(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
「体験」はフィクションとして得られている
「疑う」ということは人間の意識の機能だ。たとえば赤子はまだ自我意識を所有していないので「疑う」という機能
そのものを持つことができない。
「疑う」ということはそうして意識の機能だから、われわれには「信じる」ということについて、幸い万人が持ちう
るチャンスがある。それは意識機能が休眠するときだ。人は眠っているとき、「夢」を信じる。信じるからこそ――疑
えないからこそ――「体験」する。夢の中では誰だって「体験」をする。空を飛ぶ夢、オバケに追いかけられる夢。思
いがけない友人と再会する夢、鞄をどこかに置き忘れる夢。さまざまな夢があるが、すべての夢は実感の伴う「体験」
として得られてくる。われわれはその体験を睡眠中に得ることを「夢」と呼んでいるのだ。
誰でもその「夢」のことは知っている。そして、「夢」はフィクションなんだ......ということは誰にでも納得がいき
そうだ。けれどもここでは正確に証明しておく必要がある。なぜ夢がフィクションだと言いうるか。夢の中で食事をし
ても腹は膨れず、夢の中で労役しても預金残高は増えない。まったく無意味にも思える証明かもしれないが、この手続
きは必要になる。夢の中で労役しても残高は増えないので、夢はノンフィクションではない。夢の中で働いたからと
いって、残業代を請求しても上司は認めてくれないだろう。
「夢」が「体験」であることについて、このことも知っておく必要がある。最もわかりやすい言い方として、「われ
われは三角形の夢を見ない」。これはどういうことかというと、「夢」という能力および現象は、実は「空想」「イ
メージ」の機能とはまったく異なるということだ。われわれは一般に「夢」というと、それが睡眠中の空想やイメージ
の産物であるかのように捉えている。これははっきりとした間違いなので訂正されなくてはならない。
われわれは「三角形」をイメージすることができる。目を閉じても閉じなくても、空想の能力によって図形としての
「三角形」をイメージできる。そうしてイメージはできるのだが、われわれは、
「三角形の夢を見たよ」
という形で夢を見ることがない。それはなぜかというと、夢は「体験」だからだ。われわれは三角形という図形を
「認識」することはできるが、三角形という図形を「体験」することはできない。「体験」の機能に属さないものは夢
で見ることはできないのだ。
「大きな三角形のテントがあった」という夢なら見ることができる。何やら怪しげな雰囲気。夢の中でそのテントを
見て、「なんだこれ」と怪訝に思ったりもするものだ。そして今、われわれは大きな三角形のテントをやはり「空想」
し「イメージ」することはできるが、そこでイメージに描かれたそれを見て、「なんだこれ」と怪訝に思うことはでき
ない。なぜなら、<<空想したものは信じられてはいない>>からだ。われわれにとって空想されたものはしょせん「ウ
ソ」にすぎない。たとえ妄想や妄信に至ってもそれは「ウソ」だ。このとき「ウソ」は「フィクション」とは異なる。
フィクションは映画であれ小説であれ、奇術であれあるいは「夢」であれ、「体験」できるものだ。イメージは空想の
機能によって生じているためそれを「体験」することはできないが、フィクションは「想像力」の機能によって生じて
いるためそれを「体験」することができる。このようにして、「夢」は想像力によるフィクションであって、空想によ
るイメージではない。(本稿の後半に説明されるが、空想物に「刺激を受ける」ということは、それを「体験する」と
いうこととはまったく異なる)
「うつくしい異性の夢」という夢を見ることもできるだろう。夢の中でうつくしい異性に出会い、やさしく抱きしめ
あったとする。そのとき実に神聖な感触がした......そういう夢をみたとき、人は起床してからもなお、寝具の上に静か
に座すなりして、まだしばらく切なくて自分の胸を抱きかかえていたい心地に駆られるものだ。神聖な体験をしたの
だ。たとえそれがフィクションであっても。
