No.369 暗がりの夜に僕たちは明るい
(速く読め。スピードだ)
文学的なタイトルをつけたがあまり意味はない。
意味がないことはないか……
宮下公園で寒空に少年がポップコーンステップを練習していた。
いいな、おれも練習しようかな。
はっきりとした白い紙に、くっきりとした青い文字が書きこまれる。
いつだっていい眺めだ。もちろん、実際にはエディタソフトにキーボードで入力しているのだが。
明るい話がしたいし、明るい話が必要だと感じている。
それについては、どうか、ずっとおれについてきてくれ、ぜったいに大丈夫だから、と言いたがっている。
内容の虚実よりこの文言が重要だ。
ぜったい大丈夫。
ぜったい大丈夫ということは実際にある。
すべてにおいて、というわけではないかもしれないけれどもね。
明るい話といえば、脳みそは臓器であって、誰だってその臓器を持っているということ。
これは明るい話だ。
臓器としての脳みそが劣っているという人はいない。
臓器としての脳みそが、器質障碍でも持っていれば、その人は母国語を解せないはずで、そうしたらこの文章が読めていないはずだ。
この文章を読めるということは、母国語を嬰児のうちに学んだということで、それは脳みそがすさまじい能力を持っているということを意味している。
誰にとっても脳みそはそうだ。
脳みそだけでなく、人間の臓器はどれもこれもすさまじい性能を誇っている。
免疫機能などに至っては、いまだに原理がわからないぐらい高性能だ。
われわれはそうして、誰だって、すさまじい高性能の臓器に支えられて生きている。
なまぐさい話になってしまった。
臓器のすべてはちゃんと身体の内側にしまわれてあって、表面はちゃんとうつくしい肌で包まれている。
女の子などは特にうつくしく、しかもいい匂いまでするのだ。
すばらしいことだなあと思う。
博物学的な達観を誇っているのではない。
科学的な視点を提出している。
僕はアホな人間をアホだと馬鹿にするが、アホな人間の脳みそが臓器として劣っているとは思わない。
脳みそは同じだ。それはただの科学的な知見で、僕の思い入れに関係のないことだ。
表面上、どれだけクルクルパーに見える人間がいたとしても、彼と僕とで、脳みその性能そのものに優劣があるわけではない。
ただ、毒薬を不毛に飲み続ければ肝臓がへたばるように、毒性の何かを摂取しつづければ、脳みそだってへたばるのだろう。
何を摂取したら毒になるか、という話はここではしない。
そういう話は、どうせ暗くなるからだ。
夜は、空が暗いからうつくしいのだが、それに合わせて人間の脳みそまで暗いのはいただけない。
夜は暗く、その中で生命の脳みそが明るいからこそ、夜はきわやかに輝くのだと思っている。
明るい話をするためのコツは、暗い人に注目を置かないことだと思う。
たとえば今は、キムタクとか清原とかのことを考えると、少し暗い気持ちになるのかもしれない。
あるいはお先真っ暗な何かの店の店長とか、そういうのを考えると暗い気持ちになる。
が、キムタクにせよ清原にせよ、事情はどうでも、脳みそはもともと同じだね、みんな同じものの持ち主だね、と考えると明るくなる。
科学的に正しい上に明るいので、これは正当に明るいのだ。
もちろんこれを読んでいるあなたもそうだ。
脳みその持ち主は平等に明るい。
そう聞けば、清原さんも少しは笑ってくれる……のかもしれないし、笑ってくれないのかもしれないが、よくわからないが、笑ってくれるのじゃないか。
誰も彼も、笑って状況がよくなるわけではないが、悪くなるわけでもないし、暗い顔をしていても状況がよくなるわけでもないので、笑っていたらいいと思う。
笑えばいいと思う、のではなく、笑っていたらいいなと思っている。
意図的に、笑う、というようなことはやめたほうがいい。
笑えることを科学的に探す手間を惜しんで、強引に顔面だけ笑うというようなことは、実に脳みそに毒だ。
脳みそが笑っていないのに顔面だけ笑うのだ。
そんなもの、脳みそが軋むに決まっている。
あなたが誰かに腹を立てて、やがて鋼鉄のメリケンサックで脾臓の真上を正拳突きすることがあったとしても、そのときにこのことを覚えておいてほしい。
正拳突きでゲボを吐かせるのはとてもナイスだが、それにしたって、同じ脳みその持ち主であるという科学的事実、これは消えない。
もともと、誰だって赤子のころは、脳みそと全身が素直につながったままで、母国語をあっという間に学習し、笑うべきときにのみ笑い、すべての物事をまっすぐ見ていたのだ。
そしてすべての人は、脳みそとよくつながったまま生きているか、切断されてクルクルパーになって生きているかのどちらかであって、切断されている場合はいわば震災のようなものだ。脳みそから全身への連絡網が破壊された。復興が待たれるが、誰だって他人のことにそこまで構っていられない。
脳みそから全身への接続は、正しくされるべきで、それが間違って上水道と下水道を接続するようなことをすると、蛇口から汚水が出るというようなわけのわからない状態になる。
口を開けば悪口しか言わないとか、汚らしい言葉と汚らしい声しか出さないというような人は、上水道と下水道をつないでしまったのだ。
それはとても残念なことだが、なかなか破壊して再構築という大工事はできないもので、たいていはそのままいくしかないのだが、そこまで他人のことに構っていられないので、そのことはただ科学的に見るのがいい。
「それでも脳みそは同じなんだよねえ」というのはどこまでも明るい話だと思う。
話すアテは特にないのだが、新年のテーマについて話そう。現在、平成二十九年、西暦二〇一七年の一月七日だ。
「頭がいい」、ということを最優先に置く。これをボエーム主義という。
なぜボエーム主義というかの説明は、今は面倒くさいので置いておこう。
この場合の「頭がいい」というのは、同時多層処理ができる、という意味だ。
そのことの前に、まず、あなた自身、
「あんなに頭のいい人を初めて見た」
と誰かに言われたい、という願望はないだろうか。
それも、
「学歴とかそういうのじゃなくて、人間として、生物として、あんなに頭のいい人を見たことがないよ」
と言われたくないだろうか。
このことは、特に、人並み外れてうつくしいべっぴんさんの女性に申し上げたい。
際立って人目を惹くほどうつくしいのに、
「しかも頭までズバ抜けていい、頭がよすぎて、逆にわずかのイヤミもない」
とまで言われるようでありたいと思わないだろうか。
それは誰だって思うだろうし、そう思うのは健全なことだ。
生まれ持っての見目形の美醜にはあるていど限界があるが、頭のよさについては割と制限がない。
ここで間違っても、
「頭のよさにもそれぞれ限界ってありません?」
などと反論ぶってはいけない。
そういうわけのわからない反論風情は、脳みそをまったく軋ませるだろう。
もし正当に論破するなら、
「自分のほうが頭がよくないと宣言しておきながら、なぜ堂々と反論するの?バカなの?」
