもではないがそうした気勢のよい飲み方をできる状態に酒席そのものがなっていない。酒席そのものが成立していない状態で無理な飲み方をすれば人間は案外あっさり倒れる。そしてその倒れ方は当人にとってものすごく不快で苦しいものだ。
一度、「イッキ飲みをさせられるのでビビっているんです」という話を聞かされて、大丈夫かなと伺ったところ、ジョッキではなくコップに注いだビールのイッキ飲みだったという話で、拍子抜けしたことがある。けれども今は、たかがコップ一杯のビールでもイッキ飲みとなると警戒しなくてはならない実情なのだろう。年長者はご存知のとおり、以前はビールイッキというとジョッキか瓶一本だったが、今はもう決してその真似事をさせるべきではない。気持ちの問題ではなく、今はもう胴体機能の問題としてそれは危険行為になったのだ。
飲み食いが破綻をきたし始めている。以前から、女性にとってセックスが苦痛化しているという話はよく耳にしていた。それも重大な問題だったはずだが、今はセックスだけでなく飲み食いまで苦痛化し始めている。すると当然、睡眠も快適でなく不十分だということも知らされてくる。これはもう、生きものとしてこの世に存在しているのが不快だという状態だ。少しでも弱気になれば、自分の身に接触するすべてのものを遮断したいと拒絶を起こすようになるだろう。
僕は正直、目の前に飲み食いのレヴェルで心身を弱らせている者を見ると同情に弱い。いかに他人事といっても限度があるように思えて、まして僕自身が少し付き添ってやればいくらかの恢復は得られるということなのでつい肩入れしてしまう。憤りもあり、胸が痛むのもあって、知らず識らず僕は現代に広がっている飲み食いの破綻問題に引きずりこまれ苦しめられているところがあると認めなくてはならない。端的に言って「気を苛(さいな)まれている」という状態がある。
ああ、僕の友人が、ちゃんとメシを喰っていないというのが一番きつい。
立てなおし第五の知見。
・メシが最優先
僕自身は常に健啖なので、これは僕自身に向けては必要のない項目だ。けれどもideaの持ちようとしてこのことは改めて明確にされる必要がある。メシが最優先であり、メシが最優先だということは、料理が最優先ということではない。人間は料理を喰う必要はないが、メシを喰う必要が絶対的にある。
***
いくらなんでも色々やりすぎた。
それでもなお、僕は僕自身を損傷させず、気楽にやっているが、それにしてもいくらなんでも、これは可能積載量をオーバーしている。
疲れているのだろうか? とも考えるが、疲れそのものは一晩休めば取れるし、その後はいくら長期間休んだって状況は好転しない気がする。
いくらなんでも「無理」、という閉塞感がさすがに迫ってきている。
僕自身、最大の気力を常時、胴体に流しているつもりでいるが、今はこれをわずかでも緩めると、もう悪寒と吐き気がきて失調するのだ。
「じゃあわずかも緩めなければいいだろ」と言われると、そのとおりなので、言われるまでもなくそのとおりにしている。
たぶん、誰も彼もだが、僕が涙を流すことなどないと確信しているのだろう。
そのことが、この悲惨な状況の根源だ。
僕は「こころ」のないものとして扱われている。
それでは理屈に合わないだろう、と僕はときどき主張するのだが、なぜかそれらの主張はこの世で最も関心を持ちえない主張として聞き流される。
僕は落ち込んだりしないし、メシが食えなくなるようなことはないし、取り乱して泣いたりはしない。
なぜ落ち込まないかというと、落ち込むという選択肢を放棄したからだ。
なぜ放棄したかというと、僕が時代の趨勢に準じて人並みに落ち込んだり憂鬱になったりすれば、もうたちまち何もかもが終わってしまうからだ。
