No.377 僕は今日を生きている
やることは何も変わらないな。
<<二重の理論>>を用いるなら、ハァ、とにかく時間の無駄だけは避けたい。
二重の理論とは何なのかはもう説明しない。
フィクションとノンフィクションが同時に進行する、というだけだ。
「同時」にな。
未来に向けてどうこう、ではなく、われわれは現在の連続を生きている。
ノンフィクションというのは、つまり、どういじくっても、「カルマ」でしかない。
正直なところ、「カルマ」には、徹頭徹尾、関心そのものが持てない。
関心が持てないし、関心を持ったところで、誰も一ミリも益さないということが、理論的に証明されてしまっている。
われわれにとって、未来こそがノンフィクションだ。
だから、未来のことを考えること、具体的には明日のことを考えることは、常に間違っている。
一般に、僕がXさんに会うと、ほとんどの場合、僕は未来を考えているノンフィクションXさんにしか出会えず、だとするとこの場合、もう話すことなんか何ひとつない。
明日のことを考えているということは、今日は存在しないということだからだ。
われわれが体験しうる、連続する現在は、まさにフィクションとして存在しているのだが、明日のことを考えるノンフィクションの徒は、フィクションがフィクションであるがゆえに「存在しない」と誤認している。だから話すことがない。
多くの人が、僕と会って遊ぶと、何かわけのわからん楽しさになり、その後日になって、何か気分がむしろ僕に対して攻撃的になるところがあると思うが、それはフィクションとノンフィクションの機能差によって生じていることだ。
僕は今日現在のXさんに会うのであり、一方Xさん自身はというと、未来や明日のことを考えるノンフィクションのXさんでしかあれない。
だから僕といるときは、まるで自分ではなくなったかのような楽しさに包まれ、後日になると、いつもの自分に戻って暗鬱な気持ちがどこかから湧いてくるのだ。
明日のことを自動的に考える装置をカルマという。
土台がカルマから生じているノンフィクションの気持ちなので、明るい気持ちにはなりようがないのだ。
「身」のうちに、カルマという装置が宿っているのだが、これが自動的に未来や明日のことを考えさせる。
「身」が未来や明日のことを考えるということは、つまり、やがては死と滅びについて考えている、ということに他ならない。
いっときの栄華や愉悦があったとしても、「身」というのは、やがて老いて死ぬように作られている。
単純に、本当に正しく「身」を修めると、一般に思われているようには、老化はしていかないものだけれど、まあその道はむつかしいし、多くの人は何が何でも信じようとしない。
僕は今日を生きている。今日といっても、過去や未来を考えないのであれば、時間軸上には「現在」という点しか存在しないはずだ。であれば、取り立てて「今日」と表記するべき理由もない。
「これ」を生きているというほうが感覚的には正しい。
「これ」を生きているのだが、少しでも考えればわかるように、生きているといっても、われわれは自分がいま生きているのか、それともいつの間にか死んでいるのかは、けっきょくのところわからない。
「あなたは二ヶ月前に死にましたよ」と言われたとしても、「えっ、そうなの!?」と驚くしかできないのだ。
というわけで、誰だって、いま生きているのか死んでいるのかは、本当はよくわかっていないのだが、とりあえず何の変化もないので、別に生きていようが死んでいようがかまわないのだった。かまわないというか、われわれにはそのことをかまう能力そのものが具わっていない。
僕からいつも、何のアドバイスも出ないのはこれが理由だ。
アドバイスといって、そのアドバイスは明日から用いるのだろうから、明日の企みに加担した時点で、すでにカルマに肩入れしている側だ。
「いま生きているんだからいいじゃないか」と、デタラメを言ってやりたくなる。本当は死んでいるのかもしれないのだけれど、どうせわかりっこないのだからどっちでもいいじゃないかと。
僕は進まねばならないが、それは明日のために進むということではない。
進まなければ、今日が今日でないというだけだ。
だから、進むといっても、どこかへ行くわけではなく、むしろひたすら、「今日」の真髄に接近していく、ということにすぎないと思う。
「今日」の真髄に、進めば進むほどわかるが、けっきょくのところ、フィクションの世界においては、時間なんか流れていない。
時間が流れているということ自体が錯覚なのだ。欺瞞されていると言ってもいい。
もちろん、ノンフィクションの世界では、時間は流れているので、湯を注いだカップラーメンを放置していると、その麺はグダグダに伸びるだろう。
だが、麺が伸びる前の「わたし」と、麺が伸びたあとの「わたし」で、何か変化があるかというと、変化は何もない。
「わたし」のやること、および「わたし」の存在については、時間は流れていないのだ。時間軸そのものがない、という意味で、「わたし」という存在は初めから永遠の世界に属している。
それは、感覚を知ってしまえば当たり前のことなのだが、そうはさせじと、われわれの身のカルマがはたらく。
