No.378 女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがない
「世界」の作用と、「カルマ」の作用
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがないのだ。
なぜかというと、僕が、この世界の成り立ちに到達しているからだ。
原初・根源のレベルにつながっていて、原初・根源の力が作用するから、女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがなくなる。
混乱して苦しんでいる女性Xがいたとしたら、彼女は、そう認めることで、混乱と苦しみから解放される。
「そうか、わたしは、この人に抱いてもらいたくてしょうがないんだ」と認めれば、混乱は大きな一段階の終息を迎える。
それは、一般的な性的誘因の力とはまったく種類も性質も異なる。
一般的に、セックスはわいせつなものと思われているし、あなたも、セックスをわいせつおよびエロスのたぐいの力だと思っているが、僕からあなたに及んでいる力はそういう性質のものではない。
もっと原初・根源の力だ。この世界の成り立ちみたいな力だ。
だから、あなたが女として、僕とのセックスに焦がれ、平伏してセックスを懇願することがあったとしても、それは何もおかしなことではない。
それは、しょうもないプレイのことにはならないし、男尊女卑、という馬鹿らしいブームのことにもならない。
また、重要なこととして、そうしてセックスへの希求があったとしても、実際にその行為に及ぶ必要はないのだ。
若ければ若いほど、異性として、女は僕とセックスが「したくてしょうがない」という状態に陥るが、慌てることはないし、必ずしもその直接の希求を満たさなくてはならないわけでもない。
あなたは、僕とセックスがしたくてしょうがないという、その希求を得ることじたいが重要なのだ。
実際の行為うんぬんは、どうでもいい……というわけではないが、実は重要度は低い。
別にセックスでなくてもいいのだ。「わたしの身で、この人の身に何かがしたい」ということが本質であって、それが若い女性なら、セックスに結びつきやすいというだけだ。
要は、原初・根源のレベルで、魂が反応しているということ、魂が求めているということで、そのことにつながることじたいが大事だ。あなたの自己が、自分の魂とのつながりを恢復するということだ。
あなたは僕とセックスがしたくてしょうがない。
それは、当たり前のことだし、他すべての女性にとっても当たり前のことなので、いちいち口に出して言わなくていいし、いちいち主張しなくていい。
たとえるなら、最強の透明度を誇る海が目の前にあったら、飛び込みたいということと同じなので、当たり前すぎ、いちいち口に出して言う必要はないということ。
そうして、飛び込みたいものが目の前にあるということ、それを認めることが重要だ。それが、「世界」がある、ということだから。
あなたが、僕とセックスがしたくてしょうがないのは、いわば「世界」の作用なので、わいせつでもなければ、エロスでもまったくない。
まともな、尊ぶべき、男性の魂が剥き身で目の前にあれば、「セックスしたくてしょうがない」というのは、当たり前のことであって、わいせつでもなければエロスでもない。もっと、それ以上のことだから、わからない人はさておき、あなたは胸を張っていていい。
ただ、問題は、身に積もった「カルマ」のことだ。
われわれの身は、己の行いや、口にしたこと、また考えたことによって(身口意)、「カルマ」という歪んだ性分を具える回避不能の性質がある。
そこで、セックスそのものは、原初・根源に至った「世界」からの作用だとして、何も淫猥なものではないのだけれど、いざそこに裸身とヴァギナを持ち込めばどうかというと、まず無事には済まない。
われわれの身には、カルマがたくさん積もっていて、特に女性のヴァギナなどは、集中的にカルマが積もりやすい器官だ。
あなたが僕と、「セックスがしたくてしょうがない」ことじたいは、何も淫猥なことではないのだが、あなたが実際に己の具体を持ち込んでそれを為し遂げようとすると、あなたの具体は、あなたの本意ではない淫猥さに向けて盛(さか)ることになる。
おそらくあなたには、このことについての、正しい知識さえそもそも与えられていない。
あなたはそもそも、「世界」の作用としてセックスへの焦がれが生じることと、身のカルマから生じる淫猥さの盛(さか)りが、まったく別のもので、しかも相反するものだなどと、これまで教えられてきていないはずだ。
それは、もう、そういったことを教えられる人がいなくなってしまったからで、さらには加えて、その逆を主張したがる勢力が、入念に工作をして、あなたに誤った知識を刷り込んでいったからだ。
あなたは、誤った知識を刷り込まれることによって、自分では処理できない膨張した自負を持たされることになり、また、僕とセックスがしたくてしょうがないという当たり前のことを、わけのわからない反発でコーティングせざるをえなくなった。
自分が幸福になれなかった人たちは、徒党を組んで、あなたも幸福にならないようにと、入念な工作を仕掛けるものだ。
今でも、ごく一部には、僕のことについて、「こんな人と、いくらでもセックスしたいに決まっているじゃない」と、何の違和感もなく言ってのける人が存在する。そうした人の存在に向けて、あなたは動揺するが、そうした人の存在そのものを、あなたは根本的に「正しい」と感じるはずだ。
まともで、尊ぶに足る男の魂が、目の前に剥き身であったら、セックスしたくてしょうがないというのは、「世界」の作用として当たり前だ。
問題は、その当たり前のことが、具体的には、身のカルマによって、淫猥な別物にねじ曲げられてしまうということ。原理は簡単でシンプルなはずなのに、具体的には急にむつかしくなってしまうということ。
ここにおいて、あなたの混乱と苦しみは二段階目まで終息する。一段階目は、あなたが僕とセックスしたくてしょうがないのは当たり前だということ。および、実際にはそうしなくても、本質的には変わりないということ。二段階目は、セックスしたくてしょうがないからといって、そのままやろうとしても、「そうはいかない」のが当然だということだ。
「世界」の反対が「カルマ」に当たる。「世界」の作用と対極に、「カルマ」の作用がはたらいている。
だから、「世界」の作用から、あなたが僕とセックスしたくてしょうがないと焦がれたとしても、実際にそれを為し遂げようとすると、あなたの身は「世界」を打ち消す別の作用を持ち込んでしまう。それが当たり前。
あなたの焦がれたとおりには、あなた「身」は為し遂げてくれないということ。むしろ身に積もったカルマが、あなたの焦がれたこととは正反対にあなたを向かわせてしまう。
それは、別の例で言えば、ベッドに入って「ぐっすり」休もうとしたのに、実際の「身」は、ぐっすりどころか「いらいら」を選んでしまうというようなこと。この世界において、もともとベッドは「ぐっすり」休むためのものだけれど、その世界のとおりには、あなたの身は自分の本意のことを為し遂げてくれない。身にはカルマが蓄積しているので、実際には「世界」とまったく真逆をしてしまうのだ。