僕自身で見渡すかぎり、僕の周囲に、この種の抵抗勢力はもう残っていない。
だから僕がやめたらもう終わりだ。
その意味で、ある日突然、何もかもが終わってフッと消え去ってしまうということも、ないとはいえない。これまでに何度もそういう衝動にかられたことがある。
が、いつも「そういうわざとらしい問答はもうとっくの昔にやめたろ」と自分自身に思い出させて、「そうだな」と納得している。
僕が僕としてやりつづけている振る舞いは、まるで波打ち際に繰り返し波頭が砕かれることのように、自然現象としてずっと続くものだと思われている。
誰も、僕に「こころ」があってそのような振る舞いを創出しているとは捉えていない。
だから無茶苦茶なのだが、この無茶苦茶さについては、もうずっと以前に「それでかまわない」という思想で断行したものなので、それでいいのだ。
それでいいのだが、とはいえ本当は僕にも「こころ」があるものなので、どうしても過積載から「一歩も動けない」というような瞬間がある。
となると、可能積載量を向上させるしかないのだが、その向上心はわずかでも逸れるとわけのわからない死へふらつくところがある。
とまあ、色々あるのだが、例によって僕が僕のこころの話をしても興味が途切れるのでやめておこう。
僕をクローンにして、一家に一台置ければいいのに、ということは冗談口によく言われる。そうしたら壊れても取り換えが利くというのもある。
自分で書き話していて、なるほど、と思ってしまうところがあるが……
現代において、落ち込んでいる人は、こころがあるから落ち込んでいるんだな、と思われている。
そこで、僕は落ち込まないので、落ち込まないということは、こころがないんだな、と思われている。
そう言われてみると、僕自身、ひょっとしたらそうなのかもな、という気がしてくる。
要は、僕が僕自身を「こころ」のないものと自己決定しきれれば解決するのだ。
ああ、これはもう、本当にギリギリのところまで来てしまっている。
結論だけ書かれるとわけがわからないだろうが、つまり僕は、周囲から集団的に「死んでほしい」と願われている。
その仕組みは、ちょっとここでは説明しきれないし、説明したところで誰に何の利益もないので説明しないが、周囲の誰もが何の悪気もなく、ただ漠然と「この人が死んだら何かがスッキリする」と感じている。
それで知らず識らず、周囲の人々は、僕をそっとわけのわからない死のほうへ押し出そうとする。
もちろん何の自覚もなしにだ。悪意なんかありようがない。
第六の知見。
・僕は周囲に「死んでほしい」と願われている
僕が死んだら、何かが無性に「スッキリする」というのは、なぜか僕自身にもよくわかる。
おそらく、僕は「こころ」のないものと思われているので、「こころ」のないものは幽霊でしょ、というような取り扱いがあり、幽霊が生きているということがしっくりこずモヤモヤするため、「幽霊なんだから死んでくれればスッキリするじゃん」というロジックがはたらくのだろう。
僕は死に憧れるタイプの人間ではないので、まったく無念なことではある。
この状況から、僕が集団的に殺害されるという小説は、正しく書かれれば説得力を持ちうるかもしれない。
「死んでほしい」という願いの向こうには、集団的に「殺したい」という衝動も脈打っている。
僕は周囲に「死んでほしい」と願われている。このことは一見、陰鬱に見えるかもしれないが、そうではなくむしろポジティブなものだ。状況の整理および立てなおしに何より直接役に立つ。
