(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
疑情体質への転落と「奇妙な行動」
人は何かを「信じられなくなる」というショッキングな状況に直面させられたとき、これまでの自分がまったく考え
もしなかった、「奇妙な行動」に出るという性質がある。いわゆる「魔がさす」ということや、「出来心」というのも
これにあたる。このことはもっと直接に知られていてよい。
漠然と「魔がさす」ということがあるのではなく、ある特定の条件化で人は能動的に「奇妙な行動」に出るものなの
だ。この現象は本当のところは漠然としていない。漠然としてはおらず、科学的に力学の成り立っている現象だからこ
そ、これはそうと知っていてもなお抵抗するのが難しい現象だ。人はそのとき、「奇妙な行動」にどうしても押し出さ
れてしまう。
人間にとって「信じる」という機能は重大なものだ。重大な機能であり、時間軸上で第一の機能であり、しかもそれ
が「体験」および「実在」をもたらすという決定的な機能でもある。これが損傷するとき、思いがけず人は破滅的と言
いうるほどのダメージを受ける。このダメージはつまり、「これまでに信じていた何かが、決定的に信じられなくな
る」ということに起こる。「信じていたものが破壊される」というとき、人が受けるダメージは測定されないだけで実
はすさまじく深い。
これまでに信じていたものを、疑わなくてはならなくなったというとき、この「奇妙な行動」が発生するリスクが高
まる。人が覚醒剤に手を出してしまったり、その他自分を損傷してしまう行動に出てしまうのはこのときなのだ。典型
的には「彼に浮気されて落ち込んでいたとき、麻薬遊びに誘われて、つい手を出してしまった」というようなこと。
「あんなことになるなんて、自分でも思っていなかった」。あるいは「これまで信じていた友人が、裏では自分の悪口
を言っていた」等。父親がよそで不倫をしていたとか、あるいはあこがれていたタレントがスキャンダルを起こしたと
か、まともだと信じていた政府や企業がとんでもない悪行をしでかしていたことが暴露されたとか、そういうときにも
この「奇妙な行動」へのリスク上昇は起こる。人は誰しも表面上は強がっているが、そうして強がっている人ほどいち
いちの「信じる」ということの破壊に対して不慣れで頑強ではないものだ。女性が、信じていた男性から計画的に暴行
されたとか、薬を盛られたとかのときなどを典型に、この「信じていたものが破壊される」ということは強く起こる。
特に人は、これまでに信じていた人が<<話の通じないバケモノ>>だと感じられ、そのことを認めざるをえなくなった
とき、この「信じていたものが破壊される」という局面に最も強く晒される。このとき「奇妙な行動」が起こるリスク
は極度に高まる。
「いつからかおかしくなってしまった」ということが、今多くの人にあっておかしくないし、これから先は誰にとっ
ても他人事とも言いきれないだろう。どこにでもありうる、この「いつからかおかしくなってしまった」ということに
ついて、あまりにも多くのケースがどうやらこの「奇妙な行動」からの類型に当てはまる。振り返って過去のことを精
査してみると、そうした「奇妙な行動」の心当たりがあるという人は実に少なくなく、また、それを境に自分はかつて
の自分から「切断」されてしまっているということが発見されることがよくあるのだ。
この「奇妙な行動」のことについて正しく知ることは、現状の成り立ちを解明することと、そこから元々のおかしく
はなかったところへ回帰するための手続きとして有効だ。「奇妙な行動」はたいてい次のようなストーリーで起こる。
人はどのような様相で「奇妙な行動」へ押し出されていくか。
【奇妙な行動】
1.身の回りで、何かこれまでに信じていたものが決定的に破壊されるということが起こった。「もう信じちゃいけ
ないんだ」と暗澹とする絶望感があった。家族、親族、異性、友人、社会、同僚......本当に「目の前が真っ暗」にな
り、衝動的に唾を吐きたくなった。むせこみ、せきこんだ。
2.それは数ヵ月前(あるいは数日前、数年前)とてもショッキングなことであったはずだが、なぜか今になって思
い出そうとすると「笑えてくる」。「もうどうでもいいの」と言いたくなって、引きつって笑い顔に固まる。
3.「信じていたものが破壊される」ということが起こったときのこと、その直後にあった自分のことは、あまり覚
えていない。記憶が鮮明にない。意識が不明瞭だったような気がする。どこで何をどうしようとしたか覚えていない。
4.その直後なぜか、意識が不明瞭なまま、「行かなくていい場所」に行き、「しなくていいこと」をし、「手を出
さなくていいもの」に手を出している。<<それは刺激的だが文化的なものではなかった>>。そういうものになぜか踏
み出し、手を出した。これを本稿では「奇妙な行動」という。/麻薬、セックス、オタク遊び、不穏な夜遊び、暴力、
不法行為、凶悪ないじめ、度を過ぎた中傷、パワハラ、セクハラ、後ろ暗い何か、変態的な何か、自傷行為等。
