(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの
あなたは第一の機能を使わずにノンフィクションで活躍できるだろうか?
女性は特に防犯意識をもってほしい。現代の実生活の上で、「信じる」などということはリスクしかないたわごと
だ。多くのよからぬ人たちが、あなたの身体を狙い、あなたの金銭を狙っている。戸締りは重要だし、窓に防犯機能の
格子やアラームを設置しているだけで泥棒はあなたの家を敬遠する。先進的な防犯意識はこれから先に必須なのだ。か
といっていちいち怖い顔をしている必要はないが。
現在のところは、一定の治安は守られているから、あなたがそれなりに警戒心をもって防犯意識を保ち、リスクのあ
る行動を重ねないかぎりは、よほどの不運を除いてはあなたに凶事は訪れないだろう。そうして凶事だけ遠ざけておけ
ればいい。あなたの実生活はありふれているかもしれないが、それが貧しいとか虚しいとかいうことでは決してない。
もっと不遇な暮らしをさせられている人はいくらでもいよう。凶事なく暮らせているということはそれだけで誰にとっ
ても豊かなことだ。
ノンフィクションのことに向けて、健全に向上してゆければいい。たくさん勉強したらよいし、大きな仕事に就く努
力をしたらいいし、自分で気に入れるようになるまで身体を鍛えたらいい。ただし、そのことにやけくそのようなモチ
ベーションまでは探さなくていい。何一つ、トチ狂ってまでやるようなことはこの世界にはない。ゲーテの言う、「星
のように急がず、しかし休まず」という言葉がある。まったくそのように努力して進んでゆければいい。ノンフィク
ションに刺激を受けて、発奮するということがあってもいいけれど、使わなくて済む場合は、発奮ということを頼らな
いことだ。発奮なんかしなくても努力していけるというなら、そのままでいるのが一番いい。
世の中のすべては、まったく何も問題がないように見える。そりゃあニュースを見るぶんにはいろいろな破綻がある
ようだけれど、実際に自分が歩く街中や、学校や職場や家の中のことは、健全で明るくて、何も悲惨な問題はないよう
に見える。それはまったくそのとおり。何の問題もないのだから、当たり前のことをごく当たり前にやっていったらい
い。友人とお茶することや、終電近くまでお酒を飲んだりすることはとても楽しいことだ。それを友人と呼んではいけ
ないなどという強情なルールはこの世界にない。メディアに報道されるえげつないニュースや、インターネット上で主
張される不気味な噂話などに引きずりまわされるぐらいなら、友人と遊びにいく機会が増えるほうがよっぽど健全であ
なたの足しになるだろう。
その中で、素敵な人に出会い、素敵な場所を見つけ、素敵な時間を過ごし、ますます素敵なあなたになっていけたら
いい。ただ、あんまり油断はしないで、「自分より勇敢な努力をしている人はいくらでもいるはずだ」ということを常
に忘れず、自分の感情より自分の怠慢が行きすぎることのほうに気をつけるのがいいのじゃないか。
ときには映画を観たらいいし、ときには本を読んだらいい。盛り上がるように作られた映画なら盛り上がればいい
し、丁寧に書かれた本ならその本に書かれていることを読み取れるようになるまで気長に繰り返して読んだらいい。
「読書百遍、意自ら通ず」という言葉がある。何度も読んでいるうちにわかってくることがあるし、何度も読むことで
しかわからないことがたくさんある。何十回も観た、という映画が自分のこころの中にあるのはとてもいいことだ。
自分の観た映画や読んだ本について、批評をしたりウンチクをもったり、意見を持って議論をしたりは、ちゃんとし
た機会を除いては、なるべくしないことだ。批評や意見を持ち、議論をすることは、わかりやすくて一見価値のあるこ
とに見えるけれど、実はたいした滋養をもたらさない。なぜなら人は自分の大切なものについては議論をしないから
だ。自分の家の猫について、それがかわいいかどうかを議論しようとする人はいない。大切なものというのは、自分に
とってその手触りさえあればいいのというものだから。人はむしろ、どうでもいいことのほうに意見を持ち、批評をし
て議論をする。だから批評や意見のくせがついてしまうと、自分にとって大切でないものばかりを増やすようになって