女の子が、ろくに食事も摂れず、声も出なくなって、無理をして生きながら、生活を苦痛化している。それでも健気に明るく生きようとしているのを見ると、僕は胸が痛くなる。信じてはもらえないだろうが、僕なりにはそういうつもりなのだ。胸が痛くなり、まともでなくなっていく世の中に憤りを覚える。
多くの女性は、男性の胸の中に飛び込むことの心地よささえ、根本的に知らないように感じられる。それなら僕が遊んでやって、胸の中で息を吹き返して、メシが食えるようになって、笑って汗を掻いて、ちゃんと声が出て夢が見られるようにしてやりたい。
そうしてやりたいので、そうしてやるつもりなのだが、実際にそうしたとしても、僕が手放して十五分もすれば効果が切れてくる。彼女は色んなことを考え始め、色んなことを思い出し始める。憂鬱な職場のこと、家族のこと、不安な未来のこと、傷ついた過去の恋愛のこと。あるいは文化的にも性的にも自信のない自分自身のこと……たちまち、ふたたびメシの食えない呼吸の詰まった胴体に戻る。僕が呼びかけてもすでにこわばっており、このこわばっているものを再びほぐすのは、また僕から彼女へのヤケクソの振る舞いしかない。それを受けて、彼女はほぐれてゆき、再び息を吹き返す。彼女は取り戻される彼女自身のこころをよろこんでいる。それを見ると、僕はうれしいというより、少し胸の内が楽になる。ただただ、そんなことが繰り返されていく。十五分ごとに僕がヤケクソに彼女を抱きしめていたら、このことは成立するのかもしれない。そのため、同様の機能をもったクローンを各家庭に一台置けば解決するというふうに自然と発想もされてくるわけだ。
抱きしめられて息を吹き返し、しばらくするとまた落ち込みはじめる。そうして浮き沈みする彼女は、周囲から見て「こころがある」と見える。一方僕のほうは「こころがない」と見えるようだ。僕は、僕自身が浮き沈みなどしていたら、彼女の息を吹き返させる者がいなくなると思うので、僕自身の浮き沈みなど禁止している。浮き沈みしないので、「こころ」はないものに見える。
僕自身が浮き沈みしないから、その「こころ」を確かめるために、沈めてみたい、殺そう、という発想が起こるのだろう。別にそのことはかまわない。僕自身の生きる用事が済んだら、実験的に、集団で僕を殺すということをやってみてもよいのかもしれない。内臓をバラバラに吐きだして、そのとき僕がわずかでも泣くようなことがあれば、そのとき何か「やった」というような勝利の心地がするだろうか。
きっと、死んだ僕なら屈託なく愛してもらえるだろう。
第七の知見。
・僕は生者の敵であり、幽霊のみ友人にできる
そんなことを言いながら、トヨタや総合商社に勤めている友人は通じ合える友人としているので、単に優秀さが足りないと友人になれないというだけかもしれない。
第八の知見。
・優秀さが足りていないものを気にかけてもキリがない
***
少し気が晴れてきた。
けっきょくこうして、自分で書いて自浄するしか立てなおしの方法が無いというのはわびしいことだ。
気が晴れてきた理由は、一つにはその自浄かもしれないが、それよりも大きなことは、単に秋が来たからだろう。
秋の日の大気は澄み切っている。
こんなものに抵抗できる人間はいない。
こうして見ると、あらためて、やはり僕は僕自身に苦しんでいるところはわずかもない。
僕などは、春夏秋冬、どの季節の中でも最高に心地よい何かを感じて、その中に突っ立っているだけだ。
ただ、余計なお世話と知りながら、人に何かを与えようなどと、要らないことをする。
それを与えようとするからこじれる。与えようとしても入っていかない。向こうもそれを求めているのに、入っていかない。
そのことには、背後に事情構造があるのだろうが、その事情にしたって、それは僕の事情ではない。