5.なぜそんなことをしたのかと言われると、「どうしようもなくそうしてしまった」という不明な強制力のことを
言いたくなる。「何か、そうするしかなかったの」。「油断していたの」。「わたしの意志じゃないの」と言いたくな
る。
6.「手を出さなくていいもの」に手を出したとき、元々それは「どうせたいしたことにはならないはず」と思われ
ていた。しょせん冗談じみたことにしかならないものだと思われていた。しかしなぜか、やってみると<<強烈にハ
マった>>。「どうして......」と不安で、我ながら自分が気持ち悪くてゾッとした。
7.強烈にハマって以降、またそこに行き、それをし、それを味わうことばかりを考えるようになった。「そのこ
と」について考えると、フラッシュバックが起こり、<<頭がぼうっとして多幸感が起こる>>。フラッシュバックは刺
激のマーキングによって起こっている。多幸感によって、「そのこと」をもう自分では否定できない。それどころか、
すでに「そのこと」は自分にとって「やさしい」「真実の救済」に成り上がっている。この「真実の救済」に、<<
まっすぐ行こう、と自分は思った>>。このとき、自分自身が「これまでの自分」とバッサリ切断されている。
8.文化的ではないそれにハマっている自分について、「何か違うことをしている」と確信して恐怖するところがあ
る反面、文化的でないことにハマっていることへの優越感があり、その優越感に陶酔したくなるほうに偏る。やはりそ
のことを考えると頭がぼうっとして多幸感が起こる。これだけは「本当のもの」と救済を確信する。けっきょく、理性
が多幸感に敗北している。
9.「奇妙な行動」に踏み出してハマって以来、ある意味、精神や体調が安定した。安定して正直助かっている。し
かし、根本的に無気力にはなったとは思う。「大きなことにトライする力はもう残っていないだろう」という確信があ
るが、そのことには「それでいいじゃない」と肯定的だ。ただし冷感はある。
10.「人の話を聞かなくなった」と嘆かわしいふうに言われる。しかし嘆かわしそうに言われても、「別にいい
じゃない」と我ながら不感症になっている。虚脱感がずっとある自覚があり、その不感症と虚脱感によってなんとなく
自分は「無敵」というふうにも感じている。いつでもあの「多幸感」を思い出せば逃避できる、という安心感と習慣が
ある。多幸感はマーキングによっていつでも帰りやすくなっている。
11.声が引きつって大きくなることが増えた。笑うとけいれんして止まらないときがある。
12.イライラすることが増えた。そして以前とは違い、そのイライラを割と率直に人にぶつけるようになった。
13.趣味が変わった。かつて好きだったものへの感受性は消え、以前は否定的だった刺激的なものを素直に楽しむ
ようになった。「いろんな趣味があっていいじゃない」と強く思うようになった。ただし冷感はある。
14.かつて好きだったものへは、むしろ否定的な感情と攻撃の衝動を覚えるようになった。理由は不明。
15.体臭がくさくなった。人間らしい香りがなくなり、皮膚から乾燥した臭いがするようになった。部屋がくさく
なり、全体の清潔感が下がった。
16.人を肩書で捉えるようになった。
17.人にナメられることに強烈な不快感を覚えるようになった。肩書以外のところではイーブンに扱われないと
「絶対に許さない」という感情を持つようになった。
18.昨日、今日、明日、という感覚がなくなった。刹那的な感覚しか持てなくなり、昨日からの話を覚えていられ
なくなり、明日への話を考えられなくなった。ふとしたことで感情がひどく激しやすくなり、その激した感情は数分と
またず消えていくということが起こるようになった。
19.「奇妙な行動」で手を出したものは、薬物か、催眠か、性癖のいずれか。
20.こころの奥底に「たすけて」という声がずっとある。しかし冷感がずっと優越している。
これはつまり、ジョハン・ハリがレポートしたところの「依存症」の端緒を示している。人が「奇妙な行動」に押し
出されて、手を出さなくていいものに手を出したとき、まさかそれが依存症の端緒だとは考えようがないし、気づいた
ときにはすでに依存症はすっかり出来上がっている。抵抗するタイミングがほとんどないのだ。
だがあまりに多くの人が、「どうしようもなくそうしてしまった」と言いすぎる......「何か、そうするしかなかった
の」「油断していたの」「わたしの意志じゃないの」と、本当に決まりきまってこれを言う。くどくどしくなるが、
「本当にそう言うよ」ということを強調しておきたい。誰も彼も、本当に同じことを言う。
だからこの現象は漠然と起こるのではない。「信じていたものが破壊される」ということから「奇妙な行動」へは、
力学的な必然性でつながっている。それを「奇妙な行動」とピックアップして捉えることは、きわめて有意義な方法だ
と僕は経験的に思うのだ。前もってこう述べておきたい。<<「奇妙な行動」は、あなたのカミサマなどではない!