一方、「うつくしい異性のイメージ」は、あくまで空想であってフィクションではない。うつくしい異性のイメージ
がアニメ絵として描かれているのを見ることがこのところ特に多いが、それを見て「自分の胸を抱きかかえていたい心
地に駆られる」ということはない。残念だがそのイメージ絵に浸っていても脳が「アヘアヘ」するだけだ。それがアニ
メ絵でなくても、職業的演出としてそれをするのを受けるのでも同じ類だ。うつくしい異性の「イメージ」はあくまで
空想であって、脳を「アヘアヘ」にすればその空想に浸ることはできても、うつくしい異性を「体験」することはやは
りできない。ホストクラブに入り浸る老婆は勇敢な美男子を「体験」などしていない。うつくしい異性の「夢」を見て
起床したとき、その神聖な感触の残滓と共に、脳が「アヘアヘ」になっていると感じる人がありうるだろうか? 「体
験」は人間をもっと「研ぎ澄ませる」ものだ。
現代において、セレブ願望を持つ女性は少なくない。そうした女性が、自分がセレブリティになりえたときのことを
「空想」して、改めて火がついたように「婚活するぞ!」と鼻息を荒くすることがあるかもしれない。セレブ願望だけ
でなく、出世願望においてもそうだ。あるいはうつくしい音楽を演奏して聴衆を魅了しているところや、華麗なダンス
を踊って称賛を集めているところ、そういったすべての成功願望や憧れのことを「空想」して、それによって火がつい
たようになり努力に向かう、そのことをモチベーション維持の方法に用いている人は少なくない。けれどもそれらもや
はり「空想」であって想像力ではないので、そのこと自体は「体験」にはなっていない。それでもモチベーションが得
られるような気がするのは、別の方向へ脳が「アヘアヘ」になっているからだ。麻薬でもそれがあるように、つまり
アッパー系のアヘアヘ。「空想」に浸ることで願望が炎を燃え立たせるのは、実は果敢なことでも何でもなくて、あら
ゆる種類の「アヘアヘ」がそのようにしてあるということにすぎない。
「アヘアヘ」には無数の種類があるのだ。またそれらの「アヘアヘ」は、対応する無数の空想イメージへの耽溺に
よって得られてくる。身もふたもないがそういうものなのだからしようがない。たとえば「美麗な異性に取り囲まれて
溺愛される」というイメージに耽溺すれば、脳は生臭い脂ゼリーのような「アヘアヘ」になるが、「ゾンビ化したバケ
モノに生きたまま食われる」というイメージに耽溺すれば、脳はネズミの死骸に虫の湧いたような「アヘアヘ」にな
る。「医者の妻になって高級住宅地をピンヒールで歩く」というイメージに耽れば、脳はきつい香水を塗りたくられた
ような「アヘアヘ」になる。「人を拷問にかけて残虐に処刑する」というイメージに耽溺すれば、脳はコンクリートが
血走って拍動するような「アヘアヘ」になる。言い方を変えれば、どれもこれも「正気ではない」と言いうる。この
「正気でなくなる」ということをモチベーション維持の方法に用いるのは健全なことではなく、やがて直接の健康も
失っていく。実際にどうなるかというと、やがて「キレやすく」なったり、声や顔が引きつっていったりする。消化器
官がまともにはたらかなくなったり、交感神経が沈静しなくなって睡眠薬なしには眠れなくなったりもする。「正気で
なくなる」というやり方のモチベーション維持の方法は、イメージに耽溺することによって脳内ホルモンを分泌し、そ
のホルモンのドライブ力(※)をモチベーションにすり替えているのだから、やがてダメージの蓄積が無視できなくな
る。脳内ホルモンのドライブ力を借りているということはつまり麻薬を投与していることとあまり変わりがないわけ
で、その方向がアッパーであろうがダウナーであろうが「アヘアヘ」であることには変わりがないわけだ。「脳内麻薬
でヤル気!」というような方法論は、あまりに貧しく馬鹿げているのではないだろうか。それがさしあたりの威力を持
つか持たないかは別にして。(※「ドライブ」とは「駆り立てる」ということ)
セレブ願望や出世願望に向けて、イメージに浸り「正気を失う」というやり方でモチベーションを維持している場合
は、当人にとってはその願望の達成が「夢」と感じられるのだが、それを聞かされている周囲にとってはそれが「夢が