しまう。さんざん口角に泡をためたあげく、大切なものは特になかったというのでは物悲しいだろう。
誰だってセックスは苦手分野だ。だからあまり、そのことは不安に思わなくていい。セックスは、若いうちは衝動が
強くて、また激しいコンプレックスの源にもなるものだから、誰だってどこか必死で、誰だって強い関心を持つもの
だ。だからといって、実際にセックスを得意分野にしている人はほとんどいない。得意ぶっている人は、たいてい経験
が浅薄で誤解しているだけだ。
それが得意という人はほとんどないし、かつて得意だった人も、今は苦手になってしまったという人がこの時代には
いくらでもいる。セックスは、誰もが強い関心を持つテーマだけれど、でもしょせんそれだけのことだ。本当に必須で
不可欠で、自分の生きることを定義する、というわけじゃない。なくたってぜんぜんやっていける。お互いに気張って
無理をするよりは、お互いに「苦手分野だけど、がんばるね」と言いあえるほうがよっぽどやさしくて親しい。たとえ
ば勉強が苦手分野の人だって、勉強がしたいと思えば勉強をすればいいだろう。だけどたいてい、勉強を苦手にしてい
る人は、ありもしないプレッシャーやストレスやコンプレックスを自分で作り出してしまって、それに「キーッ」と
なって自分でクラッシュしてしまう。そういうことと同じで、セックスだって、苦手分野でもしてみたいという人はし
てみたらいいし、そこに何もプレッシャーやストレスやコンプレックスを作り出さなくていい。うまくいかなかったと
しても、それはたいしたことではないのだから。セックスに慣れているような人でも、本当に「裸で異性を愛する」な
んてことがへっちゃらでできるわけがない。だからそれが「得意」なんて人はたいていがうそっぱちだ。
どんなときでも、「自分」に過大な願望を背負わせなければ、そうキリキリしたりすることはないし、そう悲惨とい
うことはない。そのことのためにも、凶事だけは遠ざけておこう。防犯意識をしっかりもって、いろんなことについて
「こうしたほうが運がよくなりそう」という考え方をもっておこう。たとえば「あけましておめでとう」や「メリーク
リスマス」、「誕生日おめでとう」のメールぐらいは、送っておいたほうが運がよくなる。あいさつだって明るい声で
したほうが運がよくなる。戸締りをしっかりして、部屋を清潔にして、返信していなかったメールに返信して。そうし
たほうが運がよくなる。
「やることがない」ということに焦らないで。そんなことは、生きていたらいくらでもある。やることがない、とい
う時間は実はとてもぜいたくな時間だ。何をしたっていいし、何もしなくてもいいのだから。そこであまり、「有意義
なこと」をしゃかりきに探し回らないで。誰だって、本当には何が有意義なのかわからないのだから、焦って有意義な
ことを探すと、たいていそれはわかりやすいだけの、功利的であまりかわいくないものになってしまう。誰だって知っ
ているように、有意義なことだけに時間を費やしてきた人より、ときには無意味なことに没頭して何かに到達した、と
いう笑い話を持っている人のほうがぐっと素敵なものだ。人間は、サボるのはよくないけれど、焦るのはもっとよくな
い。いざというときサボれる人は強いけれど、焦ってしまう人は弱い。その弱さに、けっきょく足をすくわれてしまう
ことがよくある。人間は、焦らない人、というだけでも十分魅力的になれる。
いろんなことが、できたりできなかったりする......と言いたいところだけれど、本当はそうではなくて、本当はいろ
んなことがほぼ「できない」ということに向き合わされる。気の利いたジョークやユーモアを振る舞うことや、料理ひ
とつ、歌ひとつ、踊りひとつ、学問のひとつや仕事のひとつ、快適な車の運転ひとつ、何ひとつとっても実際には「で
きない」ということがほとんどのものだ。その「できない」ということに、いちいち焦らないこと。できなくて当たり
前なんだ、と思い切ること。いちいちの「できない」に焦っていたら、取り乱すばかりで、本当に何ひとつできるよう
にならずに終わってしまう。だいたい、この話を聞いてくれている人は、大半が僕に比べて年少者だろう? 僕があな
たと同年代だったとき、あなたより僕のほうがよっぽど無能だったと申し上げておきたい。何かいろんなことがあっ
て、努力というよりは徹底して遊ぶことをして、いつのまにか少しのことができるようになったわけだ。だから、今の