>>。あなたに憑りついたものが、あなたをラクにし、あなたに多幸感を刻んだ(マーキングした)としても、あなた
に憑りついたものは決してあなたのカミサマではない。
僕の経験から、ひとつおそろしい話をしておこう。ある知人が、精神的に追い詰められて、いわゆるDVとして自分
の交際相手の女を怒鳴りつけ、殴ったことがあった。ふだん彼は温厚な男で、暴力的な男ではまったくなかったのだ
が、彼は後日そのときのことについてこう述懐した。この話はこのくだりだけ実際の事例で、後半に続く話は創作だと
先に言っておく。
DVとして交際相手を怒鳴りつけ、殴りつけたことについて、
「あのときはね、確かに本当のものがあったんだ。思いっきり怒鳴りつけて、思いっきり殴りつけているとき、ああ
おれは『本当のこと』をしている、って、そのときだけは確実な実感があったんだ。なぜあそこまでしたのかな? そ
んなつもりはなかったのに。なぜあそこまでやったのか自分でもわからないのだけど(奇妙な行動)、何かどうしよう
もないものに突き動かされて、ああなったんだよ。ちょっとおおげさに言えば、それは何か『大いなるもの』が降りて
きてさ、それに動かされたって言うか。あのときのあれだけは『本当のこと』だったって、断言できるんだよなあ」
彼はまるで、人間の生きることの真実に触れたかというような、遠い目をしてうっとりと、そのことを語ったのだ。
激高して自分の身内を殴りつけた、しかも女性を殴りつけたというだけの、ただそれだけのことを。
まるで言外に、
(あのときのあれを、もう一度味わいたい。おれだけが知っている、あの「本当のこと」をな)
と言わんばかりに、彼は優越して多幸感を思い出していた......
依存症というのは、こうしてどうしようもない形で起こる。激高して身内の女性を殴るようなことが「本当のこと」
などであるわけがない。けれども彼は、そこで「強い刺激」を受けてしまった。本来は慈しむべき身内をブン殴ればそ
りゃあ「刺激」は強いだろう。<<刺激は覚えやすい>>という性質があり、彼の意識に多幸感の記憶を残し続ける。強
い刺激と多幸感が「刻み込まれている」のだ。まったく文化的でない、単に刺激的だというだけのそれが、「マーキン
グされた」というだけの単純な理由で、彼を恍惚的に支配してしまう。薬物中毒者がドラッグに「神」を誤解するのと
まったく同じ仕組みで、人はその多幸感(の作用)を「神秘的救済」とどうしても思ってしまう。
精神的に追い詰められ、疑情のオリに閉じ込められていた彼にとって、疑いようのない「強い刺激」が圧倒的に流入
してくることは、これまでになかった劇的なことだったろう。そのときにはすさまじい発奮が得られたに違いない。彼
にはそれがまったくの「本当のこと」としか思えなかった。強烈な刺激が流入し、すさまじい発奮に駆られた彼は、ま
るで自分がオリから解放されて飛翔したように錯覚しただろう。彼はそれを人生の「体験」だと誤解し、そのとき以来
頭の中でぐるぐると、「あのとき以上の刺激と発奮を」ということを夢想せずにはいられなくなっていく。「あのとき
のあの興奮と解放感は、『神』だったんじゃないか?」。
「ああやって、ブン殴りながら女とセックスしたら、たぶんすっごい気持ちいいし、ものすごく射精するんだろう
ね。やっぱり男だからさ、本能的に」
こうして彼は性癖交合者になる。性癖に多幸感を空想する。彼はそういうヴィデオテープを探すようになるだろう
し、そういうふうに描かれたマンガ本を探すようになる(探索行為という)。いつのまにか自覚なしにそれを探索しつ
づけることが常態化している。見つけ出した「これは」という性癖コンテンツで彼は自慰をし、そういうプレイを疑似
的に楽しめる性風俗サービスを受けにもいく。このとき彼は、自分自身を「このごろ充実している」と感じている。
「いろいろ捗っている」と言う場合もある。
そのときは単に、「そういう性癖なんだもん」と彼は笑っていられる。けれどもあっというまに、彼はその性癖に準
じてでしか交合できなくなる。単純に言って不能(インポテンツ)になる。男性は勃起しなくなるし、女性は濡れなく
なる。女性は脚が開かなくなり、どうしても「痛い」という状態になる。この具体的な不能は性的なプライドからも彼
を追い詰める。
彼は性癖交合者として、「自分が激高し、暴力的に女性を屈服させる」というシチュエーションの刺激でのみ下半身