あるなあ」とは聞こえない。あくまで「空想」はイメージであってフィクションにも「体験」できるものではないから
だ。もし、偏った趣味に耽ることでよく知られているいわゆる「オタク」のような人があって、その人が全力の「空
想」をしたとし、「〇〇チャンとデートできたら、自分はこんなところに行く!」ということを語り尽くしたとした
ら、そのことは誰にとっても「夢があるなあ」とは感じられないのではないだろうか。当人がどのようなつもりでも、
衆目には「正気でない」と見られる。それはいわゆる「オタク」の彼の憧れであり願望だが、このことがセレブ願望や
出世願望、あるいは劇的願望やアーティスティック願望にすり替わってもけっきょくは同じことなのだ。周囲にはやは
り「夢があるなあ」とは感じられない。当人はすっかり脳内麻薬にドライブされているが、そのことも周囲には「正気
でない」としか見えていないものだ。
そしてこのやがて健康を害するモチベーション維持の方法を使い続けると、本当に復旧が難しくなる。アルコール中
毒者についてがよく知られているように、一旦アルコール中毒になってしまった者は、その後断酒して十年間も中毒を
脱したとしても、その後に一匙でも酒を飲めば終わりだという。そのとたん、元の依存症がぶり返すのだ。麻薬の依存
症も同様で、その依存症は「回復」はしても本質的には「治らない」と警告されている。それと同じように、イメージ
への耽溺で脳内麻薬を出してドライブするということをあまりに長く繰り返していると、もう本質的にはその方法への
依存症は治らない状態にまで至ってしまう。そうなると以降はかなりのていど防御的に生きることを余儀なくされるの
で、この「アヘアヘ」のやり方が相当程度の危険を持っていることがなるべく早めに知られねばならない。
性行為の描写について描かれたものや売春婦について描かれたものを、ポルノまたはポルノグラフィというが、ここ
に広義のポルノを設定すれば、イメージに耽溺させて脳内麻薬のドライブを得るという方法はすべて「ポルノ式」と総
括して差し支えない。何であれ煽情的なイメージを与えて駆り立て、アヘらせるということには変わりがないのだか
ら。オリの中に閉じ込められた者が何かしらのポルノばかりを求めて、それを手づかみしてはアヘアヘを繰り返す、と
いう捉え方には目を覆いたくなるような単純な納得感がある。以前、ある勇敢な障碍者が声をあげ「感動ポルノ」のこ
とを糾弾したことがあった。今はもう夭折されてしまった車椅子の姿だったステラ・ヤングは、特に身体障碍者が懸命
に生きようとするところのドキュメンタリーコンテンツが健常者たちによって感動風味の娯楽に消費されることのいか
がわしさを「感動ポルノ」と指摘し、世間が節度のないポルノ様の興奮に躊躇せずに進みゆくことを強く窘(たしな)
めた。このステラ・ヤングの指摘にもあるように、われわれがポルノ式にドライブされ「アヘアヘ」することにはけっ
きょく何の正義もない。この正義のない方法が依存症によって「やめられなくなる」ということはもっと強調されて知
られてよいことだ。
話を戻そう。
人は「体験」の手がかりとして、眠っている間に見る「夢」を持っている。「夢」は明らかにフィクションだが、誰
しもそのフィクションを「体験」として得ることを知っている。なぜ夢が「体験」として得られるかというと、眠って
いるあいだには「疑う」という機能が(ほぼ)はたらかないからだ。「疑う」という機能は自我意識のもので、自我意
識が休眠している睡眠中は、人は「疑う」という機能を使用できない。疑情第一で生きている人にも、睡眠中には疑情
第一から離脱できるチャンスがあるわけだ。このことにすべてを解き明かす大いなる鍵がある。
「夢」とは何であるかについて、臨床心理学者たちは大きな見落としをしていた。それは臨床心理学者たちが、あく
まで精神医学から発達した学問を専門にしていたからだ。彼らにとって夢とは、意識と無意識のせめぎ合いから生じて
くる、無意識からのヴィジョンだった。彼らはそのことをあくまで抑圧とコンプレックスの解消への手がかりとして使
