(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
刺激バリエーション化のための、シチュエーション博覧会
「刺激」のことをノンフィクションと呼んでいるのだと述べた。ノンフィクションとは何かという問いかけに基づく
より、「刺激がノンフィクションである」と先に述べたほうが真相の理解に早い。
一方、表面上「これはいかにもフィクションじゃない?」と言いたくなるものがいくらでも見つかる。たとえばアイ
ドルタレントのAがいたとする。このAが、赤色のアンドロイドの衣装を着せられて、「アンドロイド・紅音
#AKANE」という役をやらされたとしよう。このときアイドルタレントのAはいかにもフィクションに属してアンドロ
イド紅音を演じる、というように見える。
けれどもこれは錯覚で、ここにはやはりフィクション性および体験はない。消費者は「アンドロイド紅音役のAちゃ
んがかわいい」と言うだろうし、「Aちゃんはアンドロイド紅音で今すごく人気でがんばっている」と評価するだろ
う。引き続きノンフィクションであるアイドル業のAが社会的認知を強めていくのみ。消費者は「アンドロイド・紅
音」をイメージの機能で捉えるだけで、夢の機能で捉えはしない。
消費者は#AKANEの記号をただちにハッシュタグの類と連想して刺激を受けるだろう。電子的な光源を配されたアン
ドロイドボディの衣装は振り向きざまに水色光の描線を作り出すように機械的な工夫がほどこされており、アイドルA
は振り向くたび、その大きな瞳と共に消費者の好感を吸い上げていくように見える。
これはどういうことかというと、アイドルタレントのAが「アンドロイド・紅音#AKANE」という「シチュエーショ
ン」を与えられて展示されているにすぎないということだ。シチュエーションを与えて展示することでアイドルタレン
トAの「かわいい」という刺激はバリエーションを獲得し、新しい作用を及ぼしうるものとして消費者に訴えかけるこ
とができる。
この「刺激のバリエーション」が重要なのであって、「アンドロイド・紅音」にはやはり体験可能なフィクション世
界はない。刺激のバリエーションにすぎないのだ。むしろこのような場合の「アンドロイド・紅音」の世界は、そもそ
も体験性を持たせようとは企まれておらず、初めから刺激だけを強く持ちうるよう作られている。だからそれは色とり
どりの世界であったり、イメージが強調される世界であったり、キメゼリフが飛び交う世界であったりする。「敵対す
る悪の弁護士、黒川青磁」のキメゼリフが、「証明してやる。悪の、正義を」だったりする。さまざまな光と音との演
出が凝らされる。<<それ以上のものは入らないように、むしろ慎重に脱脂されている>>。
このときアンドロイド紅音のほうは、炊事とお掃除が好きな「天然」の、家庭的でお茶目なアンドロイドというほう
が効果的になる。「天然」でお茶目で健気に家庭的でありながら、いざというときには眼差しが切り替わって高い能力
を発揮する。そういうふう演出がほどこされると刺激バリエーションとして効果的になる。実際こうしたことは「面白
そう」と受け取られる。
これらはすべて、刺激のバリエーション化ということにすぎず、そこには体験されるべきフィクション性はない。だ
からこれを「面白そう」として楽しみにする消費者がいたとしても、彼らにとっても正直なところストーリーがどうこ
うということはさして重要ではないのだ。まるきり子供だましのようなストーリーであったとしても、そこにお好みの
刺激がバリエーションとして豊富に与えられていれば文句はないというのが本当のところだろう。むしろストーリーを
重視などして刺激のバリエーション性を下げることがあったとしたらそのほうが消費者に不評をこうむる。
これはれっきとした「刺激のバリエーション化」というひとつのジャンルであって、体験可能なフィクションの世界
を作り出そうとする営みとはそもそもの性質が異なる。「刺激のバリエーション化」というジャンルはその性質上、
次々と刺激のバリエーション化を「とっかえひっかえ」に試みていくので、その様相は必然的にシチュエーションの
「博覧会」のようになっていく。「刺激バリエーション化のための、シチュエーション博覧会」という見方は、身の回
りの事象を整理するのに有効な見方になる。
注目されるべきは、やはり引き続き「刺激はノンフィクション」ということが成り立つ点だ。アンドロイド紅音とい
うフィクションに体験を得たということではなく、アンドロイド紅音という「シチュエーション」をそのときのユニー
クなファッションとして身にまとった、やはりノンフィクションとしての「Aちゃん」が消費者に刺激を与え続けてい
る。
われわれは現代においてもなお、「桃太郎」の話を消去したわけではないし、「ドン・キホーテ」の物語や「風と共
に去りぬ」のことを忘れたわけでもない。モーツァルトやベートーヴェンは今も演奏され続けている。それらの作品は
