(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
「疑情第一」がどのようにして体験を失っていくか
よく「引きこもっていても何にもならない」と言われる。けれどもこれは上手く言われたウソだ。引きこもっていた
ら人間は「荒廃」する。人間は生きものなのだから、引きこもっていて「何にもならない」と都合のよい話はない。人
間は残念ながら、引きこもっていて「無事」では済まない生きものだ。引きこもっていればそこは<<孤立的環境であ
りながら同時に束縛的環境でもある>>。たとえそれが自分で選び逃げ込んだ先だと思えたとしても。そこではいつの
まにか、「ああ、脳がアヘアヘになるあれがほしい」と望むようになっていく。それは何も麻薬に限定されたことでは
ないし、引きこもるというのも何も自室に引きこもるということだけに限定はされない。
ジョハン・ハリによって麻薬依存症の正しい理解が得られたけれども、そのことを踏まえてもなお、「麻薬は一回
やったら終わり」という通説をわれわれは採用しなくてはならない。一般に言われているように、「人間やめますか、
覚醒剤やめますか」。精製された麻薬は一回やったら終わりだ。麻薬依存症は確かに「オリ」を本質的原因として発生
するものだけれど、だからこそわれわれは、今疑情体質のオリの中にいる者らとして、「麻薬は一回やったら終わりな
んだな」と確かめねばならない。ジョハン・ハリの話は「依存症なしに麻薬が楽しめます」などという話ではまったく
ない。むしろ彼のレポートは、「オリの中にいなければそもそも麻薬に体験なんか求めない」ということを示してい
る。麻薬に体験を求める者はその時点ですでにオリの中にいることが保証されているわけで、それだからこそ実態とし
ての「一回やったら終わり」という麻薬依存症があるのだ。「麻薬には抵抗できないですよ!」が事実上正しい。確か
に日本でも戦中の前後には薬局でヒロポン(覚醒剤)を販売していたし、ベトナム戦争においてアメリカ兵の二割は麻
薬を使用していたと言われるが、それが依存症中毒者の問題にならなかったということと、現代において「麻薬に手を
出す」ということを同列には扱えない。現代において「麻薬に手を出す」ということがすでに依存症の発症なのだ。ア
ルコール依存症にしたってよく「キッチン・ドランカー」の形が言われる。オリの中でアルコールを飲むことと、野原
で友人らとアルコールを飲むことは同列に扱えず、つまりは人間は「オリの中ではどうせアヘアヘに抵抗できない」と
言い切ってよい。
疑情は「体質」だ。本稿は連作として「こころは胴体にある」ということを言い続ける試みの中の一作だが、疑情と
はその胴体(こころ)に染みつく或る「不能」のことを指している。「信じる」ということが胴体の実質において不能
になる。よって疑情は具体的な「体質」になるのだ。「信じる」ということが不能になった「閉ざされた胴体」は、こ
の現代で生活していくには<<正しい>>胴体の状態となる。正しいだけにそれは修正が利かない。「疑う」という正し
い体質のまま当人の脳は荒廃していく。このことはまったく不利益で嘆かわしいことだが、かといって本人が「やめよ
う」としてやめられることではない。なぜならそれはすでに一定程度できあがった「体質」だから。
「疑う」ということはやめようとしてやめられるものではないし、「信じる」ということは「信じよう」として信じ
られるものではない。たとえば「カミサマはいるか、いないか」というテーマがあったとして、それを「カミサマはい
る」と信じる人は第一性分としてそれを信じているのだし、そこで「うーん」と悩む人はすでに疑っていよう。そして
そうして疑っているものを、「信じることにしようと思います」と思いなおしたところで、それはカミサマの存在を
「信じている」ということにはならない。こうして考えると「信じる」ということは摩訶不思議のことのように思える
けれども、それは実は何も難しくなく、単に「体質だ」と言い当てることで決着する。この「体質だ」という投げやり