「世界」と「カルマ」は対立しており、「世界の作用」と「カルマの作用」は衝突してせめぎあってしまう。それでしばしば、人はよくわからない倒れ方をする。
例えば女性Xは、初めから、僕の前に現れたとき、僕とセックスがしたくてしょうがなかったのだ。それは「世界」の作用によって。当たり前のことだった。ただ、それをそのまま認めるには、女性Xの身にはたくさんのカルマが積もりすぎていた。女性Xの身には、彼女自身を幸福にはしない自負や、価値観、プライドや、憧れ、固定概念などが、てんこもりに積もっていた。それらはすべて、彼女の本意のものではなかったのだけれど、これまでの彼女の(身口意の)行いによって、彼女の身に宿されてしまったものだ。このカルマから、償却なしには彼女は脱出することができない。
この女性Xを、僕の隣に置くと、彼女はたちまち、倒れそうに憔悴していく。なぜかというと、彼女の価値観上、僕のような男になれなれしくされることは、屈辱的で意に沿わないからだ。かといって、代わりに女性Yを僕の隣に置くと、今度はうらやましさと嫉妬から、やはり女性Xは倒れそうになる。女性Yが、素直に僕と愛し合おうとする眼差しであれば特に、数分も経たずにXは「倒れそう」というめまいを覚える。
僕の隣に座ることが、意に沿わないということであれば、僕の隣から外されたとき、女性Xは安息に満ちなくてはならないはずだ。ところが女性Xは、僕の隣に置かれても、また僕の隣から外されても、どちらにしても安息は得られない。それはつまり、根源的に、「世界」の作用と「カルマ」の作用が衝突しているからだ。「あちらを立てればこちらが立たず」、初めからこの二律背反は彼女を憔悴させるよう定義されている。
僕が彼女に、「こっちにおいで」と言えば、彼女は動揺し、「あっちにいってらっしゃい」と言えば、やはり彼女は動揺する。それはつまり、服を脱がされても動揺するし、服を着せられても動揺するということだ。この混乱と苦しみを取り除くには、「世界」か「カルマ」のどちらかを完全に否定するしかない。しかし否定するといったって、カルマは身に宿された業として、償却なしに消えてくれたりはしないし、「世界」を否定することはできたとしても、その後とてつもなく暗鬱な気持ちになって、まともに生きていけなくなる。
「世界」と「カルマ」が対立するとして、どうせならば、世界を否定してカルマに飛び込んでしまうより、カルマを否定して世界に飛び込むことを選ぶべきだ。それは容易な道ではないけれども、生きている時間を費やすのに十分な値打ちのある道だ。
あなたが、僕とセックスしたくてしょうがないのは当たり前のことだ。若ければ若いほどそうだ。また、実際にはそうしなくてもかまわないことだ。必要なのはあなたがあなたの魂とつながること。そして本質は、セックスどうこうではなくて、あなたが身をもって、この人の身に何かをして差し上げたいということ。それはすべて当たり前のことだから、いちいち口に出して主張する必要もない。「当たり前だ」というのは、それが「世界」の作用だということ。重要なことは、この「世界」の作用と、相反する「カルマ」の作用とを、ごっちゃにせず、正しく区別することだ。あなたはきっと、「世界」から弾き出されたくはないはずだ。
「世界」の作用はどうあれ、あなたを含め、われわれの身はガタガタだ。何ひとつをとっても、自分の「身」を持ち込んで為し遂げようとしたとき、「身」は見当違いの方向に盛(さか)り始める。われわれは誰だって、「世界」の作用に殉じ、「世界」の作用から焦がれるままの時間と瞬間を過ごしたい。けれども「身」が……まったく別のことをするのだ。
自分を挙動させている作用が、「世界」なのか「カルマ」なのか、区別するにはいくつかの目安がある。この目安は無数にあるが、中でもまだ目安に用いやすいものをいくつか列挙しておくことにした。
・顔をしかめるのならば、カルマである/眼差しならば世界である。
・重くなるのならば、カルマである/光のように軽いならば世界である。
・騒がしくなるのならば、カルマである/音満ちて静かならば世界である。
・固まるのならば、カルマである/たえまなく流動するならば世界である。
・声が引きつるのならば、カルマである/聲ならば世界である。
・表情を作るのならば、カルマである/人の相貌ならば世界である。
・納得を探すのならば、カルマである/すべてが置き去りならば世界である。
・疲労するのならば、カルマである/汗に淀みなければ世界である。
・感情が激するのならば、カルマである/想像力が拓かれるならば世界である。
・問答が止まないならば、カルマである/聴かれるならば世界である。
・力んで唸るのならば、カルマである/しびれるならば世界である。
・比較と優劣ならば、カルマである/個々呼応ならば世界である。
・競争ならば、カルマである/個々存在ならば世界である。
・利益を探すならば、カルマである/利益不動ならば世界である。
・自己愛ならば、カルマである/愛ならば世界である。
・消費納得ならば、カルマである/生産無頓着ならば世界である。
・身内ならば、カルマである/あの人ならば世界である。
・有限ならば、カルマである/永遠ならば世界である。
・吾我ならば、カルマである/世界ならば世界である。
あなたは「世界」を希求しているのに、実際には己の身から「カルマ」が盛(さか)り立つ。その身のほどや身分から眼を背けるため、当然のことを否定に追いやり、不当のことをさも正論のように取り込んだ。女たちが僕とセックスがしたくてしょうがないのは当然のことだ。ただし性器に蓄積するカルマを償却するというようなことは、特にこのご時世においてただごとではない。性器ならばカルマであり、セックスならば世界だ。実際の行為に注目は必要ない。
われわれは「世界」に焦がれているが、そう易々と世界にたどり着けるほど立派な身分の者たちではない。「カルマがあるせいで、世界にたどり着けない」のだが、これはむしろ正しい道筋を指し示している道標だ。
加減が必要なら、その態度をわかりやすく
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがない。
と、こんなこと言い出すと、またヘンなふうに思われるかもしれないけれども……
正直なところ、もう何年になるのか、別にインチキをしているわけではないが、ずいぶん長いことウソンコをやらされている気はしている。
ウソンコというのは、逆だ。
女たちが、僕とセックスがしたくてしょうがない、というのがウソなのではなく、「そんなん当たり前やろ」ということを、表面上は荘重に仕立てて、内心ではハナクソをほじってため息をついているというのが、本心だということだ。
どいつもこいつも、しょーもないことでいちいち大ショックを受けるので、いつの間にか、極端に手加減することがクセになっている。
だって、本当にしょうがないだろう。僕がちょっと強めに押したら、本当に、精神が決壊する人がゴロゴロ出るのだ。
出る、というか、事実として「出た」ということが重なったので、これは本当に危険だということで、自粛しただけだ。
目の前でゲロを吐かれて絶叫されて、救急車を呼ぶみたいなことを、またやらされるのはカンベンなのだ。
女たちが、僕とセックスをしたくてしょうがない、というようなことは、別の言い方をすれば、「何を今さら」というような話で、問題は、これまでそういった原初・根源の力に作用されることなかった女性が、いきなりそれを体験すると破滅的な症状になる、ということだ。