われわれは、一万日もボーッとしていると、それだけで三十年が過ぎるのだ。三十年の短さにびっくりする。財布の中の一万円がアッというまになくなるように、カレンダーの一万日もアッというまになくなるだろう。そして三万日が過ぎればだいたい寿命で死ぬのだ。
セミの命が七日間とか十日間ぐらいしかなくて、かわいそうねとわれわれは思うのだが、われわれだって三万日で尽きるので、あまり人のことをえらそうに憐れんでいる余裕はないのだった。十五歳の少女が、一万日後には、四十五歳のオバサンになっている。
そうした、時間の流れというものは、いうなれば、「二十四時間が過ぎるうちに、どこかで映画が十二本も上演されている」というのと同じだ。十二本も映画を観たらヘトヘトだが、われわれはそういうことなしに毎日を暮らしている。
「わたし」が映画を観る時間を、そのままノンフィクション上で換算することには、あまり意味がない。
何が言いたいかというと、仮に二十四時間という時間を設定するなら、その中でずっと「現在」に居つづけ、「わたし」のやることを続けていればいいのじゃないのかということ。われわれは、時間を無駄にするべきではないし、かといって、時間を有効活用するなどということもできないし、そういう発想を持つべきでもない。時間の流れは「わたし」のものではないからだ。時間の流れはカルマのものであって、「わたし」のものではない。
僕は人と会うのは好きだが、カルマ肉に会うのは好きではない。カルマ肉に会うことは、人と会うことではまったくないからだ。まさに時間の無駄になってしまう。
カルマ肉とは何かというと、とにかく、生きるにせよ死ぬにせよ、そして稼ぐにせよセックスするにせよ、そのすべてがオドロオドロしていて、そのオドロにヤッサモッサしているうちに、時間が来たので死にました、という現象のみを指す。われわれの「身」は実際そういうものだ。
そのオドロオドロ・ヤッサモッサに、さまざまなバリエーションを増やしたところで、いったい誰が何のトクをするのだろう。それはさまざまな音色の叫喚が提出されるということにすぎない。
僕は今日を生きているので、オドロオドロはしていないわけだ。たとえ高級ソープランドの女性と処女の女子中学生を裸にして目の前に千人並べてくれたとしても、僕はオドロオドロはしないだろう。そんなヒマな生き方を選んできたつもりはさすがにない。
誰がどう考えても、そんなオドロオドロ・ヤッサモッサに引きずられて数十年、引き返せないぐらい汚らしくなりました、なんてカルマプレイを望んでいるわけではない。ただ、正しい知識がなければ確実にそうなる。誰にも導いてもらえないと、本当にそういう汚カルマプレイで人生が終わるのだ。
カルマは生命維持の装置だから、カルマゼロで生きられるわけではないだろうが、カルマだけですべての時間を使いつくすというのは、まるで何のゲームもしなかったプレイステーション4が電源入れっぱなしで経年変化でダメになりましたというような状態だ。電源が入らないとゲームができないが、電源を入れ続ければそれで本分を果たしたということにはならない。「壊れるまで遊んだ」というなら値打ちがあるが、ただ運転していたら壊れただけで、しかも「なるべく壊れないように長持ちさせました」という見当違いな自慢をされても、もう掛ける言葉が見つからないのだった。われわれの、最も引っかかりやすいものがカルマだが、われわれのするべきことは、決して存分に引っかかった汚カルマのプレイではない。
ここしばらくは、関連する謎、特に、「カルマから引き離されそうになると暴れる」という謎について考えていた。これは本当に不思議だった。
ふつう、どう考えても、明日を考えるカルマでオドロオドロになるよりは、今日を生きることで、永遠の「わたし」を、フィクションの中に獲得していくほうがはるかに素敵で本質的なはずだ。フィクションの側だけを重要と言い張ることはできないが、それにしても「わたし」が生きる上で本質はどちらかというと「今日、わたし、フィクション」の側だろう。
にもかかわらず、なぜか多くの人は、「今日」を生きたいから「今ここ」の世界へ連れて行ってくださいと望むわりに、実際に「今日」の真髄に近接していくと、何かジタバタ暴れ始めて、逃げだそうとするのだ。棲み慣れたカルマの側へ帰ろうとする。もちろん、終電前には帰ればいいと思うが、そういうことではなく、わざわざ近づいてきた「今日」の真髄に直面すると、そのこと自体から逃げようとするのだ。別にキライなら無理に直面することはないと思うが、わざわざ自分で求めて望んでおいて、いざ実際にそれが近づいてくると暴れるというのは何の所以あってのことか本当にまったくわからなかった。
そのことについて、「身分」ということを考えた。身分ということはわかりやすいが、そのさらに背後にある構造、「国」ということを、このごろは考えざるをえなくなった。「今日」というフィクションの真髄に近接してゆくとき、その先に「国」が見えてくるのだ。もちろん社会的な意味での日本国を言っているのではない。「国」という現象が先にあって、日本国うんぬんというのは、この現象を社会的にも庇護しようということで、後付けに設定されているにすぎない。それは婚姻と同じだ。人間は役所に届けなくても婚姻はできる。
