(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
理性的に「信じる」ということ
もし「信じる」ということを非理性的なものだと定義するなら、それはもう最も単純な「何でもあり」になってしま
う。何でもない壺を「ありがたいものだ」といって売りつけ、何百万円も儲ける単なる霊感商法に堕してしまう。こん
な愚かしいことが認められるわけがない。ターベルコース・イン・マジックには「人間は、第一に『信じる』という性
質を持っています」と書かれてあったが、それは「第一に」のことであって、「すべて」のことだとは書かれていな
い。
「信じる」ということは、いわば人間の機能の"最前線"であって、それに続く第二陣、第三陣がないわけではない。
ここで第一陣が「疑う」ということによって凍結されると、やむをえず第二陣が最前線に繰り上げられるだけだ。
すべてのことは理性的であることを保証しよう。ここで本来の最前線は「信じる」という機能が担うということ、お
よび第二陣はあくまで後続の機能だったということは、構造上とても大事なことになるので正しく把握しておいてもら
いたい。最前線は「信じる」だが、第二陣は何であるか? それは「検証する」だ。「検証する」ということは人間の
正常な機能であって、これ自体が否定されるものではない。あくまで、この「検証」が最前線に来るのは人間の本来性
ではないということが指摘されているのみ。われわれが理性的であるということは、この第一陣と第二陣を本来の序列
で統御するということにすぎない。第二陣が最前線に来ている状態はそれ自体が理性的でないのだ。
たとえばわれわれは、「日が沈む」という体験をする。日が沈む、というところを目撃するし、そのことを「日が沈
んでゆくね」と表現もする。何もおかしいことはない。けれども、あくまで科学的に正確に言おうとすれば、それは日
が沈んでいるのではなく地球が自転しているのだ。それは確かにそう。コペルニクスだってもちろん「日が沈む」とい
うことを目撃しただろうし体験もしただろう。けれどもコペルニクスは科学の方法によって「本当にそうか?」と検証
した。検証した結果、本当に動いているのは地面のほうだとわかったのだ。
それでいてなお、われわれが「体験」できることのほうといえば、やはり「日が沈む」のほうでしかないのだ。われ
われは地面に立ちながら地球の自転のほうを体験することはできない。このことは何も矛盾するものではない。きっと
理性的であったに違いないコペルニクス当人にしたって、「体験するのは"日が沈む"のほうだね」ということには合意
してくれるだろう。人間の最前線の機能が、見たものを見たまま「信じる」ということと、第二陣の機能が「検証して
確かめる」ということは、時間差において機能しているから矛盾しない。
われわれが戦争映画を観たとき、最前線の「信じる」という機能が「戦場」を体験するのは正しい。映画の上映中
に、「撮影現場」を体験するのはおかしなことだ。また、映画の本編を観終わったあと、その付録についているメイキ
ング映像をわれわれは観ることがある。それによって、当の映画がどのように作られたものであるか、撮影現場の様子
をわれわれは知ることができる。そのことで当の映画はスタッフによって撮影されたものだと明らかにされるわけだ
が、それによってわれわれが映画の中で「戦場」を体験したことが打ち消されるわけではない。なぜならわれわれは、
それが「映画」だと知った上で鑑賞しており、それがスタッフによって撮影されたものであることをもともと知ってい
るからだ。メイキング映像の中に「検証」して確認できる資料が見当たることと、本編映像の中に或る種の真実が「体
験」されることには、相互に何の矛盾もない。体験が最前線の機能で検証が第二陣の機能だから、それぞれの事象は時
間軸上で棲み分けられて発生し、互いに衝突しない。
われわれは常に理性的でなければならないし、その意味では、われわれは常に自分自身が理性的であるかどうかの