を「発奮」させる者になっている。それでしかゾクゾクしない。その他の類似バリエーションはあるかもしれないが、
それにしても「刺激を受けて発奮する」という仕組みでしか彼は交合できない。彼は性愛交合者ではない。彼は、セッ
クスとは「ゾクゾクするもの」と思い込んでいる。かつては「女」「バスト」「ヴァギナ」「射精」「妊娠」という
フェティッシュな刺激だけで発奮できたかもしれないが、彼はすでにもっと強度の刺激を受けてきたので、耐性がつい
ており、一般的な「エロい」ということではすでに発奮の作用を得られなくなっている。
「セックスの仕方が違うと思うんだ。男と女って、本当のことはもっとこう、激しいところあるでしょ」
そこから最悪の場合、彼は、立場の弱い女を見つけて酒を飲ませ、友人と結託してその女を遠く山の中へ連れていっ
てしまうということをする。彼はそういう性癖の者だし、また追い詰められている性的なプライドを恢復したいという
衝動も彼の内で強迫的にある。立場の弱い女性と「盛り上がっている」ふりをして車に連れ込む。犯罪行為に「ヤバ
い」と感じるが、「ここで怯んでいてどうするんだ」と彼は自分に催眠をかける。催眠をかけると作用があるので彼は
それを「リアルだ」と感じる。これから行う暴力の行為ともども「リアルだ」と感じることは彼をかけがえなく発奮さ
せる。そしてあくまで合意の上というていをウソっぱちに保たせながら、ほとんど完全な暴力によって彼はその女を犯
してしまう。女はようやく状況を完全に理解して恐怖と諦めを同時にする。彼は激高して腰を振り、女を怯えさせる咆
哮をあげる。女の泣き声ともども、その声はひとけのない夜の山で誰にも聞きとがめられない。彼は、「せっかくここ
までしたんだ」、暴力的なノンフィクションにアヘアヘになりきりたい。彼は自分がどこまで発狂できるかを試したが
る。「ほら中に出すぞ。妊娠しろ、妊娠しろオラァ!」。
後日彼は、部屋でベッドにうずくまりながら、自分のしでかした凶行に震えている。夜が怖い。「夜がこんなに怖い
ものだったとは」。心臓の悪寒が尋常でない。彼は、少しは良心の呵責について覚えなくもないが、それは微々たるも
ので、それ以上に警察から追及がある可能性や、自分自身に巣食っている黒々とした「闇」のようなものに怯えてい
る。「きつい、本当に吐きそうだ」。「もし警察にチクられたら、会社もクビになって、親にもバレるのだろうか」。
何もかもが今から破滅するのではないだろうかという予感に怯えている。彼にはけっきょく自己愛しかなく、性癖に暴
走した自己愛は彼の胴体の内部に巣食ってこのとき肥大しきっている。
うずくまりながら、
(あれは本当にヤバかった)
と追想する。しかし同時に、強い多幸感がある。
(でも最高だった。あんなこと、もう二度とできない。おれは本当のことをしたな。でもあんなこともう二度とやめ
ておこう)
やめておこう、とこのときはまだ思える。
(はは、おれ意外と、行動力あるタイプなんだな。自分でも思ってもみなかった。やるときゃやるんじゃんおれ)
彼はすでに性愛交合という「体験」からは遥かに遠く離れており、そのような「体験」などというものがあるとは
とっくに信じられなくなっている。彼は性癖と性愛を混同しているので、一般的な人よりも自分は性愛のことに通じて
いると思い込み始める。「普通のセックスなんてもう飽きたよ」。「本当のセックスを一回覚えちゃうと病みつきに
なってもう絶対に忘れられないよ」。「言っとくけどさ、けっきょく女のほうもそれで満足するんだよ?」。「あー、
もっとめちゃくちゃなことやりたい」。彼はやみつきになった多幸感への空想を、「夢がある」と誤解している。
こうして彼が「性癖」の刺激と多幸感に囚われて依存症になってしまうと、もともとの交際相手との関係は破綻して
終局となる。年齢が若いうちは特にそうだ。交際相手だけでなく、交友関係の全般が切り替わってしまうだろう。彼は
いつのまにか、かつての自分から切断され、今は彼の言う「本当のこと」についてわかりあえる人だけを友人と感じる
ようになっている。
彼は「いつからかおかしくなってしまった」。その端緒はやはり「奇妙な行動」にある。激高して交際相手を殴りつ
けたという奇妙な行動。しかもそれは、「なぜそこまでしたのか自分でもわからない」、意識の不明瞭な行動だったと
いう。彼はしなくていいことをし、手を出さなくていいことに手を出した。初めはもっと、冗談じみたことにしかなら