たぶん、思ったより差があるのだ。
大きな差があるものだよ、と言ってはきたが、そう言っている当人が認識しているよりもさらに、もっと大きな差があるのだろう。
ここにBさんを仮定すると、僕はBさんを観察する。
僕はBさんを観察するが、Bさんは僕を観察しない。
僕はBさんを観察し、Bさんも、Bさん自身を観察している。
だから、僕がBさんに近づいてゆき、そこにある世界はBさんのものに近づいていく。
Bさんが僕に近づいていくということは起こらない。
だから、教室じみたことをやっているが、起こっていることは逆で、Bさんが僕の豊かさを学んでいるのではなく、僕がBさんの貧しさを学んでいるのだ。
まるきりひどい言い方だが、整理するためにはしょうがない。事実、そうなっている。
教室では、いちおう僕が先生という建前なのだから、Bさんが僕を観察すればいいのだが、そうはいかない。
すでに時代の状況下、Bさんは他者を観察するという能力を失っている。失っているか、もしくは初めから獲得していない。
Bさんは基本的に、Bさん自身の問題だけを観察しているため、そもそも「他者」なるものがいかなる空間においても存在しない。
だからBさんはこれからもずっと、現在のBさんのままでありつづけるだろう。
「人を観る」ということがないのだから、何も変容するはずがないのだった。
なぜこんなことになってしまったのか、僕にはわからない。
時代のせい、というのは間違いないだろうが、いつの間に誰の手によってそういう時代になったのかはまったくわからない。
僕は秋の日を見つめ続けるが、Bさんは秋の日なんか見つめ続けないだろう。
「プリント倶楽部」が流行したときもそうだったが、僕は現在に至るまで、何の用事もなしに自分自身を写真撮影するという動機を持ったことがない。
たぶん、思っているよりも大きな差があるのだ。
春夏秋冬、あるいはどの一年をとっても、僕にとってはすばらしくない時間というのは一度もなかった。
僕はいちおう、ニコンの古い一眼レフを持っている。フィルムで撮影するタイプだ。あまりカメラは趣味ではないのだが、それでも一応、秋の日そのものを一枚のフィルムに残しておきたいという気持ちはわかるつもりだ。ときどき、そういう瞬間もある。
そうして、秋の日を撮りたいという気持ちはわかるが、自分を撮りたいという気持ちは本当にわからない。
おそらく、僕が自撮りの気持ちをわからないのと同様に、自撮りに馴染める人は、秋の日を撮っておきたいという気持ちはわからないのだろう。
人はきっと、自分の見ているものを写真に撮っておきたがるものだ。
おそらく今、多くの女性は、愛する彼の写真が撮りたいとは感じず、愛する彼の隣にいる自分の写真が撮りたい、と望むはずだ。
自分の見ているもの……
第九の知見。
・僕が一番見るものは、季節
季節の中に場所があり、季節の場所の中に人がいる、という光景が好きだ。
それはまぶしいものだから。
僕が小説を書くのは、僕の見ているものを、他の誰かにも見てもらいたいという気持ちがあるからだ。
このことはきっと、創作や表現といったことに単純な一石を投じるideaであるはず。
秋の日のideaと名付けよう。
第十の知見。
・それは僕の見たもの
このことにはいささか謎が残る。
人から人へ「伝える」ということ、また「伝わる」ということは、感覚上の流れの事象である「感触」の流入として、技術的に取り扱うことができる。それもやはり意識で操作できるものではなく胴体/こころで直接操作するしかないものだ。
だがその意味で「伝える」「伝わる」という現象は、果たして「僕の見たもの」の現象と同じだろうか?