ということになる。
自ら頭のよさに制限があると申し出るなら「じゃあ黙ってろ」となるのが正しい筋道のはずだ。
だいいち、ここが重要だが、わざわざ自分の脳みそに不快なものを選んで情報取得することがすでに病んでいる。
「頭のよさに限界なんてねえよ」
と僕は言う。もちろん凡人がアインシュタインやフォン・ノイマンのようになるのはむつかしいだろうが、誰もそこまでの史上空前性を求めているわけではない。
ここで、「そっか、頭のよさに限界なんてないんだ」と受け取ったほうが、どう考えても脳みそにとって快適だ。
真に脳みそがまともなはたらきをしている人は、脳みそにとって快適なほうを選択して取得する。
このことはとても大事だ。
ここで、反論ぶって、「頭のよさにも限界があるでしょ……」みたいな意見を差しはさむと、それによって自我は一定の主張満足を得るのかもしれない。
が、そうして自我を満足させるために、脳みそはその不快感にギシギシ軋んでいる。
これは自殺行為なのだが、ともすると一部の人は、そうして自我の自己満足のために自分の脳みそを自害させて本望、みたいなところがあるのだ。
そういう人は、自分で「割とイライラする」みたいな自覚があるのだが、そういう自覚があるくせに、なおも自分の脳みそに不快さの自害を加えていく。
そりゃイライラするに決まってるだろ、と言うしかないのだが、よもや未来とうつくしさのあるカワイイ女の子はそんな自害グセをつけてはいけない。
このことは断言していいが、自ら脳みそを不快にして「イライラする」というような性向については、誰も救済してくれない。助けてくれるわけがなくて、自分で選んだそれで一生いく羽目になるのだ。
なぜそんな、自分の口の中に常に海砂を放りこんでおくというようなド変態のマネをするのか、僕にはまったくわからない。
この、自我の自己満足のために脳みそをギシギシにするというのは、中途半端なIQを持ちながら何かに失敗しつづけたという人に少なからずあるパターンだ。実在するパターンなので気をつけよう。
食事をしようとするあなたの口の中に海砂を放りこんでくる奴まであなたは友人と認めてやる必要はない。
頭のよさに限界なんかないし、少なくとも僕とあなたの頭のよさに限界はない。
限界があるでしょ、と信じる奴だけ、勝手に制限づけられていたらいいだろう。
そのようにして、「頭がいい」ということが最優先に置かれるわけだが、なぜ「頭がいい」ということが最優先に置かれるかというとだ。
頭のいい人にとっては、愛やロマン、情熱、美、といったものが存在するからだ。
たとえばハシゴ状神経系しか持たない昆虫にとっては、愛や、ましてやロマン、情熱や美といったものは存在しないだろう。
頭のいい動物、たとえば哺乳類から鳥類ぐらいまでは、頭がいいために「遊ぶ」という能力を持っている。
猫が猫じゃらしで遊ぶのは誰だって知っていることだし、鳥だってどうやら遊んでいるらしい光景は存在する。
それに比べると、イグアナは遊んでいるようには見えない。イセエビも遊んでいるようには見えないし、プラナリアも遊んでいるようには見えないだろう。
どれもこれも、生命という点については同様に偉大だが、いくら偉大と言われても、われわれはプラナリアのようには生きたくないし、生命をまっとうしてオワリ、という生き方を望んでいるわけではない。
幾人かの歴史的詩人が指摘しているように、人間は遊ぶために生まれてきたのだし、「この世界の誰よりも遊んだかもしれない」と信じて死んでゆけるなら、その人間の生は疑いなく満足だろう。
その「遊ぶ」ということも、頭のよさがなければできないのだ。
遊ぶだけの知能のない生きものは、発情して興奮してセックス、あとはなんとかしてエサにありつく、というだけの生き方しかできない。
当人にはそれ以上の知性がないので、当人としては満足かもしれないが、それに巻き込まれる周辺はかなり近所迷惑だ。
六十歳の老人が、女子高生を見てレイプを妄想し、あとは年金の金額に興奮する、ということしか持たなかったとしたら、そんな存在が近所にあるだけで厭なものだ。
「頭がいい」ということのすばらしさは、その人にとっては愛やロマン、情熱、美などがはっきりと存在する、ということだ。
あなた自身はどうだろうか。
あなた自身は、人にはっきりと、
「愛は存在するでしょ」
「ロマンは存在するでしょ」
「情熱は存在するでしょ」
「美は存在するでしょ」
と当然のように言えるだろうか。
それも興奮して拳を振り立てて"主張"するのではなく、
「重力波は存在するでしょ」
と言うときのような口調で言えるだろうか。
つまり、当然の、バカバカしいほどの確証をこめて。
重力波は言い過ぎなので、
「タージ・マハルは存在するでしょ」
ぐらいにしておくといいかもしれない。
タージ・マハルは存在するので、それをわざわざ"主張"するようなトンチキはいない。UFOの存在を主張する類ではないのだ。
実際に、こうして改めて問い質してみると、愛が存在すること、ロマンが存在すること、情熱や美が存在するということを、はっきりと断言できない人は少なからずいるものだ。
それは、当人がその体験なり目撃なりを得ていないからだ。
そして、なぜそれを体験なり目撃なりしていないかというと、これまでの研究の結果、
「頭が悪いからだな」
ということに結論付けるのがもっとも正当だということが確認された。
頭が悪いと、愛やロマンが"わからない"のだ。
わかっているふりをしながら、実は本当にはわかっていない。
だから、「ローマの休日」や「マイフェアレディ」を観ても、「憧れる」「女優さんキレイ」とか、そういう感想しか実は持っていなかったりする。
これはよくよく考えると、けっこう恐怖を覚えることだが、実際にそういう人は少なくないのだ。
愛やロマンや情熱や美に、「感動」を覚えることが生涯に一度もないという人も少なくないのだ。
それも、「頭が悪いから」という、身もふたもない理由によってだ。
うう、そんなものには、なるべく一度も近づかずに過ごしたいものだ……
愛やロマン、情熱や美がわからないということは、けっこう悲惨なことで、それはつまり、図書館に置いてある本の99%、美術館に置いてある美術品の100%、レンタルビデオ屋に置いてある映画の30%に、まるで用事がなくなるということだ。
世界がゴッソリ欠損するのだ。
この世の中で価値があるとされているものと、バッサリ切断されてしまうのだ。
それはあまりに悲しいことではないか。
バッサリ切断されているのに、納税の義務は同等に課されるし、病気や死といった苦しみもやはり同等に課されるので、不平等きわまりないと言える。
だから、ここは素直に、年齢の若い順に、
「わたしも頭よくなりたい」
と求めるのが最大の正義だと思う。
ここで言う頭のよさとは、脳みそが同時多層処理をこなせる、ということを指す。
同時多層処理とはどういうことか?