「審判」を受けていると言ってよい。理性的であることの中にこそ、「信じる」という第一の性分は屹立して機能す
る。たとえば先に示したトルストイの言があるが、トルストイはその著作「人生論」の中で「人間の本質的生命は永
遠」という不死性を説いている。そんなバカな、と思われるかもしれない。けれどもそれはそのまま信じたらよいの
だ。一方で、それに対立する不勉強の大学生が、「人間は死んだら終わりっしょ。無ですよ、無」と言う。これはこれ
で信じたらよい。
一見それでは矛盾しているように見える。けれどもそうではないのだ。
人間の第一の性分は「信じる」なのだから、時間軸上、それこそ0.5秒間でも、目の前に示されたことを信じたら
よい。その後にただちに、「検証」の機能によって、誰が真に理性的であるかという、フェアな審判を下せばよい。ト
ルストイより不勉強大学生のほうが理性的だろうか? 改めてそのことを考えると、不思議に、「人間は死んだら終わ
り」と言い張る不勉強大学生のほうが、なんともいえず非理性的である感触がする。パチンコ屋で借金しながら追い詰
められてなお遊戯する中年のおばさんも、「人間は死んだら終わりじゃい」と言い張るかもしれない。このことも、
まったく理性的には聞こえない。
問題は、「人間の生命は永遠です」ということが、きわめて理性的な人間であるレフ・トルストイによって語られて
いるということなのだ。ただそれだけなのだ。われわれにはノンフィクションにこだわる性向があるから、われわれは
トルストイの説く不死のことをとっさに疑い否定したがる。そしてフェアに「審判」してみれば、そのときに否定的反
論をしたがるわれわれは、なぜかいつも以上に非理性的な態度に出ているのだ。対立して矛盾しているように見える
が、よく見ると一方は「非理性的」。こんな単純なことが問題の真相にすぎない。理性的な者の言説と非理性的な者の
言説は、矛盾していると言えようか? それは矛盾ではなく<<勝負がついている>>のだ。
もし、カルト宗教に嵌った、明らかに表情も目の焦点も見失われている中年の女が、「人間の生命は永遠なんですっ
て!」とわれわれに教化してこようとしたら、そのことには何の脅威もない。うっとうしいというだけで、その中年女
は何の脅威でもないし、われわれの敵でさえない。単に「理性的でない」という審判が下されるので、正直なところ、
その中年女のしゃかりきな教化は「わずかも耳を傾ける価値がない」と判断されるのみ。「非理性的になって、妄信し
て、この壺を買えば幸せになるのよ!」というような単なるでたらめに、誰がほいほいついていくだろう。「信じる」
ということは理性的なものだ。
トルストイが存命中にはまだまともな映画はなかっただろうが、仮に一本の白黒映画を、トルストイが眺めながら微
笑んでいたとする。そのときトルストイは、いかにも理性的な人間として想像されよう。むろんトルストイはそれが撮
影されたフィクションの映像だということを知ってはいようが、そのフィクション作品を眺めるトルストイの眼差しは
スクリーンに向けてあたたかいだろう。
一方で、もし現代のわれわれが、強く演出された一本の映画を観ながら、「この人けっこう演技上手だよな」と評論
していたとすると、そのときわれわれの眼差しはスクリーンに向けて冷たい。そして何より、このようなときわれわれ
はなぜか<<理性的でない>>のだ。ポテトチップスを食い散らかしているような気がする。トルストイに比較すると圧
倒的に理性的でないという感触が確実にある。理屈っぽいことを語り、理屈っぽく見えるのはわれわれのほうなのだ
が、その理屈の振り回しぶりが、いかにも非理性的で野卑に見える。
もしトルストイの隣に座るべき人間がいるとすれば、それはまだ年端もいかない透き通った目の子供たちであって、
少なくとも卓見ぶりたがるわれわれではない。われわれは何をやっているのだろう? <<われわれは「疑う」という
ことを理性的なものだと思っているが、とんでもない誤解をしている>>。真に理性的であるということは、第一の機
