(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
僕はこの一年間も怒りを抱えてやってきた。まるで何事もなかったかのようにジョークを振る舞いながら、その内奥に怒りの火を絶やさずに来たことになる。五日目にあたる怒りの日のことを書き上げてそれから事実の一年が経とうとしているが、この一年間、僕はずっと一人で怒りを燃やし続けてきたわけだ。何のために? それはわからなかった。何に向けて? それはもともと何かに向けるものではない。ただ怒りは内なる声として僕自身に申しつけている、吾をして然るべき咆哮を発さしめよと。それが何のためだったのかは今になってわかる。この一年を通してようやくたどり着いたこととして。驚いたことにその完全な結論が得られ全体の構造が円環を為すのは、今はよく知られたアメリカの、一見すると「プレゼン番組」に見えるあのTEDの或るカンファレスを締めくくりとしてのことだった。ジョハン・ハリという男性が「依存症」についてのレポートを壇上で申し立てた。麻薬依存症についてわれわれは科学的に間違った思い込みの中に囚われている。彼のレポートによると麻薬依存性は麻薬そのものによって生じているのではないということだった。
実験はこうだ。ネズミをオリの中に閉じ込めて、二つの水を並べて与える。一方には真水、もう一方には麻薬入りの水。こうするとネズミは麻薬入りの水を好んで飲むようになり、やがて中毒になって死亡する。このことを見て、われわれの代表である科学者たちはこれまで「麻薬には依存性がありますね」と信じてきた。しかしジョハン・ハリがレポートしたところ、この旧来の実験結果をくつがえすまったく新しく信じるべき実験とその結果があるというのだ。
新しい実験はこう。同じくネズミに麻薬水を与えるのだが、今度はネズミたちをオリには押し込めない。ネズミたちの「楽園」??とジョハン・ハリは表現した??をつくり、今度はその条件下でネズミたちに真水と麻薬水を並べて与える。ネズミたちが駆けまわり、遊び、恋もする、ネズミたちにとっては「楽園」と呼ぶべき実験装置。
実験結果はどうなったか。驚いたことに、この中でならネズミたちはほぼ麻薬水を口にしないことがわかった。一匹も死なない。継続的に飲むことなどしないどころか明らかに麻薬水のほうを忌避している。麻薬の薬理的依存性とやらはどこへいったのだ?
この新しい実験の示している驚くべき知見は当然こう。
「依存症の本質は、麻薬ではなく『オリ』のほうにある」
ジョハン・ハリの親身で熱っぽい語りかけはこのようにつづく。人は薬理的に麻薬に依存するのではなくて、ただ何かと「つながりたい」のだ。それが人間の本能だから。人間とはそうしたものだから。そのつながる先に麻薬しかなかった。人間は、毎朝起きて生きていくのがつらいというオリ的環境の中で、その環境に「適応」するためのこととして、麻薬依存症に陥るにすぎない……と。終幕に向けてジョハン・ハリの語りかけは、
「中毒/addictの反対は、しらふ/sobrietyではない」
と示し、続いて、
「中毒/addictの反対は、つながり/connectなのだ」
と結ぶ。すると希望に満ち溢れた聴衆たちが大いなる合意を示して拍手をもって彼に賛同する。
まったくの偶然に目にしたこのジョハン・ハリによる麻薬依存症の正しい理解についてのレポートだったが、僕はなんとしてもこの「楽園のネズミは麻薬に依存しない」というサイエンスのレポートを必要としていた。これが欲しかったのだと痛切な思いがした。ジョハン・ハリの語りかけはむろん、麻薬への依存症のみならず、スマートフォン等に向けて起こりもする依存症のことへも言及している。それらの依存症にしてもまた、スマートフォンやインターネットを規制したり、あるいは罰したり侮蔑的に看做したりすることでは、依存症への正しい対抗策にはならない。
