(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
作用信仰者が言う「リアル」
昔話「桃太郎」には、何の作用もない。作用がないから信じられない。信じようとする動機もない。一方、覚醒剤を
注射するとたちまちその「作用」はあるだろう。作用があるから、やったらもうやめられなくなる。これについてノン
フィクション世界の住人は、「それがまあ、リアルなところでしょうね」と言うだろう。
この、「リアルな」という言い方がキーワードになる。ノンフィクション世界においては「作用」のあるものが信じ
られる。信じられるというよりは「リアル」と看做される。刺激には発奮作用があるので「それはリアルですよね」と
言われる。たとえば交際相手の女性が優秀で、彼女の年収が自分を上回ってしまったので、別れてしまったと男性が言
う。「いちおうおれにも男としてのメンツがあるじゃん」。その話はきっと、「それはまあ、リアルなところですよ
ね」と受け取られるだろう。ノンフィクションとは「刺激」のことを言うのだから、年収がどうこうというテーマは刺
激をもたらす。刺激は発奮作用を持つので、男の行動を変化させた。そのことが「リアル」だと、ノンフィクション世
界においては基本的に肯定される。その年収と離別の話に比べて昔話「桃太郎」に作用のないことと言ったら。「桃太
郎」には何の刺激もなく作用もないので、「有名な昔話ですけど、リアリティがなさすぎますよ」という形で否定され
る。ノンフィクション世界においては、「作用」がないものは存在していないも同然なのだ。
「信じる」という機能が消去されたノンフィクション世界においては、「信じる」ということの代わりに「作用」が
信仰される。作用が信仰される理由は、「疑いようがない」からだ。表面上はデカルトの懐疑主義に似ているが、作用
信仰は「作用があれば疑いもしない」ということなので、むろんデカルトの哲学とは異なる。作用信仰はもっと単純
だ。作用信仰が求めているのは真実などではなく「リアル」だ。作用信仰者が求めている情報は、「どんな刺激に、ど
んな作用があるんですか。そこのところだけ教えてください」ということに尽きる。「刺激と作用のことだけわかれ
ば、その他のことはぶっちゃけどうでもいいんで」。
たとえばこんな話をする。「面接に行くなら、別に使うわけじゃなくても、無駄にたくさんのお金を財布に入れてい
くほうがいいよ。バカみたいな話、財布に金が詰まっているっていうだけで、人間はどこか余裕が出るから」。本当に
そんなことあるんですか、と首をかしげられる。でも実際にやってみると、確かに財布に二十万円も入っているという
だけで、すでに街中を歩くときから余裕が出てくるものだ。タクシーを使っちゃおうかなとか、グリーン席に乗っちゃ
おうかなとか、実際にそうは消費しなくても、自由にやれるということがその人間の余裕を生み出す。
その後、実際にそのようにしてみた彼女から、「本当にそういうことってあるんですね。やってみて驚きました。お
かげで面接はうまくいきましたよ、ありがとうございます」言われる。
こういったことは作用信仰の人によろこばれる。現金というノンフィクションの刺激に、そういう「作用」があると
いうこと。そういう「作用」が、「リアルですね」とよろこばれる。「いい音楽知らないですか? 夏休みに向けて発
奮したいんですよ」。<<どんな刺激にどんな作用があるか>>を知りたがる。「どんな服着てたら、男の人に色っぽ
いって思われますか? 色気が無いって思われるのは癪なんですけど、かといってヤレそうとかも思われたくないんで
すよ。どうしたらいいでしょう」。「ジョギングとかって、やっぱりリアルにいいところがたくさんあると思うんです
よ。実際ドーパミンとか出るんですよね。発奮するにはあるていど不可欠じゃないですか」。
刺激に作用があることは間違いないし、その作用を「リアル」と呼んで欲していくというのもそのこと自体は間違い
ではない。けれどもこの作用信仰は、先にも述べたように「作用さえあれば他のことはどうでもいい」という乱暴さを
持っている。乱暴さか、さもなければ凶暴さに至ることもある。それこそ、たとえば女性をビビらせればあるていど言
いなりにできるとか、そういった刺激と作用の応用もある。「もう日本は中国に勝てないし、よほど知識ないと貧困で
確定だよ」と言う。「そうなんですか」と女性はビビる。女性をビビらせる刺激(ノンフィクション)を次々に与える
と、女性は誰か頼れる人を見つけようという発想を起こす。ビビらせることにはそういう作用がある。十分にビビらせ
てから、「おれお前のことどうしたらいいの? おれもあんまりヒマじゃないんで」と高圧的に詰め寄る。すると女は
弱気になる作用を受けているので、言いなりになるというほうへ転落する。
こういう話を男性にすると、「さすが、リアルな方法知ってますね」と言われる。作用があればリアルで、ただその
「リアル」という感触だけが肯定される状況がある。