あなたに僕と同じことができたら僕が困る。それじゃまるで僕が無意味な時間を過ごしてきたみたいじゃないか。僕
だって何ひとつ「できない」というところからスタートしてきた。ただ僕は、「できない」ということは自分にとって
当たり前のことだったから、無理はなかった。あなたにもぜひそのようにあってほしいと僕は望んでいる。
あなたが「できない人」として、「できない」と頭を抱えていたら、周囲の人はあなたに冷たくしない。周囲の人が
あなたに冷たくするとしたら、あなたがのぼせ上がって取り乱しているときだ。イライラしたり落ち込んだりして。
だって周りの人からみたら「できなくて当たり前なのに」と見えているのだから。いろんなことの「できない」に焦っ
て取り乱すことは、本人としては必死なつもりでも、周囲から見れば勇敢じゃない。自分が自分のことで取り乱すと
き、人は一番弱い状態になっていて、周囲のことが見えなくなる。周囲のことが見えなくなるから、「できている人」
のことも見えなくなって、「できている人」がこれまでにどれだけ努力してきたかということ、およびどれだけ突破し
てきたかということが見えなくなるから、逆にヒントがなくなって、自分がどう努力して突破していけばいいかもわか
らなくなってしまうものだ。
誰だってそんなふうにして生きている。誰だって邪悪になりたいわけなんかないし、誰だってそういろんなことが本
当にできるわけじゃない。ただ今、誰だって自分のことや、自分の生きることがよくわからなくなっている、というと
ころがある。かといってなるべく落ち込んだりせず、暗くなったりせず、自分にできることをひとつひとつ、精一杯
やっていこうと健全でいる。そのことに疑問を持ったりする必要はない。中には少々取り乱している人もあるかもしれ
ないけれど、そういう人も、なぜ取り乱しているのかが自分でわからないし、どう収めればいいのかを自分でわからな
いのだ。周囲はそれを遠巻きにして、巻き込まれないようにするしかないのだけれど、それだって冷たくしたいわけで
はなくて、そういったことはそれぞれ自分で解決していくしかないということをどこかで知っているから、関わらずに
おくしかないわけだ。力を貸せるものなら誰だって貸してあげたいけれど、とてもじゃないが何をどうしたらいいのか
なんて誰にもわからないのだ。誰だって、とてつもなく暗く落ち込んでしまう夜があって、誰だってそれを翌朝までに
はなんとか恢復しようと努力している。大事なことは、「誰だってそう」ということを見失わないこと。「だってわた
しの場合は」「あの子の場合は」と言い出したら、これは自意識の病気になって長引いてしまう。
「疑う胴体が失ったすべてのもの」ということで話し続けてきた。重要なことのほとんどを語り尽くせたと思ってい
る。こころは胴体にあるということ、その胴体が第一に「信じる」ということで機能していること。それによって本来
は「体験」が得られていたということ。このことは間違いないし、間違いない上にわかりやすいことだが、このわかり
やすいことが実現に容易だということはまったくない。シンプルだが困難だ。一朝一夕で何かが変わるというような類
のことではまったくない。誰しも今あるとおりの、自分の暮らし方をひとまずそのままに継続していくしかない。それ
でもなお、ここであなたが知った本当のことをどこかで忘れないことだ。焦ることはないし、焦れば取り乱すだけだ。
あなたがそのことを実現しようがしまいが、こころはやはり胴体にあって、その第一の機能は「信じる」ということに
ある。それは科学的なことであって思いつめても変動しないし、諦めたって変動しない。
今日それが実現されないことは嘆かわしいことではないし、明日それが実現されないことも嘆かわしいことではな
い。けれどもこの先の十年間に亘って一度もそれが実現されなかったとしたらそのことは少し悲しい。あくまであなた
がこのこころ(胴体)の第一性分を拒絶しているのであって、こころの機能の側があなたを拒絶しているのではない。
何か信じられないようなところで思い違いをしているのだ。そのことはいつか、「身をもって」発見されるまで何のこ
とだかはわからない。
今われわれの周囲は、何につけ「刺激」ということばかりを押し出して、「作用」の強いものだけをありがたがって