うために研究した。神経症の治療のために。健常な者たちの夢にはあまり興味を向けてこなかったし、そもそも夢がな
ぜ「体験」という現象で得られるかというようなことはこれまでまったく無視されてきた。「そんなことは詩人の仕事
だよ」と心理学者たちは言うかもしれない。
真相はこうだ。「夢が体験として得られる」のではなく、<<体験は夢として得られる>>ということなのだ。この逆
説はさして難解なものではなく、このわかりにくさはわれわれが「夢」を根本的に誤解しているからにすぎない。われ
われは、<<夢の機能を通して「体験」を得ている>>。ここに必要なのは単なる発想の転換だ。たとえばわれわれは時
計の針が進むのを見ると「時が流れている」というのを感じる。けれども真相は逆で、時が流れているから時計の針が
進められているのだ。その証拠に、電池が切れて時計が止まったとしても時の流れは止まらない。時の流れが時計の産
物なのではなくて、時計が時の流れの産物だ。それと同じように、夢が体験の産物なのではなく、体験が夢の産物なの
だ。
われわれは「現実」とか「ノンフィクション」とかいうことにこだわって、そのことに強い思い入れがあるのでなか
なかこのことを了解しがたい。「夢が体験として得られるのはわかるけれど、実体験は現実で得ているものじゃない
か?」と言いたくなる。だが真相は、その実体験さえ、われわれは夢の機能を媒介してそれを「体験」として得ている
ということなのだ。この誤解を解消するためには、もうひとつ踏み入った知識を得なくてはならない。それはわれわれ
が「いつ」夢を見ているかだ。
われわれは覚醒時、つまり起きているときには、眠っているときとは違って「夢」は見ていないと思っている。「寝
ているときは夢の時間で、起きているときは現実の時間」だと思っている。そのことは今この瞬間においてもそうだ。
あなたは寝ながらこの文章を読んでいるわけではないので、しっかり起きていて、現実のこととしてこの文章を読んで
いるはず。そのことは間違っていない。
けれども今このときでさえ、あなたの「夢」の機能は、実は休眠しているわけではないのだ。驚いたことに、「夢」
の機能は今このときもあなたの背後でずっとはたらき続けているのだ。このことが目に見えない真相としてある。われ
われは起きているときも夢の機能を眠らせてはいない。そして「体験」や、それが過去になっても残る「思い出」とな
るとき、そのすべては背後にある「夢」の機能を媒介にしているのだ。
起きているときも「夢」の機能がはたらいているというのはどういうことか? そのことはこう説明される。たとえ
ばわれわれが日中に空を見上げたとき、太陽が燦燦と光り輝き、青空ばかりがそこに広がっているように見える。そこ
には一見、星空が「ない」というように見える。けれどもそれは錯覚で、本当はその青空の向こうに無尽の星空は広
がっているのだ。太陽があまりに燦燦と輝くので、星空が視認できないということにすぎない。夕刻になり太陽が没す
ると、星空が出現する、わけではなく、元々そこにあった星空が見えやすくなっただけだ。そのことと同じように、わ
れわれは起きているとき自我意識が燦燦と輝いているので、その背後で夢の機能が広々とはたらいていることを視認で
きない。それは視認できないだけで、なくなっていたり休眠していたりはしていないわけだ。
われわれは夢を「体験」する。それと同じように、実体験についても、時にそれを「夢のような体験」としてよろこ
ぶことがある。あるいは逆に、最悪の体験についてを「悪夢のような体験」ともいう。これらの慣用句は、われわれが
「体験」というものを生々しいほどに得るとき、それはまったく「夢」と同じ感触だと知っていることから生まれてき
ている。濃密な思い出を得て生きてきている人にとってはわかりやすいが、濃密な思い出は今思い出しても一種の
「夢」の手ごたえとして感じ取られるはず。そして思い出をこころのうちに思い起こすとき、その「夢」はこころのう
ちで「再び体験される」という現象として得られてくるはずだ。それで、思い出話をしていたらついつい涙が出てしま
う、というようなことが起こってくる。「この話をするとおれだめなんだよ」と、落ち着いてどこかかわいらしく......