女たちが、僕とセックスをしたくてしょうがない、ということについては、正直なところ、僕としてはぜんぜん興味がない。
なぜなら、本当にそれは当たり前だからだ。
僕は今さら、そんな当たり前のことにしみじみ感じ入ってはいられず、もっと別のことを考えている。
どれだけインチキな手法が混入してもいいから、女たちを、愛のほう、世界のほう、光のほうへ引き上げてやれるかだ。われながらなんておせっかいでうっとうしい奴だ。
もちろん、進むのは誰だって自分自身で進むしかないのだが、問題は方向と筋道だ。筋の悪いまま頑張らせても意味がない。意味がないというか、不毛になるのでかわいそうだ。
だから、これは年長者の義務として、筋道だけなんとかつけてやりたくて、そのあとどうなるかは、僕の責任ではないので知ったこっちゃない。
そして、これは僕の義務にすぎず、僕個人の愛とはまた別だ。僕には僕の愛があるのであって、その愛については、僕だけが知っていればよく、誰かに説明する必要はない。僕だけ一人この世でサンプルを取るためのデータユニットなのかい。
僕個人の愛とはまた別に、一人の男である以上、僕は一人の男として普遍的に女のすべてを愛している。そうでなければ、この世界から弾き出されるだろう。女を愛さない男などこの世界に生存できるわけがない。
そして、一人の男としての愛があるのだから、まわりの女たちはその愛の魂に出会って、僕とセックスしたくてしょうがない、というふうになるのが当たり前だ。それは当たり前の大前提であって、こんなことに今さら僕は注目したくない。
しかし、僕の思いはどうあれ、今は多くの人が、「男とは」「女とは」という次元で困難を覚えている様子だ。だから書き話すぶんには、そのことを主題にせざるをえない。
逆に、この際だから、僕から訊いてみたくなるぐらいだが、もし僕が、出会う女性から「セックスしたくてしょうがない」と思ってもらえないような男だったとしたら、いったいあなたは、何をアテにして僕の話を聴くのか。そんな、愛も魂も成り立っていないような男の話を聴かされたって何の意味もないだろう。
僕はひどいウソンコをしているのだ。僕から見て、あなたが、僕とセックスがしたくてしょうがないというのは、当たり前のことであって、特に注目するようなことではなく、いっそ「したくてしょうがない、という当たり前の現象だけで、セックスする理由にはならんな」ということのほうが、まだ注目する値打ちがあるぐらいだ。
ただ、現実問題としては、あなたが僕に対して「セックスしたくてしょうがない」と感じること、その時点で、あなたがしっちゃかめっちゃかに混乱するのだ。その混乱を放置はできないし、混乱したままでは何の話も進まない。だからやむをえず、そのことを主題にしているにすぎない。
僕は、ガキじゃねえんだぜ。
女の子の側から、「あなたとセックスしたいです気配」を、とっておきに出されたとしても、たぶんそんなもの一ミリも聴き取っていない。そんなことより、はるかにやるべきことがあるんじゃないのか。そんな気配ごときでフワワワーっとなる、僕は思春期のガキじゃないんだ。
この数年を振り返ってしみじみ思うが、僕にとって当たり前のことは、他の誰もにとって当たり前ということではないのだろう。
僕が女性と出会ったとき、その女性が、原初・根源からの「世界」の作用として、「この人に抱かれたくてしょうがない」となったとして、僕にとってはそれは当たり前のことだが、当の女性にとっては、まったく当たり前でない、何であれば生まれて初めての、衝撃的なことなのだろう。
僕は、そういう女性のことを、レベルの高低なんかでバカにするつもりは一切ない。人それぞれの経験や進みゆきがあり、誰が偉いということではないのだ。どちらがうつくしいかといえば、僕みたいなジジイより、こころの新鮮な美少女のほうがうつくしいに決まっている。
しかし、これもしつこく言っているようなことだが、そうしてすぐに入口で「生まれて初めての衝撃」を体験するような段階である割には、万事に示されている態度がデカすぎるのだ。態度がデカすぎるので、僕の側の按配が狂ってしまう。
万事にイケイケで余裕ですよ、みたいな態度をしているので、こちらもそれなりに威勢良くあたるのだが、何の実力も伴っていないので、ちょっと接触しただけで、深刻に精神が決壊寸前、というような危機を生じるのだ。
僕はガキじゃないのだが、おそらく現代の人は、多くガキと大人の区別というものがないのだろう。だいたい、「おっ、年齢の割には、イーブンな感じでくるなぁ、頼もしいぜ」と僕が判断して、そのままちょんとぶつかると、相手が数日で錯乱する。
また、コミュニケーション能力の不足もある。衝撃を受けたなら「衝撃を受けています」と言えばいいのに、そういうことは何も言わずに、いつもどおり思い耽っているふうの態度を示すだけだから、「なんやなんや」と食い入られて、ますます錯乱の度を深めていくのだ。
おそらく、と推定するしかないのだが、これまでの経験上から「おそらく」、多くの人にとって、その原初・根源からの「世界の作用」などというものは、直撃したら衝撃的で、シャレにならないたぐいの作用だ。世界観も死生観も根こそぎ変えられてしまう。元あった家族やセックス観にも帰れなくなるかもしれない。
参考に言うなら、僕は、生まれて初めての海外旅行でインドに行き、初めて外国の空港に降り立ったその夜、三十分後には、サギタクシーの二人組を、後部座席からガンガン蹴って怒鳴りつけているような人間だ。海外旅行で人生観を変えるというような眠たい発想は持っておらず、先方に、なめくさった日本人観の訂正を要求する側の人間だ。その場で殺し合いになってもまったくかまわんと思っていた。さすがにあのころよりは丸くなったとはいえ、取り出せる作用の強度はかつてよりはるかに上がっている。
女たちが、僕とセックスしたくてしゃあないのは、当たり前のことであって、めちゃくちゃなのは僕のほうじゃない。めちゃくちゃなのは、自分の身に何が作用しているのか、自覚がなくポカーンとして、その後になって錯乱する女たちのほうだ。加減が必要なら、加減が必要ですというなりのわかりやすい態度を示せ。真正面にぬぼーっと立たれていると、こちらからは「有段者かな?」と見えるのだ。
セックスのことなんかいちいち覚えていない。僕が見ているもの、および聴いているものは、目の前の女の眼差し、そして目の前の女の声だ。その眼差しが行方不明にならないか、その声が悲しい世界に落ちていかないか、そのことだけをにらみつけている。セックスなんか、したことないし、童貞ですと言い張ってもかまわないぐらいだ。
セックスをエロスだと誤解しているのは、知識のない思春期に身が盛(さか)った少年の錯覚にすぎないし、その後はわいせつやヘンタイ行為でさびしさを紛らわせると信じた――あるいはいっとき、そうするしかなかった――男女の逃避にすぎず、すべてはけっきょく「世界の作用」に対抗できるものではまったくない。僕が女の前で泣いたり笑ったりすることがあったとしたら、それはその女がかわいくて、愛しくて、大切でたまらないから、泣いたり笑ったりしたのだ。うつくしい女のうつくしい世界が、大切でたまらないから、震えて泣いたことも幾度もあった。僕はそんな宝物をわいせつ行為に使ったことは一度もない。わいせつ行為をするという発想、およびそこにフォーカスが生じるという発想が僕にはまったくわからない。