現象として、関連していることは間違いなかろうが、どうも同一の直線状にあるという確信が無い。
身体操作および身体感覚が、必要であることは間違いないが、それで十分条件まで満たしているとは、やはり僕には思えない。
たとえば、秋の日は秋の日であって。
それを見るとき、僕は消えている。
秋の日が実在するとき、僕の実在は消え去っているというか、「秋の日」と「僕」は分離不能の何かになっている。
第十一、十二の知見。
・僕が小説を書くということはありえず、小説が小説を書くということしかありえない
・よって、小説は瞬間ごとに無限・無数に発生しており、誰が書くということは存在しない
だから、大きな差があるというのは、僕とBさんとの間に差があるということではない。
Bさんと、「秋の日」の間に、大きな差があるということだ。
その差をなくすしかない。
これはやはり秋の日のideaと呼ぶべきものだ。
***
僕が示している少々の主張や、idea、また技術などは、どれもたかが知れたもので、それらはごく初心者向けのものでしかなく、どれもその筋の本職から見ればアクビが出るぐらい退屈で当たり前すぎるものだ。だから僕は、自分を「教室の先生」などと捉えたとき、「んなアホな」と自嘲ばかりが起こる。それでも、初心向けなればこそ、それは普遍的にどこでも使えるものであって、かつ初心向けにイージーなものなのだから、「さっさと理解して習得してしまえばいいのに」と僕は思っている。さしあたり、習得してしまって何の損になるものでもないのだから。
だが、これこそ去る夏からこの秋にかけて知ったことだが、一言に学ぶとか習得するとかいっても、その「学ぶ」ということ自体が破綻しているケースも少なくないのだった。何しろ、肝心の僕が「こころ」のないものだと思われている。僕に「こころ」がないものだから、当然Bさんは僕を観ない。Bさんは僕を観ずBさん自身だけを観て練習をする。それでは当然、BさんはBさんの現行の技術を固めていくだけになる。さらに言ってしまえば、そこにあれこれ口を挟んでくる僕の存在はそもそも必要ないとも言える。別に誰が僕のことを観るわけでもないのだから。
このことは、この数ヵ月ずっと僕を困惑させている。別に僕が困るわけではないのだが、「何がどうなって、こんなことになるのだ?」と首をかしげている。僕には「こころ」がないのだ。少なくとも衆目にはそう思われている。そう思われているのだとしたら、その僕から「胴体/こころ」の技術を学ぼうということは大前提から破綻しているではないかと僕には思える。「こころ」の何かを学ぼうとしたら、こころある誰かの「こころ」そのものを観て学び取るより他にないはずだ。その意味でときどき、「もっとこころある先輩か誰か、知り合いにおらんのか」と訊いてうながしてみたりもする。もちろん反応は不明瞭に濁されていくのみだけれども。
僕自身、かつてどうしようもない愚者だったころ、やはり誰か先人の「こころ」そのものを観て、「こころ」というものを学んできたように思う。たとえば先輩だったMさんの考え方や、判断の仕方、行動の選び方……どれを観ても「すげえ」「モノが違う」「全然勝てん」と、呆然とさせられたり、ゾッとさせられたり、呆然さのあまり笑わされたりもしてきた。たとえば当時どうしようもない愚者だった僕に、それでもやさしくしてくれた女性Kが、ときに僕に向けて叱り、怒り、またときには笑ってくれ、つらいときには泣いてもくれた。先輩のMさんであろうが、恩義のある女性Kであろうが、僕は今になっても彼らがそれぞれに「どういう人」かを明確に受け取ったまま、何であれば彼らがそれぞれどういう「こころ」の持ち主であったかを力強く説明することもできる。Mさんのこころ、Kさんのこころ……僕はそれらを受け取らせていただき、それによって少しはまともな人間たりうるほうへ育ってきたのだから。