なふうに聞こえる言い方が、実は最も正解に近い。信じる胴体と疑う胴体を切り替えるなんて、「体質」だからできな
いよ、というのがこの問題の厄介さを最も言い当てている。
ここで、「疑情第一」という体質が、実際に生きる上でどのような筋道をたどりうるか、その例を創作してみよう。
これはいちいち読み取るに面倒なところがあるが、丁寧に読み取っていけば「いかにもありそうだ」ということが了解
されてくる。最も効率的に本質を知るために、この例を丁寧に読み取ってもらえればありがたい。
ここに受験生Aと受験生Bを設定する。Aは「開かれた胴体」を持ち、第一に「信じる」という性質を持っている。
Bは「閉ざされた胴体」になっていて、疑情第一の体質になっている。
ここに先輩Cが現れた。先輩CはAとBの両方に向けて、次のようにアドバイスする。
「勉強しようなんて思わず、ともかく数をこなすんだよ。スピードをあげて、とにかく数、回数。覚えようなんて思
わず、努力もヘッタクレも考えず、とにかく回数を稼ぐんだ。繰り返し問題を解くんだよ。少しでも詰まったら、すぐ
さま解答を見てしまってかまわない。えーっと、と悩むこと自体が時間の損なんだ。どうせそうして詰まっていたら、
試験のスピードには対応できないからね。試験を突破しようとしたら、バババッと手が動き続けているって状態になら
なきゃならない。ほとんどパート作業のおばちゃんのようなつもりで問題集を繰り返すんだよ。急げ、急げってね。作
業タフになるんだ、パートのおばちゃんって作業にタフじゃん? そうして自分自身を吹っ切るところまで行ったら、
必ず何かにはなるよ。受験の結果がどうであっても、やりとげたってことが財産になるし、そして何より、自分は自分
を吹っ切って何かを獲得するところまでやる方法を知っているってことが、これから先ずっと自分の武器と自信になる
んだよ」
このアドバイスを受けて、Aは目を輝かせる。Aは「信じる」という体質だ。「そうか、数なのか。回数を稼ぐんで
すね!」。Aは先輩Cの言うことを真に受けて、先輩Cに励まされてその後の受験勉強に取り組む。Aは目のくらむよ
うな「スピード」で「回数」を稼いでいく。その取り組みの中でAはつい自分でケタケタ笑い始めてしまうかもしれな
い。「もう、手と目玉がクラクラするよ」。Aはふと、「すべてが終わったら、先輩Cさんにお礼を言いに行こう」と
いうことを思いつく。そして必ずそうしてやると、そのことを誓いにもするのだった。こうして、やがてAの机には繰
り返して使い込まれた問題集と殴り書きされた解答ノートの束が積み上げられるだろう。少なくとも手と目玉が鍛えら
れたAが残る。このような取り組みが、Aに何をも齎(もたら)さないとは考えづらい。
一方Bのほうは、体質としてまず「疑う」。先輩Cのアドバイスを「なるほど」「そういう考え方は、したことがな
かったですね。目から鱗です」「本当にありがたいです、とても参考になります。目が覚めました」と受け取りなが
ら、その実は疑っているので本当には受け取っていない。Bは自己認識の上では、「いや、先輩Cさんの言うことはす
ごくわかるよ」「先輩Cさんの言うとおりだと思う、本当に」と言う。「やっぱりおれは、先輩Cさんのことリスペク
トするわ。あの人は圧倒的なところあるわ」とさえ言うかもしれない。けれども疑情第一、その体質によって先輩Cさ
んからの励ましとアドバイスはBによって第一に信じられはしない。よってBの中に入ってはゆかない。Bは実際に机
に向かったとき、けっきょくは誰からの励ましのつながりもない、孤立した「自分」のやり方を続ける。「スピードと
回数だったよな」と念頭に置いたとしても、その念頭に置いたものは数分も経たずどこかへ消え去る。Bは勉強しなが
ら、「ホント、早く終わってほしい。一人でこんな勉強とかしているの地獄だわ」「早く自由な時間がほしい」と内心
でぼやいている。Bは<<孤立的環境でありながら同時に束縛的環境でもある>>という状態にいる。Bは勉強の合間に
「気分転換も必要だよな」と言い、モバイル端末からアニメを鑑賞したり、通信機能でソーシャル・ゲームを愉しんだ