ないと思って手を出した。けれども実際にしてみると<<強烈にハマった>>。強烈にハマったそれは、とたんに「真実
の救済」のように思えた。彼はそのことに<<まっすぐ行こう>>と思った。彼が「真実の救済」と信じたそれは、強烈
に刺激的だったというだけで、よくよく見ると何ら文化的なものではなかったのだが、そのときすでに彼にはそんなこ
とに気づくような理性の能力は残されていない。
言ってしまえば、このとき彼にとって、強い刺激さえあれば何でもよかったのだ。精神的に追い詰められて、目の前
がまっくらになっていたあのとき、疑いようのない強い刺激が得られたら何でもよかった。性癖でも催眠でも薬物で
も。何でも「真実の救済」になりえた。たまたまそのときの吐き出し口が、女への暴力としてあっただけだ。女に暴力
をふるい、そこで<<暗闇に反比例する膨大な多幸感>>を得た彼は、たまたま拾ったその「強い刺激」を後生大事に
「真実の救済」と言い張って抱えていく羽目になった。強い刺激と発奮に向けて探索行為を続けていく彼は、その後何
十年に亘って「体験」を失った時間を過ごしていき、際限なく「性癖」を深刻化させていく。彼自身は「あのときのあ
れが、おれに人生をくれた」と思っている。
ここで、「性癖」ということについて、特に次の注意点を言っておきたい。いくつかの状況証拠から、「性癖」のこ
とは今、特に若年層にとって水面下で深刻な問題になりつつあるのではないかと考えられる。
「性癖」のことは、冗談のうちは人に話せるが、本当に根を張ってしまったときには途端に人に話しにくくなるもの
だ。そこには屈辱や恥やおぞましさもつきまとうからには。まして、そういったことを相談できるだけ親しく頼れる人
にほど、このことだけは「絶対に言いたくない」というカテゴリになってしまう。特に、わけのわからないことでそう
いう性癖を「植えつけられた」というような場合には、それが恥辱でおぞましすぎて人にはなかなか話せなくなり、い
つまでも自分一人で抱え込んでしまうことになりかねない。
・キモチワルイからこそ性癖になる、おぞましいからこそ性癖になる
・根がマジメな人ほど性癖に転落する
・性癖が「植えつけられた」場合、それを植えつけられたことに強烈な「恥辱」の感覚が残る
性愛において互いが互いをうつくしいと感じ、胴体(こころ)を向け合って愛し合うとき、そこには何のキモチワル
さもない。キモチワルさがないため、そこには性癖が発生しない。性癖が媒介もしない。
一方、現代で言われる「性癖」、つまりセックスへのhentai的嗜好は、どれを検索しても明らかにわかることだが、
まずそれは「キモチワルイ」からこそ「性癖」になりうると言える。キモチワルくなければそれは性愛であって性癖で
はない。<<性癖は、キモチワルイからこそ性癖になる>>。このことは、単純かつ有為で理性的な知識になる。性癖は
必ず重度のキモチワルサの方向へ進んでいく。
キモチワルイものは、そのキモチワルさにおいて強い刺激を持つ。この「キモチワルさ」は、或る種の「異物感」と
いう刺激を持つのが特徴だ。ムカデやゲジゲジのような虫が不意に部屋に現れたら、その異物感において
「ギャーッ!」とキモチワルイように、キモチワルさの強い刺激はその生々しい「異物感」を特徴として得られる。
この生々しい「異物感」、キモチワルイという強い刺激が、記憶にマーキングされ、そのときの性的な刺激と混淆す
る。これによって、キモチワルイものに性的な発奮が起こる――アヘアヘする――という混乱した学習が具体的な性器
のレベルに刻まれるのだ。これが性癖と呼ばれる現象になる。マーキングに発奮が結びつけられるので、以降、マーキ
ングに準じない性交には性器が発奮せず、具体的に性交が不能になる。
このことはつまり、自分の性機能が故障させられたわけだから、単純に大切な高級車を当て逃げされたときのように
腹が立つ事件になる。またそうして故障させられた高級車でこの先も走り回らねばならないとなればそのことは耐えが
たい恥辱に感じられるだろう。だから人はこのことを認めたがらないし、話したがらない。親しい人に向けては特に話
したがらない。
この「性癖」の現象は、根がマジメな人にこそ起こりやすい。根がマジメな人は、基本的に人々のうつくしさを信じ
て生きていて、キモチワルイ「異物」を見慣れておらず、免疫がないからだ。根がマジメな人ほど、その「キモチワル
イ」は特大の異物感として受け取られ、特大の刺激としてマーキングされる。