能と第二の機能を統御してあべこべにしないことだ。第一に信じてから次に検証するのが機能の序列であって、この序
列が保たれていないのは単なる「崩壊」だ。序列が崩壊していればその人間は理性的でない。
無神論者が「カミサマなんかいるわけないでしょ」という。「宗教なんていわゆる精神の麻薬で、権力者が人民の精
神を支配するために使ってきたツールでしかないでしょ」という。その言説はまったく正しいと感じられるし、当たっ
ているか外れているかというと、当たっているという確信さえ得られる。検証としては十分に正しい。にもかかわら
ず、この言説の主には「理性的でない」という感触がずっと付きまとう。この「理性的でない」という感触は、カルト
宗教に嵌った中年女と同じなのだ。
無神論者とカルト宗教女が言い争いをしたとする。
「カミサマなんかいるわけないでしょ」
「あなた、そんなこと言っていたら絶対に地獄に落ちるわよ」
このときやはり、どちらもまるで理性的という感触がない。
なぜ「理性的でない」という状態が発生するかについて、繰り返し申し上げておきたい。「第一の機能と第二の機能
が時間軸上であべこべになっている」からだ。第一に「信じる」が機能し、その後に「検証する」が機能する。順序か
ら言って、<<「信じる」ということは、「検証」の産物ではない>>。これは構造上重要なことなので、正確に把握さ
れねばならない。正確な把握のためには、第三陣の「信頼性を認める」という機能を知ることが最もわかりやすい手続
きになろう。
コペルニクスは、一見そのように見えるという天動説を科学的に検証し、本当は地面のほうが動いているということ
を明らかにした。科学的な証拠がいくつもあり、その証拠に担保されて、現代のわれわれは地動説のほうを信じてい
る。われわれは地動説のほうを信じているが、一方でわれわれはやはり夕日を目にしたとき「日が沈んでいく」という
ほうを体験するのでもある。
これはどういうことかというと、われわれが地動説を「信じる」という場合、それは第一性分として信じているので
はなく、第三の機能、「信頼性を認めている」のだ。われわれの機能は時間軸上、第一に信じる、第二に検証する、第
三に信頼性を認める、という順序で起こっている。「信頼性を認める」ということは、「検証」の産物として生まれて
くる。科学の方法がこれだ。
われわれが真に理性的であるということは、これらの機能順序を正しく区分し、混在しないよう棲み分けさせるとい
うことに他ならない。
「信じる」と「信頼性を認める」ということの違いは身の回りにいくつもある。たとえばわれわれは、新聞記事に書
かれていることを、おおむね事実だろうと「信じる」ことにしている。これは何を信じているかというと、新聞記事の
文章に文学的体験を信じているわけではもちろんなくて、「新聞社の社会性を担保として、記事の信頼性を認めてい
る」ということだ。ひらたく言えば、「新聞社はその看板で商売しているんだから」となる。
われわれは街中の張り紙に何が書かれてあったとしてもその書かれてある内容を信じはしない。誰が書いたのかさえ
わからない張り紙には何の社会的担保もないからだ。社会的に、新聞社はこれまで大きな信頼性を蓄積してきたので、
大手新聞社であることが担保だとといえるし、それが週刊誌になると信頼性はぐっと低くなるといえる。芸能を題材に
した週刊誌で、むしろでたらめを楽しく書きますよ、ということを言外に見せつけているような雑誌もあり、このよう
な雑誌はそもそも「ウソ」が書かれていることを承知で購読者は楽しむものだ。この場合、信頼性のなさが売りになっ
ているともいえる。
われわれは、ペイオフ制度のことを念頭にいれながら、それでも都市銀行や公庫といった金融業を信頼している。信
頼しているからお金を預けることができる。銀行法や、そもそもの経済活動の規模そのものが担保になる。われわれは
社会的担保のない不明な金融業者にお金を預けない。われわれはNHKの取材を受ければ門戸を開くだろうが、よくわ