その「夢」はこころのうちで「いつでも、無限回再生できるもの」として得られている。そのことは単なる記憶とは異
なる。「記憶」は意識機能に保存された情報に過ぎず、それを思い出すことは「再び体験される」ということにはなら
ない。かつての「イメージ」や「願望」を思い出せば、再び脳内ホルモンが出てドライブされるという類のことはある
かもしれないが、それは「あのときの体験が再び体験される」ということとは異なる。我々は塩酸の分子式がHClだっ
たことを記憶から思い出すことができるが、そこに塩酸の分子式が「再び体験される」ということは起こらない。「あ
のときはお金がなくて六本木から板橋まで歩いたんだよね」というようなことであれば、その思い出がふと想像力のう
ちに懐かしく体験されなおすことがありうるけれども。
「体験」とはそのようなものだ。驚いたことに、実体験さえ、それは夢の機能を媒介してこそ自分の「体験」として
得られてくる。「夢とはフィクションではなかったのか?」ということになるが、それはまったくそのとおりで、つま
り<<体験はフィクションとして得られている>>というのが真相になる。誰でも幼少のころを思い出してみればわか
る。近隣の町並み、公園や空き地、飛び交う蝶々や行きかう人々、家族や親戚や、友だち、家の階段を下から見上げる
ことまで......すべては夢のようで、すべては「フィクション」のようではなかったろうか。まだ「疑う」という能力を
ほとんど宿していなかったそのころに。
誰でもそうした幼少のころに、家の階段や野原の草や見上げる空と白い雲を、生々しい何かとして「体験」したこと
があると思う。それらは「生々しい体験」であるからこそ、疑いない「フィクション」なのだ。子供はぬいぐるみに名
前をつけたり――つけなかったり――するが、そのいちいちの事物に名前をつけなかったとしても、目にする空や雲の
すべてにさえ、自分の出会った何かとして「フィクション」の力の全力をぶつけている。まだ疑うことを知らない、
「信じる」が性分の人間として。
同じく誰でも知ることのように、いわゆる社会人になれば青春時代や学生時代のようには出会いや思い出が得られな
いということがある。人との接触はむしろ増え、業務のことにも業務でないことにも「駈けずり回っている」という事
実があるのだが、なぜかそこには確かだと信じられる「体験」の感触がない。「あーあ」としばしばその虚無感が言わ
れる。実感をこめて「だってさあ」「仕事が忙しすぎるんだよ」と、笑い話にもなりきれない調子でしばしば言われ
る。とはいえ、仕事が忙しすぎるということは相当程度正しいとしても、長期休暇になれば体験が得られるのかと問わ
れると誰にも自信はない。いかなる環境があったとしても、三十歳で得られる「体験」が二十歳のときに得られる「体
験」に劣らないという人はごくまれだ。それで、心身の快活や美貌以上の意味で「若さ」がかけがえのないものと言わ
れる。少々の酒が回れば、いい歳をした人間であっても「青春がしたいよ」と無邪気な泣き言をこぼすことはあって珍
しくないことだ。
しかし、ここまで読み進めてきた聡明な読み手にとっては、これら「体験」の減退が加齢の問題ではなく本質的には
「信じる」ということの減退によって引き起こされていることが理解されるだろう。人は生きていく中で様々な事情や
危難に触れ、駆け引きや慎重さを学びながら「疑う」という能力を高めていく。会社や社会そのもの、色んな業態の実
際と裏側、あたたかい人と冷たい人、悪徳な人物の存在を知って、「疑う」ということを覚えていく......そのことは一
般的に「大人になる」ということだと思われている。
しかし<<「大人になる」ということは、「疑うようになる」ということだろうか?>> 単にそのことだと言い切れ
るのか、改めて正当な審議がされねばならない。たとえば漠然とした三十年前と現代とを比較するなら、現代のほうが
「疑う」ということの機能と必要性は上昇しただろう。もし「疑う」ということが単純に「大人になる」ということに
結びつくなら、現代の様相は過去より「大人」の感触を帯びていなければならない。けれどもわれわれはそのような感
触を受けてはいない。三十年前よりどこかが「すれきった」印象は受けるが、そのことはなぜか「大人」という感触に
結びつかない。歌謡ショーのムードや喫茶店の雰囲気は当時のほうが素直に「大人」だったと認めるべきだろう。僕が
大学生だったときに級友は、電車通学の中で座席にあるスーツ姿の男を見つけ、「いい歳をした大人が、ああやって電
車の中でマンガ本を読んでいるのは無性に気に食わない、見ているだけで恥ずかしい」としっかりとした怒りを見せた
ことがあった。それは今となれば、「趣味は人の勝手だろ」という、聞きたくないような表面的正論の真逆を行くもの
だっただろう。
懐古主義を帯びた主張が今さら通用するような状況にはないが、そのこととは無関係に、「疑う」ということが単に
「大人になる」ということをもたらしはしない、とは正当に言いうる。「疑う」ということの機能と必要性が上昇する
中で、拮抗すべき「信じる」という機能のほうは十分に高められたのか。人は疑うということを超えて信じるという何
かしらの方法を持たなくてはならないが、こちら「信じる」ということのほうは小馬鹿にされまったく育成されてきて
いない。疑情が第一与党になってから、野党に追いやられた「信じる」のほうは顔を出すだけで嘲弄されかねないとい
う憂き目にある。それはつまり、目の前の友人についてさえ「信じていない」と自白していることにもなるのだが......
