No.368 平成二十九年のラ・ボエーム
平成二十八年の十二月三十一日、十八時すぎにこれを書いている。あと五時間半で今年が終わる。
といっても、さっさと書き上げて山崎(十二年をわざわざ買った)を炭酸で割ってかっ食らいたいので、五時間半もたらたらは書かない。
さきほど刺身とイクラしょうゆ漬けと明石の茹でダコをたらふく食ったのでさすがに胃もたれしている。
渋谷の地下で買ったのだが、近年のイベント日の渋谷の混雑は異常だ。
ハロウィン等でもそうだが、何かわからんがとりあえず渋谷に行っちゃえという風潮があるのか、今日大晦日の渋谷の地下などは混雑ぶりが正気の沙汰ではなかった。
二駅離れて中目黒の高級スーパーなどは別に混み合っていないのに、渋谷だけ異常だ。
イベント、ということにフットワークが軽くなったのかもしれない。
(もしくは……いやなんでもない)
そんなことはどうでもいいが、さて今年はどんなことがあったのだろう。
スマップが解散になり、しかもそれが不穏な、後ろ暗さを満載したような解散の仕方だった。僕は別にスマップのファンではなかったけれども、これはいくらなんでも後味が悪い。
まるで「ドラえもん」が自殺で最終話を迎えたというような後味の悪さだ。
もちろん、誰よりも無念に思っているのは当人たちだろうから、そこを責めるつもりは毛頭ない。
その他今年は何があったのだったか。
印象に残っているのは不倫だ。流通している略語で言うと、「ゲス」とベッキーさんのどうこうとか、乙武さんがどうこうとか、「とにかく明るい安村」とか、宮崎謙介議員、桂文枝さん、ファンキー加藤さん、テレ朝の田中アナウンサー。
もちろんこんなもの覚えていられないので、今検索して調べたのだが、とにかく不倫のニュースが多かった。
そして今もってなお、ヨソの誰かの不倫というのが「ニュース」なのかどうかは疑問が残る。
「不倫」とはきっと、倫理に反しているという意味だろうが、それで言うとわざわざ他人の不倫を暴き立てて騒動にしたり他人のセックス事情に好奇心や劣情をたくましくしたりということも十分に倫理には反していよう。
他人の失脚や失墜、凋落によって、ストレスが解消されるという人が少なからずあるのだろうか?
その他は覚醒剤のニュースも印象に残っている。かつて野球界のスーパースターだった清原さん、ミュージシャンのASKAさん、あとは疑惑とされているだけだが騒動にはなったアイドルの成宮さんだったか。俳優の高知東生さん。あと、杉田あきひろさんという元「歌のおにいさん」の人も覚醒剤所持で検挙されているらしい。
そういえば舛添要一元知事も、政治資金の使途違反で辞職となったのだった。
芸能人が、交通事故で揉めてややこしくなった、という話もいくつかあったし、人気絶頂だった声優アイドルが実はアダルトビデオに出演していたという話もあった。言い出せばキリがないはずだが、もうさすがに覚えていられない。
その他、さすがにいちいち調べる気にならないが、あちこちで女性への集団暴行事件が起こったように覚えている。それも大学生のサークルやクラブの集団が、という話だった。それらはどれも単純に「えげつない」の一言に尽き、ひたすら聞くに堪えない話だった。
こうして見てみると、昨年に引き続き今年はスキャンダラスな一年だったと思える。
昨年は確か、オリンピックのロゴが盗作だったとかいう、身の凍えるような寒さのスキャンダル話があったはず。あとは「現代のベートーヴェン」とか「STAp細胞はあります」とかいう話もあった。
いつぞやは「じぇじぇじぇ」とか「倍返しだ」とか「アナ雪」とかが流行ったのだったな……
平成二十八年、西暦二〇一六年の日本は、スキャンダラスな側面においては、セックスと麻薬、暴力とカネと不穏な権力、ということで彩られていたように思える。
セックスと麻薬、暴力、カネ、権力。
まるでマンガみたいな話だが、事実なのでしょうがない。
僕の友人に、清原のファンがいたのだが、彼は正直なところ落ち込んでいる。
彼のために、清原は実は昔から麻薬漬けでした、みたいな話は、「なければよかったのに」と僕は思っている。
スマップも、仲良しであってくれたらよかったのにと思う。
そしてアイドル稼業は、華やかで楽しかったらよかったのに、と思っている。
僕は世の中にトラブルがなければいいのにというノー・トラブル主義を信奉しているので、別に自分のことでなくても世の中にトラブルがあることだけで嘆かわしく感じるのだ。
トラブルというのは、基本的に誰にもトクをさせないし、トラブルの周辺はそれぞれの規模で焼け野原になるからだ。自動車に自動車をぶつけても誰もトクをしない。
一方で、今年は何が流行したのだったか。
「君の名は」というアニメ映画が大ヒットし、「PPAP」というミュージックビデオが世界的に流行した。