この作用信仰が土台となって、現代の催眠文化が隆盛している。催眠には内容はないが作用はあるのだ。そして作用
信仰においては作用さえあれば「リアルですね」と肯定されるので、このことが催眠文化に取り込まれる人の素養に
なっている。「実際そういう作用があるんですから、それだけで別にいいじゃないですか?」。だからきっと、アイド
ルオタクの人はアイドルのライブを「リアルな」ものと感じていると思う。それがなぜ「リアルな」と看做されるのか
は、その作用を受けたことのない人にはわからないことだ。「人が動くのって、けっきょく内容じゃないんですよね。
何かしらの刺激なんですよ。そういう刺激を次々に作り出せる人って本当にすごいと思います。リアルですもん」。
きつい演出をほどこされたものに、これという「内容」はないことを、誰だってわかっている。誰だってそれはわ
かっているのだが、そもそも「内容」があったところでそれを「体験する」ということがピンとこないのだから、「そ
もそも内容って何よ? 定義なくない?」という捉え方にどうしてもなる。「体験」ということをたまに考えないでは
ないだろうが、その後またきつい演出の刺激を受けると、そこに「作用」が起こるものだから、どうしてもそこで
「やっぱこれがリアルっしょ」となる。「だって実際、すごく元気もらえるもの」。いいかげん、ゾッとしてこないで
すか。催眠と性癖の"作用を"むさぼり、それを「元気がもらえる」なんて、典型的な薬物依存症そのもの。
繰り返すが、「桃太郎」には何の作用もない。それで言うと、たとえば名作映画のほとんどにはこれという「作用」
はない。体験があるだけだ。疑情体質になると「体験」という機能そのものが失せるので、名作映画には根本的に用事
がなくなる。だいたい、誰だって直感的に考えるだけでもわかるとおり、モノクロフィルムの名作映画と現代のきつい
演出の何かを比べたとき、単純な「作用」が大きいのは現代の演出物のほうに決まっている。演出物の作用を「いい」
と一度でも感じたら、その後はもうほとんどモノクロフィルムになどは戻ってこられなくなる。現代は「体験」ではな
く「作用」が求められている。ジョキング中のイヤホンでバッハを聴いている人はさすがにないだろう。「ロッキー」
という映画に用事はなくても、ロッキーのテーマ音楽には用事があるかもしれない。リラクゼーションサロンでヒーリ
ング音楽が必要とされるのは作用の問題としておかしなことではないが、それは作用であって体験ではない。アロマテ
ラピーの作用や彩色の作用に詳しい人は、花畑を歩いても「体験」はないのかもしれない。
現代人は自分を「作用のかたまり」だと思っているのかもしれない。刺激に対してまるでケミカル様の反応をする
「作用のかたまり」。ここに刺激物を受けて発奮していく。そのことを怠らない。そのことを怠らないということが、
懸命な生き方だと看做されているのだろうか。
きっと現代人は、懸命に生きようとして、懸命さのために催眠と性癖の文化を摂取するのだろう。「作用から逃げる
なよ」「ありとあらゆる作用に直面して生きろよ」「リアルに生きろよ」というのが現代の懸命さでありガッツであ
り、生きることの豊かさなのだと思われているのだろう。それは「体験」がなかったら当然のことかもしれない。満員
電車でストレス刺激を受けたらその作用でイライラしたりキリキリしたり、そうやって「リアルに生きる」ということ
が肯定される。「それが生きている実感だろ」。「どうせなら楽しんで生きなきゃ損だよ」。「体験」のない人は「作
用」しかこの世界にないと思っている。
もし、自分を「作用のかたまり」なのだと看做せば、自分が精一杯生きるということは、なるべくたくさんの刺激を
受け、なるべく苛烈な刺激の只中に立ち、そこからありとあらゆる作用を引き受けていくことだ、ということになる。
「体験というのはつまり、なるべくえげつない作用でも引き受けていけ、ってことでしょ?」。そう考えると薬物依存
症で果てていく人も、精一杯生きようとした結果として薬物の作用も引き受けることにしたということなのかもしれな
い。それがリアルだと思ったから。
確かに麻薬中毒者にガタガタの歯で「リアルに生きろよ」と言われたら説得力があるが、こちらからも「体験、とい
うことにも御一考を」と申し上げるべきだろう。僕は彼のリアルより「早く」動くことができる。ストレス刺激の作用
にイライラしたりキリキリしたり、「それが生きている実感だろ」という話はよくわかるし僕はむしろストレス刺激が
好きなところがあるが(ストレスのない環境がきらいだ)、僕はその生きている実感とやらをなんだかんだ「刺激」に
頼って得たくはないのだ。刺激の作用を否定したいわけではなく、刺激の作用を「体験」で超えたい。そんなことは実
際これまでいくらでもあった。ツンツンされないと人生がないなんてお粗末すぎるだろう。
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