それは例えるなら、車の運転をしながら、気の利いたトークをし、目的地までの時間配分を考えながら、ちょうどよいところでトイレ休憩を算段し、それをにぎやかにしながら実はこっそり女を口説いているし、しかも同時に未経験の人間に遊び方やデートの方法を教えてもいて、一切をおくびにも出さない……というようなことを同時に処理しているというような脳みそのはたらきのことだ。それが実現できていないと、頭がいいとは言えない。
なぜ同時多層処理ということにこだわるか?
それは、「同時」に「多層」が処理できていないと、「ひとつのこと」にならないからだ。
多層を同時に処理できず、個別に処理していると、バラバラ処理になり、ひとつにならず引きちぎられてしまう。
だからたとえば、仕事をしてたら遊べなくなるとか、ダンスをしていたら勉強ができなくなるとか、貧しい話が出てきてしまう。
学生が、部活動は部活動で分離して、趣味は趣味で分離して、テスト勉強はテスト勉強で分離して、就職のための資格取得も分離して、恋愛は恋愛、友達は友達、飲み会は飲み会で分離……とやっていると、果てしなく貧しくなってしまう。
そんなにバラバラに千切ったものはひとつの青春にならない。
どう言えばわかりやすいだろうか?
たとえば僕の場合、学生時代は神戸にいて、神戸でたくさんの女性と出会った。アホの友人もたくさんいた。
そのとき、あのときの「場所」と、あのときの「彼女」が同時に処理されている。もちろん季節や時刻やそのとき食べたものや歩いた道なども同時に処理されている。アホの友人も処理されている。
同時多層処理だ。
だから「ひとつ」の思い出になる。
もしあのときの記憶を、セーヌ川のほとりで……という記憶に書き換えられる装置があったとしても、そんなことは断固として拒絶する。さらに言えば、そこでスーパーモデルの○○と……という記憶に書き換えられるとしても、それも断固として拒絶する。
それらはすべて、あのとき、あの場所、あの人と、ということで、多層がひとつになって処理されている体験だからだ。
それをパーツ化して捉えることは、それだけですでに構造の死を意味する。
こんなこと、言われてみれば当たり前に思えるかもしれないが、案外そうでもないのだ。
愛やロマンが実は「はっきりとわかっていない」という人が少なくないように、実はそうした「あのとき」「あの場所」「あの人と」という思い出を持っていない人は意外に多い。
そのことは、はっきりと、「思い出の場所について語ってみろ」と言いつけてみると、明らかになってくる。
「思い出の場所」がないという人はけっこういるものだ。
なぜかというと、その人はその人なりに、手抜きせずに生きてきたつもりではあるのだが、脳みそが多層処理できていないため、そのときの思いと場所がつながっていないのだ。
つまり簡単に言うと、女を口説くのに必死だったつもりが、多層処理されていないので、場所の情報が切断されているのだ。
だから思い出の場所が残っていない。
そうした人は、実は、自分がこれまでにどういう場所でどういうふうに生きてきたかが、自分ではっきりとわかっていない。
もちろん記憶情報はあるのだが、記憶されている情報と「思い出」は違う。
たとえば「貫一お宮」(金色夜叉)という有名な芝居があるが、あれは夜の砂浜で、波音がして、厳しい別離間際の状況にある男と女、その上で「来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる」という台詞が織りなされないと、「貫一お宮」にならないのだ。
これが、脳みそで同時多層処理されないと、砂浜・波の音・満月・男・女・別れ・台詞がバラバラに分解されてしまい、わけのわからない「何かムードあるね」というシーンに堕してしまう。
実際そのせいで、たとえ貫一お宮の完璧な芝居を観たあとでも、
「女優の○○さんの芝居がよかった!きれいで憧れます!」
みたいな感想になるのだ。
この、頭が悪い状態の女を、たとえ貫一お宮の舞台である熱海の砂浜へ一月十七日に連れて行ったとしても、
「ふーん。たしかにそれっぽーい」
という感想にしかならない。
このとおり、ロマンがわからないのだ。頭が悪い(同時多層処理ができない)せいで。
脳みそが同時多層処理をできていないと、こうして思い出の場所が得られないというか、「織りなされて得られるもの」のすべてがわからなくなる。
これは恐怖だ。
たとえば、ふつうテーブルマナーといっても、いくつかの晩餐会の映像や映画の映像などを観ているもので、脳みそがその映像を同時多層処理できていれば、どことなくテーブルマナーの"態度"みたいなものは頭に入っているものだ。
ところが、脳みそが同時多層処理をできていないと、映画を観ていてもそれが「食事しながらのシーン」とは入力されていないため、テーブルマナーの"態度"みたいなものは受け取られていない。「女優さんのお洋服キレイ」としか見えていない。
その場合、脳みそが同時多層処理をできず、単一線的処理しかできないので、テーブルマナーはテーブルマナーの「教室」「暗記」として学習させないと覚えない、ということになる。
しかもその場合、覚えたものは単一線的で、融通が利かないものになる。
だから、カジュアルなイタリアンと、ビストロと、オステルリーとで、自然な使い分けができなくなり、杓子定規のロボット的「テーブルマナー!」しかできなくなるのだ。
そしてお察しのとおり、そういった覚えごとの披瀝は、何をどうしたってダサいしカッコ悪いのだ。
本当に杓子定規に暗記しかできないので、「ナイフとフォークしか習っていないので、お箸はわかりません」というような状態になる。
こんな単一線的な脳みその男とデートしたらどうだろう?