通称「逃げ恥」というドラマもヒットしたのだろう。
お笑い芸人としては、「トレンディエンジェル」さん、「斎藤さん」、「平野ノラ」さん、「メイプル超合金」さん、「カズレーザー」さん、などがいわゆるブレイクを果たしたはずだ。
あとそういえばリオオリンピックもあったのだった。
これら本年の流行、あるいはブームに、僕はことごとく乗り遅れてしまい、何一つ自分の実感としてはわからずにいる。
なぜか今回に限っては、オリンピックの盛り上がりも僕自身にはまったく得られることなくいつの間にか終わってしまったのだった。
僕自身がいささか世情に無関心に過ごしてしまったということだろうが、こんなところで僕と世情の関わりをのたまっても何の意味もないのでそんなことは話さない。
僕の友人もなぜか、「今年一年はずっとおやすみでしたね」「何もない一年でした」「こんな一年ってあるんですかね?」と言っていた。
まあそんなことは、誰もがそう思うのと同程度に、僕自身も「どうでもいい」と思っている。
今年の世情の中で、三つ、僕の中に輝かしい感触のものが残っている。
オバマ大統領の広島訪問およびその演説と、ボブ・ディランのノーベル文学賞受賞。
あともう一つは、これは世情と呼んでよいのかどうかわからないが、桑田佳祐さんが鬼神のごとき創作を示し続けているということだ。
僕は今年の終盤に、明らかに無理を重ねて体調を破綻させたが、それはあの桑田のせいだと僕は言い張っている。
桑田佳祐が今もなお引き下がらないのを見せつけられて、何かあてられたところがあったのだ。
「君の名は」は、まだ上映しているのだろうか? それぐらい観に行ってもいいかもしれない。
ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したことについて、若年の友人から「なぜ? ミュージシャンなのに」と訊かれることがあった。
僕は年長者の義務として、それらの問いに、「受賞は当然であり妥当」と熱弁で返答している。
ボブ・ディランの言葉が、人々を支え、反戦運動を支え、ひとつの時代を作った、という時間が確かにあったのだ。
それは猛烈で、輝かしい時間だったに違いない。記録映像から見てもそれはよくわかる。
平成二十八年、二〇一六年は、われわれにとって猛烈で輝かしい時間だっただろうか?
答えは風の中だなあ、親友、と答えたくなる。
答えは風の中に吹かれている。
わざとらしいが、別に間違っていない。本当に答えは風の中に吹かれているのだからしょうがないことだ。
***
今年一年に、僕自身に何があったかというと、もうこれは膨大すぎて、とてもじゃないがここに書ききれない。
友人と能力がえらく増えたとだけ自慢しておこう。
僕自身が拡大する周辺で、少々の事故もあったようだけれど、もうそんなことは正直どうでもいい。
他人のことに構っている余裕はほとんどなかった一年だった。
自慢ついでにいうと、十一月以降、僕は異様に人から「かっこよくなった」と言ってもらえるようになった。
なぜか知らないが、一斉にだ。
ということは、それなりに何か決定的な変化があったのだろう。
自分ではよくわからない。
今になって考えれば、今年の夏、世田谷公園で奇妙な「ワークショップ」なるものを始めて、そのことが大きなインパクトになった。
見ず知らずの人たちが集まって、週に二日、公園で朝まで過ごすのだ。それも酒も飲まず、身体を動かし続けてだ。
そのことだけ見れば正気の沙汰ではない。
(しかもそのまま翌日の夕方まで話し込むようなこともあり、ますます異常だ)
僕は世田谷公園の朝、何度も新しい友人たちに、
「な? このことを覚えておいてくれ、お互いのことを知らない同士で、しかも何のコストもかけずに、朝まで遊べたろう? これが未来に向けて、楽しく生きていけるということの手がかり、および根拠と自信になるんだ。カネと知人が多くあるということと、真に楽しく生きていけるということはまったく違うよ」
と話した。
今どき、仲の良い大学生のサークルグループでも、公園で朝まで過ごせと言われたら、退屈すぎてスマホをいじり始めるはずだ。
それをまったく知らない同士、週に二日、それを毎週やるというのだから馬鹿げている。
例によって僕のことだから、何かそういうことが実現してしまうというアヤシイ超能力を使った。
超能力を使いすぎたせいで、いいかげん疲労が蓄積しすぎたし、事故もあったのだが、それ以上に僕のアヤシイ超能力はいよいよ強く錬成され、いいかげん確実なものになってしまった。
アヤシイ超能力といっても、それは科学的に測定しづらいというだけで、体験的にはいくらでもあることだ。
人と人とが、出会った瞬間、見た瞬間、「あっ」と何かを感じ、通じ合ってしまうというようなことだ。
僕はこの一年間で、他人との距離感がめちゃくちゃになってしまった。