婚姻と同じように、役所がなくても「国」という現象はアプリオリに存在していて、やはり役所がなくても、「入国」という手続きがあるのだ。おそらく、「今日」というものの真髄に接近したとき、ジタバタ暴れる人があるのは、この入国を拒否して逃げだそうとしているものと直観される。入国するとたちまち「身分」が定義されるのだ。誰が王であり、誰が貴族であり、誰が平民であり、誰が奴隷なのか。また誰が宮司であり巫女なのか。そしてほとんどの場合、もし「入国」してしまえば、そこで定義される身分が、これまで自分に幻想していたとおりの身分だと望ましくは当てはまらない。それが直観されるので、ジタバタ暴れて逃げ出すのではないかと思われる。A国に王があり貴族があり平民があっても、それを国の外部から眺めている場合には、その「王」というのもしょせんは他人事であって、落ち着いて眺めていられる。観察するふりをして、うーんなるほどねと、何の役にも立たない見識ふうのものを肥大させて、よりうっとうしい近所迷惑を振りまいて逃走することも可能なはずだ。そのために、ジタバタ暴れて逃げ回るのか。
多くの人は、単純に社会学や国語において誤解していると思うが、「王」というのは何も唯一絶対の崇拝対象を指してはいない。それは王と皇帝を混同している。皇帝というのは中華思想のもので、基本的に「他国」の存在を許しはしないが、王というのはそうではない、それぞれ有限の領土を治める者だ。小国の王はより上位の宗主国を持っている属国である場合もあるし、そのあたりはごく当たり前の社会学を参照すれば間違いない。また貴族というのも、あくまで王に対する絶対の忠誠があり、これまでの忠義と王権の成立に功績があるので、王から領土を安堵されているというだけだ。貴族っぽい暮らしと自負と雰囲気が貴族を定義しているのではない。何兆円の資産と私兵を持とうが、王家に忠実でない者は貴族ではない。ただの賊軍だ。これはもうただの国語の問題だ。
スイスとオーストリアのあいだに、リヒテンシュタイン公国という小さな君主国家が現存しているが、もしこのリヒテンシュタイン公国に旅行したとき、リヒテンシュタイン侯に拝謁する機会があったとして、その機会を厭うナンセンスがいるだろうか。どう考えても、その国の王に拝謁してからのほうが、その王国を気分良く観光できるに決まっている。観光旅行にすぎないといっても、きっちり入国したほうが気分がいいに決まっているし、むしろそうして入国した上でその国を体験するために、外国旅行をするのだろう。もしリヒテンシュタイン侯が、「この国をどうぞよく観光されてください」とお言葉をくださったら、その後こそリヒテンシュタイン公国を歩くのは気分がよいではないか。もしそのことがわからないとか厭うというようであったならば、それはもうディズニーランドでミッキーマウスに唾を吐くというぐらいわけのわからないことだ。
入国すると世界がある。世界があることで、光が得られ、光景が得られ、香りが得られ、季節が得られる。風土も得られる。その中で初めて、われわれは「人」として生きることができる。その手続きが為されないならば、われわれはどこに逃げ回っても、カルマ肉のカタマリでしかない。われわれは入国して初めて、その国の「今日」を生きることができるのだ。もちろん、王や国をすっとばして、直接カミサマに拝謁できれば、どこの国というのでもない「世界」そのものの「今日」を生きることができるが、どうやらこの方針は経験上、現実的ではないようだ。昔から、王権神授説という学門が大真面目にあって、むしろ直接カミサマに拝謁できる人こそ、カミサマから「王」たる権限を授かるのだという説がある。ディズニーランドでいうと、ミッキーより上位の王はいないので、ディズニーランドがどのような国であるかの定義について、ミッキーは上位の誰かに相談することができない。よってミッキーは、人智を超えた何かと接続して、この世界がどのようなものでありうるかを直覚することでしか、ディズニーランドという国が「このようである」と定義することができない。これは誰にでもできることではないので、この者を「王」というのだ。そしてこの王の資格をいち早く見抜き、その王権が成り立つのに献身した功労者が後に貴族の地位を与えられる。つまりドナルドやグーフィがミッキーを取り巻く門閥貴族ということになるだろうか。
この「国」のシステムがなければ、ディズニーランドいう国が成り立たないということだし、このミッキー王国に入国しないのならば、ディズニーランドに行っても何の利益もないだろうということだ。入国していないものがもぐりこんでも、ただの破壊工作のスパイにしかならない。
これでだいたい話は合っている。僕がこれまで体験してきたもの、目撃してきたものに、これでことごとく整合している。
入国するべきまともな「国」があるとき、その国は何であれ、われわれの帰参したい「永遠の国」の断片なのだろう。しかればその国の王は、何かしら王たる者の正式な徳性を備え、見上げるべきかつての王や諸国の王を持ち、権威ではなく王そのものとしてその国を統べているはず。端的にいってそのような王は、その国民に慕われ、愛されているはずだ。圧政を敷く王ではなく、ただ来訪をよろこばれ、待ち望まれている王であるはず。ミッキーマウスがパレードで来訪してブーイングするディズニーランド国民がどこにいよう?