僕はむろん、そうした社会的な依存症問題を取り扱いたいわけではなく、多くの人が脳のかがやきをわざと駄目にしていくこと??追ってそれは、「アヘる」という言い方を用いざるを得なくなる??および、ともかくも「閉ざされた胴体がどこへ行くか」を知りたかったのだ。そのことを最も有効な警告の仕方として発するためには、「アヘる」「(脳が)アヘアヘになる」という、まったく馬鹿げた言い方を用いるよりなくなってくるが、このときにもすでにそうした「アヘる」という言葉の言わんとするところを察知する賢明な読み手の方もいらっしゃるだろう。われわれの周囲の、特に伝統を持たざる新興の文化は、どことなくすべて「アヘアヘ」したがっている人に向けられているものなのではないか? という直感がある。われわれは本当にこうも極彩色の液晶画面を見せられる必要があるのか? 僕がジョハン・ハリの助力を得て到達せねばならなかったのは、そうした「アヘる」ということが??麻薬を実に象徴的なものとして??実はオリ的環境に適応するための、あるいはオリ的環境で"しのいでいく"ための、消費的依存や消費的中毒でしかないという知見だった。この事象の犯人は「オリ」にある。「オリ」は今、<<孤立的環境でありながら同時に束縛的環境でもある>>と正しく言い換えることもできよう。孤立的かつ束縛的というこの「両面」はしばしば見落とされやすい。オリの中の彼は<<一人きりなのに自由ではなく、鎖につながれているのに誰ともつながっていない>>のだ。
この「孤立的でありながら同時に束縛的でもある環境」において、人のこころ(胴体)はどうなっていくのか? そのことに僕の語ってゆく道筋があるわけだ。僕はこのところ「こころがわかる人間」を自称しているのだから、つまり僕の眼差しの向こうには、率直に言えば「閉ざされた胴体」が見えているわけだ。それもきわめて直截の具体的に。僕のそういったことへの実力を甘く見るなよ? 僕はこの一年間、夕刻から翌早朝まで続ける野良でのワークショップというような実際の試みも経て、ひとつの謎に向き合い続けた。僕の眼差しの向こうには常に誰かしらの具体があるわけだが、僕の目には常にそれが、
「なぜ胴体を閉ざしているのだろう?」
と不可解に見えてきたのだ。「なぜ」。目の前の胴体が閉ざされているのは僕の感得能力によって看取することができる。けれども、それが「なぜ」という理由がわからなかった。夕刻から翌早朝までえんえんやり続けられる野良ワークショップの形式はまったく開放的なものでしかありえず、そこになぜ自ら「孤立的でありながら束縛的でもある環境」という、自家製のオリを生成する個人があるのかがわからなかった。しかもそれが少数派ではなく多数派なのだ。さらにいえば、「オリ」から出ているのは正しくは僕一人しかいないということが続いた。そしてそのことはワークショップの形式に限らず、このところ暮らす街中の環境のあまりに多くがそれなのだった。「なぜ?」。みな微笑んで、きれいな洋服を着ているように見えはするのに。
さらに悲しむべきは、<<数年前まではあれほど開かれて出会っていたのに、今はすっかり閉ざされたオリの中にいて、今はむしろ開かれたもののほうを「敵」とみなしている>>……という実際の事例にいくつも接触せざるを得なかったことだった。「何がどうなっているのか」。僕は怒りと共に悲しんでいた。後々のために、この話は今二〇一七年の二月半ばに書かれているということを記録しておこう。そしてずっと以前から僕のことを知り、出会い、今はどこか遠くで過ごしている人に向けては、個人的な呼びかけであることに恐縮しながらではあるが、今もなお僕はこうして戦っているということを報告しておきたい。あのときあなたに希望を与えた僕は、今はあなたの瞬間的な敵ではあろうが、あなたを失望させないために、今もなおこうして戦い続けている。いつの間にか、こんなところまで来てしまったよと、僕の側はまったく変わらずにあることに苦笑なりしてもらえたらうれしく思う。もし仮に僕が嵐に克ちきれず、たどり着けなかった渡り鳥として人知れず海中に没するのみとなったとしても、少なくともこいつはオリの中に閉ざされてはいなかったわけだ。
この一年間を通して、僕は直接的なことは書き話せないにしても、僕自身<<思い知らされる>>というつらい経験にも直面しながら、「閉ざされた胴体」の構造的な原理を直観するにまで至った。人の胴体(こころ)を閉ざすもの、それは一言でいえば「疑い」に尽きる。「信じる」ということの反対に「疑う」ということがあるが、このことが胴体(こころ)の具体のレベルで起こっているのだ。僕の目はすでにそのことをほとんど一目で看取することができるようになった。
「疑う」胴体があり、「信じる」胴体があるのだ。
語りきれぬことが山のようにあって、どうせ語りきれないなら、今ここでまだ僕についてこようとしてくれている読み手の献身に向けて、僕は「あなたが知るべき必要のあること」に絞って話していきたく思う。「疑う胴体」が失ったすべてのものについて、僕は話そう。
