(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
フィクションは体験を与え、ノンフィクションは刺激を与える
僕が掛かりつけで世話になっている医院のドクターはW先生というが、この先生はとある有名病院の第一外科の医局
長だった。W先生は、そのキャリアと肩書も疑いなく分厚くしながら、それ以上に患者に対面にすると「どうされまし
たか」と問診して、その胴体の中心から「医」そのものを疑いなく向けてくるので、僕などはどぎまぎさせられるの
だった。この人はまさしく「医者」だと思い知らされるものがW先生にはある。僕などは、W先生の前に出たら途端に
自分のちゃらんぽらんさが透けてみえるようで、圧倒、畏怖させられて、問診に答えるにも口ごもるようなところが出
てくるのだが......
数万件の症例に向き合い、現在もなお最先端医療の前線に立ち続けているW先生は、まさしく尊崇されるべきノン
フィクションの肯定の肖像に見えるが、ここでノンフィクションへの憧憬が誤った形で起こることに本稿では制止をか
けたい。W先生は立派なキャリアと肩書を持っていらっしゃるが、単にキャリアと肩書ということだけなら同様の地位
にあられるドクターはこの日本にも数多くいらっしゃるだろう。最先端医療の技術や情報についても、現代ではイン
ターネットでその共有性は飛躍的に向上しているはずで、単純な医療水準はずいぶんな追い風を受けているだろう。
けれども、「体験」として――つまり、この先生は「お医者様だ」と検証以前に信じられ、拝みたくなるような「体
験」がそこにあるということになれば、そういった体験性におよぶ「医者」はそこまで数多くはあるまい。免許を持っ
た医師という職業の人は国家に登録されている人数だけ存在する。あくまでノンフィクション上で認められる「医者」
というのはその免状の所有者ということに定義されるはずだが、W先生は医者という職業の人ではなくてわれわれが
「体験」する「医者」であり「お医者様」だ。「こんな人がいるんだ」と、単純に感動する。
僕はキャリアや肩書の以前に、そのW先生の胴体の中心から吐き出されてくる「医」そのものに圧倒されると述べ
た。W先生においては、医者という立場に医療の知識や技術が詰め込まれているのではなくて、矢印の方向が反転し、
W先生の胴体の中心から「医」そのものが吐き出されてくるのだ。われわれは、こういった「医」そのものの人のこと
を特に「お医者様」と呼びたい。僕はW先生のおかげで、健康管理についての一切をその専門的判断にゆだねることが
できるが、それ以上に僕はW先生によって「医」という文明のある世界と暮らしを「体験」できることになる。これほ
どありがたいことがあるだろうか。この世界にはお医者様がいるのだ。
そういった実体験を通して述べておきたい。まさに、これは実体験で、ノンフィクションなのだが、それでもそれが
「体験」におよぶためには営みがフィクションにまで到達していなくてはならない。言わずもがな、W先生は医を「信
じて」いる。どれだけ知能の高いドクターであっても、その医を「信じる」ことができるかということになると別問題
だ。われわれはこの先に発達した人工知能がどれだけの医療的判断の性能を持ったとしても、その装置を「お医者様」
とは呼ぶまい。人工知能に医療的判断とラーニングのプログラムを組み込むことは可能だろうが、その装置はあくまで
医療的情報を外部から「詰め込まれる」ものであって、それ自体が「医」を果たそうとする意志や動機を持っているわ
けではない。人工知能は医を「信じる」ということができない。人工知能の医療システムはやがて実用に到来しノン
フィクションにおいて大きな役割を為していくだろうが、その機械仕掛けの恩恵にあずかったとしてもそれはわれわれ
にとって「医」の体験ではない。高度な分子分析能力をもったロボットが完全に塩分や加熱をコントロールした料理を
する機能を持っていたとしても、われわれはそれを料理人とは思わないし「料理」や「食事」をそれによって体験でき
るとは思わない。いかにそれが完璧にレシピどおりのものを作ったとしても。今現在、すでに個人用のコンピューター
でさえ、アプリケーションを組み込めば、目前の人の顔面を認識し、それをただちに似顔絵のふうに描き出して表示す
るということは可能だろう。このときわれわれはこのPCやアプリケーションを「画家」「絵師」とは看做さない。そ
こには絵画の体験などない。絵画の体験が得られないなら、そこに「画家さん」は存在していない。絵が「信じられ