もし「体験」が人のこころ(胴体)を鍛え、人を大人にするのだとしたら、このように言いうる。現代においてわれ
われは、生活上で正しいこととして疑情第一の体質となった。そうして疑情のオリに閉ざされたため、「体験」の獲得
を失っている。「体験」を得ないこころ(胴体)は鍛えられず、ジュクジュクしたスライムのように弱っていく。一旦
こうして弱り始めると、ホメオスターシスによって人は下り坂を転がりおち、自分をますます弱くする「アヘアヘ」の
何かをむさぼりたくなるのだ。それこそがまるで疑いない救済や癒しだと、ときには人に推奨さえし始めながら。
「疑う」ということが単に「大人」なのか。さらに言えば、<<「夢を持たない」ということが「大人」なのか>>。
フィクション作品を、その制作背景の事情から読み取って分解することが「大人」ということなのだろうか。そんなこ
とこそ幼稚なのだと今は言われねばならない。いかに「疑う」ということが生活上正しく、反して「信じる」というこ
とがいかに不都合で現況にそぐわないことだったとしても、その正当性に乗じてそれを「大人」だと言い張ることまで
は不当で許されない。いいかげん、「疑う」ということを第一にした卑屈な体つきのことをわれわれは認めねばならな
いのだ。こころは胴体にある。疑情第一となったこころは本来性を失っており、その本来性の喪失は憐れまれるべきこ
ととしてその胴体に直接現れている。
真相はこうだ。<<われわれは、ノンフィクションこそが現実でリアルなのだと、思慮浅薄な思い込みに耽りこんで
しまった。ノンフィクションの現実に向き合うことこそが勇敢で逃避のない人間の生きざまなのだと信じて来たが、い
つの間にかすり替えが起こっていることに気づかなかった。/まさかそうしたノンフィクション現実への偏った傾倒こ
そが、本質的には逃避であったなんて。人が夢を体験することはわかるし、夢と同義において人がフィクションを体験
するということもなんとなくわかりはする。だけど、実体験までも、それがフィクションに至るまで信じて体験しなく
てはならなかったなんて。/そもそも夢は、眠っているときに見るものだと思っていた。起きている間にも夢の機能は
続いているということはこれまで教えられてこなかった。わたしが老け込んでいきながらどこか大人になれていないと
感じていたのは、まるで逆じゃない、夢を見ていたからじゃなくて、まさか夢を失ったからだなんて。わたしは夢に見
切りをつけることが大人になることだとどこかで思わされたわ。わたしは大人になったのじゃなくおばさんになったの
ね/わたしは騙されないことが強くて賢いことなのだと思い、騙されてくじけないためにあらゆることを疑うことに決
めた。そのとき以来、わたしはすべての体験から遮断されていたなんて、悔しすぎてめまいがする。確かにそのときか
ら、わたしの趣味は変わって、どんなものでも楽しんでいこうと前向きになって、やけに刺激的なものを好むように
なったし、人の趣味にはどんなものでも悪く思わないようにしようって思うようになったわ。そういう変化があったの
よ。アヘアヘという言い方はよくわからないけれど、確かにそのときからじわじわと、わたしから知性が奪われていっ
ている感じはしているわ。すごく老化して知性のない、幼稚なおばさんになったの。/でも今さらこんなことのすべて
を信じろというの? 「夢」が体験の機能なの? なぜだかわからないけれど、わたしは今ここにあるすべての話を叩
き潰して、軽蔑して、攻撃してやりたいって衝動に呑まれているわ。わけがわからないけれど、激しくムカムカする。
この圧倒的に黒々とした、攻撃の衝動は何? 理屈じゃないの。今わたしの目の前にあるものは、どうしようもなく憎
い「敵」にしか思えないわ>>。
「敵」ということについては以降の段で語られる。
一気に宗教のことまで引き合いに出してしまえば、正しい理解においては「宗教のすべてはフィクションだ」と言い
放ってしまって差し支えないことになる。それは宗教のすべてがウソの作り話ということではなく、思いがけず<<
フィクションの側が人間の真実>>ということなのだ。つまり、カミサマはフィクションだからこそ「本当にいる」。