りする。そこには美麗で肌身を強調された甘い声の少女キャラクターが多数表示される。「ちょ、これ、マジかわいい
んですけど」とBは脂(やに)下がる。画面には色とりどりに光が明滅し、イヤホンには煽情的なセリフとBGMが聞
こえている。特徴的なこととして、Bはそれを自分の「趣味」だと捉えており、漠然と、「趣味は人の勝手だろ」「別
に誰に迷惑かけているわけでもないし」と考えている。もちろん趣味嗜好はそれぞれの自由なのだが、そうではなく本
質はこのときBが「疑情のオリ」の中にいて「脳をアヘアヘにするものに抵抗できない」という状態になっていること
なのだ。
このことは決して、Aが受験勉強に成功したから偉い、というようなことを指してはいない。そうではなく、むしろ
本質はAと先輩Cのつながりなのだ。無事試験に合格したAは、そのあと先輩Cにお礼を言いに行くだろう。「先輩C
さんのおかげで、こんなバカなわたしが合格しちゃいましたよ。本当にありがとうございます」と報告される。こうし
て受験勉強を通してでも、Aは先輩Cとのつながりをより強くしている。このときAには受験勉強というひとつの青春
があったと認めていい。
このときAとBを比較すると、なぜかBのほうが「自分は賢い」と思っている。それはBが疑情第一の体質であっ
て、「疑う」というのは科学の方法でもあるからだ。Bは自分で自分のことを理性的で慎重で合理的な判断の出来る人
間だと思っている。Bは自分が「騙されない人間」だと思っているから、いかにも人に騙されかねないAのことを「お
バカ」の印象で捉えている。
だが理知において「疑う」ということと、体質感情として「疑う」というのでは性質が異なる。このことを区分する
ために後者のほうを「疑情」と呼んでいる。コペルニクスは「空が動いているのではなく地面が動いているのではない
か?」と疑ったのだが、それは疑情によってではなく科学によってだった。もし受験生だったコペルニクスが先輩Cに
アドバイスを受けたなら、コペルニクスは先輩Cの言うところをただちに「理にかなっている」と信じ、新しく聞きつ
けた勉強方法に取り組んで、その勉強方法が正しいということを「実証」してみせただろう。正しい科学の方法とは、
科学を「信じる」というやり方のことであって、何もかもを体質的に疑うだけということではない。この点、Bは実は
何も科学的ではなく、単に「疑っているから騙されづらくて自分を賢いと思っている」というだけにすぎない。
結果的に、Aは実力と体験を獲得する。Aは学力を手に入れて、受験生時代というひとつの青春体験を手に入れた。
そして先輩Cとのつながりも、「頭が上がらないですよ」という形で照れくさく手に入れている。それでいてAは、
「自分みたいなバカが合格できた」と、自分のことを賢いとは思っていないのだ。
一方Bのほうは逆で、実力も体験も獲得できず、先輩Cの向けてくれたこころと励ましをないがしろにし、それでい
て「何につけ騙されるバカっているよね」と自分のことを賢いと思っている。特に注目すべきことは、そもそも先輩C
がAとBの両方にアドバイスを向けたとき、先輩Cにとっては自分の声はAに「届いている」ことが明らかに感じられ
るのに、Bのほうには「届いていない」ということが明らかに感じられているということだ。想像してもらえば明らか
だが、初めからすでにBと先輩Cが二人で「飲みに行く」というような関係は成り立っていない。Bと先輩Cは知人で
はあるが人間関係ではないのだ。Aのほうは実は初めから、二人で「飲みに行く」という程度の人間関係が成立してい
る。もともとBは疑情体質で、先輩Cの言うことも何であれ「疑って」いるのだから、そのようなやり方が人間関係を
構築することはありえない。疑情体質のBは、そのときの状況に応じて「人付き合い」程度はやりこなすだろうが、そ
の人付き合いの中に信じうる人間関係は得られてこない。
一事が万事だから、AとBはこの後も大きく隔たれていく。何によって隔たれていくかというと、その体質によっ