典型的に、これまで清潔感のあった人が急にやさぐれて、目の光や眼差しを失っていたり、これまで清新の意欲を
持っていた人が急に意欲を失っていたり、これまでにその人にあった真っ白な安心感が消え去っていたりするときに
は、背後にこの性癖交合の事件が潜んでいることが実に多い。「いつからかおかしくなってしまった」――独特の
「おっかない」気配がある人になってしまった――ということの実に多くの割合に、この性癖交合の事件が端緒として
関わっている。
「いつからかおかしくなってしまった」ということについて、過去を点検する。その中に、「奇妙な行動」はなかっ
たか? ということをあぶりだす。このやり方は、「いつからかおかしくなってしまった」と疑われる自分や誰かにつ
いて、軌道修正を導き出すのに実に有効な手法になる。
「奇妙な行動」において手を出すものは、「薬物、催眠、性癖」のいずれかであり、どれも「文化的でない」という
特徴がある。本稿では、薬物のことはさすがにお門違いなので捨象したい。そして当然ながら、「強い刺激」があるこ
とが要件になる。「強い刺激」があるということは、社会的・生理的等のノンフィクション成分が含まれるということ
でもある。「売り上げ一億円達成アイドル」という肩書の女にウインクされることは、単なる女にウインクされること
と刺激が異なる。たとえ同一人物であったとしても。現役の女子高生と寝ることと、すでに卒業済みの十八歳と寝るこ
とは、社会的ノンフィクションにおいて刺激が違う。たとえ同一人物であったとしても。活躍から新聞に載っている男
性と寝ることと、愛犬家の男性と寝ることは刺激が異なる。たとえ同一人物であったとしても。
そもそも、どこで疑情体質へと転落するか。信じていたものが破壊されるというショッキングな体験がどこかであっ
た。暗澹とし、目の前が本当に「真っ暗」になる。先の男の例を注目してほしいが、彼はもともとDVに至る以前、
「精神的に追い詰められて」という状態にあった。けれども、性癖を「真実の救済」と錯覚してから以降、その「精神
的に追い詰められて」ということが消えてしまっている。あの窮状の苦しみはどこへ消え去ったのか?
誰でも察しがつくとおり、これはそもそも「信じていたものが破壊される」というショックに耐え切れず、そのこと
が「到底」受け止められなかったがゆえに、一種の放心状態に陥って、逃避としての暴走行為に押し出されているとい
うことだ。それが「奇妙な行動」の正体になる。ほとんど気絶するような具合で、抵抗のしようがなく押し出される。
それぐらい、人間にとって「信じていたものが破壊される」ということはつらく、耐えきれないものだ。
「信じていたものが破壊される」という事実をまざまざと見せつけられるよりは、放心状態になって何もかもをメ
チャクチャにし、それを体験「しない」ようにしたい。「信じていたものが破壊される」ということを、<<体験でき
ない>>ようにしたいのだ。人間は、自分が催眠状態になったり性癖の虜になったりしているとき、物事を体験できな
くなることを本能的に知っている。それで、強い催眠や性癖の虜囚になることを自ら選びに行く。自ら「行かなくてい
い場所」に行き、「しなくていいこと」をし、「手を出さなくていいこと」に手を出す。ほとんど偶然に向けて強制的
に押し出されたように思えるすべてのことは、実際にはことごとく恣意的なものだ。自ら――やむをえず――選んでい
る。そこに麻薬があれば麻薬でもよかったし、麻薬がなければ麻薬でなくてもよかったのだ。強い刺激を得られたら何
でもいい。何か強い刺激を得て、強い発奮に駆られ、それによって今苦しんでいる「体験」から剥離できてしまうのな
ら何でもいい。たとえそれが一時しのぎのものにすぎなくてもかまわないし、それが多大なコストやリスクを伴うもの
であってもいっそのことかまわない。誰かこの「体験する」という機能を破壊してくれ。「転落」ということがその破
壊をもたらしてくれるのなら、今このとき手に入る最も深い転落をくれ。それぐらい、人間にとって「信じていたもの
が破壊される」ということはつらく体験に耐えきれないことだ。
人間にとって、「信じていたものが破壊される」ということは、自己の実在を全否定されるに等しい。そのことが最
もプリミティブに起こる代表例は、それまで信じていたカミサマを破壊されることだろう。無神論者はカミサマを権力