僕とセックスがしたくてしょうがないという女は、正常で、当たり前だ。僕とセックスをまったくしたくならない女は、同等以上に大切な営みがあるか、もしくは若いうちに済ませてきたか、あるいはまったく縁が無いか、そうでなければ本格的にアタマがおかしいかだ。
僕とセックスがしたくてしょうがないということに気づいたとき、できればその当たり前のことに、おおげさに動転しないでくれ。それは当たり前のことなのだから。「どの女でも、この人とならセックスはしたくてしょうがないでしょう」と、当然に信じられる人だから、あなたはセックスしたくてしょうがないのじゃないか。そうでなきゃあなたの趣味はひどく悪いだろう。「あなたはセックスに関しては神がかりだわ」と言った女性がいたが、それにしたって正確ではない。僕は原初・根源の中に立っているだけで、あなたが同じ原初・根源の中に立たされると、原初・根源の「世界の作用」として、男の魂とつながることを求めるだけだ。そこに驚くべきことは何一つなく、ただ、カルマが誘因しようとするわいせつ側のセックスとはあまりにギャップが大きいだけだ。
「世界」と「カルマ」の対立、なぜメロメロの女の子は不穏と反撃に転じるか
僕がそばにいるだけで、バタバタ倒れていく女の子はいくらでもいる。それはいわゆる「メロメロになる」という現象だが、それは女として当然のことであって、何も特殊がることではない。まともで尊ぶべき男の魂がそばにあって、その声と胴体がずっと作用しているのだから、じきにメロメロになるのが当たり前だ。「メロメロになる」のは、これもやはり当たり前のことであって、女が溺れるほどのことではないし、男の側も自慢するようなことではない。
「メロメロになる」というのは、胴体に流れている「気」の問題でもあるが、それ以上に、肉に宿る「霊」の問題でもある。男の霊力に比べて女の霊力が弱いとき、数分ともたず女が「メロメロ」になってしまうことはよくある。「気」と「霊」の説明は正確にしようとすると面倒くさいので、正確にはしないが、物理的・生理的に作用するものが「気」だと捉えればよく、物語的に作用するのが「霊」だと捉えればいい。どちらも胴体に直接作用する。「気」は胴体の呼吸や動作に生じ、「霊」は肉そのものに宿っている(ただし不十分な人は、肉が霊的にスカスカで、人形みたいになる)(あと、魂というのは肉の霊と精神が馴染んで実体化したような状態だが、これも面倒なので説明しない。そもそも「精神」の説明が長引く)。
別に男女に限ったことではないが、どのようなことが起こるのかを説明しておきたい。女たちは僕とセックスがしたくてしょうがないのだが、なぜ「したくてしょうがなくなる」のか、そして、セックスをして「何を得ようとする」のか。
それについては、先にこのことを理解してもらいたい。われわれの、セックスの見本というと、どうしてもアダルトビデオになるが、アダルトビデオに出てくる女優と男優はそのことにかけては専門家、プロ、達者な者たちに見えるけれども、あれらはあくまで撮影のために交合しているのであって、「交合の最中にも後にも、その男女が愛し合っているわけではない」ということに注目しなくてはならない。ある意味、その点においてはまさに専門家と言えるのかもしれない。交合そのものは盛り上げるけれども、そこに愛の出会いはないというのが、彼らプロフェッショナルの流儀だ。パフォーマンスとしての肉体的交合であって、内容によっては激しいカルマのありようを見せるけれども、それをもって誰かと誰かが出会っているというわけではない。愛もなければ霊的干渉もまったくないというのは、それこそプロでなければこなせないセックスなのかもしれない(フェイクや、薬物等も使っているとは思うけれども)。
多く、現代において、セックスに「慣れている」と信じている女性は、この「出会ってはいない交合」に慣れているというケースが多い。それはそれで、別に責められたことではないし、性観念は人それぞれの自由だ。ただし、あくまで種類が違うということは学門として指摘されねばならない。
少し考えればわかることだが、そうした交合に一般的な「愛がなかった」という場合、むしろ何の問題にもならないのだ。犯罪性や生理的なトラブルが生じないかぎり、合意の上で為されたセックスが、「むなしかった」としても、むしろそれだからこそ何の問題にもならないということがある。
問題はむしろ、そのセックスの中で、かけがえのない愛や霊的干渉に出会ってしまった場合だ。この場合は、いくらでも問題になる。最悪の場合、「この人と、この人だけと、永遠に過ごしたい、この人に抱かれることだけで永遠にわたしは存在していたい」とまで感じられてしまったとき、このときこそ問題は極大化する。その欲求は、正しくは「愛」ではないのだが、ここでは簡単に、一般的に「愛」と信じられているまま、ひとまず「愛」としておこう。「愛があればセックスしてかまわない」のではなく、むしろ「愛が生じる場合があるから無節操にはできない」というのが現実的な見方だ。もちろん、愛がないセックスにおいても、単に依存症になる人もあるかもしれないが、それはセックスの問題ではなく依存症の問題だ。あくまでセックスに関わる問題というと、むしろそこに強烈な愛があった場合に、問題は極大化する。人間は、人の世で暮らしていく以上、いついかなるときも・好きなだけ・好きなように・好きな人と、セックスできるとは限らないからだ。むしろ公共で最も制限されている行為がセックスだと言ってもいい。
かといって、愛のないセックスだけを重ねて、「問題ないからこれでいい」というだけでは、さすがに人は疑問を覚える。大きな問題を抱えるにしても、愛に及ぶセックスを得ないでは、特に若い生命は、何のために生きているのかわからないというところがあるだろう。
多く、自負としてセックスに「慣れている」という人、あるいは「得意」と感じている人は、実際には、愛のないセックスを問題なくこなすということに、一定の経験と自信がある、ということにすぎなかったりするものだ。この場合の自負と自信を、大きな担保として扱うことはできない。慣れているはずのセックスで、たった一度きりのことでも、「えっ」という瞬間があって、目の前の異性と出会い、愛が確かめられ、「生きる意味を見つけてしまった」と感じることさえあったりするものだ。この場合、とたんにセックスから娯楽性は吹き飛ぶ。決して娯楽的なセックスがダメと否定されるわけではないが、少なくとも、セックスというのは一つの形態にすぎず、内実は多様性を持つということだ。
それは例えていえば、「映画」というものに似ている。娯楽性に尽きる映画もあれば、一種のスリルに及ぶ映画もある。誰が見ても感動する映画もあり、中には「ちょっと人に話せない」「わたしが生きることを定義してしまった」という映画に出くわすことも、人によってはある。もちろんその出会いによって、その他の娯楽的な映画や「感動的」な映画が否定されるわけではないけれども。