て。「信じる」Aと、「疑情第一」のBが隔たれていく。「信じる」Aが何によって「アヘアヘ」になることを求める
ことがあるだろうか? この先に続くAの青春は、苦労もあるだろうけれども青春というひとつの楽園を形成するに違
いない。一方、Bと青春を共にしたいと望む人はいないだろう。楽園に至る手がかりがまったくないBは、人付き合い
を表面的にこなしながら、本当は孤立して「趣味」に耽る。青春その他の「体験」が得られないつらさはBを常に苛ん
でおり、Bはその状況に適応するためにいつのまにか「アヘアヘ」をむさぼることをやめられなくなる。「趣味は人の
勝手だろ」と内心に繰り返しつぶやきながら。
もしここで、先輩Cが、AとBの両方に尋ねたとする。
「なあ、カミサマっていると思う?」
おそらくAは、青春のさなかにいて、
「詳しくは知らないけれど、たぶんいるんだと思います。いない、って考えることのほうが、わたしには信じられな
いです」
と答えるだろう。彼女は「信じる」Aだ。
Aは笑い、
「なんか、自分で言ってみて、われながら頼りないですね。わたしバカなんですよ」
一方Bは、
「宗教とか、歴史的に見てロクなことしていませんからね。あんなのは結局、権力者が民衆を操作するための精神的
麻薬でしょ」
と答えるだろう。彼は「疑情第一」のBだ。
「ああいうのに、騙される人もいるんでしょうね。おれにはさっぱりわかりませんけど」
本稿では、信仰の種類や内実に踏み入って語ることはむろんしない。しかし一方で、次のことを明言しておく必要が
ある。<<信仰のない人間は「闇」を持たされる>>。このことは信仰の周辺にあるのでまるでタブー視されるが、今こ
こで正確に取り扱うぶんにはそれぞれの信仰の尊厳をおびやかすことにはならないし、お説教くさくもならない。直接
の宗教問題に接触しないように、ここでは「カミサマ」と片仮名の表記をしている。
よく見よ。まるで何気ないことのようでありながら、
<<Aはカミサマのいる世界を生き、Bはカミサマのいない世界を生きている>>。
この何気ない日常の中に、よくよく見れば、人はこのような決定的な違いを持って生きているのだ。AとBは字義通
り、「生きている世界が違う」ということになる。「信じる」と「疑う」は二人をここまで隔てるのだ。表面的には、
こんなちっぽけなことで。
われわれは現代の世情を正しく捉えた上で、やはり正しいこととして宗教を警戒している。「関わりたくない」「関
わるべきじゃない」という態度が宗教に対しては普通正しいだろう。にもかかわらず、われわれはこうしてAとBを並
列したとき、カミサマの存在を信じているAのほうと親交を持ちたいと感じ、Bのほうとは「関わりたくない」と感じ
る。われわれはまるで矛盾して、Bの例を厭いながら、みずからもBのようになろうとしていると言える。このことは
簡単に整理される。「宗教」は宗教だが、「カミサマ」は宗教ではないのだ。われわれは宗教の人を警戒しているので
あって、カミサマを警戒しているわけではない。われわれは目の前に宗教の人が現れることを厭がるが、目の前にカミ
サマが現れることを厭がるわけではない。
われわれがカードゲームの「ババ抜き」をしていたとして、自分の負けが込んでいたとする。自分が隣の人からカー
ドをピックする番になったとして、もう絶対にババを引きたくないと願うとき、
「カミサマ、どうかもう、ババだけは......」
と祈ることをする。「ははは」。このときどこにわれわれの警戒すべきものがあるだろう? ここで知られるべきこ
とは、カミサマが都合よくババを回避させてくれるというような世迷言ではなくて、「カミサマのいる世界とカミサマ
のいない世界がある」ということだ。このカードゲームは、運しだいで、無念ながらどちらにせよまたババを引くのか
もしれない。ただ、カミサマのいる世界においてはそのときババを引いて「光明が見えない、とほほ」ということを引
き受けることになるし、カミサマのいない世界においてはそのとき、ババを引いて「闇」を引き受けることになる。そ
うした違いがあるというだけだ。