者のツールでしかないと言い張る。最も反論しにくいノンフィクションに依拠して刺激的に主張する。その説得力ある
無神論はつまり、「おばあちゃんが連れて行ってくれた七五三を、全部ウソっぱちだったと認めろ」と要請しているこ
とになる。そして、「自分は願望と欲求の勝ち負けゲームをして死んでいくだけのじゅくじゅくの肉塊であることを認
めろ」と要請していることにもなる。これが自己の実在の全否定でなくて何であろう。これらのことを語るのに「怒り
の日」という程度のタイトルを冠したくなるのは、何も僕だけのことではないはずだ。人それぞれ、信じていたものが
破壊されるということは、どれほどつらく、切なく、取り返しのつかないことだったろう。「わたしの人生は何なの」
と、最も暗い淵に錘りをつけて沈められる。
しかし、今さらセンチメンタルになることには何の利益もなく、このことは科学的に有為な方法論として取り入れら
れなくてはならない。いちいち、つらがっていてどうする。
「信じていたものが破壊される」ということがあり、自己を全否定されるようなそのつらさは人を「奇妙な行動」に
押し出す。押し出した先は必ず刺激的だが「文化的でない」もので、このことはわざと崖に押し出されるような「転
落」と呼んで差し支えない。若年層はこのことを冗談めかして映画になぞらえた言い方で「ダークサイドに転落する」
と言いたがるかもしれない。だがそれにしたって、冗談めかす工夫でもしないと本当のところはつらすぎて受け止めき
れないということなのだろう。
▼「信じていたものが破壊される」ことの、主な種類
・家族、友人、恋人が、実は「話の通じないバケモノ」だったと認めざるをえなくなった。
・自分の選んできた人生に「取り返しがつかない」と認めざるをえなくなった
・社会が「闇」に満ちていて、除染不可能なほど汚染されきっていると認めざるをえなくなった。
・自分がこれまで「愉しみ」にしていたものが、安づくりされたいかがわしい商品だったと認めざるをえなくなっ
た。
・学校や職場、あるいはクラブやサークルが、趣味や生活を「工面」するためだけのものでしかないと認めざるをえ
なくなった。
・色んなものが「おぞましい」という、直接の悪寒を認めざるをえなくなった。
・かつての夢や未来が「もうない」と認めざるをえなくなった。
・自分の数十年間の「過去」が軽薄で無価値だったと認めざるをえなくなった。
・学問や芸術、あるいは人間関係やそのよろこびが「わからないし、できない」と認めざるをえなくなった。
・自分の営む交友や、男女交際や、セックスに、「意味がない」と認めざるをえなくなった。
・努力させられることは「地獄」だと認めざるをえなくなった。
・自分がすでに老いており、あとは死ぬまで何十年も「することがない」と認めざるをえなくなった。
・「真に愛したことがないし、愛されたこともない」と認めざるをえなくなった。
・友人、仕事、結婚、有意義な生活、これまで「人並み」と思っていたすべてのものが、もう手に入らないと認めざ
るをえなくなった。
▼「奇妙な行動」の、主な種類
・不穏な性癖交合
・フェティッシュな交合、物体的なオーガズム
・不穏な夜遊び、リスクのある場所への出入り、薬物への関心
・家族、友人、恋人の廃棄
・アルバム等、思い出の廃棄
・愛すべき人への衝動的な侮辱、衝動的な嘲弄
・愛すべき人への衝動的な暴力
・インターネット上への悪質な書き込み
・他人の不幸や凋落への冒涜
・アルコールの暴飲
・暴食、特に食感や刺激の強い食品の偏食
・過度の中傷、悪口、讒謗
・人を傷つけ嘲弄する悪だくみ
・いじめ、パワハラ、セクハラ、職権や立場を濫用した迫害行為
・悪趣味への没頭
・悪趣味:奇抜なアイドル、耽美的なアニメ、残酷なマンガ、催眠様の音楽、見世物にされている同性愛、逸脱した
性描写、グロテスク映像、拷問や処刑、大量虐殺や連続殺人犯、幻想的かつ性的に誇張された童女
・自暴自棄な性風俗業やホステス業への就労
・筋肉をひたすらヒートさせるような運動やトレーニング
・遊びでなく興じるためのギャンブル
・株、FX等のトレーディング
・マルチ商法
・実益にきつく焦点をおいた婚活
・殺伐とした功利主義への傾倒、いきりたった主張
・カルト宗教への見学、参加
・タトゥー
・自傷行為や危険な道路への飛び出し
・人を傷つけるいたずらや不法行為
・刺激的でかつ文化的でないすべてのこと
それぞれの主な種類、ということで列挙しているが、これは典型例を示しているだけで、実際のケースはその他にも