もし、「ちょっと人に話せない」「わたしが生きることを定義してしまった」という映画に出くわしてしまうことがあったとしたら、あなたはその映画の鑑賞後(それはもう「鑑賞」というレベルのことではなくなるけれども)、しばらくのあいだ、身を起こしていられなくなり、その場に倒れてしまうだろう。一種のショック症状のように。あるいはしばらくのあいだ、夢と現実の区別がつかない、という不思議な感覚の中をさまよったりするはずだ。
それと同じように、僕と一緒にいる女の子が、何もなしにバタバタと倒れていくというのは、肉に霊的な作用を受けて、何かの「物語」に引き込まれてゆき、それに耐えられなくなってメロメロになる、そして倒れる、ということで起こっている。「霊的な」と言うといかにもいかがわしいが、これは一般的に思われているオバケや幽霊的なものではなくて、「肉」を単なるタンパク質ではなく、「人」のものたらしめている成分だ。すぐれたシンガーが、いわゆる「肉声」という成分をはっきり聴かせてくれることがあるが、あの「肉声」と聞こえる声の成分が、まさに肉に宿った「霊」にあたる。肉に濃密な霊が宿っている者ほど、その「肉声」という作用は大きくなる。だから、子供の声などは、まだ「肉声」という感じがしないし、霊的な保護を逸失した女性の叫び声は、「金切り声」となって肉声性を失う。
しっかりした男の肉声は、その音質だけで(正確には音質ではないが)、取り乱しているところの人をなだめて落ち着かせる力があるはずだ。それは精神的に落ち着かせているというよりは(精神と霊は異なる)、肉から散逸しようとしているところの霊質に供給と秩序を与えて立て直していることによる。非科学的な言い方だが、多くの女性には直接のこころあたりがあるはずだ。
あるいは、われわれは、相撲取りやプロレスラーが花道を通ってゆくとき、その肉に触れてみたいと望んで手を伸ばす。そしてその逞しい肉に触れたら、何かトクをしたような感じを覚えるものだ。それは霊的に鍛えられた肉に触れてその霊力のおこぼれをもらっているというような状態だ。その意味では、女性などは特に、「この人の身にはずっと触れていたい」と感じる男性がいる一方、「この人の身はそばにいるだけで無理」「どうしようもなく、こっちの体調が悪くなってしまう」と感じざるをえない男性がいるということを、経験から確かめられるはずだ。
肉には霊が宿るのだ。このとき、肉に悪しき霊質が入り込むと、人によってはオバケ的なものを見ることになり、それをもって「霊感がある」と言われる。けれどもこれは霊質の侵入が視覚化されるということにすぎず、いわゆる霊感がない人でも、わけのわからない体調不良に陥ることはしばしばあるはずだ。
肉に悪しき霊が入り込むのを防ぐには、自分の肉の霊そのものを強くするか、そうでなければ「気」を強くするしかないのだが、このどちらも曖昧模糊としており、正しくそのように鍛えることは容易ではない。唯一、誰にでもできる方法は、筋力(スジの力)をこわばらせて、肉を固めてしまうことだ。肉を固めてしまえば、霊的な干渉は受けづらくなる。ただしその場合は、霊的な吸収も起こらないので、自らの飛躍や、その場所における物語の獲得はできなくなる。肉そのものが、霊質をレコードするタンクのようなものだと捉えてよく、われわれは自分の身を進歩させようとするとき、この肉に霊を吸収させるという手続きがどうしても必要になる。
僕のまわりで女の子がバタバタ倒れていくとき、僕の肉の霊力が、女の子の肉に入り込んで、その作用が大きすぎるので、バタバタ倒れると見てよい。いわゆる「身がもたない」という状態になる。原則、僕の肉に清浄な霊が宿っている場合には、これを摂取することに、女性の肉は本能的によろこぶ。この際、霊力が大きいと、女性はなんとなく「ここにいると安全」と感じて、その霊的な干渉を受けるのに全身(の肌)を思い切り緩めてしまうものだ。すると、どんどん「入ってくる」という感触が実際にする。ただし、その流入が量的に圧倒的だと、やはりすぐ「メロメロ」になって倒れていく。完全にノックアウトされると、これはもうしばらく横になって休むしかない。幸福なノックアウトになるが、それにしてもしばらく休むしかなくなるのだ。
ただし、これはあくまで原則であって、霊的な干渉が深奥にまで至ると、異なったリアクションも出現してくる。人は清浄な霊質と霊力の発露を、ただそれだけで嫌うことはまずないが、それを見物しているだけならともかく、自分の深奥にまで作用してくるとなると……霊的なはたらきかけは、身に蓄積したカルマ群と衝突するのだ。バタバタ倒れることの半数以上には、こうして身のうちのカルマ群と「折り合いがつかない」ということから憔悴して倒れるというケースが含まれている。
カルマは身に入り込み、身を縛りつけて、身と一体化し、一種の「体質」に成り果てている。それは「体質」なので、今さら本人の意思でどうこうと、変化させることはできない。
たとえば男性嫌悪(憎悪)を主義とする一群をミサンドリーというが、仮に「X女史」の場合、過去に身口意がミサンドリーを標榜あるいは実行してきたとすると、そこでうそぶいてきたことや、「やらかして」きたことが、当人の現在の「体質」を作り上げていることになる。
何かを憎悪し、何かをあしざまに言い、虫唾が走るほど嫌悪してやろうとする場合、それだけの「分泌物」が、体内に流れる必要があるわけだ。X女史は、ミサンドリーを己の主義とし、よりそれを強力に実行するため、これまで己の胴体にそれだけ必要な「分泌物」を体内に得るよう、結果的に訓練してきたことになる。憎悪し、讒言し、極度の怨嗟をしようと思うと、通常の感情では足りず、感情を数千倍にブーストする仕組みが必要だ。X女史はこれまでの己のミサンドリー遍歴において、1ポイントの当該刺激に対して1000ポイントの分泌物を排出するよう己を訓練づけてある。これがX女史の、生涯の「体質」になるのだ。いったん体質となって組み上がった以上、このことは後に取り消しは利かず、現実的にはほとんどの場合、生涯にわたってこの体質は消えず、むしろ加速していくとみなくてはならない。こうして過去の己の(身口意の)行いによって、現在の体質が形成されている現象と性質を「カルマ」という。
もしこのX女史を身近にして、僕が胴体から霊的な干渉をもたらすと、程度によっては、壮絶といってよいほどのリアクションが生じる。X女史は、もはや自分では制御の利かない、「地獄に落ちるヴィジョン」を観たりすることがある。このヴィジョンはやがて自分が往く世界についての予告を表示していると感じられて、人心では耐えようのない、とてつもない恐怖が起こる。そのときX女史は失神するか、そうでなければこの世のものとは思えない悲鳴を上げ続けるしかない。もしこのことが強度に続いてしまう場合、本当にX女史は復旧不能な精神障害に陥るか、場合によっては自殺に至るケースもある。
このことについては、唐突になるが、ナメんなよ、とだけ申し上げておきたい。X女史に対して僕が霊的な干渉を仕掛けた場合、霊的な干渉はX女史の身のうちでカルマと衝突するため、X女史としては折り合いがつかず、そこに惹き起こされる憔悴から脱却するため、むしろ彼女のほうから僕に向けて、カルマ的な干渉を反撃に仕掛けてこようとするだろう。このパターンは、まさに飽き飽きするパターンだ。