僕には僕の慕情があって……特に役には立たないこととして申し上げておきたい。僕は今から二十五年前、少年だったころにターベルコース・イン・マジックという奇術の百科事典を読んだ。そこには、次のような偉大な文言が記されていた。一言一句が正しく記憶されているわけではないが、僕は少年のころからターベルコースという遺産が大いなるものであることを少年一人の自負にしていたように思う。
ーー人間は、第一に「信じる」という性質を持っています。
ターベルコース曰く、人は奇術師が「タネ」をもってその奇術を演じていることを知っている。そのことを前もって知った上で奇術を観にくるのだ。そして観衆には見えないように工夫された「タネ」があることを知っているのに、それを忘れたわけでもないのに、奇術の「現象」が目の前に示されると観衆はワッとその奇跡の出現をよろこぶ。瞬間、そこに奇跡が生じたことを「信じる」。信じるという機能が第一のものであるから、その後に第二の「フィクションなんだよな」という理解が追いついてきたとしても、すでに奇跡は信じられたのだから問題はない。それはフィクション映画でもそう。映画は監督とカメラと俳優によって撮影されていることを誰もが知っているし、映像は脚本通りに展開していくのも衆知のことだ。にもかかわらず、人はスクリーンに映し出されたシーンと物語を「信じる」。観衆が戦争映画の中に見るのは、ロケーション撮影の現場ではなくて戦場の現場だ。<<人間は第一に「信じる」という性質を持っている>>。
もしこの第一の性質が汚損され、人間が第一に「疑う」ものになったとしたら? そのときは人は疑いの壁に孤立することになる。疑いの壁に孤立し、疑いの壁の中に閉じ込められる。「そうした個人的な生き方もよいのではないか?」と強弁する姑息の仕方もある。けれどもジョハン・ハリは「そうではない」とレポートしてくれた。<<人はオリに閉じ込められると依存症を選ぶ>>。アヘアヘしていく人が増えているのはそのためか、と僕は納得している。このとき僕はジョハン・ハリと肩を並べて無数のオリがそれぞれに依存症とアヘアヘした表情を醸し出しているのを「まずいこと」として共に眺めているだろう。
ターベルコースに語られた偉大な第一性分が汚損され、現在は「疑う」ということが第一の性質になった。少なくとも表面上は。このことを本稿では「疑情第一」と呼ぶ。疑情第一により人は常時「オリ」の中に閉じ込められ、孤立し、依存症の救いがたさへ吸い込まれていっている。アヘ、アヘ……
困ったことに現代においては「疑う」ということが第一に正しい。なぜならスポーツ選手は覚醒剤でスキャンダルを起こし、アイドルグループは不穏な形で解散し、市井はこれまで好んでいたタレントを不倫の一点で凌辱し面白半分に焼けた石を投げつけ始めるからだ。街中に「実質0円!」という広告の看板がある。あれはウソだ。騙されないためにウソは疑わねばならない。誰の手元にも届くスパムメール。老人が狙われる振り込め詐欺。〇〇細胞はあります、というよくわからない詐言。高名なデザイナーの横着な盗作三昧。大学生の部活やサークルが集団で起こす暴行事件。多くの女性が無害を装う男性に「隙を突かれ」山中に連れていかれそうになったり、暴行されそうになったりしている。「デートってそういうものなの?」。さかのぼれば数年前の、「原子力発電所は絶対に安全です」という繰り言さえウソだったと暴露された。
現代において小学生たちは、近所の大人にあいさつを「してはいけません」と教えられている。どんな人だかわからないのだから、という防犯の意識によって。これらのすべて、第一に「疑え」という方針は現代の生活環境において<<正しい>>。被害を受けないためには第一に疑い、第一に何も信じないことが必要だ。
けれどもその「疑情第一」において、胴体(こころ)はどうなる? そのことはまったく知られていない。僕はそのことに向けて利益のある語りかけをしてゆくことができるだろう。今ここで最も利益のあるやり方は、本題が理論的に考究し尽くされることではなく、「あなたが知るべき必要のあること」が言い尽くされること。それが最も汲み取りやすい、吸収されやすい形で語られるためには、僕自身が「信じる胴体」であり続ける必要があるだろう。裏切らないように書き話さねばならない。矢継ぎ早、何かと出会ってでも……僕はなんとしてでも、そのことを保ってゆきたいのだ。偉大なるターベルコースと共に、ジョハン・ハリとその聴衆に感謝している。