女は暗い気持ちになるはずだ。
なぜ暗い気持ちになるかというと、頭が悪いということのどうしようもなさを目撃したからだ。
「コンジキなんとかの女優のあの人、超キレーだったよね。マジいい女で、超ヤリたいわ」
このように、頭が悪いということは、暗がりの夜になお暗さを持ち込んでしまう。
暗がりの夜に僕たちは明るくなくてはならない。
というわけで、無意味につけたタイトルに捻じ込んだ。
やっぱり無意味に文学的なタイトルではなかったな。
***
愛とロマン、情熱と美が、「存在するでしょ」と当然に言い切られるところ、明るいに決まっている。
シュワッチ!!(この一文には本当に何の意味もない)
(速く読め。スピードだ)
ところで僕にはたましいがあるので、たましいの話をしよう。
以前から指摘しているとおり、「こころ」は胴体にある。
「たましい」というのは、それのさらに上位にある何かだ。
「たましい」がどこにあるかというと、それはもう、どこにあるのかわからないというか、ひょっとしたらもう体内にはないのかもしれない。
体内にあってもいいのだが、それはわりと自由で、「天」ともつながってある、と言いたくなる。
わりとまともな話をしていると思うのだがどうだろうか。
最近は人工知能のディープラーニング等々が話題になっているが、どうせ人工知能にはこころもなければたましいもないので、みんなが期待したようなことにはならない。
人工知能が意志を持つなどというようなことはない。
あるとしたら人工知能が電子的なトラブルを起こすぐらいだ。そして修理箇所がわからん、困る、ということぐらいだ。
人工知能が「うわっ、びっくりしたあ」というようなことは起こらないのだ。
生きものじゃないからね。
生きものではないので、びっくりはしない。腹を抱えて笑うこともない。
人工知能は、設計された奔放な「知能」に過ぎず、それは「知性」ではないのだ。
まあそんなことはいいとして、僕にはたましいがあるのだ。
これは明るい話だと思う。
たましいのある男に抱かれるのは明るい。
あなたにはたましいがあるだろうか?
無ぇよ、と僕がひどいことを言うので、「あるわよ!」とあなたはただちに反論したまえ。
たましいというのは、意志のことだ。
それはさすがに言い方が雑すぎんだろ……
たましいとは何かというと、たとえば、僕は面白い奴だが、僕は僕のたましいによって面白い奴であり、僕のこころや意図や願望や技術によって面白い奴なのではない。
僕は面白い奴なので、僕のたましいが入っている僕は、面白い奴に決まっている。
ふざけているような言い方だが、こう言うしかないのだ。
人間は機械的な技術を持つことができる。たとえば大声を出すというようなことだ。それは発声練習をすれば誰でもできる。○○デシベル、というような音量を声帯から出力することができる。
人間はさらに、こころと血肉におよぶ技術を持つこともできる。たとえば「人に届く声」を出すというようなことだ。それは人づきあいをしていけば誰でもできる。ただし、「身をもって」人づきあいをすればだ。
これらのことはおおよそ技術という範疇に区分できるが、最終的に「たましい」だけはどうしても技術化されない。
たましいはたましいだからだ。
もともと面白くない奴のたましいが、技術的に面白くなるということはないし、たましいの入っていない人間に、機械と血肉の技術を付与したところで、やはりその人は面白い人にならない。
たましいの入っていない人間なんているかよ、と言いたくなる気持ちもよくわかるが、この場合はこう考えたほうがいいのだ。
もちろん本来はたましいの入っていない人なんていないはずなのだが、たましいを否定するのではなく、「天」とか「かみさま」とか「ほとけさま」とかを否定することによって、結果的にたましいが否定されることになる。
なぜか?
それは、どうやら人のたましいというのは、その天とかかみさまとかほとけさまとつながって存在しているもののようだからだ。
よって、「かみさまなんていねぇよ」と否定したとき、ブツッと糸が切れて、自己のたましいが否定されることになる。
かみさまが否定されるわけではないのだ。
かみさまはもちろん、人間による否定なんか知ったこっちゃない存在だ。
人がかみさまを否定したとき、かみさまがダメージを受けるわけは当然なく、ダメージを受けるのは人間の側だ。
人はかみさまを否定することによって自己のたましいを喪失する。
かみさまを否定した人間は、当人がただの「利己的蛋白質群」という存在になるので、これはナンノコッチャのたましいのない存在になる。
ひょっとしたら、ウイルスとかマクロファージにはたましいがないかもしれない。あれは本当に、ただの蛋白質構造体を複製するだけのシステムかもしれない。
かみさまを否定するということは、自分がそのマクロファージと同類ですよ、とみなすことになるのだ。
そんなマクロファージ化した人間に、愛とかロマンとか、情熱とか美とかがわかるわけがない。
かみさま、ということを言い出すと、いつもその説明がめんどうくさいと感じる。
なぜめんどうくさいかというと、そんなことは僕が話すべきことではないからだ。
が、たぶん、僕だって一人の大人としてそうしたことをまともに話さないと、きっとロクなことにならない予感がするので、かいつまんで最小限に話すことにしよう。
かみさまは大事だ。
かみさまとの接続が自己のたましいだからだ。
そして、たましいが自己の意志となるので、たましいがなければどこをどうほじくっても意志なんか出てこない、ということになる。
このことは誰にでも心当たりがあるのではなかろうか?