そうして、X女史が目を剥いて、ミサンドリー的な攻撃を仕掛けてきたとしても、僕の側はすでに、そのことにメラメラ意識を燃え立たせて諍う、というカルマについてはほとんど償却を済ませている。X女史の撒いた毒液は、空間と女史自身を毒に犯すだけで、僕のことを犯しはしない。X女史はこのとき、また「毒液を吐くために、胴体に悪い分泌物を排出させた」ということを繰り返している。つまりこの場でX女史は、カルマ(体質)を強化する実践をライブ形式でパフォーマンスしたことになる。
そして、特に「霊的に清浄」と思える対象に向けて、なおも毒液を掛けようと踏み切ることには、内部的にとんでもないトリガーを引かねばならない、ということがあるのだ。このトリガーはとんでもないもので、そこには当人が予想していたよりはるかに深いカルマが生じる。この、ライブ形式で生産した深いカルマによって、X女史は「たちまち」地獄落ちのヴィジョンを観るようになり、その後は一日たりとも安らかに寝起きできる見込みはなくなったりする。そういうケースが事実としてあり、またそういった複数のケースが、同じ手続きで生じるということを、今は一定数の実例を根拠にしてレポートすることができる。
ナメんなよというのは、僕に対してのことではなく、人間の「身」に起こることについて、本当に甘くみないほうがいいということだ。いかなる無神論者も、わずかでも直観を残しているならば、わざわざお地蔵様に小便をかけるというようなことは、何か不穏の予感がして実行しないものだ。理屈では「バチなんか当たらない」のだが、それでも、お地蔵様に小便をかけるというような「思い切った」ことをするためには、体内で大きなトリガーを引く必要が実際にある。その身の内のトリガーが、もはや引き返すことのできない「体質」を形成するのだと警告されれば……そういうことはあるかもしれない、と合理的に自重できる。またそうした、行為にまつわる「トリガー」によって、「体質」が形成されていくこと、それが「カルマ」なのだと言われれば、この論理にさしあたり矛盾は見つからないのだった。
胴体から胴体へ、肉から肉へ、霊的な干渉・霊的な作用が向けられるということは、肉に向けたエコー検査のように、その身のうちに「しこり」や「違和感」がどの程度あるかを浮き彫りに教えてくれる。霊的な干渉が向けられると、ごくわずかに違和感が返ってくる(反響してくる)人もあれば、無数のカチコチの違和感が返ってくる(反響してくる)人もある。誰でも知っているとおり、「目の前の人が、何かヘン」と感じるとき、その「違和感」が検出されている仕組みがこれだ。お互いの肉から霊的な干渉がエコーとなって向けられ、そのまま反響して返ってくるはずが、何かエコーの凍結や消沈、消失が起こるように感じられる。何かどこかの部分で、エコーが「すっと沈み、吸い取られてゆく」のが感じ取られるのだ。かすかでもヒビの入ったグラスを指で弾いてもまったく音が響かないように、内部のカルマが人間の全体性にヒビを入れてしまっている場合、もうどのように弾いても音が響かないということが感触的にわかってくる。
実際、「このごろ、もう何をどう言われても、響かないのよね」という現象が、特に加齢やストレスによって、実感的に起こることがあるのだと、われわれによく知られている。響かないならば、そのときの肉に霊力がないか、もしくは霊力があったとしても、ひびわれた肉がその作用してくる霊力を、地の穴に吸わせているかだ。
家電機器においても、漏電に対してはアース線を差し込んでおき、危険な電流が生じた際には地面に流して消失させる機構を持っているが、むろん本線の回路がそうしてアース(地)に触れてしまっていては、もう回路そのものがはたらかなくなるので、それは故障か不具合品だ。そのアース機構とよく似た感触で、人の身は、カルマの蓄積から違和感を生じていくと、その違和感はやがて「地」につながり、その後はいかなる霊力の作用も「地」に流れてしまい、「もう響かない」ということが起こってくる。そのアース機構をオーバーロードするほどの霊力干渉ができれば話は別だが、それは極端な現象であって一般に取り扱える現象ではない。
過去の行いによって、個々人の「体質」というレベルでカルマが積もっていくということは、この不具合的なアース接続のことも含んでいる。「響かない体質」というのもやがて成り立ってくるということだ。
われわれが、己の肉から「霊」を失ったら、その肉はどうなるだろうか。われわれは動物的な生命としても生きているが、これらの生命はよく知られているように、ミトコンドリアという一種の虫のようなものが細胞に共生していることで成り立っており、われわれがしている「呼吸」というのはこのミトコンドリアへの酸素供給にすぎない。ミトコンドリアは特殊なDNA構造をもった糸粒体だが、ともかく、われわれが肉から霊を失ったとき、われわれの肉は純然たる動物となり、利己的遺伝子の命じるままに生きるものでしかなくなる。つまり、種の保存、種の繁栄、だけが目的となり、その目的に駆り立てられて一代を過ごすだけになる。安全を欲し、有利さと目立つことを求めるというのも、すべて利己的遺伝子が種の保存と繁栄を望んでいるからにすぎない。それは人の意志ではなくDNAのコードのリザルト(結果)だ。
カルマというのも、大元の出どころはすべてこのDNAコードだと捉えて差し支えない。ミトコンドリアともどものDNAコードが由来だ。われわれは、生まれながらになぜか自動的に「死」を避けるようにプログラムされている。そして取っ組み合いになれば自動的に「勝とう」と必死になるようにプログラムされている。すべて種の保存と繁栄に向けたプログラムであって、それは人の意志ではない。仮に自殺したり、自殺行為にトライしたりしても、それはこのDNAコードよる支配を脱却したことにはならない。
われわれが人に「違和感」を見つけるとき、カルマによって霊力を失った肉がそこにあるのを感知して、それを違和感として検出するのだが、霊力を失った「カルマ肉」は、カルマディスクと呼んでよい一定のパターンに基づいて挙動している。違和感は必ずパターンを持っているのだ。それがパターンであるのは、ディスクであって人の意志ではないからだ。警報フェロモンを嗅いだハチが攻撃的になることように、その「パターン」は何千年も何万年もただ繰り返されてきたものであり、当人の意志ではないし、また当代で変更されることはまずない「パターン」だ。
われわれの肉から霊が失せたときには、われわれはその後、カルマディスクに支配された、一定のパターンを繰り返す肉として生きるしかなくなる。また、そうしてカルマ肉として運営されていくことは肉にとってまだ穏健なたぐいで、最悪の場合、そこに清浄な霊ではなく「魔」が取り憑くこともある。その最悪の例が、いわゆる通り魔や放火魔のたぐいであって、これらの「魔」は、もはや利己的遺伝子の目的さえ逸脱して、肉をただひたすらの「魔」でしかなくしてしまう。人の肉は、あまりにカルマに焼かれすぎると、耐えきれずやけくそになって、この「魔」を自ら呼び込むことがあるものだ。
僕のまわりで女の子がバタバタ倒れていくとき、単に「なぜかメロメロになっちゃう」というだけならば何でもない。楽しいことだし、本来、男と女ならそういうものだ。まして、たいてい女性のほうが若く、こちらとしては年齢と経験の差も大きい。