疑情第一という「体質」
今、すさまじい混乱があるのだ。誰もが平然としながら、またその自覚もないままに、脳の正常な機能が損なわれ、激しく混乱している。「そうか、混乱していてよいのだ」と認めることは、今このときに有為な一手になるだろう。混乱はほとんど証明可能なレベルに達しており、ここでは特に、それが精神的な混乱ではなく脳の機能そのものの混乱なのだと語られることが重要になるだろう。幸い僕は、特異な体質と異様な堅牢さの意志によって、未だ混乱に引き込まれずにいられるが、このことは今すでにまったく特殊なことだと言わざるを得ない。そういう特殊な奴もいるのだ。僕はまた、自身でそのように正常さを保ちうる環境を強引にも構築してきたし、さまざまな幸運がそのことを支えてきてくれたのでもあった。これはまったく例外的なことだ。今このとき、脳の機能レベルで「混乱」があるのが当然のことと言える。そのことを「当然」と捉えることで、混乱のさなかにも「動揺」をいくぶんか諌めることができるだろう。地震や戦争等、有事の際には都市機能がクラッシュし、本来の機能が破砕的に混乱することがあるように、それは有害なことだが「当然」のことではあるので、そのことに今さら動揺したり感情的に取り乱したりする必要はない。必要なのは一刻も早い復旧だ。山手線が断線し、地下鉄が地上に乗り上げ、高速道路上に避難所があるようでは、何をどう見ても「自然体」などと言い張っている場合ではない。サルにバナナをあげたときにサルが激怒するようでは「混乱」は極まっており、そのような混乱の中で物思いに耽ったところで何の諦観も得られないだろう。脳の中には電気信号が走っており、また身体のほうにも電気信号が走っている。神経細胞が電気信号で連絡しあっていることはすでに科学的によく知られている。この電気信号が、「断線したり」「地下鉄が地上に乗り上げたり」「避難所が設けられていたり」ということで散り散りの方向へ流れていったり消えていったりする。わけのわからない漏電と過熱と炎上を起こしたりする。これは明らかに「混乱」だが、問題はこの混乱が何によって起こっており、何によって復旧しうるかだ。このことが「疑情」によって起こっているということはこれまで指摘されてこなかった。「疑う」ということが降り積もって、ついに破砕的な混乱に至ったといえる。それぞれに個人差はあるだろうけれど、誰もが似たようなところを抱えてはいるだろうし、誰だってこれから先に同等程度の混乱に晒されることはあるので、このことは誰にも知られているべきなのだ。<<「疑情」は「混乱」を生む>>。古くから「疑心暗鬼を生ず」と言われているように、人が持つ「疑う」という機能は思いがけず作用が強大なのだ。
サルにバナナをあげたら激怒した、というのでは、いかにも滑稽話のように聞こえる。けれども、「男性が女性にラブレターを手渡した」という場合はどうだろうか。かつてはそのようなことは、何であれよろこばしいことだったはずだ。今はそうとも言い切れない。驚きと共に、「うれしいのはうれしいけど」。むしろいくらかの不安を覚えなくもない。手書きの便せんが折重なって、封筒は膨らみかなりの程度の重みがある。それを受け取った女性は、よろこびより重いものとして「これ、大丈夫かしら……」と不安を覚える。より強烈な女性であった場合、「うわ、キッモ」という反応さえありえるのかもしれない。またそのようにむしろ拒絶を覚えたほうが正しいと思われるような、風体や行状がラブレターなどにつながっていない男性もいるのだ。今、手書きのラブレターを書いて「おかしくない」と確信される男性は全体のうち何パーセント存在するだろうか。
何によってこのようなことが生じているかというと、つまり「疑って」いるのだ。男性が女性に手書きのラブレターを渡すということに、何であれ「疑い」がある。当人である男性の側も疑っている。本来は別におかしなことではないのだろう、という常識的な判断もある。けれどもとっさの感情として「疑う」ということが発生している。ほとんど根付いた体質の反応のように。このことを「疑情」と呼ぶ。疑情第一なので、ラブレターは第一に「疑われる」。体質で疑われるのなら、花束を手渡しても疑われるし、飴玉を差し上げても疑われるだろう。うれしいのだけれど疑っている。現代において疑うことは<<正しい>>のだが、それにしても疑っているという事実には変わりがない。