利己的蛋白質群としての人間にも、性欲とか金銭欲とか保身欲求とか願望とかはあるので、利己的蛋白質群としての人間も活発に動くことはある。
群としての人間も活発に動くことはある。
が、何というか……
よくよく観察して、「あの人はけっきょく、我欲と願望しかないわよね」と思える人がいるはず。
そしてそういう人は、かみさまなんてまったく信じていないはずだ。
もし「天」なるものが存在するとしたら、その「天」とやらに、「まるでつながってないなあ」と感じられる人が存在する。
そして、そうして「まるでつながってないなあ」という人が、自己の我欲と願望だけでめちゃくちゃガンバっている、ということは割とよくある。
が、そうした人はたいてい、晩年かその手前で、「なぜ自分が生きているのかよくわからん」というような状態になり、麻薬や事故や暴力や認知症によってクラッシュする。
願望の面では、「大成功」しているはずなのに、その顔つきや眼差しは、致命的に「不満」に濁っていたりする。
大成功なのに大不満なので、もう彼が満たされる方法はない。
そういう人を、見てきたという人がいるはずだし、この先に目撃する人もあるはずだ。
いろいろと説明がめんどうくさいが、いいかげん大人になって、「天」とつながるぐらいしようぜ、と僕はまともなことを言っておきたい。
奇妙なことに、かみさまを否定したがる人は、以下略、まあもう説明する気も失ったのだが、
「あなたにもたましいがあるよ、本来」
と言って差し上げても、
「いいえ、ボクにはたましいなんかありません、無です、だから闇です」
と反論主張したがるのだ。
なぜそんな、自分に最大不利な主張を頑強にするのか、僕にはさっぱりわからない。
別にたましいが無いと言い張るならそれでもかまわないが、なぜそんな預金口座から自分の名義だけ消すというような自分への蛮行をするのか、僕にはまったくわからないのだった。
何の話かわからなくなったが、とにかく「かみさま」「ほとけさま」「天」の話だ。
もちろん宗教のことを言っているのではない。宗教は人間の問題であってかみさまの問題ではない。
別に、場所や民族や時代を問わず、人が何かに祈っているのだとしたら、それは何かしらのかみさまに祈っているのであり、そのいちいちのかみさまの形容をほじくって聞きださねばならない動機はない。
ただ、祈っている美少女のスカートは捲りたいが、利己的蛋白質群のメスのスカートなんか捲りたくない、ということだけは断言できる。
かみさまとたましいの入っていない、ただの肉マネキンとセックスさせられるのは、わざわざ闇を飲みこまされる罰ゲームみたいなものだ。どう考えてもホラーでしかない。
さて、仏教を例に採ると、仏教の開祖はゴータマ・シッダールタだ。彼はブッダと呼ばれる。お釈迦さまとも呼ばれる。
なぜお釈迦さまと呼ばれるかというと、もともとシャカ族の王子だったからだ。王子だったが、「このままではダメだ」と二十九歳のときに城をでて出家された。彼も生まれつきブッダだったわけではない。
「ブッダ」というのは「ブッド/悟りを開く」という意味の動詞に、er形がついたものだ。「悟りを開いた人」という意味になる。
当時のインドはサンクスリット語で、サンスクリット語はアルファベット語系だから、そうしたer形が存在する。
「ブッダ」とは「悟りを開いた人」のことなので、もし僕が悟りを開いたとすれば、僕も「ブッダ」になる。
ただし、もちろん僕などは生存中に悟りを開くなどという飛び級は不可能なので、僕が生存中にブッダになる可能性はゼロだ。
ゴータマ・シッダールタの次に「ブッダ」になる存在はすでに予言されていて、その存在は僕ではない。次代のブッダになると予言されているのは弥勒菩薩だ(と仏教では言い伝えられている)。
ただし、弥勒菩薩が現世に現れて次代のブッダになるのは、56億7000万年後なので、それを期待して長生きするということはお話にならない。
ちなみに、「菩薩」というのが「修行中」という意味で、「如来」というのが「すでに悟りを開いた仏」という意味だ。だから弥勒菩薩は修行中で、阿弥陀如来はすでに仏になられているということになる。
ゴータマ・シッダールタは、この宇宙の真相について解き明かし、それを我々に伝えてくれたのだが、その教えによると、この宇宙にはそれら「如来」、無数の仏が満ち溢れているらしい。
もちろん僕はブッダではないので、無数の仏が見えたりはしないが、なにしろゴータマ・シッダールタがそう言っているのだからしょうがない。
われわれはこのことをどう捉えればよいかというと、信仰の種類によらず、少なくとも「ゴータマ・シッダールタという何かしらの超天才がいた」ということは史実として間違いないのだろう。
なにしろまだ紙もなかった二千五百年前のインドで彼が話した口伝が、暗記され伝承され、現代まで大切に保存されて、世界中に伝わっているのだ。
あなたの話したことは二千五百年後まで残らないだろうし、僕が話したことも二千五百年後まで残らないだろう。その点だけみてもゴータマ・シッダールタはすごい。しかも、仏典を読めばわかるが、どこからどう見てもゴータマ・シッダールタの語り口は超絶に頭がよく論理が完璧で無謬だ。
最近、「千年に一度の美少女」という触れ込みで有名になっているアイドルタレントさんがいるが、それになぞらえて言えば、仏教におけるゴータマ・シッダールタは「56億7000万年に一人の天才」という触れ込みが相当することになる。
それがどういう意味で天才かというと、
「この四苦八苦の世界で、生存中に悟りを開くとか、そんな奴がいてたまるかよハハハ」
「それが、いたんですよ」
「えっ? マジ?」
という天才だということになる。
人間が生きている時間はとても短く、人間が生きている間にこのゲームをクリアするということは不可能だ。
どう不可能かというと、それはたとえば、ファミコンの本体が四十秒で壊れてしまう、というような状態だ。
四十秒で本体が壊れてしまうのでは、とてもじゃないかドラクエはクリアできない。