このことを指して詩人ウィリアム・ブレイクはこのように言っている。”――想像力はステイト(状態)ではなく人間
のイグジスタンス(生存)そのものである。”
(大江健三郎著「新しい文学のために」82pより引用。イグジスタンスに訳語を引き当てるのに本来は引用文のまま
「生存」のほうが正しいと感じられるが、本稿ではわかりやすさのため「実在」の語を当てている)
われわれはわれわれ自身をノンフィクションだと思いたがるから......そのことが根本の間違いだ。リアリティのすべ
てはフィクションの側にある。
われわれはフィクションが「存在しないもの」だと思っている。だが急に冷静になって考えてみれば、それがまるき
り存在しないものであればそれを「体験」できるのがおかしい。フィクションを「体験」することは「妄想」の類だろ
うか? そのことは単純な心理学の側面からでもおかしい。妄想は常に激しいものだが、フィクションは必ずしも激し
くはないし、フィクションは妄想と違って人間の自我意識を損傷して生じるものではない。フィクションは......人間の
第一性分は「信じる」であるから、人間はフィクションを「認識」する前に「体験」してしまうというだけのことだ。
第一に「信じる」ことが起これば第二に追いかけて「疑う」が起こってもよい。すでに信じられたそれは「体験」を与
えているから。
フィクションとは「ウソの作り話」のことを言うのではなくて、「体験されるが確かめようのないもの」を言うの
だ。カミサマにしたってそれを「確かめる」ということはできない。ただ体験することはできてしまう。夢の中で見た
大きな三角形のテントを物理的な実物として確かめることはできない。にもかかわらず人はそれを体験できてしまう。
もしその三角形のテントが、よく見ると神殿であって、その奥にカミサマを感じることが、夢の中とはいえあったとし
たら? 人がもし、夢の中であっても繰り返しその神殿とカミサマに出会うことがあったとすれば、その体験をもって
「カミサマなんかいない」とは実に言いにくく感じるだろう。そして夢の機能は睡眠中のみはたらいているのでもな
い。起きているあいだにも夢の機能ははたらいているのだから、その夢の中で、やはり繰り返し神聖な場所やらカミサ
マやらに出会うことがあったとしたら? われわれが目にしているすべての風景は、実は何もかもが「神殿」なのでは
ないか?
ブレイクが言うように、想像力は人間のイグジスタンスそのものなのだから、その想像力上にカミサマが存在すると
いうことを見たとき、それを単に騙されているという状態(ステイト)だと言い張ることはできない。もちろんありが
ちなインチキ宗教に騙されましたというような阿呆くさい話は別だし、そのことはいちいち言わなくてもインチキ宗教
が「空想」を押しつけてきてついアヘアヘにされたということにすぎない。ここではもうそのような愚にもつかない例
は取り扱わない。
誠実なブレイクの言いようを不誠実な僕が引き継ぐとすれば、フィクションはつまり体験性において「実在」なの
だ。ブレイクの言うところも、つまり体験性が人間の本質的「存在」だと言うのだから、われわれが本当に気にしなく
てはならないのは、あらゆるものについて「体験性において実在しているかね?」ということなのだ。このことはわれ
われの身近な心境の問題とも合致する。われわれは物理的な友人がほしいのではなく、体験性において実在している友
人がほしい。それは恋人だってそうだし、色んな遊びや、仕事、恋やセックスにしたってそうだ。体験性においては存
在していない友人が物理的にのみ幅を利かせているとしたらどうか。そんなものは嘆かわしいに決まっているし、何な
らそばにいて「邪魔」とさえ感じるのが正直なところだろう。体験性のない、物理的なセックスなどという冗談みたい
なことをしてどうする。アヘアヘするにはむしろそのほうが都合がよいのかもしれないけれども。
われわれがよく言いたがる現実とかノンフィクションというのは、それだけでは体験性において実在していない。驚
いたことに、「現実」とか「ノンフィクション」とかいうことのほうが、本質的には存在していないということなの