からないユーチューバーの取材に対して門戸は開かない。われわれは中国の新興企業が作った空気清浄機を使いたがら
ない。僕があなたの腕に針を刺そうとすればあなたは逃げるだろうが、医師が注射針を刺して薬液を注入しようとする
ときにはあなたは逃げ出さないだろう。
これらはすべて、社会的担保によって信頼性を認めているということであって、区分としては第三の機能にあたる。
第一の機能の「信じる」とはまったく別の現象だ。社会的な担保に信頼性を認めるほか、何かしらの「証拠」を担保に
して信頼性を認めるということもある。どちらにしてもこれらはすべて、第二の機能「検証」の結果、その産物として
生み出されるものだ。十分な担保性が検証された結果として信頼性を認めるという結論に至ったということ。これらの
ことは言ってみれば、「疑う余地があるので、担保を必要とした」ということに他ならないので、第一性分としての
「信じる」という機能とは別のことだ。信頼性を認めるということは、信じるということではなく、正しくは「アテに
する」ということでしかない。疑いうる余地があったが、検証して担保性を確かめたので、その担保が保証する範囲内
においては、まあアテにしていいでしょうということ。交際相手の浮気を疑って興信所に調査を依頼した人は、その結
果交際相手がシロだったとしても、それは検証の結果「疑いが晴れた」ということであって、体験におよぶ「信じる」
を獲得したことにはならない。
人が理性的であるということは、これら第一から第三までの機能の順序を正しく区分することだ。「新聞に書いてあ
ることは全部ウソだ」というのは理性的ではないし、「聖書に書かれていることには何の担保性もない」と非難するの
も理性的ではない。
われわれが疑情体質になったということは、第一の機能が凍結され、第二・第三の機能が最前線に繰り上げられたと
いう状態を指す。機能を正しく区分しようにも、本来の最前線機能が失せているのだからいかんともしがたい。
われわれはしょっちゅう、自分たちが理性的でないという状態に直面させられる。そこから理性的であることに立ち
戻ろうとしても、どのようにしたらいいのかわからなくなっている。「信じる」ということと、「検証の結果、信頼性
を認めることにした。アテにしていいでしょう」ということを混同しているままでは、われわれはいつまでも理性的に
なりえない。
「とっておきゴボウのシャキシャキサラダ」は、本当にシャキシャキしているだろうか? そのことは実際に食べて
みるまでわからない。本当にとっておきだろうか? そのことはウェブサイトに開示されている農園の風景をアテにす
るしかない。「とっておきゴボウのシャキシャキサラダ」というメニュー名は、愉快な感じがして、食指が動かされる
ところがある。そういった文化にわれわれは慣らされている。だが、仮に急激に冷静になってそのメニュー名を眺めて
みれば、そのメニュー名がずいぶんと「理性的でない」ということがわかる。「とっておきゴボウのシャキシャキサラ
ダバルーン」というのはどうだろうか? バルーンには何の意味もないが、とりあえず楽し気になるかと思って付加し
てみた。こうするとますます食指が動く、のだろうか?
われわれは「とっておきゴボウのシャキシャキサラダ」を注文したとき、それが本当にシャキシャキでとっておきな
のかどうか、「検証」しながら食べているところがある。その結果、「すごーい、本当にシャキシャキだ」ということ
も少なからずある。けれどもそのような中、われわれは「食事を信じる」ということを忘れている。とっておきゴボウ
のシャキシャキサラダは、あなたの気分を盛り上げるにせよ、あなたに「食事」という体験を与えない。ノンフィク
ションの栄養摂取のことのみをわれわれは食事と呼んでいない。
ヘップバーンが恋をする映画の中に「とっておきゴボウのシャキシャキサラダ」は出てこない。「どうぞ、実際に食
べて、検証してみてください」。実際われわれはそういう状況の中で生きている。「それって、『ごはん』かい?」と
僕は言いたいのだ。僕は「ごはん」が好きだから......