僕自身そうして、かつて人そのものを観て「こころ」を学んできた。それはそうするほか方法のないものだろうし、学ぶといっても意図的に学習したわけではない。なんとかして追いつきたい、というぐらいの気持ちはあったにせよ、分析してメモを並べたところで太刀打ちできるような類のものではなかった。僕にそうして決定的に「こころ」を教えてくれた人たちはみな僕にとって「偉大」だった。僕は今もなお、Mさんは偉大だと感じており、Kちゃんも偉大だと感じている。感じているどころか、確信も義理も覚えているので、そのことに難癖をつけられたら、僕は何時間かけてでも熱烈に主張を押し返すだろう。偉大だと思うとか思わないとかではなく、偉大だという事実だけがあるのだから、そこにいくら難癖をつけられても僕は今さら小ゆるぎもしない。
現代はそもそも、他者の振る舞いを目の当たりにしてそれを「偉大だ」と感じるという、そのこころの現象自体がない時代なのかもしれない。それはこころが勝手に覚える現象なので、むろん強制して「偉大がらせる」というようなことは不可能だ。強制できるものではないので、是非や善悪を論じても意味がない。人が人に「偉大さ」を覚えることのない時代だと捉えることは状況の整理に役立つ。
たとえば僕などは、学生時代、まったく不本意な強引さの勧誘に負けて合唱団に所属させられたが、そのとき壇上で数歩踏み出し人前でソロパートを朗々と歌う先輩を見てやはり「偉大さ」を覚えたものだった。現代においては、おそらくそれを「偉大だ」と覚える人は少なかろう。今は何もかもを「好き嫌い」で見る人のほうが主流ではなかろうか。たとえば、職に就いたばかりの新人が、ろくすっぽ判断も対処もできない業務のトラブルに向き合わされて、てんやわんやでハングアップしていたところ、バトンタッチした先輩がたちどころにすべてのトラブルを解決していくのを目の当たりにする。そのようなとき、もともとはそれを「偉大だ」と覚えて新人は目標にしていたはず。少なくとも僕自身はそのようだった。が、おそらく現代においてそのシーンは、「超かっこいい」「わたしもがんばらなきゃ!」という発想の文脈に切り替わっていよう。
このことを踏まえて、今僕に必要な立てなおしへの知見第十三は次のように言いうる。
・現代人は、前進するが、学びはしない
改めて捉えなおしてみれば、われわれは今「前向きに」「進まなきゃ」という言い方に馴染みを覚えている一方で、「学ばなきゃ」という言い方に縁遠くなっていることに気づかされる。われわれはいつかの時点で「学ぶ」ということを捨て、自己前進を現在の方法として選び取っている。
なお余談になるが、この現代の「前進主義」とでも呼ぶべきスタイルは、旧来の「稽古」の方法の対極を行くものだ。漢和辞典で調べれば出て来るが、「稽古」という語の「稽」という字は、それこそ「前進しない」「踏みとどまる」という意味を持っている。現代人の前進主義は、反稽古主義だという見方もできる。
「現代人は学ばない」という端的な言い方が、今いかにも力を持って感じられる。「学ばずに前進だけする」。そのことがそれぞれにとって最適なのかどうかはわからない。が、これは今さら非難されるようなことではなく、ただ現代人が文化的に選択している方法論がこれだという指摘でしかない。事実、「前に進みたい」と感じている人は数多くいるだろうが、「学びたい」と感じている人は皆無というほど少ないだろう。「停滞していたくないんです」「何か新しいことを始めようよ」。
僕自身は、学べるものは学べるだけ学びたいという考え方だ。ジッとして、学べるだけ学びたい。
僕はつまり、旧稽古主義の生き残りか。僕は踏みとどまることが突破の道だと信じている。
***
話はガラリと変わって、僕は小説を書かなくてはならない。もともと、そのための立てなおしだ。
僕はたとえば「刑事コロンボ」のように、キャラクター性がしっかりしたものが好きだ。「吾輩は猫である」のように、すべてが蒸気に包まれているような類はあまり好みではない。
よって、第十四、
・キャラクターは意志に定義される
以前にも話したことがあるし、今は面倒くさいので細かく指摘しないが、僕はキャラクターを「性格」で定義しようとしている類の表現が好きでない。近年の新興カルチャーは特に主人公を意志なきものとしてひたすら「巻き込まれる」という形で物語を進行しようとするのだが、僕はその手法がとても苦手だ。意志のない人間の話など一秒も聞きたくないというのが僕の本音なのでしょうがない。一応、主人公が明らかな意志を持ってしまうと、現代の消費者の心情にそぐわないからウケない、という事情もわかるつもりではいるけれども、だからといってそのやり口では逆に値打ちがないと僕は感じている。