このようにして考えていけば、「サルにバナナをあげたら激怒した」というのも、すでに滑稽話ではないわけだ。激怒するサルも何かを疑って激怒している。
重ね重ね、「疑う」ということは現代においては<<正しい>>。たとえばテレヴィ番組で目新しいミュージシャンが「若者たちのあいだでカリスマ的存在」と紹介されたとする。それは「また、メディアのウソだろ」と疑われる。そこから心地よいふうの音楽が流れてきたとしても、「口パクじゃないの」「アレンジャーが心地よくなるふうにアレンジしているだけでは」「そもそも本当に当人が作曲したかどうかはわからん、あやしいものだ」と疑われる。そうした疑いは現代においてしばしば正鵠を射ていたりする。若手のデザイナーとして紹介された男が、活躍しているようでいて、実は実業家の息子であって、彼は税金対策の一助としてデザイナー事務所を運営しているだけにすぎなかったりする。本人はその外形だけで女漁りをすることにしか興味がなく、また彼の周囲の知人らも結託して女性たちを騙して引き込むことに執心しているだけだった、というようなことが実際にある。だから現代において「疑う」ということは<<正しい>>。またそうしたインチキの類は過去にも相当程度あったのだろうが、誰の目にも明らかなこととして、現代におけるそれらのインチキはあまりに頻繁で規模が大きく節操がない。
「疑う」ということが正しかったとして、その先にひとつの問題がある。「疑う」という「正しさ」、その正しさを「履行」するために、人はどのようなことを引き受けねばならないだろう? その代償は如何。このことがこれまでまったく言及されていない。示される情報がウソでないかどうかを見破る能力をリテラシーと呼びそれを推奨することを長らくわれわれは続けてきたが、そのリテラシーを履行するためにはどのようなことを引き受けねばならないかということは指摘されずにきた。
最もわかりやすい言い方でいえば、「疑う」ということは「体質」になるのだ。疑情体質になると言っていい。この自らが疑情体質になるということが心身にどれほどのインパクトをもたらすかということをまったく無視して、これまでのリテラシー推奨は言われてきた。
人はいちいちの情報を的確に判断して「疑う」という決定をしているわけではない。このことが最大の誤解としてある。残念なことに、人はそれぞれ「そこまで頭はよくない」し、「そこまで頭の回転は速くない」のだ。一日のうちに接触する数万か数億の情報のすべてを知的作業において分別などできない。自分の身に降りかかる被害やリスクが厭になった人は、ただ疑情体質になっていって、「疑う」ということを自らの常態にするだけだ。疑情の体質に、表面上の微笑みが乗っかっている、というようなことが平気で安定する。
「疑情体質」と呼びうる身体の状態に、本当になるのだ。そういう心身の現象が「ある」ということが、今明確に知られねばならない。
その「体質」がいかなるものであるかについて、最もわかやすく、身近で、ショッキングな例を挙げよう。これまで僕の直接の友人がよく知ることのように、「あなたと一緒に食事をすると、食べ物がものすごくおいしい」と言われることがある。ものすごくよくあり、正直に言えばほとんど百発百中で言われる。一度は集団で旅行に出たときなど、「明らかに買いすぎでしょ」と笑いを誘うだけの食材を買い込んだはずが、僕が料理して差し出すと、たちまちのうちにたいらげられてしまったということさえあった。その後もなお、食欲という衝動には最も遠そうなエレガントな女性が、僕に向けて「早くシメのラーメンを作ってよ」と、気迫さえこめてせがんできたのだった。その気迫は、「さっさとしないと許さない」と眼光に宿るほどだったので、僕は圧されて言われるがままに作業を始めたのだったが……
同じように、「あなたといると音楽が急によく聞こえるようになる」「お酒がおいしくて自分でも信じられないぐらい飲んじゃう」「あなたと歩いていると景色が急にものすごくきれいになる」と言われ、ときには「あなたと行くと温泉まで本当にあったかいものになる」とさえ言われることがある。冗談交じりの口調で、しかし本当のこととしてしみじみ言われる。なぜそのようなことが起こるかというと、僕を慕って僕と同道してくれているときの彼女らが、まあ「どうせ何かあればこの人に解決してもらえばいい」という気楽さも手伝ってのこととはいえ、僕からの影響づけで一時的に疑情体質を離れているからだ。