ここで唐突に僕個人としての声を挟んでおくが、――おう、カミサマがいないなんて思っている奴はただのバカだ。
これまでの人類史上、成功した叡智の誰一人も、カミサマがいないなんて世迷言を申し立ててはいない。カミサマがい
ないと言い張るのは、不勉強で人生が怖いだけの大学生か、人生に失敗した近所のパチンコおばさんだけだ。何も難し
い話ではなく、カミサマは存在するが、誰にとっても別に都合のよい形で存在しているわけではない、ということにす
ぎない。パチンコおばさんにとっては、自分の人生が成功しなかった責任をカミサマになすりつけたいだけだ。そんな
都合のいいカミサマがいるか。丁半バクチがあったとして、そこに勝った負けたがあったとして、勝った側にカミサマ
が味方したわけではなく、一方が勝つほうに運ばれ、一方が負ける側に運ばれたという、そういう「運」の仕組みがあ
るだけだ。その不明の「運」というはたらきがカミサマのものとしてあるだけで、そのはたらきがどういう意図のもの
なのかをわれわれが知る由はない。<<カミサマが何なのかはカミサマに訊け>>。人に訊くな。仮に、宗教はまったく
関係なしに「この人はカミサマかいな」と感じられる誰かに出会ったとしたら、その人にカミサマのことを訊いてみる
のは、まあ悪くないのかもしれない。
最もわかりやすい例として、「信じる」Aと「疑情第一」のBを並列した。むろんこれは、わかりやすさを重視して
設定したもので、このわざとらしいほどのBに限定して警鐘を鳴らしているのではない。
実際に見かける人々の様相には、もっと多様なところがあるが、それにしても、突き詰めるところの「信じる」と
「疑情第一」の体質的差異はきっぱりと隔たれている。知られなくてはならないのは、「疑情第一」の体質がいかに人
を「体験」から遮断するかだ。
ここに、活発に生きるDという男性がいたとする。既婚者で、二人の子供がいる。近郊に一軒家を持ち、家族仲は円
満だ。Dは金融マンとして忙しくしており、忙しい中でなんとかやりくりして一部のボランティア活動にも参加してい
る。「子供たちにそういう父親の姿を見せておきたいから」。趣味でサックスを吹き、たまにサルサダンスを踊る。お
酒に詳しく、車の運転も上手だ。学生のころはラグビー部にいて、一時期は休学して世界中を旅行もした。身だしなみ
が清潔に整えられており、そこそこに高価な腕時計が彼の身分をいやらしくなく証明している。彼はつねに穏やかな笑
顔でいて、女性からは「いかにも仕事ができそう」「いかにも女にモテそう」という評判だ。これまでにした苦労につ
いて尋ねると、「家族も友人もいい人ばっかりだったから、これという苦労はせずにきたね」と目を細めて言う。口元
は常に笑みをたたえている。女性から見ればいかにも頼もしく、魅力的で、「彼が感情を激することなんかないんじゃ
ないかしら」と思えてくる。彼の隣に座るのは女性にとって憧れで、既婚者ということが「あーあ」と女性たちを落胆
させる。
けれどもそうしたDさんこそが、一目見たときにも「闇」に黒々と食われているのが露骨に見える、ということがあ
る。むろんそうした例もある、ということだけれども、今そういう例はあまりにも多い。彼の豊かなはずの現状につい
て訊き、彼の豊かだったはずの学生時代について訊くと、「そうだねえ」と微笑んで、しかしその後あまり話したがら
ない。彼は自分の妻について「僕にとって最高の女性だよ」と言い、周囲をヒューと言わせたりするのだが、どこで出
会っていつどのように愛することになったのか、と訊くと、そのことについてもあまり話したがらない。世界中を旅し
たらしい彼の思い出話を聞こうとするのだが、「イタリアはきれいだったね」ということしか話してくれない。常に口
元には笑みがたたえられている。僕はこうした男性がDVに至りうることがあるのを実例として知っている。僕はこう
した男性が脱法ドラッグを隠し持っていたり条例違反の少女を買っていたりすることがあったとしてもさして驚かな
い。表面上の彼がどのようであっても、彼が自分を解放する――と信じている――何かしらの「アヘアヘ」に無縁でい