先に挙げた無神論者とカルト教徒の言い争いは、つまり、
「検証の結果、カミサマはいないんだよ。わっかんないかなあ」
「検証の結果、あの教祖には本当に超能力があるって言われているのよ。証拠もあるのよ。あなたが知らないだけ
よ」
ということの言い争いにすぎない。どちらの言い分に「信頼性が認めうるか」ということで言い争っているのであっ
て、そもそも第一の「信じる」という機能は両者ともはたらいていない。
信じるということは理性的なものだ。第一から第三の機能、信じる、検証する、信頼性を認めるということは、混合
しないかぎりどれもすべてまともにはたらいていてよい。正当な科学として、検証しうるものはいくらでも検証したら
いい。けれども、検証の結果、信頼性を認めたからといって、それをもって「信じる」ということは成立しない。第一
から第三の機能は時間軸上の順序だから、その「信じる」では<<間に合わない>>のだ。「体験」に間に合わない。
図書館にある、どの哲学書でも開けばいい。どこにも同じことが書かれている。最も身近には西田幾多郎がある。
哲学者は物思いに耽る人ではなくて、論理をもって事象を解き明かそうとする科学者だ。そしてどの哲学者も同じ問
題に向き合わされている。つまり、<<検証する前に体験が得られてしまう>>ということ。彼らは科学者として「検
証」という手法を得意にしているのだが、その検証という方法が「体験」にまったく間に合わないことを痛感して哲学
を進めている。「検証する前に体験がバカスカ来てしまうじゃないか!」。彼らは科学者としてこの世のすべてを科学
で解き明かそうとしたが、その科学の方法が、最も身近な自分の「体験する」ということを操作させてくれない。その
ことについて、カントは純粋理性批判を著し、理性の追究できる範囲には明らかに限界があり、その限界を認めること
までが理性だと認めた。
哲学の考究には高度な知識と知能が要る――時間も要る――だろうが、「体験」を得るのには高度な知識や知能は要
らない。ただし知性は要るだろう。知性、つまり、信じるということは理性的なものだ。区分なしに「信じる」とい
う、ただの妄信は、もっともくだらない「何でもあり」にしかならない。「信じる」ということはそうではない。検証
するということはしてよい。検証の結果に得られる信頼性に重きをおいてよい。けれども、検証結果を待っていたら体
験には間に合わない。<<検証はしろ、ただし、体験を得てからずいぶん後で>>。メイキング映像をわずかでも観るの
は映画本編を観終わってからでいい。
「信じる」という第一性分が機能しないと、体験には間に合わないだろう。この「間に合わないだろう」と当然に知
るのが、理性的ということだ。信じるということは、アテにするということではない。信じるということは、体験する
ということだ。このことに間に合うか? 第一性分は検証より早いので検証が動くころにはもう済んで通り過ぎてい
る。
「間に合わない」ということについて、ひとつたとえ話をしておきたい。あなたが手元に、手ごろな石を持っている
とする。あなたはそれを手元でこねくりまわし、それを僕に投げつけようと考えている。僕とあなたの距離は、5mも
離れていない。
あなたがそうして手元で石をこねくりまわしているあいだ、僕はずっとあなたに向けて、胸の前で広々と、弓矢を引
き絞っている。弓を十分に張りつめさせて、呼吸を整え、矢じりの先端であなたをピタリと捉えている。
あなたがわずかでも動けば、僕は引き手をパッと解放するだろう。引き手を解放すれば、ただちに強靭な矢はあなた
めがけて飛んでいく。
このような組み合わせで、あなたが僕に石を投げつけることは「間に合う」だろうか?
この場合、あなたの側は動き出した瞬間から、行動が始まるのに対し、僕の側は、動き出した瞬間に行動が完了して
しまっている。
あなたが検証の石を投げ終わるずいぶん前に、体験の矢はとっくにあなたの胴体を貫いている。
あなたが検証の石を投げ終わるころには、僕はもう後片付けを始めているところだろう。
「間に合わない」というのはそういう状態だ。
たとえばあなたが人にあいさつをするとき――あいさつは習慣的・無自覚的な動作になっているだろうが――あなた
はあいさつの「石を投げている」だろうか、それともあいさつの「矢を放っている」だろうか。
あなたのあいさつは、もともと引き絞られた矢としてパッと放たれていないと、体験する・させるの時間軸に間に
合っていない。検証していては間に合わない。あいさつを信じていないと、あいさつの矢は放てない。「体験」はどう
しようもなく早いのだ......
