(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
「刺激を受けて発奮する」という事象が、そのまま「ノンフィクションの世界」だ
われわれは刺激のことを「ノンフィクション」と呼んでいるのだ。たとえば昔話の「桃太郎」を読んで、「刺激を受
けました」という人はいない。フィクションに刺激性はない。一方、かつて北野武がフライデーの編集部に殴り込みを
かけて、実際に暴行事件として起訴されたという話には、「刺激を受けました」となる余地が十分にある。実際、刺激
を受ける。大学の教授が痴漢で逮捕されたとか、〇〇くんが先輩を殴ったとか、アイドルグループのセンター役は年収
がいくらだとか、ジャックマイヨールは素潜りで何メートル潜ったとか、そういったすべてのことには刺激を受ける。
この刺激のことをノンフィクションと呼んでいるにすぎない。
親知らずを抜くときには痛いそうだが、それだって聞かされると刺激を受けて「うわあ」となる。地区大会で優勝経
験があります、と言われると刺激を受ける。どんな企業でも面接で落ちたりはしなかったな、と言われると刺激を受け
る。生まれつき声が出せない人の気持ちを考えたことあんの? と言われると刺激を受ける。刺激を受けると発奮す
る。刺激には正と負があるが、どちらの刺激であっても何かしら発奮する。
この、「刺激を受けて発奮する」という事象が、そのまま「ノンフィクションの世界」だと見ていい。だからどうし
ても、「信じるとか信じないとか、どうでもよくない?」という感じがしてくる。刺激には信じるも疑うもないのだ。
「刺激を受けて発奮する」ということで世界は簡潔に成り立っており、そこには信じるとか疑うとかいうことはまった
く関係がないように思える。
現代人は、多く「モチベーション」を探している。発奮したいのだ。それで有効な刺激を探している。スティーブ・
ジョブズの伝記を読んで「やっぱすげえ」となり、その刺激で発奮する。「モチベできたわ」となる。だがもちろん、
この発奮は基本的に長続きしない。刺激が継続はされないし、刺激にはすぐに耐性がついてしまうからだ。よって、す
ぐに新しい刺激が必要になるか、あるいはこれまでの刺激を増量する必要が出てくる。その仕組みは麻薬の摂取と変わ
らない。麻薬中毒者は前回の量では効かなくなるのだ。増量しないと発奮効果がない。それでやがて心身を完全に破壊
する摂取量にまで至ってしまう。
刺激を受けて発奮したい。「体験」のない世界を生きている人にとっては、世界とはそういうものなのだからしょう
がない。そして、次々に耐性はできていってしまうから、次第に(というかあっという間に)、「もう強い刺激なら何
でもいい」という状態にいつの間にかなっている。風俗で働いてみようかしら、ということを誰だって考える。「でも
病気になったらいやだしなあ」という、この制約がなかったら本当にいくらでも踏み出す人はいるだろう。性風俗業が
悪いと言っているわけではなくて、「強い刺激」を求めるだけでそこまでいくということに恐怖があるということをお
伝えしている。「月収六十万!」と言われると刺激を受ける。「やっぱりお金は欲しいし」と言うが、たいていその金
銭が本当に必要というより「荒稼ぎ」の刺激に発奮したいというのが本質ということが多い。「もう強い刺激なら何で
もいい」。何でもいいので強い刺激でクラクラするほど発奮したい、それ「だけ」でしかないのだ。
ノンフィクションとは刺激と発奮の事象を言う。そのことが悪いと言っているわけではない。むしろ必要だというこ
とは確実にある。けれども、どこまでいってもそれは「体験」ではない。ここを取り違えているとどうせ破綻する。ノ
ンフィクションとは刺激と発奮のことを言うが、それは刺激と発奮でよいのであって、それを何も「体験」と言い張る
必要はない。
「音楽やってます」「ダンスやってます」「物理学やってます」と言うと発奮する。言っても発奮するし、言われて
も発奮する。そういうことが癖になっている。本人は説明しているつもりでも実は発奮が癖になっている。ノンフィク
ションを言って発奮することを本人は「意識を高く持っておかないとモチベーションが下がるから」だと思っている。
これはこれでいい、とは言えない。絶対に言えない。なぜなら、刺激で発奮し、「ようし、やろうっと」と音楽を
し、ダンスをし、物理学をやっても、そこには何の「体験」も得られないからだ。このことには直接の心当たりのある
人が少なからずあるはず。音楽に体験が得られず、ダンスに体験が得られず、物理学に体験が得られない。「今やって
いる音楽のモチーフは何なの」と言われると「えーっとね。どう言えばいいんだろ」と答えられない。「ちょっとやっ
てみて」と言われると「今ここで?」と声を荒げる。本人の「やっている」はずのことが実は本人に体験されていな
い。このことは説明がつくのだ。今ここまでお話してきたとおり、刺激で発奮するというノンフィクションをやってい
る。ノンフィクションをやっているので、体験は得られない。刺激と発奮の中に体験はない。
刺激というのは怖いのだ。発奮させるくせに体験を与えないのだから。刺激はすぐに耐性がついてくるので、もう前
回の刺激量では発奮できない。「もう強い刺激なら何でもいい」という状態にすぐなる。この「強い刺激」の次、「度
を越して強い刺激」のことを、「えげつないもの」と言い換えても差し支えない。「もう強い刺激なら何でもいい」と
いう状態は、すぐ「えげつないものを漁る」という状態に行き着く。お金がほしい、と言っていた人は、「えげつない