られないのは状況的に明らかだからだ。
彼の口元にたたえられている微笑みは、人を「信じない」ことから発生し、人を「信じない」ことの徹底から洗練さ
れていったものだということを僕はいくつかの例から知っている。それでも彼はそこまで上り詰めてしまったので、よ
り引っ込みがつかないのだ。今になって大きなウソをついていると認めることは、自分にも他人にも受け入れられな
い。彼は金融業者として「担保しか信用しない」という業務の正当性で自分自身の鬱屈を償却しているところがある。
彼は人を信じずにきて、人を信じないことが「正しい」という説を補強したがっている。
このDさんは、きわめて見栄えのよい形で、しかし「疑情第一」で来たので、その見栄えの内側で本当に得られてい
る「体験」は薄弱なのだ。本当は「体験がない」と認めねばならないことを、誰よりも彼自身が知っているところがあ
る。そのことはとてもつらく苦しいことだ。彼はいわば誰よりも正しくやってきたのに、その結果、彼には真に胸に抱
えて大切にするものが一つもない。そうして彼が空っぽであることを、なぜか彼の妻だけが冷ややかに知っていたりも
するものだ。
本稿はこうしたことに悲劇性のスリルを主張するものではない。不穏さの気分に耽ることはいかなるときも馬鹿馬鹿
しく、ここではただ「疑情第一が体験を失わせる」ということを指摘しているのみ。「疑情第一」は「体質」だと申し
上げているのだから、ここでは何がどうあれ「体質改善」というような具体的なことに淡々と向かうよりないのだ。
ただ、体質改善といっても、よもやそのような「信じる」「疑う」というような「体質」があるというようなこと
は、アナウンスされなければ通常誰も気づかないだろう。
生命にはホメオスターシスという現象がある。「こころは胴体にある」のだが、そのこころ(胴体)が強く育ってい
くほうに傾けば、そのままより強く育つほうへ固定されるが、逆方向の「荒廃」のほうへひとたび傾けば、そのままよ
り荒廃していくほうへ進んでいってしまう。人は自分の胴体(こころ)が荒廃しているとき、そのままで踏みとどまろ
うとはせず、他にすることもないので、むしろより荒廃するほうへ進んでゆこうとする。疑情のオリの中に閉じ込めら
れた胴体(こころ)は「体験」を与えられず荒廃し、そのオリの中でさらなる荒廃を求めていく。「アヘアヘ」になる
ものを自ら欲していく。このときは自分を荒廃させるものが「救済」と感じられるのだ。この「救済」がやめられな
い......これを依存症と呼ぶ。とても「癒される」と感じるのだが、実態は荒廃が進行しており快癒になど向かっていな
い。この救済と癒しの感覚は錯覚であっても強烈なので、なかなか抵抗できない。だがそれをそうと知っていれば、荒
廃の進行にもいくらかの制動がはたらくだろう。
現代において「疑情第一」は正しい。正しいのだが、それでは「体験」が遮断され、なんだかんだアヘアヘ依存症的
荒廃へ向かっていってしまう。「それでかまわない」と強弁する方策を除いては、これはもうなんとかするしかない。
現代において「疑う」ということは正しいが、それ以上に、「疑いを超えて信じる」という何かしらの方法を持たなく
てはならないわけだ。そのことを見つけるには、それなりの時間と、幸運と、正しい知識が要る。くれぐれも、人がそ
の「体質」を変えるのは容易ではない。自分の思うことを変えるのは容易なのだが、信じる/疑うの「体質」を変える
のは大変なことだ。それでつい、思うことを変えるだけで「すべてが変わった」と人はおろかに逃避したがる。
次の段において「体験」ということについて話したい。「信じる」ということは、「信じよう」として信じられるも
のではない以上、疑情の壁は「打破しよう」として打破できるものではない。よってそのこととは別の視点、「体験」
ということに注目して、「体験」とは何なのか、そこを解き明かすことをし、それをやがて「疑情第一」を崩壊させる
蟻の一穴としてゆきたい。
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