る」という体験はそこにはない。われわれは単なる演算結果を「絵」と認めることはしない。
現代、すでに人工音声でさも人が歌っている「ように聞こえる」アプリケーションとして、「初音ミク」を代表とし
て知られたいわゆるボーカロイドのブームが衆知にある。これもあくまで「歌手」があるように「錯覚する」から盛り
上がるのであり、体験性がいかにも欺瞞されるということで悪ノリのブームが起こったにすぎない。本来、歌を「信じ
る」人間が歌手となり、歌唱から生じるフィクションの「体験」を得るということが歌手と聴衆の関係性であったが、
ここに歌を「信じる」などという機能はありようもない電子回路の結晶があたかも歌の「体験」を与えてくるかのよう
に強烈に錯覚させてくるということがあえて「刺激的」なのだ。この「刺激」ということがノンフィクションについて
のキーワードになる。
あくまで誤解してはならないのは、「初音ミク」は電子的演算で作られた合成音声の出力装置なので、「初音ミク」
こそ赫々たるノンフィクションの成功例だということだ。初音ミクは逆にフィクションではない。混乱を防ぐためには
このように並べてみればいい。医療ロボットを「初医ミク」、料理ロボットを「初味ミク」、絵画ロボットを「初絵ミ
ク」と名付けて、似たような人物像を張り付けて一堂に並べればよい。そうすれば「初音ミク」もノンフィクションの
電子製品でシンセサイザーのひとつに過ぎないことがよくわかる。従来のシンセサイザーとの違いは何かというと、従
来のシンセサイザーはあくまでその演奏の「主体」が作曲者や演奏者にあると当然に示されてきたが、初音ミクの場合
はその演奏の「主体」がさも空想上の「ミク」なる少女にあるかのように強く錯覚されるということだ。まるで電子製
品そのものに演奏の「主体」があるように錯覚する。そこにこの時代ならではの新しい面白味があった。だが錯覚を生
み出すということはフィクションの営為とは異なる。空想を錯覚させるということは催眠的であって体験的ではない。
ここでひとつ、面白い実験というか、ある種の確認方法を提出しておこう。もしあなたが「初音ミク」というのがど
ういったものかをひととおり知っていたならば、この実験は興味深く、驚くべき結果を与えてくれるものになるだろ
う。あなたは人の「声」を覚えている。「初音ミク」の「声」も覚えているはずだが、しかしここで急に、
「どんな声?」
と訊かれると、その問いかけにはとても答えにくいはずだ。
どんな声だ? どんな声だった、初音ミクは。
記憶には残っているだろう。
おそらくあの印象的なシンセサイザー音声は、誰にとっても記憶に残りやすい。だから、いわゆる右脳的記憶の能力
が優れている人なら、そのシンセサイザー音声は記憶の中に幻聴するかのように聞き取れているはずなのだが、それに
してもそれを「どんな声」とはたいへん説明しにくい。
一方、トランプ大統領がどんな声であるとか、美空ひばりがどんな声であるとか、あなたの親や上司や学校の先生が
どんな声かというと、それだってやっぱり説明はしにくいが、どことなく「こういう声だ」と答えたくなる手がかりと
いうか手ごたえがあるはず。「トランプ大統領はどんな声?」「えーっと、ほら。あれですよ。あーなんと言えばいい
のかな、こう、いきりたって」。声の感触を説明するなどいうことはどうしても難しいというか実際には不可能だが、
説明が不可能だったとしてもそれは「知っている」という感触なのだ。「えーっとね、あのね、ちょっと待ってね、ほ
らこう......」。「体験」の中を手探りし発掘してゆけるということが、体験のレベルでそれを「知っている」というこ
とだ。
われわれは安倍総理がどんな声で、オバマ元大統領がどんな声だったかを「知っている」。はっきりは覚えていない
のだけれど、その感触を「知っている」。ところが、「初音ミク」の場合は逆なのだ。われわれはその声をわりとはっ
きりと覚えているのに、その感触を「知らない」のだ。われわれは初音ミクの声を「知らない」。仮にそれをミクちゃ
んと呼んでみたとしても、ミクちゃんがどんな声なのかをわれわれは知らない。ミクちゃんと話したこともなければ、
ミクちゃんに話しかけられたこともないからだ。「音色」はこんなにはっきり記憶しているのに。「ミクちゃん」の声
を記憶の中で発掘しようとすると、その発掘作業の中で必ず「ミクちゃん」は「アニメキャラクターのイメージ」に切