量のカネが欲しいわ」と、えげつない声で言いだす。「政治家の人と寝たんだけどさあ、、たかが区議会議員が政治家
ぶるって、今考えたら厚かましくない?」とえげつないことを言い出す。
そうまでして発奮したい。
「だってそういうのが体験じゃん」と強く言い出すだろう。当人はきっとそう確信している。「あーやっぱり、ヨー
ロッパのサッカー選手とか、やっててすっごい気持ちいいんだろうなー」と、頭を抱えるようにして言う。「だって超
ヒーローだし、お金も超稼ぐんだよ」「あーあ、マジうらやましい」。「つってもなあ、わたしの器量じゃなあ。そこ
そこの中小企業の、ボスか役員捕まえて、第二婦人にしてもらうぐらいかなあ」。「わたしいいかげんボルダリング
ちゃんとやろっと。でもなあ、ワイン会に付き合わされるのがダルいんだよなあ。それさえなければあそこ何の文句も
ないんだけど。まあでもああいうところって必ずそういうタイプのおばちゃんが一人はいるから、どこに行っても一緒
か」。「まあそんなことはいいや。考えても意味ないし。さっさと婚活のほうだけ再開しよっと」。
刺激と発奮を探し回っている。このとき当人はすでに、何か「えげつないこと」を言うと自分が発奮するということ
をズタボロに学習しており、もはや発奮運転を継続するための燃料としてえげつないことを口にするということが習慣
になっているのだ。
こうしていつの間にか「えげつないこと」は、本人にすっかり根付いた「性癖」になっていく。むろん、今このとき
においては、「わたしはさすがに、そこまでえげつないことまでは」と距離の遠さを感じている人がほとんどだと思
う。けれどもそれで、無縁でいられるということにはならないのだ。刺激と発奮という同じ仕組みで生きているからに
は。
えげつないことまでには転落したくないという思いがある場合、本人の意思でそれは差し止められるが、そのかわり
本当に体がセメントを詰められたように動かなくなったり、「異様に」沈んだ気持ちになったり、いわゆるうつ状態や
パニック障害の状態になったりする。それは本当に心身に対して破壊的な症状になるから、さすがにそうなるわけには
いかない。そうなるわけにはいかないので、どこかでやはり刺激と発奮の摂取のほうを強化していかざるを得ない。つ
まりいったん刺激と発奮のサイクルに入ると、サイクルを極大化させて性癖に自己を献上して生きていくか、そうでな
ければ「ふさぎこむ」しかないのだ。「ふさぎこむ」のはそれはそれで悲惨だから、それよりはじわじわと刺激と発奮
を注ぎ足していったほうがマシなのかもしれない。
強い刺激、特に、「えげつない」というところまで達したもの。そうして考えてみれば、このごろ流行するマンガ本
などは、その内容が少なからず「えげつない」ということが多くないだろうか? えげつなく、キモチワルイ、常軌を
逸している、そういったものに限ってパンデミックのように流行する。あるいはテレヴィタレントでも、ここ数年で特
に、見るからにギョッとさせられるような、異様な風貌や異様な行状をしている人がクロースアップされることが少な
からずある。マンガにせよテレヴィにせよ、消費者はおそらく「うわ、キッモ」と、そのキモチワルさをよろこびなが
ら愉しんでいるのだろう。本来でいえばキモチワルイものを愉しむというのは変なことで矛盾しているはずだが、この
場合、単に「強い刺激に発奮を得る」ということさえあればよろこんで消費されるという状態だ。その意味では、むし
ろ「キモければキモいほどいい」というような状態が起こっている。「強い刺激を」。インターネット上でも、左足が
損傷して強い腐敗臭を漂わせている人格の荒廃した男が注目の存在になったり、「性のよろこびを知りやがって」と意
味不明の妄言で絡んでくる男が注目の存在になったりした。
それらはきっとキモチワルイもののはずだが、そんなところまでを包含して、「もう強い刺激なら何でもいい」とい
う状態になっているのだ。どんなえげつないものでもいいからとにかく「刺激」を受けて発奮したい。刺激を受けて発
奮しないと、本当に心身が墜落するのだ。刺激と発奮でかろうじて運転を続けてきた心身は、来週大丈夫なのかさえ自
分自身で保証できない。
ここ数年、芸能人がスキャンダルを起こすとお定まりのように「炎上」が起こる。「炎上」にまつわって出現してく
るコメント群は、それぞれに正義をかざしているふうに装ってあるが、本質的にはそういうことではまったくなくて、
単に疫学的な「性癖」の発現としてあれらの炎上は起こっている。えげつないことをすると発奮するし、えげつないも
のを見ると発奮するのだ。少しでもこの貴重な発奮を強く多めに得ておきたい。そのことのために、少しでもえげつな
く、キモチワルく、むごたらしく、「炎上」が盛んに起こってほしいと願ってしまう。特に不倫騒動に係って「炎上」
が強く起こるのは、この場合の「性癖」が狭義の性的嗜好の成分を含んでいるからだ。
今われわれは、単なる性癖の事情で「炎上」が引き起こされて、そのことが黙認されるという、不衛生な空気の中を
生かされている。刺激を受けて各種の方向に発奮する、という、よくよく見たら「覚えやすくアヘりたいだけ」という
おぞましさの中を。刺激的ということの中で悶絶するしか知らない粘った蛋白質のかたまりだ。W先生にとっては責任
感ある医療を最前線で果たしていくのはまったく刺激的なことではないのだろう。発奮なんかしなくてもW先生は医者
だ。
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