ただ、そこからさらに深く進んでゆくと、「気を失いそう」、あるいは「本当にまったく動けない」という状態が出てくる。そしてそこから、なぜかありもしない妄想が展開したり、まったく理由のない不安、不穏の感情、気持ちの暗転、死の念慮や、逆に上位思想や選民思想などが起こったりする。マウントを取らないと息ができない、ということが起こったりする。これらはすべて、まったく自覚できない謎の領域から起こってくるため、注意が必要だ。不明の感情が起こることはたいした問題ではないが、その不明の感情を真に受けて取りかかることは尾を引いてその後に悪影響を及ぼす。
そうして女の子たちが倒れていきそうになるとき、ごく単純に言えば、その場に起こっている霊的な干渉と、「体質」とが、対立して衝突しているから、憔悴して倒れそうになるのだと言える。そして倒れまいとして、人は己の「体質」に追い風をもたらす行動を取ろうとする。つまり、己のカルマに加担する行動を取る。人の悪口を言ってみたり、人をからかってみたり、アニメ声を出してみたり、陰鬱な雰囲気を出してみたり、性的カルマの誘因をまき散らしてみたりするのだ。あるいは大声を出してみたり、人を威圧し、マウントを取ってみたり、パワハラをしてみたり、セクハラをしてみたりする。人によっては、すでに肉のコンディションとして、そのようなカルマと体質寄与を追加しないでは、もう今日一日を生きられないという場合さえある。人をイヤな気分にしないと自分が元気になれない。「体質」というのはそういうものだ。
このことは、次のような「順序」で起こることだと把握しておくと役に立つ。われわれの肉は、本来清浄な「霊」を十全に宿しているべきだが、その霊的な干渉のさなかにおいてこそ、身に積み重なったカルマのありようが浮き彫りにされる。霊的な干渉と浮き彫りにされたカルマの中で、人は己のカルマに根ざした「何それ?」というような挙動や様相を発露するものだ。
1.肉には霊が宿る。正しく信じた上で、身をもって生きた者の肉には、清浄な霊が宿る。これにより肉がガキではなくなる。佳い肉の持ち主は、多くの「世界」を所有し、広い「世界」とつながっている。
2.人と人のあいだ、肉と肉のあいだで、霊的な干渉が起こる。この干渉は、清浄な霊であることを前提にしたい。佳い「肉声」がわかりやすい尺度になる。
3.霊的な干渉が起こるのは、必ずしも肉と肉のあいだだけとは限らないが、ここではその他の干渉は捨象する。代表的には「場所」や「地形」なども霊的な干渉力を持っている。
4.霊的な干渉は、悪霊の場合においては、たいへんな心身への不調とストレスになるが、清浄な霊においては佳い物語が得られる。筋力をこわばらせれば肉への霊的干渉をブロックすることができるが、霊的な干渉をブロックすると、安全ではありえる反面、進歩も物語もないのでむなしくなる。
5.また、筋力をこわばらせるブロックの場合、侵入は防げるが、いったん内に入ったものを閉じ込めてしまうということにもなる。悪霊をリリースできなくなる。
6.肉と肉のあいだで、霊的干渉が起こるのと同様に、血と血のあいだで、カルマの干渉も起こる。よってカルマの干渉は血縁者において最大に生じる。同じ食卓で同じ食事を摂るだけでもわずかに血は近くなる。カルマの干渉そのものに利益はないが、身内はカルマトラブルに関わるフェイルセーフ(受け皿、避難場所)に機能するので軽視はできない。ただしこの受け皿は閉じ込めると「世界」を失わせるというデメリットもある。
7.肉と肉のあいだに霊的干渉が起こると、肉が活性化し、清浄化され、肉はカルマの束縛を離れる。「世界」や「肉声」が恢復される。ただしこれは、「本来はそうなる」という、もっともよろこばしい形に限ってのこと。
8.カルマが深入りした肉にまで霊的干渉が及ぶと、カルマが霊的干渉に反発する。霊的干渉を受け付けず、反撃しようというメカニズムがはたらく。これは、カルマがカルマ自身として生存しようとする仕組みによって生じる。つまり人の意志ではなく生じる。
9.よって、霊的な干渉がある場面で、突飛な行動、場違いな挙動と様相、意識の離脱、昏睡などが起こる。深入りしたカルマが、霊的な干渉によって殺されそうになっているので、そうはさせじとカルマディスクの側が自動反発するのだ。多く当事者は「耐えられない」「何かがキツくて耐えられないから」という自覚を得る。ドラキュラの体質にロザリオの霊的干渉を仕掛ければ「何かがキツくて耐えられない」だろう。
10.清浄な霊が干渉している場に、「耐えられないから」というカルマディスク側の事情で、反発の行動や様相が示されるとき、「清浄な霊に泥をかける」必要があるため、その決断には大きなトリガーが引かれる。このトリガー行為が新たに大きなカルマを生産する。より強固な「体質」が形成される。
11.「世界」と「カルマ」は対極にある。よって、極大化された霊的干渉が為されると、その干渉を受けた者は、強制的に「世界」と、己の「体質」の行く先を、直覚ないしはヴィジョンとして直視させられることがある。このことは、しばしば精神的に耐えきれず、その者を恐慌に陥らせる。場合によっては、実際的な精神の損傷が起こるリスクもある。
12.これまでに、謗ってきたものを自覚せよ。これまでに、欺瞞してきたものを自覚せよ。○○を謗り、○○を嘲り、○○を否定し、○○を騙り、○○を偽装し、○○にうぬぼれてきた、そういったすべてのことがことごとく「カルマ」となって、己の体質を形成している。霊的干渉によって「世界」と接触したとき、そのことごとくの自分が「やらかしてきたこと」が、己の身の「違和感」を証拠として浮き彫りになり、「どのような理由によって自分は世界に入れないか」ということが明らかにされる。この浮き彫りにされたシーンにおいて、人は、なおも欺瞞を続けてカルマを増産するか、悔い改めてカルマの償却に向かうかが問われる。
13.カルマの償却は、身をもって為されねばならないが、具体的には、霊的干渉の中で己の肉をどうはたらかせるか、ということで為される。「個人的な努力」では償却は為されない。「霊的な精算」で償却は為される。正しく為された例や、正しく仰げる指導者を見つけて教わること。
14.「場所」であれ「人」であれ、清浄な霊の干渉をもたらしてくれるものを尊ぶこと。清浄な霊的干渉の中で消費者にならないこと。消費したという行為もカルマとなり今後の体質を形成してしまう。よって逆の行為、「貢献」の側に立つこと。カルマ生成の逆を行うことでカルマは償却されてゆき、解放された胴体には徳性が現れ始める。
15.「カルマ」とは、利己的遺伝子の求めによって、有限の生命を有利に生きる能力のことだ。有限の生命を有利に生きるということは、果てに「永遠の国」を否定することにつながる。有限の生命を有利に生きることについて、カルマは「強力」であるが、強力であるからといって、それを信奉してはならない。
16.「世界」と「カルマ」が対極にある以上、われわれは、「世界の徒」と「カルマの徒」という二つの勢力に分かたれる。はじめはあいまいなその所属も、己の行いが蓄積していくほどに、所属は確定的になってゆく。有限の生命を有利に生きられる天賦を与えられている者ほど、そのぶん「カルマの徒」に属してしまう可能性が高くなる。所有する財産や、地位、美貌、知能、気性、運動能力等によって、有限の生命をより有利に生きられるほど、それを頼りにすることで「カルマの徒」に属してしまうことになる。