にもかかわらず、ゴータマさんの「攻略」がド天才すぎたもので、ゴータマさんはなんとその四十秒のうちにこのゲームをクリアしてしまった。
マジかよ、という話になる。
でもじゃあ、せっかくだからそのゴータマさんが生きているうちに、
「ね、ね、どうやったらクリアできるの?」
「クリアしたらどうなるの?」
と聞きたくなるのが当然だよなあ……
それが仏教。
あと、
「おい誰か、ゴータマさんが言ったこと、全部覚えといて。あとで何かにちゃんと書いておけよ」
となった。
要点は、そのゴータマ・シッダールタという超天才が解き明かした宇宙の真相と比較して、まったく超天才でしかないわれわれの凡人の生活上の感想が、抗しえるかね? というところにある。
つまり、ゴータマさんの言うことを信じないということは、突き詰めるところ、「ゴータマさんよりわたしのほうが頭いいから」ということになる。
ゴータマさんおよび、その仏教を信じた聖徳太子や道元や法然より、わたしのほうが頭いいから、わたしの考えのほうが正しいわ、ということになる。
僕自身は、とてもじゃないが、自分の感性や知性がそれら偉人を上回るとは思えないので、単純に、
「あの人たちのほうが正しいんだろうな、そりゃ」
と思っている。
別に仏教に関わらず、叡智に及んだすべての偉人について、僕は同様に思っている。
あの人たちのほうが正しいんだろう、そりゃ。
それは信仰というよりただの判断力だ。
まるで、物理的宇宙についてホーキング博士と討論しろと言われているような類で、「無理無理、及ぶわけないでしょ」としか僕は思わない。
そんなものは、解き明かせる奴に解き明かしてもらって、僕はプレステでもやりながら、あとで解き明かされたものの要点だけ勉強させてもらうというので十分だ。
ブッダが解き明かしたところによると、この宇宙にある無数の仏のうち、たとえばその中心にある仏をピックアップすれば、それは大日如来(ビルシャナ仏)と呼ばれる。真言宗などは、「真言」を百万遍唱えることでこれら大きな仏と接続して知恵を授かろうとする。
この宇宙には大日如来の声が隅々まで行き渡っているはずが、われわれのようなアホには聞こえておらず、それを真言を唱える修行を積めば聞こえるようにできるのだと、まあそういう考え方だ。
聖徳太子が発明したとされる「いろはにほへと」は神がかり的な出来栄えだと思うが、それだって、
「天からの知恵を授かってますから、そりゃ神がかりで当たり前でしょ」
と言われたらナルホドという気がする。
仏教を例にとって「かみさま」的なことを捉えるならだいたいこんな感じになる。
だいぶ端折ってあるがだいたいこれで間違いない。
もしこれらの話を、とんでもないところまで集約して、現代的に言うならば、仏教の教えるところはつまり、
「宇宙はヤバい。ガチでヤバい」
ということになる。
宇宙って何もない、ただの天体の散らばる空間なのかね? という問いに、
「そうじゃない、もっとヤバい現象がガチで存在している」
と答えうる、ということになる。
問題は、このおっそろしい話を、ただのおとぎ話とみなすか、それとも、
「いや、超天才がマジで話したことだから、これたぶんマジなんだよ……」
と畏れるかだ。
僕は畏れている側ということになる。
もちろん、
「そんなんただのおとぎ話でしょ。シューキョーですよシューキョー」
と全否定する立場もあるだろう。
僕はとてもじゃないか、かつての超天才が解き明かした話を、おとぎ話だと一笑に付すという根性はない。
あくまで宗教的な話がしたいのではない。たとえば神仏習合においては大日如来は天照大神と同じに扱われるので、別にそれはそれでかまわないし、あるいはヤハウェやアッラーを捉える峻厳な立場ではそんな混淆は許さないだろうが、とにかくそれが「かみさま」であることには違いない。それ以上の宗教としてのこだわりは、それぞれがご実家でご両親とやりあえばいいだろう。僕がここで取り扱う話ではない。
僕が話しているのはあくまで、
「この世界には、わたし、しかない」
のか、それとも、
「この世界には、わたし、と接続している、何かデカイものがある」
のかだ。
僕は、次の二点によって、そのデカイものがあると認める立場だ。
・過去の超天才たちがくだらない「おとぎ話」をしたとは思えない
・「わたし」だけでは説明のつかない体験や現象が、経験的に多すぎる
何の話をしているのだっけ? たましいの話だ。
たましいの話、つまり、僕が面白い奴であるということは、僕のたましいによることであり、僕の技術や意図や願望によるものではない。
言い換えれば、僕が面白い奴でありつづけるためには、僕が僕自身であり続けねばならず、そのためには、僕のたましいがあり続けねばならず……
そのためには、僕は「天」と呼ぶべきような何かにつながっていなくてはならない。
そうでないと、僕は面白い奴ではなくなってしまい、それ以降は、面白くないくせに何か技術や意図や願望だけタンマリあるという、不毛な奴になってしまうのだ。
それではいけない。
それではいけない、と、どうしようもなく痛感させられるときがあるのだ。
それはこうして、何もない白紙に、青い文字を書き連ねていくようなときが典型的にそうだ。
面白い何かを書かないといけないが、そのためには、僕が面白い奴であるしかない。
自分が面白い奴でないかぎり、目の前の白紙に対して無力なのだ。
これはなかなか身もふたもないリアリティの話だ。
あなたの手元にも白紙ぐらいあるだろう。
それを手に取ればわかる。これは身もふたもないリアリティの話で、白紙を手にしたとたん、人はしょせんワーと叫んで天に祈るしかないのだった。それがたぶん一番まともな方法だ。じゃあいいかげん、天とたましいぐらい安請け合いしたらいいんじゃない。
***
ここにきて、かみさまが大切になるとはまったく予想していなかった。
別にアタシは原稿用紙に用事なんかないもんね、やったあ、かみさまいらなーい、と余裕をこく人があるかもしれないが、残念ながらそうはいかない。
原稿用紙の升目に用事はなくても、誰だって、カレンダーの升目が白紙で空いているじゃないか……