先ほどまでの語り口の中で出現した、「優秀さ」という言い方が気に入って残っている。内容的に重複するところもあるが敢えて書き足そう、第十五、
・優秀でなければ使い物にならない
小説を書くとなると、ぞわぞわと天才の血が騒ぎ始める。こうでなくちゃな、という感じがいかにもする。
優秀であるということは、確実に「悪い」ということも含んでいる。われわれが警戒しているのは実は「敵」であって「悪」ではない。よほどの教条主義者なら別だが、そもそも教条主義者自体が僕にとって敵みたいなものだからこの場合は考慮もしなくていい。
味方でいてくれるなら悪を含むほど優秀な人間であるほうがありがたいものだ。
第十六、
・悪が魅力である
次に、単純な芸術理論に即して考えると、芸術のすべては「新しく」生み出されるものでなくてはならない。想像力論的に言うと、重要なのはものが作られる過程であって、芸術においてはすでに出来上がってあるものに用事はない。
わずかでも芸術の実作に興味を持った人間は、その「新しさ」ということにこころを傾けたことがあるだろうが、僕の勝手な主観で一方的に申し上げると、芸術における「新しさ」とは何も「これまでになかった」という新商品や新趣向のことのみを言うのではなく、その実作を手掛ける当事者にとっても予期されていないもの、何らの準備も為されていない方向へ飛び出していくものの新しさのことを言うのだ。つまり芸術の実作に向けてさんざんな準備をしておきながら、その実作業に手が触れる寸前で準備と予定のすべてを破棄してその瞬間にのみありうる新しさを採る。やがてその放り出された誰の予定にもなかった新しさが、意味のある楽音を織りなして全体の構造化を結ぶことを祈って、それらが次々に飛び出していくことを許し続ける。このことは、ショーペンハウアーの読書論に反するところがあるかもしれないが、この点についてショーペンハウアーはどう考えていたのだろう? まあそんなことを言いだすとキリがない。ヤウスの文学論の言い方で言えば読み手は「期待の地平」を裏切られることになるが、僕が勝手に思うところ、「期待の地平」がその先どうなっているかわからず最も裏切られる心地がするのは実作を手掛ける芸術家当人なのだ。そうでなければ芸術の創作などヒマで退屈きわまることをダラダラやっていられるわけがない。
よって第十七、
・新しさについてだけは、ひどい霊感でかまわない
僕はだいたい霊感というような都合のよすぎる物事の捉え方には大いに否定的なのだが、こと芸術の実作に限っては「お好きにどうぞ」となる。そこまで含めねば自由とは言えない。
優秀で、悪であり、意志がある上に、霊感までどうぞという、せめてそれぐらいでなけれぱ自由ではありえない。
ガツガツくるねえ。
第十八、十九、
・サガンの言うように、何の役にも立たない小説ほど悲しいものはない
・色佳い小説より有益な現実など存在しえない
あと二つ、第二十。
・孤独を極めることで小説が書けるのではなく、小説を極めることで孤独が得られる
ここでは「孤立」と「孤独」を区別している。
人は孤独の中に解放されるのであり、しばしばその逆、人付き合いの中に閉じ込められる。
……僕はこれまで生きてきた中で、「身体を動かす」ということをわずかもしてこなかった。もちろんスポーツ的なことの一切には肩入れせずにきたし、今もなおスポーツ的なことには一切踏み入っていないが、それとは違う「身体を動かす」という営為、それをこの数ヵ月に亘って完全に新しいものとしてやってきた。その中で新しい胴体/こころの現象や、以前よりはるかに精度を増した胴体感覚などを獲得することができた。またそれを獲得していくのに費やされたエネルギーや実作業は、特別な爽快さや愉快さを僕にもたらしてくれたのでもあった。それらはまったくよろこぶべき成果と滋養であるように思える。
けれども、今ここまで来て、やっと明らかになる「立てなおし」の決定的なことがある。やはり、という心地が伴う。これが最後の第二十一となる。