これは僕の自慢話でもなければ、僕自身のピーアールでもない。認めるべき視点は逆で、<<疑情体質においてはそれほどまでに「体験」は遮断される>>ということなのだ。おそるべきことだが、このことは真実だと認めねばならない。疑情体質においては、食事の味がせず、酒の奥行きがなく、茶の香りがなく、景色のきらめきがない。音楽の広がりがなく、声の響きがなく、温泉のぬくもりさえ物理的で冷たく、夜の月に光さえなくなる。
「疑う」ということはそういうことなのだ。現代において「疑う」ということは<<正しい>>。けれども、その正しさを履行するために、人はほとんどすべての「体験」を遮断し、まともにメシも食えない世界を生かされている。現代人は<<食べ物まで疑っている>>のだ。僕が目の前で何か料理するか、もしくは目の前でバクバク食べてやることで、少なからぬ人が目の前のシーンから食べ物を「信じる」ということを恢復する。恢復すると皆「わたしも食べたい」と慌てて言い出す。その現象を僕は何十回と目撃している。食べ物を「信じる」ことが取り戻されれば、食べるという「体験」が恢復され、食事の味はあざやかに取り戻される。そうなると口腹は大いによろこび、よろこびによって消化機能は当人が驚くべきタフさで活動し始める。同様に、街の景色や月の光、季節の風の香りなども一斉に、「信じる」ことが取り戻されれば、「体験」が恢復して来、すべてがかけがえのないうつくしさを明らかにして迫ってくる。
そのときのよろこびといったらないが……それでも僕一人が恢復してやれるのはそのときの一時的なことでしかないのだ。当人の疑情体質が解決されるわけではないから。
疑情体質の日々に、何月になっても春などやってこないのだ。むろん気温感覚としての春はやってくるだろうが、それを「春」だと思っていたら……いつか本当の「春」を体験したときに、感動と悔しさで泣き崩れることになるだろう。僕は実際に、そうして膝から崩れ落ちる人を何度も見てきた。「ビルの窓からこんなに景色が広がっていたなんて」。僕はあるとき、「フィクションは信じていいんだよ」と言った。目の前の女性は「フィクションは、信じていいのね?」と確認した。彼女は十数年もそのことを確言してくれる誰かを求めており、それを今得たよろこびを明らかにして「やった!」と高らかに言ったのだった……
ここに「疑情体質」という身体のステイト(状態)を明言する。あなたがアッハッハ! と春の日に笑ったり涙を流したり空が青紫から朱色へのグラデーションを為しているのを呆然と見上げたりしない限りは、あなたは十分な程度「疑情体質」に片足を突っ込んでいると認めてかまわない。
あなたが疑情体質によって「体験」から遮断されているということを指摘して、あなたを絶望させる代わりに、「本当の食事はもっとおいしい」ということを保証しうる希望として差し上げておく。本当の景色はもっとうつくしく、本当の音楽、本当の風、本当の春は、あなたにこの世界を一切否定させないほどにすさまじいものだ。そして本当の「人」も、本当の「声」も。本当の「恋」などというと言うにおよばず、もし本当の恋の中で抱き合うことがあれば、それだけで自分が生きることの定義が為されてしまい、場合によってはそれは大きすぎて引き受けきれないほどだ。
とはいえ、このことはついに解読され理解されてしまったとしても、これは未だ解明であって解決ではない。解決はほど遠い。いかに解明されたとしても、現代において「疑う」ということはなお<<正しい>>。どのようにしてゆけばよいのか? と解決を焦るより先に、疑情体質の中でさらにどのような変状が起こりうるかを知ってゆかねばならない。もしジョハン・ハリにここまでの話を伝えることができたならば、彼はただちに疑情体質が体験を遮断するということに着目し、「その遮断がオリを形成するね」ということに合意するだろう。
われわれの世界には春夏秋冬があり、空があり風が吹いている。木々が芽吹き紅葉が散り、抹茶をほどこされた涼菓うまし、この世界は楽園だ。苦労はさせられるけれどもわれわれは楽園に住んでいる。もし目にするすべての人が疑情のオリの中に閉じ込められてあったとしても、この世界が楽園であることには変わりがない。そのことが面目に得られてこそ、この大混乱の世の中に対抗する手段が持てる。われわれはわれわれを汚辱する不味の麻薬水など忌避するだろう。
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