だ。それこそ誰もが言うように、「影が薄い」とか「空気みたいな人」とかの言い方がある。われわれは誰しも肉体を
もって物理的に存在を主張しているし、それぞれが役所に登記された戸籍に紐づけもされているが、そうして
recognizable/認識可能ということだけでわれわれは体験性における自分の存在を実現はできない。<<あなたの存在を
認識することは簡単だけれど、あなたの存在を「体験」するにはどうしたらいいのだ?>> この単純で身近にも重要
に感じられる問いかけが中央に屹立しており、いつまでもアヘアヘしたがる人たちの逃避を冷たく見下ろしている。
われわれは生活苦と人権を付与された単なる蛋白質の塊ではない。われわれが自分たちを完全なノンフィクションだ
と看做せば、われわれはそうした蛋白質がホルモン物質にドライブされてうごめているだけの存在だということになる
だろう。ときおりは「趣味」にアヘアヘして癒されながら。だがわれわれは幼少期にもすでにそのようなことは「違
う」と確信している。そのことはほとんどアプリオリにも知られているのではないかとさえ感じられる。トルストイは
人間の動物的個我の側面を有限のノンフィクションだと認めたが、同時に人間の本質を無限で不滅のものと説いた。わ
れわれは物質世界においては未だ解明されていない「体験する」という流動的な現象によって自分たちの存在をアプリ
オリに定義している。
この話はちょっと難しすぎるか? つまりわれわれが真に「まとも」であるためには、われわれが「体験」によって
こころを満たしていなくてはいけないということだ。そして「体験」のためには、思いがけず「夢」の能力、「フィク
ション」の能力が必要になってくる。それらの必要な能力は、現在の生活で幅を利かせている「疑う」ということに
よって損なわれる。疑う人は自分で賢くなっているつもりでありながら、次第に「まとも」でなくなっていくのだ。
今、すでに行政のレベルで勘案されている、老人の凶暴化の問題がある。二〇一四年のデータで、駅員に暴行をはた
らく人は六〇代以上が五年連続のトップだそう。二〇一一年のデータで、病院内で暴行をはたらく人は七〇代がトッ
プ、セクハラは六〇代がトップだと集計されている。むろん病院内は老人のほうが多いはずではあるが、駅員への暴行
と照らし合わせると老人の凶暴化データとして無視できない。老人は自分を若年者に比較して「愚か」だとは思ってい
ないだろう。世の中を疑うことをたくさんしてきた。税金や年金のことをよく知っている。賢いつもりの老人は疑情第
一の体質のまま、行くあてがなく<<孤立的環境でありながら同時に束縛的環境でもある>>という中にいる。思い出や
死後の世界のフィクションを与えられず、己の肉体の疲弊と醜悪化いうノンフィクションにのみ向きあわされて、その
中では人間は脳内麻薬が引き起こすドライブの依存症に抵抗できない。われわれは感情を激して暴力を振るう老人の姿
を想像することができるが、その想像のうちに老人が「閉ざされた胴体」を固まらせていることは明らかだ。この老人
は年老いた一〇年間で何の「体験」を与えられてきただろうと考えると他人事にも痛嘆を覚えうるが、このことはすで
に他人事ではなく、実年齢がどうでも「体験」を与えられなかった一〇年間があれば誰しも「まとも」ということから
致命的に遠ざかってしまうのではないか。
われわれの本質およびその満足は「体験」が担っており、驚いたことにその「体験」は「フィクション」の機能に
よって得られている。人間は起きているあいだも「夢」を見ているのだ。その「夢」を完全に閉ざすものが疑情、「疑
う」ということ。
では実際に、まさに「疑情第一」で生きてきた人は具体的にどのような特徴を宿しているだろうか。そのことを知る
のは、それぞれが自己点検および大切な身内や友人について注意深く点検することに役立つだろう。そのことを「実際
に気をつけるべきこと」としてひとまとめに話しておきたい。
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