・「芸術的なもの」と「芸術」は、決定的に異なる
芸術的な動きができるということと、芸術そのものが得られるということは、似て非なることであり、性質としてはまったく真逆になる。芸術「的」な動きというのは、人間が生きようとするエネルギーのものだ。一方、芸術そのものは違う。芸術は、生きようとせず、そこで死のうとするエネルギーのものだ。
思えばこのような言い方もできる。稽古には終わりがないが、作品には終わりがある。稽古は何かをもって「完了」ということがないが、作品には「完了」ということが明らかにある。稽古はいつだってそこに帰っていかねばならないものだが、作品は完了した後、もう二度とそこには戻れないものだ。自分が生きているうちは。
生きものは生き残るために身体を動かしている。人間の場合は特に、自分の生が満ちるまではおめおめ死んでいられないだろう。当人の根性によるかもしれないが、僕の場合は特にそうだ。笑えるぐらいしぶとく生き残って、そのこと自体を笑いの起こる語り草にしたい。それで僕は、動き回り方をこの夏から秋にかけて自らの身に拡大した。
そして、立てなおしが済んだ今、生き残ろうとするエネルギーも死のうとするエネルギーも、すでに僕の内に刷新されて親しいものだ。生き残ろうとするエネルギーに依存しないためには改めて死のうとするエネルギーが必要で、また死のうとするエネルギーを輝かせるためには、「なかなか死なせてくれない」という笑えるような生き残りへのエネルギーが要る。
もともとろくに動けないものが動くのをやめたとして、何の面白味があるだろう?
そうではなく、無限にでも生き残っていきそうな何かが、どこへ死んでいこうとするか、それほどの説得力を人は見たいのだ。
証明も説明も要らないこととして、生き残る能力は人によって差別的だが、死のうとする能力は万人にとって平等だということがある。生き残れない人はいるが、死ねない人はいない。
よって、芸術的な動きを持つことは差別的だが、芸術そのものは万人にとって平等と言える。
芸術そのものは万人に平等だ。
芸術そのものは、万人に平等だ。よって……これはすでに立てなおしの済んだものとして項目には加えずにおく。
・僕は小説を書くが、ズブの素人だ
僕にとって「立てなおし」とはこのことだった。
生き残る方法には先生がありえるかもしれないが、死のうとする方法に先生などいない。
誰だって、自分が死ぬことについてはズブの素人なのだから。
僕はズブの素人で、あなたもズブの素人だ。条件はまったく同じ。
僕はこの立てなおしからようやく書き始めることができる。
だから僕からあなたへ、次のことだけが約束できよう。
あなたが書き始めるのと、僕が書き始めるのは、まったく同じだ。
[立てなおし/了]
◆付録、まとめ(といっても僕以外の誰も用事のないまとめだ)
一、文学は外部身体を不能化することで生成する
二、表現者は徹底して主体であり、客に従体(のみ)を誘いかける。(以前からf式と呼んでいる)
三、「完全に」可能化することが重要。同様に、「完全に」不能化することも重要
四、文体も抜けて動く、本当に抜ければ……
五、メシが最優先
六、僕は周囲に「死んでほしい」と願われている
七、僕は生者の敵であり、幽霊のみ友人にできる
八、優秀さが足りていないものを気にかけてもキリがない
九、僕が一番見るものは、季節
十、それは僕の見たもの(秋の日のidea)
十一、僕が小説を書くということはありえず、小説が小説を書くということしかありえない
十二、よって、小説は瞬間ごとに無限・無数に発生しており、誰が書くということは存在しない
十三、現代人は、前進するが、学びはしない
十四、キャラクターは意志に定義される
十五、優秀でなければ使い物にならない
十六、悪が魅力である
十七、新しさについてだけは、ひどい霊感でかまわない
十八、サガンの言うように、何の役にも立たない小説ほど悲しいものはない
十九、色佳い小説より有益な現実など存在しえない
二十、孤独を極めることで小説が書けるのではなく、小説を極めることで孤独が得られる
二十一、「芸術的なもの」と「芸術」は、決定的に異なる
(僕は小説を書くが、ズブの素人だ)