最前列に陳列し、われわれにそれを博覧会のように「どうだ」と見せつけてきている。ふと気づけばわれわれは、自分
自身もその刺激物の一端を真似させられているようなところがあり、自分の立ち居振る舞いや話し方や、考えることの
内容も、何かもともとの自分のものではないのではと感じさせられるような状況に陥っている。自分の話し方は何かど
こかのキャラのようで、話すことはどこかセリフじみていて、腕を振り回したり首をしきりに縦に振ったりして話そう
とし、「こんなやり方をする必要はない」と思えるのに、そのやり方から離れられない。
自分自身もその一端を担うものとして、われわれの現在は、まるで「催眠と性癖」だけを両輪にしてやけくそに進も
うとしているようなところがある。特定のものに対する中傷は避けたいけれど、ここ最近に流行するほぼすべてのもの
には、どう見ても「催眠と性癖」をしきりに刺激するところがある――むしろ「それしかない」とさえ言いたくなる
――ことを認めないわけにいかない。
われわれは朝起きたときから即座に「刺激」を探索するよう調教されていて、起床するとただちにテレヴィを点けて
同時にスマートフォンからニュースサイトを見たりする。そうして刺激を受けて発奮をまず得るということを当たり前
にしている。朝起きたらまず窓から空の色を見上げて鳥の声を聴くというような人は希少なはずだ。そこに三月の空や
ツグミの鳴き声があったとして、それはノンフィクション的な「作用」を持たないから、何の発奮にもならず、値打ち
がないとされる。「詩人か、俳人かよ」と笑われるのがおちだろう。なぜ笑われるのか、という理由は、実は突き詰め
てみると明らかではないのだけれど......
むしろ、朝起きたときから、スマートフォンで「逸脱した性描写のコンテンツ」を漁っていた、ということのほうが
「わかるわ」と言われかねない。「とりあえず元気だしていこうかと思ってな」「あ、それすごくわかるわ」。
現在のわれわれはどことなく無神論が土台になっている空間を生きている。無神論といっても、人間は信じるものな
しには動けないので、カミサマの代わりに現代では「刺激」が神様になった。なぜなら「刺激」は作用において疑いな
いからた。疑いないのなら信じるということは必要ないだろう。現代人はスマートフォンの中に実は刺激という「神」
を探している。スマートフォンの中のみならず、自分の生きる空間や出会う人々にも刺激という「神」を探している。
何につけ、「刺激になったわ」ということを求めている。これまでになかった刺激を与えてくれる人がもしいたら、そ
の人を「いやあ、神だわ」と言いたがっている。無神論者たちは素直に、刺激発奮教の信徒にならざるをえなかったわ
けだ。そのことは僕だって、「すげえわかるよ」と言いたいところがおおいにある。むろん僕は、「すげえわかるよ」
という本心の裏に、さらに別のことを知っていて裏切っているのではあるが。
(裏切っているといえば、スティーブ・ジョブズが自分の子供たちにはiPadを与えなかったというのはなかなかの
裏切りだ。ジョブズは家訓として自分の家族にテクノロジーの使用をかなり制限していたそう。)
景気の悪いことは言いたくない。刺激と発奮は大いにやるべきだし、ノンフィクションのことからどんどん刺激を得
て、いつでも強く発奮していけばいいのじゃないか。僕はこれからもそのことを割と堂々とやっていくだろう。景気の
悪いことを言いたくないし、景気の悪いことを言っていると運気が下がる。催眠と性癖というのは、いくらなんでも度
が過ぎると気色悪いが、趣味が合う者同士ならいいのじゃないか。「こむずかしいこと言っていないで、それが好きな
らどんどんやれよ。いちいちメンドクセエこと言わなくていいだろ」。
だが僕は不誠実にならないように申し上げておきたい。僕がその刺激発奮や催眠と性癖にふざけて遊んでいたとして
も、僕にとってはそれは神でもなければ体験でもない。きっとしばしば、ここのコンセンサスが取れていない。僕だっ
て刺激物に遊ぶのは好きだし、しょっちゅう大笑いをして愉しんでいるが、裏切っているつもりではなかったにせよ、
僕にとってはそれはひどい休憩中というだけのことでしかない。そのひどい休憩が、僕は割ときらいではないというだ
けで。
あるいは、どれだけ大笑いして愉しんでいても、僕はその裏側でまったく別のことをしている。同じように