ふとしたとき、冗談でなく、ドラッグストアの陳列棚ですれ違っただけの女性と、誤ってハイタッチ(ハイファイブ)をしてしまいそうになったりする。
まったく見ず知らずの、店員さんの女性の頬をつまんでいたりして、気づくと「あれ?」と僕もびっくりするのだが、そのときはやっている側もやられている側も違和感がないのだ。
そのあたりは、僕が超能力を振り回したというより、僕が超能力に振り回されたというほうが正しい。
超能力という言い方はいくらなんでもデタラメすぎるのでやめておこうか。
たとえば犬と犬ならすれ違いざまにキャッキャと遊び始めることはよくある。人と犬ならなおさらだ。犬好きの人ならよくご存じだと思うが、こちらが犬好きで、散歩中のワンちゃんとすれ違うときに、
(おっ、遊ぶか?)
という態度をわずかに示すと、ワンちゃんはハッと反応してこちらに飛びかかってこようとするはずだ。そして飼い主のリード紐に笑顔のまま引きずられていく。
犬と人とがそうであるのだから、場合によっては、人と人との間にもそれは起こるということにすぎない。
それが自然なのだ、本来は。
なぜそれが一般には起こらないかというと、人は社会的に概念を躾けられているからということと、人と人とは「同種」なので「同種間ストレス」が発生するということがあるからだ。
人は犬にハダカを見られても恥ずかしくないが、同じ人に見られると恥ずかしい。
サルにハダカを見られる場合は、犬に見られるよりも少し恥ずかしい感じがするだろう。
イグアナに裸を見られても、すでに「見られている」という感じがしないはずだ。
このような仕組みによって、生物というのは「種が近いほど互いに干渉を生じ、ストレスを掛け合ってしまう」という性質がある。
これはムツゴロウこと畑正憲さんが唱えたことなので確かなことだ。
今すでに、僕の友人たちにとっては、たとえば僕が初対面の女子大生の下宿に上がり込んでベッドの上で煙草をモクモク吸っていても、何もおかしくないし、しょうがないだろう、という感覚でいると思う。
本来、人と人とはまともに通じ合うことさえできれば、そんなことでストレスを覚えたりはしないものだし、ストレスにならければトラブルにもならないものだ。
僕はこの先、生涯の全てに亘り、愛想笑いをせずに生きていけることになるだろう。
愛想笑いというのは、言わずもがな、相互に発生するストレスとトラブルの種をごまかすために使用する擬態だ。
そもそもの対人ストレスが互いにまったく発生しないなら、愛想笑いなど出現する余地が無い。
さてそれで(もういいかげん酒を飲みたがっている)、もし仮に、ストレスやその緩和に出現する愛想笑いなどを「上っ面」とし、そうではなく「あっ」と何かが通い合うことを「本質」とでも呼ぶのなら。
この「本質」ということに向き合わせると、多くの人がアワワワと、動転するということも今年になって発見した。
僕は数年来の友人に、
「初めて会ったときから、この人はおかしいぞと感じたんです。これまでどの人も、突っ込めば突っ込むほど、その奥はカラッポだと感じてきたんですが、あなたの場合、突っ込めば突っ込むほど、その奥に何かがある、何かに触れる、どこまでいっても空っぽにならずに何かあるという"感触"があったんです」
と今さら言われた。
その「感触」、まあそれが「本質」というようなことにしておこう。
(もうさっさと終わらせて飲もうぜ! ということにしてしまいたいのだ)
そういえば昔、その自己の中枢の「本質」のことについて、それが空っぽであることを、「真空なんですよ、真空」と言っていた友人がいたな……
愛想笑いや上っ面のことを得意にしてきた人に、その「本質」のことを突きつけると、ただならず動転することがある。
動転するものだ、ということを、僕は今年になってようやく知ったのだった。
もし、何かしらの方法によって、人間の「本質」を感じ取ることができるようになると、多くの場合、まずは自己の「本質」がカラッポだということに向き合わされるらしい。
そしてそのことがどうやらキツいらしいのだ、精神的に。
そのキツさというのがどうしても僕自身にはわからない。
僕は上っ面のことがまったく「できない」人間だったので、これまで色々不利なことに追い詰められてきたし、まあ今もその点ではひどい劣等生のままなのだが……
もしあなたにあなたの本質というものがあるなら、せっかくの機会なので、
「どうぞ」
と、今ここで発揮されればいいですよと手を差し出すのだが、そうされるともうわけのわからない動転が出現する、ということがよくわかった。
わたしの自己の本質はこうなんですよ、と語る人は多いのだが、
「どうぞ」
とその場でリクエストされると、何かもうシッチャカメッチャカになる。