り替わるはずだ。その中で、アニメキャラクターの声、および、アニメキャラクターがしゃべっているシーンしか出て
こないだろう。
こうしてわれわれの脳みそは、けっきょくのところ「初音ミク」は胴体を持たないシンセサイザーでしかないという
ことを元から見切っているのだ。これまでに述べてきているように、イメージの能力は意識の機能に属するもので、夢
の機能に属してはいない。だから、いくら現代のブームの中で「初音ミク」の疑似音声が人々によく記憶されたとして
も、それはよく記憶されているというだけで、「体験」はされていないし、われわれはけっきょく初音ミクの声なんて
「知らない」。初音ミクという「イメージ」が膨らんだだけだ。
ではなぜわれわれは、その「体験」もしないし「知り」もしないという初音ミクの疑似音声を、なぜか「覚えやす
い」という印象を伴わせて、わりとはっきりと「記憶」だけしているのだろうか。このことには仕組みがある。
<<刺激は記憶しやすい>>のだ。刺激は記憶しやすく、また思い出しやすい。刺激は覚えやすい。それだけに「クセ
になる」というところがあるのだ。中毒性、とも俗に言われる。
その覚えやすさは「マーキング」とも呼ばれる。記憶に「刻まれる」ことをマーキングという。誰でも受験勉強のと
きには特定の箇所を「覚えやすい」ように参考書に蛍光ペンでマーキングをする。まさに<<刺激は記憶しやすい>>と
いうことの応用だ。そして誰でも知っているように、マーキングされた参考書をわれわれは「体験」するわけではな
い。(備考、僕は受験勉強にも一切マーキングを使用しなかった)
刺激は記憶しやすい。覚えやすい。ただそれだけの短い事実が、われわれの疑情体質や体験からの遮断を強固なもの
にしている。刺激は体験の反対なのだ。刺激には中身がない。刺激に内容はない。ただの刺激だ。刺激はただの刺激で
しかないので、そこに何かを「信じる」ということは必要ない。信じるということが必要でない以上、そこに何かを
「疑う」ということも不可能になる。刺激は刺激だ。
「刺激」はノンフィクションのもので、疑う余地のないものだ。「疑う必要がない」と言っていい。
刺激はただの刺激でしかなく、実はそこには何の体験もない。そこにあるのは「作用」だけだ。人は刺激を受けると
発奮する。そういう作用があるし、その他いろんな作用がある。作用しかない。
刺激は体験の反対だ。
疑情体質の人はきっと、体験とは刺激を得ること、特に「強い刺激を受けて」「刺激が記憶から離れなくなる」とい
うことが、「大きな体験」だと誤解しているだろう。刺激は体験の反対なのに。
刺激には内容がない。刺激に体験があるわけがない。にもかかわらず、人はたいてい刻まれた刺激のほうに自ら帰ろ
うとしてしまう。中毒性。なぜといって、<<マーキングされたものには帰りやすい>>からだ。マーキングに至った刺
激は、ただ記憶しやすく、覚えやすいから、そこに帰りやすくなる。マーキングされて目立っているから帰りやすい。
帰りやすいという理由だけでそこに帰ろうとする。そうして人は、自分をアヘアヘにするだけの何の意味もない刺激の
ほうにわざと自分から帰りたがるのだ。
自分がチヤホヤされたときの刺激に帰ったり、自分がいじめられていたときの刺激に帰ったりする。マーキングされ
ているから目立つ。そうして人は、昔のことにも際限なくアヘアヘし、依存症を自家で進行させる。疑情体質者は「体
験」を持たず、強い刺激のことを大きな体験だと思っているから、「強いマーキング」の記憶が自分の体験と思い出だ
と思っている。
この重要なことが整頓されて伝わるように、より直接的なことを次の段に分けて話す。われわれは早く疑情体質を捨
ててフィクションの「体験」および「実在」のところに帰りたいのだが、そのためにはなぜわれわれが疑情体質に閉じ
込められてそこから抜け出せなくなっているのかを知る必要がある。われわれはフィクションに帰れないのではなく、
そもそもノンフィクションを抜け出せなくなっているという考え方が有為にありうる。
▼ノンフィクションの特性
・ノンフィクションは「刺激」を与える
・刺激は疑わなくていい
・刺激は記憶しやすい、覚えやすい
・刺激は覚えやすいので、やみつき、クセになりやすい
・刺激が記憶に「刻まれる」ことをマーキングという
・マーキングされたところには帰りやすい
・しかし刺激は刺激であって、内容はない
・刺激を受けると人は発奮する
・刺激には「作用」がある
・「刺激」は「体験」の反対だ
・「強い刺激」を「大きな体験」と誤解している
←前へ
次へ→