「ヒュー」と歓声を上げていても、僕は裏側でまったく別のことをしている。裏切っているつもりではなかったにせ
よ、僕はそのとき裏側でまったく別の「体験」をしている。声にならないもうひとつの「ヒュー」を、僕はフィクショ
ンの世界へ響かせている。きらきらと、輪郭を幽かにして、目の前のすべてはフィクションのようではないか? その
ように感じて、何もかもがヒューだなと、しょっちゅう僕は感じているのだ。
ギラギラとした刺激物があったとしても......それによって僕の第一の機能は止まらない。停止されない。「こころの
わかる人間」として、胴体に流れるものをそれなりに鍛えてきた。本当に遊びぬくと決めて生きてきた年長の人間をナ
メてはいけない。どこまで「刺激」を受け取って、多大な「作用」にさらされて、それでもなお僕の「こころ」はどこ
まで勝つだろう? 僕はそんな遊びを日常にしている。
あなたの「こころ」はどこまで勝つだろう? われわれは誰しもノンフィクションで活躍しなくてはならないが、わ
れわれが真にノンフィクションで活躍して勝利するというとき、その勝利の方法と能力はノンフィクションの側にな
い。これはさしてむつかしい話ではない。<<あなたは第一の機能を使わずにノンフィクションで活躍できるだろう
か?>> ただそれだけのことであって、あなたはノンフィクションで活躍するために、魔法だろうがフィクションだ
ろうが、持ちうるすべての能力を使わねばならないのだ。
「早さ」という至上の価値がある能力について、僕の提示する理論はまったく単純で、<<「体験」するほうが早い
>>。人間の第一の機能「信じる/体験する」ということは、第二の機能「検証する/思念する」ということより圧倒
的に早いのだ。しかも開かれて全体につながって機能するから、孤立した利益ではなく全体の利益を生産する。この第
一の能力のアドバンテージなしに、ノンフィクションで真の活躍をすることはできない。
これで僕がしばしば言う、まったくふだんの言説と矛盾するような、
「ノンフィクションで活躍しなくてどーすんの」
という刺激的な口癖も、ようやく筋が通って了解されるだろう。
コンセンサスが取れていなかったら申し訳なかった。僕は刺激と発奮の作用に興じることをゲームにしているのでは
なくて、あらゆる刺激と発奮の作用より「早く」生きられるかということをゲームにしているのだ。その「作用」に足
を掴まれたとき、それは僕にとってゲームの始まりではなくゲームオーバーになる。時間軸上で追いつかれてしまった
から撃墜されちゃったということにすぎない。まあ、即座に再び飛び上がればいいことだけれど。撃墜されることも含
めて、それは愉快なゲームということだろう。
誰だって同じ人間だ。あなたと僕を含めてすべての人間は、同じ胴体を持っているのだから、同じこころを持ってい
る人間だ。同じ人間としてたくましく生きていかねばならない。刺激と発奮はおおいに良いじゃないか。そういったこ
とはどんどんやっていこう。どれだけ撃墜されないものか、またどれだけ容易に再び飛び上がれるものか、お互いに
やってゆきたい。
僕が三月の空を見上げているとき、人から「何をしているのかな」と不思議がる眼差しを向けられることがある。ふ
だんは誰とも同じようにして生きている、同じ胴体を持つ僕が、そのときだけ誰もしないような珍しさで空を見上げて
いると、その有様は不思議な何かに見えるのかもしれない。僕はこう答えておきたい。/こころは胴体にある。その第
一性分である「信じる」という機能において、こころ(胴体)は三月の空にもツグミの鳴き声にも開かれて<<つなが
り>>うる。胴体がつながり、三月の空を「体験」しうる。開かれてつながりうるということ......ジョハン・ハリとい
う青年がレポートしてくれたとおり、「中毒/addictの反対は、つながり/connectなのだ」から、僕はこれによって
中毒や依存症の反対側にいられる。僕の動くすべての原理はこれなのだ。疑う胴体が失ったすべてのものの中には、三
月の空も含まれており、僕はそういったものが失われることには怒りを覚えずにいられなかった。
[(六日目)怒りの日、疑う胴体が失ったすべてのもの/了]
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