という、僕にとってはよくわからないことが、一般的には一般だ、ということが今年でよくわかった。
よくわかったが、どうすればいいかなんてわからないし、どうにもできないのかもしれないし、どうにもできないのだろうし、どうにもする気はないので、どうということもない。
どうすればいいのか? ということはきっと、僕の考えることではないはずだ。
平成二十八年、西暦二〇一六年に別れを告げるのに言い残すとすれば、僕としての「サービスタイムは終わり」ということになる。
多くの人が、自己の本質問題に、ひどく動転を起こすほど、実は根深く苦しんでいることがわかった。
だが僕は、その問題を解決してやるための踏み台に存在しているわけじゃない。
きっとそこのところがわからないと問題は解決しない。
人の「本質」を踏み台にして、そこで胡坐をかいたまま考えこみ、自己の「本質」とやらを思慮しているつもりという姿に、自ら気づくまで解決はない。
たぶんそのとき来ているセーターだって、どこかの中国人の労働によって作られているということに気づかないまま思慮している風情でいるんじゃないかな。足元のコンクリートやアスファルトだって誰かが水平に均して施工したものだよ。
***
来たる平成二十九年について、おおよその方針は決まっている。
それは、「頭の悪いのが悪い」だ。
プッチーニという作曲家は、ラ・ボエームという複雑な楽譜のオペラを創り上げたが、われわれはプッチーニほど頭がよくないので、そういう創作活動ができない。
そして、「プッチーニより頭が悪いのがすべての問題だ」と言い張る立場は非常に強い力を持っている。
頭が悪いと、体験も得られないし、愛も実現できないし、考え方を持つことさえできないし、じゃあ何ができるかというと、器物的執着を持つしかなくなるのだ。
たとえばエーリッヒ・フロムが「愛するということ」という名著を遺しているが、この名著を読むためには相当程度頭がよくないといけない。
つまり、「愛って何だろう」という疑問について解答を得るためには、解答を把握するための脳みそがいるのだ。
脳みそが相当程度に発達していないと、いかなる優れた解答を与えられたとしても、その解答を把握できない/保持できないという、お粗末な結果が待ち受けている。
エーリッヒ・フロム当人だって、頭の悪いやつに愛するということを教えることはできないし、じゃあ何ができるかというと、フロムだってブン殴るぐらいしかできない。
頭が悪いことによって、そもそも解答を理解も把握も保持もできないというのは悲惨で滑稽な状態だ。
それはまるで、まともに目の詰まっていないガバガバの漁網で、「どうしたら大漁を得られますかね」と呻吟しているような状態だ。
どれだけ漁場や漁法やコツを学び知ったところで、漁網がポンコツなので何も起こらない、漁果はゼロだ。
彼は「漁師として無能」なのではなく、単に「頭がちょっと……」というだけになってしまう。
ここでいう「頭がいい」というのは、直線的な思念やマークシートの正答を選ぶ能力ではなくて、「多層処理を同時にできる」ということを指す。
それこそ、オペラ「ラ・ボエーム」の多層にわたる楽譜を創作できるようにだ。
その同時多層処理の脳みそがないかぎり、何をどう努力に粘ってもラ・ボエームは出現しない。
このことをボエーム主義と僕は呼ぶ。このボエーム主義に拠って、まずは脳みその発達ぶりを最優先に置くことで、その周辺に跋扈するどうでもいいような愚痴話を切り捨てるのだ。
岡本太郎氏が指摘した「芸術は爆発だ」という説は実に正鵠を射ているが、その「爆発」ということも、頭が悪い人にとっては「ぱーん」という感じの、単なる二次元の記号にしかならない。
爆発とは何なのか、ということを知ることにさえ、一定程度の脳みその発達が要るのだ。これはもうどうしようもない。
「頭が悪いのが悪い」と言うと、
「そんなことを言われても、だってアタシ頭悪いもん」
と絶望する人があるかもしれない。
けれどもそれは誤解だ。ここで言っているのは脳みそのことであり、脳みそは臓器なので、器質障碍がないかぎり臓器としての脳みそにそこまでの優劣はない。
誰にとっても腎臓や膵臓の優劣はさほどないことのように、脳みそという臓器そのものにはたいした優劣はない。
今ここで話していることで、どの程度伝わっているものかわからないが、僕は今燃えているのだ。燃えに燃えていると言っていい。
いわゆるスポーツマン的な燃え方はしないが、それは僕が歓喜に向かう爆発者だからであって、爆発の中には燃焼を見つけにくいということに過ぎない。
早く酔っ払って「笑ってはいけない」を観たいので、投げやりな文章を書いているように見えるし、事実投げやりな文章を書いているが、ここに示しているのは、僕は今もなお投げやりな文章が書けるぞ、ということだ。
あなたは投げやりな文章が書けるだろうか?