僕は今日を生きている。誰でもそのように思っているだろうが、「このとき」を生きるためにはまず「この国」という現象がなくてはならない。むろんこの場合の「この国」というのは、単純に言われる日本国ではない。国というのは社会的な概念ではなくそれ以前にアプリオリな直覚だ。
「王」などと言うと、学校でされてきた社会科教育から、大いに誤解を生みそうだ。民主主義は、三権(行政、司法、立法)を公益に沿わせるのに現在のところベストアンサーの方法だが、三権の付与および行使のみで「国」が成り立つわけではないし、また絶対王政の時代の国が「国ではなかった」わけではない。もし市民生活を社会化する三権のみが「国」なのだとしたら、究極のところ「国」は人工知能でも運営できるだろう。単純に民意の総数を統計する作業だけなら、明らかに人工知能のほうが優れている。われわれの日本国においても、三権は選挙によって分割され国民に統御されているが、それでも日本が「国」である所以は、三権とは直接の関係がない天皇陛下の存在による。パリ市民は、維持費が掛かるからという理由でエッフェル塔の撤去を望まないだろう。そのような撤去を繰り返していると、パリはいずれパリというクニではなくなってしまう。もしわれわれが天皇制を撤廃したら、三権分立は何も変化しないまま、ごっそりともう「日本」というクニではなくなってしまう。そのとき、われわれは予想もしていなかった、光の喪失、光景の喪失、香りの喪失、季節の喪失を体験するだろう、
壮大なことを話しているのではない。聖書には「永遠の国」という書かれ方がある。これはつまるところ、<<「時間」と「国」が相反する>>ということを意味しているのだ。われわれにとって、信じがたいところ、「時間」が思い込みであり、「国」が真実にあるということ。われわれはふだん、このことをまったく逆に捉えている。国なんて社会的な約束でしかなく、誰だって同じ人間さ。そして、時間の流れだけが真実さ、と。真相はまったく逆だ。「永遠の国」と「有限の国」があるのではなく、「永遠だから国」であり、「有限なら国ではない」ということだ。僕はこのことを「世界」「世界愛」と呼んできたが、この世界というのを何かしら「カミサマの国」と捉えるならば、僕としてもそれを国と呼ぶことに不服はない。
われわれは、身に宿ったカルマによって、「時間の流れ」こそが真実としてあると思い込まされている。それは身そのものが時間の経過で滅んでゆくからだ。カルマは情報を記憶したディスクのようにわれわれの身のうちで回転しており、このディスクを残存させよと、われわれの身の内から命令する。だがこのカルマディスクは、われわれに強い吾我をもたらしながら、究極的には「わたし」ではない。
カルマは身の内にノンフィクションの騒動を起こしてわれわれを支配する。それはあなたのためになることではなく、あくまでカルマが保存されるために有益なことだ。われわれはカルマディスクに寄生されている。その寄生は、遡れば、われわれ自身の不徳の行いに由来しているのだとしても。
「永遠だから国だ」というとき、時間の流れという錯覚は消え去り、カルマディスクは無力化する。その国に、かけがえのない光、かけがえのない光景、それ自体が世界であるような香り、またそれ自体が生存であるかのような季節がひしめいている。今日を生きるということはそういうことだ。今日を生きるということはこのときの「この国」を生きるということだ。
どうしても「国」ということがわからない人は、「王」を認めずに己が身分を詐称したがるスパイだと定義すれば、やはりこれまでに僕が体験してきたもの、および目撃してきたものに合致する。カルマディスクのひとつの性質として、カルマディスクは、カルマディスクそのものを滅ぼしかねない「国」のありように、恐怖と反発と、攻撃を示すのだ。ドラキュラが十字架を突きつけられたときのように、カルマは「この国」に叫喚する。
[僕は今日を生きている/了]