補足として、先の段に述べた「敵」ということについてもお話ししておきたい。僕がしばしば、「体験はフィクショ
ンに属する」ということ、および「そうでないと間に合わない」ということについて話すと、そこまで愉しんで話を聞
いていた人々が、急に顔を曇らせるということがある。なぜ? という不可解さがある。そこからさらに、「信じると
いうことは、アテにするということではない」と話すと、さらに雰囲気は剣呑さを増す。ますます、なぜ? という心
地がする。そこから僕は、まるきり憎らしい「敵」という目つきを向けられるのだが、「なぜ?」、そのことについて
ヒヤリングすると、多くの人は「自分でもなぜだか、わからない」と言う。「あなたのことを憎みたいわけではなかっ
たの」と言う人もあったし、中には、「あなたの話すことの中に、わたしの本当に大好きだったものが含まれている。
だからこそ受け止められない」と言った人もあった。このことについては深入りしないが、こうした敵愾心と憎悪の反
応がありうることを前もって言っておきたい。
僕としては、急に「敵」として憎悪されることには、残念ながらすでに慣れたし、だいたいの場合はその背後にある
事情のことも察しがつくようになったように感じている。その拝察が当を得ているのかどうかは不明だが、いつもそれ
以上には踏み入るべきではないとしてここまでで引き取っている。
僕としてはいつも、この急に現れる「敵」への憎悪の対象になるのは、どうしても悲しみがあるのだけれど、そのこ
とにはもはやこだわらないとして、ただ一つのことだけ申し上げておきたい。あなたの豊かな人生について、僕が何か
の直接の加害をしたということはきっとないはずだ。僕はただ人間の体験と実在について話したかった。僕は何かを侮
辱するように話したつもりは、少なくとも自覚的にはない。それでも目の前の僕が急激に、憎むべき「敵」になる以
上、そのことは認めざるを得ないけれど、ただ一つだけ話しておきたい、その敵愾心と憎悪はきっと理性的なものでは
ない。あなたは理性的でない自分を自身で決してよろこんではいらっしゃらないと思う。
昨年の十一月末、村上龍のエッセイ集「星に願いを、いつでも夢を」が刊行されている。その中に強調された書き方
でこう記されている。居並ぶ二十の項のうち、06の項の冒頭、
”今は、「憎悪だけが人生だ」という人が無数にいるのだろうと思う。”
また02の項の冒頭には、
”若者には、「何とか死なないように、騙されないように」そのくらいしか言うべきことがない。”
とも書かれている。
憎悪を引き受けねばならないことや、「騙されない」ということを第一にしなくてはならないということへ、いちい
ち嘆きを持つようなヤワな村上氏ではないが、僕は大いに嘆くヤワだというわけだ。
同書のあとがきで、徹底して理性的な村上氏は、時代の中で失われていった「偏愛」のことについて書いている。偏
愛という、理性を吹き飛ばしかねないほどのものだけが、別の人生をイメージさせうるだろうと村上氏は言う。そうし
た理性を吹き飛ばしかねないほどのものまで組み入れて考えなければ、本質的に理性的でない。僕は偏愛という言い方
は採らないが、「信じる」という第一性分にそのことを見ている。僕は情動のすべてが黒々しいとは思わないからだ。
村上氏そのものがそうであるように、僕は理性的である者が最も炎のようであると感じている。理性は炎だ。理性の炎
が冷たい検証主義をやめさせ、やがて炎は腹の底に及んで怒りの日をもたらすだろう。われわれは理性的な人だった
し、われわれは信じる人だったのだ。
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