無数にある。ここで重要なのはその種類ではなく、あくまで「奇妙な行動」がどのような仕組みで起こってくるかにつ
いてだ。「信じていたものが破壊される」ということは、それが一見どのように小さく見えたとしても、それぞれに無
視できないダメージをもたらす。われわれはそれに耐えうるだけ強くならねばならないが、耐えるということならそれ
以前に、そうしたダメージの中を戦ってゆかねばならないということを前もって教えられている必要がある。
人は実にささいなことでもダメージを受ける。たとえば高級品を安く売ってもらえたと信じたら、真相はまったくそ
の逆だったというようなこと。低級品を割高に売りつけられた。「じゃあ、あの人の好さそうに見えた老人は、実はア
コギなほどの商売人だったんだ」ということになる。このようなことでも、「信じていたものが破壊される」というこ
とは起こっている。それは単純な「社会勉強」とも言われるが、その一般論はよしとしても、しかしあまりにも社会の
全体がこうしたアコギさに満ちているようであれば、「じゃあそもそも社会なんかと関わりたくない」と言いだされて
しまえば励ましようがなくなり、窮するのは大人ぶった者の側になる。また、そうしたアコギな社会が全体に栄光と言
いうるほどの富を築いているのならまだしも、日本の社会全体は単体としても国際としても今は勝利の側に属している
とは到底言えない。アコギな上に貧しいのでは、それはつまり無能なカネの亡者にすぎず、厚かましくも訴求力を主張
する権利はなくなるはずだ。「社会勉強だと言われれば、そのとおり学びますけど、これを肯定されたら、もう何もか
もを疑うことになりますよ? もう何ひとつ信じるなってことですか?」と言われたとき、われわれはすっかりお茶を
濁す準備へ遁走している。
ある大学生が、「飲み会のときはものすごく楽しいんですが、終わって帰って一人になるとものすごく寂しいんで
す」と言った。「どれぐらいさびしい感じ?」と僕が訊くと、「なんかちょっと、耐えられないぐらい」と彼は切実そ
うに言った。僕には、大騒ぎしている彼ら大学生の集団が、いくら陽気に大騒ぎといっても内容のなさすぎる「刺激の
やりあい」を交わしているのではないかと推測する。飲み会の最中は催眠状態になっているから楽しいし暴れるのだろ
うが、帰宅して一人になれば催眠が解けて離脱症状がドッとくるだろう。本来はやはりそのようであるべきではない。
けっきょく疑情体質で、人のことや大学のことや今まさにあるはずの「大学生時代」のことが信じられないのであれ
ば、そこにはやはり友人や青春という体験のものは残らない。彼は夢をもって大学に入ったはずだった。大学生活は
きっとかけがえのないものになるだろうと胸を膨らませて彼は大学に入ってきた。それは各企業の新入社員だってそう
かもしれない。きついことやしんどいこと、ままならないこともいくらでもあるだろうけれど、その時代ごとの「体
験」が自分の実在として与えられてくれますようにと、そのことを信じて誰もが進んできたはずだった。「大学ってこ
ういうもんなんですかね? なにか、こういうもんだとは思っていなかったんですよ」と彼は言う。彼はすでに、「信
じていたものが破壊される」ということの手前にまで追い詰められている。彼がこの先、何かのタイミングで、誰かに
悪趣味やアウトローのことに誘われたらそのときは危ない。「信じていたものが破壊される」というとき、人は文化的
でないことへ「奇妙な行動」として押し出されてしまう。
人はたくましく生きていかねばならないし、その中でノンフィクションの刺激を受けて発奮することは、適度な範囲
であれば何も悪いことではないし、いくらかは催眠や性癖のことで遊ぶことも愉しみだ。けれどもそれらは、オリの中
でやってはいけない。刺激、発奮、催眠、性癖というような遊びは、「体験」が質実剛健の豊かさで得られていると
き、すこし「体験」を休ませるものとして、あくまで息抜きにやるものだ。信じているものが破壊され、「体験」が機
能ごと否定され失われようとしているときに摂取してよいものではない。
「奇妙な行動」を警戒せよ。われわれは刺激と発奮に遊んでよいし、催眠と性癖に遊んでいい――興じているふりを
していい――が、それらはなるべく最小限に留めるべきで、興じるふりをする中にも裏側ではすべてに先立つ「信じ
る」「体験する」の機能がしたたかに継続されているべきなのだ。
←前へ
次へ→