すべて「体験性に富んでおり」「刺激に富んでいない」ということに注目されてよい。これらは体験性のフィクション
というジャンルであるから「古くなる」ということがない。夕立に轟く雷鳴が毎年聞いても「古くなる」ということが
ありえないように、ベートーヴェンが「古くなる」ということはない。
一方ノンフィクションにおいては「時代」が進んでゆくので、必然ファッション(流行)は一時的なものとなる。刺
激のバリエーション化としてのシチュエーション博覧会はファッションのものなので、そのときは大きなブームをもた
らしたとしても、時代が進行すると共に旧来のファッションは消え次のファッションに刷新される。現代は時代の進行
がやみくもに早いので、三か月前の刺激はもう「古い」となり発奮作用を認められなくなる。
ここにおいて、「新しい刺激」と「新しい体験」は、その「新しい」という言葉の意味を異にする。「新しい刺激」
とは単に鮮度を言うのであって、その鮮度はノンフィクションに属するものとしてほとんど「ニュース」に同義と捉え
てよい。われわれはニュースを見ているのだ。「新しい刺激」とはつまりニュースであればなんでもよい。現代、ほと
んどの「新作」は、新しい体験をもたらすかどうかではなく、さしあたりの「ニュース」になるかどうかが問われてい
るのだ。
われわれは実際、芸能関係のニュース等を、必要があるからではなく刺激があるからというだけの理由で摂取してい
るし、続報が待たれるニュースがあるとその続きの刺激を愉しみに待ちわびているところがある。またわれわれは、仮
に一年前の新聞に自分の知らない記事を見つけたとしても、その記事そのものをどことなくほこりをかぶった廃棄物の
ように感じるだろう。なぜならそれはもう鮮度として「新聞」の記事ではないからだ。
一方「新しい体験」とは何か。先に「▼未知をゆけ」のところでも述べたように、そもそもわれわれは既知のものを
体験しなおすことができない。体験というのは未知だからこそ獲得されるものだ。そして既知のように思えるもので
も、フィクションの早さ、つまりそれを既知として取り扱う機能よりも早く挙動すれば、それをまったく未知のものと
して体験しうるということを述べた。
たとえばわれわれにとって、四月に児童が新入生となって小学校に入学することはノンフィクションとして既知のこ
とだが、実際に入学する児童らにとってはそれは未知の体験だ。四月に児童らが入学することは、われわれにとって既
知の時候であり、何のニュースでもないし何の刺激でもない。だが実際に新しく艶光りするランドセルを背負って見慣
れない道を歩かされる新入生の児童たちはまったく震えるようにして新しい「通学路」を体験をしている。もし、ふと
そうして新しく小学校および小学生を「体験」する児童らのこころについて、フィクションの早さでこころが寄り、共
鳴する事象が起これば、そこには「新しい体験」がどのような感触のものであったが直接こころに受け取られるだろ
う。もしわれわれ自身が毎年の四月ごとに入学式を迎えるとすれば、その入学式は刺激的でありうるように毎年のバリ
エーションとシチュエーションを凝らしてほしくなるだろうが、それを新しい「体験」とする者にとってはバリエー
ションはまるで必要ない。もし「斬新な入学式」を求めている者があるとすれば、それは入学してくる児童たちではな
く毎年それをやらされている教職員の側となる。新しい体験とは何かというより、未知のものしか体験はできないのだ
から、体験されるものは常に新しいと言うほうがよい。体験を得ている者にわざとらしい斬新さは要らない。「体験」
を失った者たちだけが「鮮度」を必要としているのだ。
今われわれは生活の全域を、実に多数の刺激に包囲されている。多数の刺激は多数のバリエーションだ。多数の製品
があり、われわれはお茶のひとつを選ぶことにさえさんざん迷うことができるし、新製品が出ればそこに刺激を求める
こともできる。
次々に供給される新製品、あるいは新作は、さまざまなタイプ、キャラクター性、シチュエーションに細分化されて
おり、われわれは自分を発奮させる刺激に飽きないよう、それらのバリエーションの中を半ばジプシーのようにさまよ
うことができる。鮮度、「ニュース性があれば何でもいいだろう?」。何であれば、たとえば「生クリーム餃子」とい
うような素っ頓狂なものさえ、それがバリエーションとして新しいという強引な理由で、人々の購買意欲を惹くところ
があるのだ。刺激がほしい。奇抜なシチュエーションの、強烈な刺激でないともはや効かない。われわれの身の回りは
今、まったくそうして「刺激のバリエーション化のための、シチュエーション博覧会」という様態を示している。それ
が遊びていどに消費されることには何の罪もないが、刺激に興じるために依存症的に消費されることには終末感が漂っ
ている。
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