そこに何を埋めていくかというのは、やはり、ワーと叫んで天に祈るしかないようなことなのだった。
明るい話を続けている。
誰だって脳みそは同じだね、という話。
おれにはたましいがあって、おれはたましいから元々面白い奴です、という話。
たましいは天とつながってしか存在しねぇよ、というのも明るい話だろう。
どうやって生きたらいいかわけがわからん、と内心で八十八枚目のビーフジャーキーを齧っている人もいるだろうが、そういう人も、もうあきらめて天とつながって、自己のたましいを知るしかない。本当は技術うんぬんよりそちらが先だ。
「こころ」は胴体にあって、胴体に流れている「流れ」が素直になっている瞬間、そこにたましいが入れば、自分が何をすればいいかは勝手にモリモリ湧いてくる仕組みになっている。
そのモリモリ感を、仏教用語では菩提心という。
「学道用心集」の冒頭にも、まず「菩提心を起こすべきこと」が書かれているので、これがなくちゃやはり話にならないのだろう。
菩提心などと言われると、ウワ難しいしメンドクセ、と思うかもしれないが、これから行く先、実は別にやりたいこともやるべきこともないし、退屈ってスゲー怖いよねええええと悲鳴を上げることに比べたら、「あっ、やることってあるんだ」というほうが明るいと僕は思う。
現代人は「闇」を抱えている。
「闇」とかいうのは冗談だと思っていたのだが、最近はどうやら、本当にその「闇」の感触が実感としてあるという人が少なくないらしい。
もちろん僕は、そんな女のスカートを捲るつもりはないので、どこかヨソの好い人のところに行ってね、とこころの底から思うしかないが、それでも結論はハッキリしていて、
「かみさまが無いから闇なんでしょ、ホイ」
というだけのことだ。
そこから先、かみさまをオススメする、というような発想は僕にはない。
ただ僕は、理知において、「闇」をつぶやくツイッターの文言より、道元の書き残した学道用心集のほうがスゲエな、と思うのみだ。
わざわざデキの悪いほうを真実に採用するというのでは、もう何がどうなっているのかわからない。
職人が捌いてくれたトラフグがあったとして、わざわざ切り分けてくれた毒のほうを食べるというのでは、それは中毒するのが当たり前でっせ、ということになる。
今年からボエーム主義を採用している。
頭のよさを最優先に置く、というスッキリした主義だ。
「頭が悪いのが悪い」という決定的フレーズを持つ。
脳みそが同時多層処理をこなせればいい。
多層、つまり、天−たましい−脳みそ−意志−こころ−胴体、というような多層構造が同時に処理できていればいい。
何もマジカルなことはないし、オカルトなところもない。
ところで、近年は激烈な地震が日本各地で起こっているが、どの占い師もまったく地震を予知してくれない。
日本中のすべての占い師は、すでに度重なる懺悔から、もう剃り上げる髪も残っておらずツルッパゲで正座しているはずだ。
オカルト好きな人、霊好きな人、占い依存の人は、決まって理知性が低く、残念ながら頭が悪いのがパターンだ、ということが経験的に知られている。
なぜオカルト好きな人は、肝心のかみさま、天との接続が弱いのだろう。
なぜ、と問うてみたが、元々答えは明らかで、肝心のかみさまとか天とかにつながって考えれば、
「そういえばブッダもキリストも、霊とか占いとか言わないもんなあ」
ということがたちまち明らかになってしまうからだ。
だからこれはオカルト好きの人にとっては禁句になる。
「なぜブッダもキリストも、『占いと霊を重視しなさい』とは一言も言い残していないんですかね……」なんて言われると、そんなもの「ぐぬぬ」と口ごもるしかない。
オカルト好きの人は、天とつながっていないので、たましいがなく、よって意志が無い。
意志が無いので、自分がどうしたらよいかを占いに依存して決定してもらおうとする。
脳みそにたましいが入っていないので、脳みそはロクにはたらいておらず、よって、「オカルト好きでかつシュレーディンガー方程式を解くのがすごく速い」などという人は存在しない。
同時多層処理なしに菩提心をゲットしようというほど甘い話はない。
単一線的に「がんばるぞ!」と盛り上がったものが、すぐにダメになり続かなかった、いつもそのパターンです、という人はどれだけ多いだろう。
その「がんばるぞ!」は「意志」ではなかったのだ。
「がんばるぞ!」というのが、天とつながったたましいの「意志」ではなかったので、すぐダメになった。鼻息は荒かったが、それは正しいモリモリ感ではなかった。
こうして、「自分」の上層に「天」があることぐらい同時処理できなくては、自分のやるべきことへの正しいモリモリ感さえ得られないまま時間だけが過ぎていってしまう。
脳みそが同時多層処理をできていないとどうなるか?
たとえば占い遊びをしたときや、肝試しをしたときなど、ちょっとコワーイというようなことが起こったとする。
そのとき、脳みそが同時多層処理をできている人は、「コワーイ」と遊びながら同時に、
「んなアホな」
という処理も起こっている。
この同時多層処理ができていないと、そのときの「コワーイ」がすべてになるのだ。
よって、単純に、「自分の思ったことがすべて」になる。つまり、妄想が真実になる。
午前二時に南南西の方角を向いて水を77cc飲んで肘を回すと悪霊がとりつく、というようなワケのわからない妄想が真実になるのだ。
真夜中にそんな儀式をしたらコワーイという感じになるのは当たり前に決まっているが、まともな脳みそはそのとき、
「んなアホな」
と冷たい判断を下している。
「んなアホな」ということと同時に、
「仮に霊を認めたとしても、それならおれだっていつか死んで霊になるわけだし、その意味ではただの先輩というか、もともと存在はイーブンじゃないの。なんでこっちだけ向こうにビビらないといけないんだよ」
とも判断している。
同時多層処理だ。
心霊スポットとして有名なトンネルがあったとして、それだってどこかの業者が施工したものだ。
心霊トンネルを徹夜で熊谷組がドガガガガと突貫工事したら、熊谷組の人たちは霊に憑りつかれるのだろうか?