ボエームというのはボヘミアンという意味で、高尚さのために頽廃を選択したいわゆる自由人のことを指す。
かといって、かつてのヒッピーブームのような自由人はもう成立しないし、今さらああいうのはたいして魅力的でもない。
現代のボエームたちは、第一に、脳みその性能がケタ外れでなければならない。
もともとそうでないと成立しないのだ、ボエームなんてものは。
ホーキング博士によって指摘された、完全な静止点であるはずのブラックホールがなぜか蒸発しているという奇妙な現象は、熱と蒸発現象が三次元でなく十一次元空間に起こっているからだ、という説明と数式で解決したし、その解決をホーキング当人も認めた。
だから表面上は燃えているように見えなかったとしても、それは大間違いで、脳が多層を同時に捉えるようになったとき、その燃焼の真実がわかるだろう。
今や大晦日だの正月だの、そういった節目でこころが燃え立つということは時代遅れのように捉えられるが、そうではない。
脳みそが上っ面の機能だけに退化したからにすぎない。
宇宙が三次元とか四次元とかではなく、実は十一次元あるというのは、正統な物理学のマジの話だ。
われわれには見えないし知覚もできない次元が存在している。
あなたは神様を信じるだろうか?
神様というと信仰上の立場でいろいろになるが、つまり、われわれが色んなことを「思い」「考える」ということより、さらに上位の共時性現象はありえないだろうか?
一神教の世界ではそれを「神」と呼ぶのかもしれないし、神道の捉え方ではそれを「カミ」と捉えるかもしれないし、密教系の仏教ではそれを「大日如来」と捉えるのかもしれないし、土着にはたとえば「お天道様」「まんまんちゃあん」と捉えるのかもしれない。
古くはそれらをひとまとめに「天」と捉えていたかもしれない。
僕の知る限り、脳みその発達していない人間は、自分の想念が妄想になった「オカルト」を信奉して生きている。
一方、脳みその発達した人間は、「天」と呼ぶしかないような神様の何かを直接感じながら生きている。
オカルト好きの人に脳みそがキレッキレの人なんかいないはずだ。
そして物理や数学を天才的に考究する脳みそキレッキレの人たちは何かしら「天」「神様」の存在を感じている。
聖徳太子が「いろはにほへと、ちりぬるを……」と詠んで以来、何千年経ってもそれを上回るよくできた五十音の詩は作られない。どうせスーパーコンピューターやディープラーニングの人工知能を使っても不可能なのだろう。
ならば、聖徳太子の詩は神がかりだと言わざるを得ないし、それでいえばラ・ボエームの楽譜も神がかりだと僕は感じる。
脳みそが同時多層処理を究める先にその神がかりは起こっている。
誰だって同じ臓器としての脳みそを持っている。
じゃあ誰だってボエームの世界の中に立ちたいじゃないか?
そのためには、さあ誰と握手して、誰と内緒のキスをするか……
神様のいない世界に立っていてもしょうがないし、ましてそれで「頭が悪い」では救いがない。
ではでは、今年も一年、お世話になりました。
もう二十時になった、あと四時間だな。
来年もどうぞよろしく。
[平成二十九年のラ・ボエーム/了]