最新技術の施工によってピカピカに造り直されたトンネルを見て、心霊たちは新居をよろこぶのか、「イメージと違うなあ」と嘆くのか。
トンネル工事だって、施工前に神職にお祓いぐらいはしてもらうだろう。
それは、漠然と「天」なるものとつながって施工するべきだ、そうでないとロクなことにならないからね、と伝統に含まれている叡智を認める判断力を持っているからだ。
たぶん、頭の悪い人は、叡智として知られてきた「天」への畏怖と、妄想として信じ込みたくなる「オカルト」へのキモチを、ごっちゃにしている。
「かみさま」は叡智と結びついていて、「オバケ」は何の叡智にも結びついていないのに、この二つをごっちゃにしているのだ。
「かみさま」は何かしらの「教え」をもたらしてくれるが、「オバケ」がいったい何の教えをもたらしてくれるというのだ……
「かみさま」はあなたにモリモリ感をもたらしてくれることがあるが、「オバケ」がそれをもたらしてくれることは絶対にない。
ちょっと想像してもらえるといいのだが、たとえばどうせ占い師だって最新医療の人間ドックを受けていたりするだろう。あるいは、オカルト好きが「こっくりさん」のような遊びをしていたとしても、そのとき直下でマグニチュード9の地震が起こったらすべてをかなぐり捨てて走って逃げだすはずだ。
占い師は兵士の小隊に先行して、探知機無しに地雷原を歩けるだろうか? もしそうして地雷をよけて歩けるのならばすばらしい能力だが、どうせそんな能力はない。水晶玉を撫でながらドカーンと吹っ飛ぶのがオチだ。
あなたが大きな外科手術を受けるとして、その執刀医は、理知的な人がいいか、それともオカルト好きな人がいいか。
MRIやCTスキャンの情報に基づいて判断せず、水晶玉で占った箇所を切除するのだ。
そんなわけのわからないことになる前に、誰だってまっとうに、「超絶頭がいい人」になるほうがはるかにいい。
脳みそは臓器としては誰だって高性能なのだから、何よりこいつを抜群にすればいい。
そのためには天だって何だって使え。ちなみに、ありとあらゆるときに「天」を使える人のことを一般に天才という。天才とは、自分の才能じゃなくて天の才能を使いやがって、ズルい奴だなあ、という意味だ。
自分というのはどれだけアホでも、天は大きく、そこからつながってあるたましいが脳みそに入れば、脳みそは元々高性能で、しかも天の才まで引き出せるという……
天才の僕から言わせてもらえば、よくみんな、そんなに自力で頑張れるな、ということになる。
僕とは根性が違うのだと思うが、そんなのいいかげん疲れると思うよ。もっとラクしたら?
と僕は言いたがっている。
僕が思うに、人と人はつながっていなくてはいけないと思う。
かといってもちろん、運命の赤い糸が……という伝説を信じているわけではない。
そんなLANケーブルみたいなものに頼らなくても、そもそもたましいが天とつながっているブツなのだからそれで十分ではないか。
僕のたましいが天とつながっていれば、他の誰か、超美人ナイスバディ女のたましいが、天につながっているのだから、お互いはテキトーにやっていればテキトーに出会ってムフフするだろう。
そもそも、つながっていないものに会いに行ったって、「つながってないねえ」ということが確認されるだけで、むなしいに決まっている、ということを、きっと婚活パーティ等の経験者は痛感しているはずだ。
自分の意図や願望で、自分が面白い奴になんかなれないのと同じように、自分の意図や願望で、自分が誰かに出会ったりはできない。
どんな意図も願望も、根本的な暗がりを明るくはしてくれないだろう。
ノーたましいで明るくなろうなんて根本的にふざけた話なのだから。
たくさん、えげつないほど遊び、えげつないほど思い出があり、友人、恋人、場所、時間、愛とロマン、情熱と美を、えげつないほど体験してきた人は、それだけですでに何かの天才だったのだと思う。多層に亘る体験をひとまとめに経験し続けたに違いない。
そして、そうした天才は、自己の体験についてことごとく、それらは意図的ではなかったし願望でもなかったと感じているだろう。
すべては意志によって得られたもので……じゃあ意志と意図は何が違うんだ、意志と願望は何が違うんだ、ということになるが、それはやはり、意志は自分以上の何かとつながって生じているものだよ、ということになる。
意志は自分のたましいからのもので、ほとんど意志がイコールたましいというようなものだが、このたましいというやつは、自分限りのものではなく何かしらの天とつながっている。
そうした人のほとんどは、自分の意志が、自分の意志なのか天意なのかちょっとわからないね、と笑っているところがあるはずだ。
恋人は、出会ったときから、あるいは出会う前から恋人だ。初めて出会ったときからすでに、互いに「あれっ」と、どこかでつながっている感触がある。
初めて出会ったときからすでに、友人であり、恋人であり、場所があり、時間が共有されて、愛とロマン、情熱と美がミエミエで、これからえげつないほど遊び、えげつないほど思い出になるのだろうなと前もって知られているところがある。
何の根拠もないし、何を納得させることもできないのだが、そのときはどこかで、
(そりゃそうだよなあ)
と感じているものだ。
初対面だか何だか知らないが、そのとき暗がりの夜に僕たちは明るい。
何が出会ったのかわからないので半笑いになるが、出会ってしまうわけだから、これからは"ボエームが出会ったのさ"と強弁してつじつまを合わせることにしよう。
何が起こっているのかは、脳みそが同時多層処理をできるようになるまでわからない。
脳みそって本当に大事だね。
彼女は僕を、頭のいい人と思ってくれるだろうか。
ではでは、またね。
[暗がりの夜に僕たちは明るい/了]