17.所有する財産、地位、美貌、知能、気性、運動能力等を、カルマにせず「徳性」にすること、そのことには精密に正しい知識と行いが必要となる。
18.「世界の徒」と「カルマの徒」は、互いに逆の活性と沈滞を示す。霊的干渉の中、「世界」が顕示されると、世界の徒はめざましく活性化するが、カルマの徒は憔悴してめまいがし、眠くなる。不穏感情や悪寒が生じる場合もある。一方「カルマ」が顕示されると、世界の徒は息苦しく感じ始めるが、カルマの徒は「グッと元気を盛り返す」。いわゆる「ゲンキンなやつだな」という現象で、ゲンキンなやつには本当に現金を渡すとグッと元気(精悍さ)を盛り返す。
19.「世界」と「カルマ」は、初歩的には対立するが、奥の義においては「二重に進行」している。奥の義において、世界はカルマを否定せず、カルマは世界を否定しない。それらは別の事象平原に存在しているからだ。「世界」の事象平原には時間軸がなく、「カルマ」の事象平原は時間軸に支配されている。「世界」の事象平原には「真我」という「わたし」が存在しており、「カルマ」の事象平原には「吾我」という「わたし」が存在している。吾我は時間と共に死滅する以上、カルマディスク上に定義された「わたし」にすぎず、真我とは比較にならない。だが二重に進行する二つの事象平原は同じく「わたし」と感得される。
20.己の活性化について知り、己からどのように「否定」が生じるかを知ること。「世界」に活性化するのは真我であり、「カルマ」に活性化するのは吾我だ。猖獗を極めた吾我は、「世界」の顕示には憔悴するので、「カルマ」をもって「世界」を破壊しようとはたらく。また、ファナティクに「世界」を信じたのみの真我は、「カルマ」の顕示には気が遠くなるので、「世界」をもって「カルマ」に死罰を与えようとはたらく。どちらも本義に正しくない。カルマは闇雲に否定されるものではなく、やがて徳性に転じることが期待されるものだ。大きな力をもったカルマほど大きな力をもった徳性に転じる。財産、地位、美貌、知能、気性、運動能力等のすべてを徳性に転じることができるならば、より大きなそれの持ち主のほうが大きな徳性を発揮することができる。
「この人の射精は違う」、という手がかり
僕のまわりで女の子がバタバタ倒れてゆき、「メロメロになる」のは、肉と肉のあいだで、霊的干渉が起こっているからだ。おそらくほとんどの人は僕が提示するサイズの霊的干渉を身近に受けたことがなく、日常的な観念は吹き飛んでメロメロになる。僕の肉に寄れば寄るほど、これまでに観たことがなかった「世界」が視えてくるので、僕の身にしがみつくようにして倒れ込んでこようとする。だがどこかの地点で反転し、深入りした「カルマ」の側から突如として反撃が起こってくる。不穏の感情や、悪寒、突拍子もない行動、カルマ的な振る舞いや、カルマ的な声を発揮しようとしだすこと。そうしてカルマ側からの反撃を少しでもすると、「グッと元気が盛り返す」と感じられる。この反撃をしないと本当に「倒れてしまう」し、中には「死んでしまう」と感じられることもあるそうなので、もはや当人の意図から離れて「反撃せずにはいられない」、という状態に取り込まれていくことも起こるようだ。
女たちは、僕と「セックスがしたくてしょうがない」のだけれど、改めて、そのことは「当たり前だろ」と突き放して述べたい。誰がここまで食い入ってセックスうんぬんを、肉の霊的干渉と見抜いて言及しているわけがあるだろうか。一般的にセックスは、「セックスでしょ」としか捉えられていないはずだ。そんなことで、もし僕自身がよろこべて、また女たちが果報を得られるのだとしたら、それ以上に気楽で豊かな世界はあるまい。けれども実際にはそんなことにはならないのだ。女たちが、僕とセックスをしたくてしょうがないのは「当たり前」だが、彼女らを無自覚に求めているところの果報的体験に至らしむるには、とても「当たり前」とはいえない、複雑で手ごわい手続きを要するのだった。
裸になって僕にしがみついていれば「世界」に連れて行ってもらえるというわけではないのだ。むしろそのような、浮かれた無防備さで、不遜に「世界」に割り入ろうとすれば、その不遜さに応じて、己の身にどれほどのカルマが蓄積しているものかを、壮絶な形で突きつけられる結果に行き着くものだ。もう一度、「女たちは僕とセックスがしたくてしょうがない」という、この当たり前のことを、力強く繰り返そう。原初・根源の「世界」に及ぶとき、セックスは性器や性感帯に関わる行為ではなくて、霊的な行為であり、むしろ女の側から、「したくてしょうがない」と希求するものだった。
「世界」と「カルマ」が対立してある以上(正確には「二重に進行」しているのではあるが)、一口に「セックス」といっても、世界の作用として営まれるセックスと、カルマの作用として営まれるセックスがある。一般に、セックスが「したくてしょうがない」という加熱が身に起こるのは、男性のほうだとされている。それは男性の身が性的にそのように作られているからだ。男性はまさに性ホルモンという体内の「分泌物」によって、思春期などは特に、セックスに関わる「カルマの徒」であることを強制される。表面上をどのように取り繕っても無駄な話だ。分泌物が体内を巡る以上、どのように取り繕っても体内はそのカルマの火に焼かれざるをえない。これが果たして、「徳性」に転じることなどあるのか、ということになるが……
男性は、第二次性徴を迎えるまでは、射精の機能がないので、女性と性交を求めようとはしない。それは、第二次性徴までは、射精に関わるカルマが身に発現していないということだ。潜伏状態にあって、この潜伏状態のあいだは、男性にとって女性はおおむね「世界」の存在であり、「カルマ」の対象ではない。
単純な話、第二次性徴以降は露骨に、男性の身に射精のカルマが激化して顕現するので、女性にとって男性は、カルマ的に「操りやすい」「手玉に取りやすい」という存在になる。このことは、女性を長いあいだ、優越感と自負の気分に浸らせるものだ。なんだかんだ、多くの女性は、これまでに男性に言い寄られながら暮らしてきて、そのことを内心で自負や自信や優越感にしているはず。女性のカルマは性交そのものより性的な「地位」に激化して現れるので、結果、男性の「射精へのカルマ」と、女性の「性的地位のカルマ」が、戦略的にせめぎあって、相互に利益と納得が得られる形に収まるよう合議がなされていく、ということになる。だがこれらのカルマ談合は、一時の高揚と充足を与えてはくれても、数週間後には「飽きる」ということが生じて来、その後には「もっと大きな獲得を」と求めてしまうものだ。薬物の作用と同じで、身には分泌物への耐性が生じてくるので、前回と同等の分泌量では、前回と同等の高揚は得られなくなる。
こうして、カルマと耐性の増幅円環が生じ、なおも「獲得」ができればできるだけ、その者はこの増幅円環に囚われていくことになる。男性の射精へのカルマと、女性の性的地位へのカルマが、より優越的に満たされるとき、カルマの徒はよりきらびやかな高揚と官能の渦に取り込まれる。それはまったく「バラ色」に見えるのだ。だがそれは「世界」が視えているのでは実はない。激化したカルマに養分が注入されるとき、そこに生じる「バラ色」はまったくきらびやかで、それがまさか「世界」ではないとは、その真っ最中の当人にはどうしても気づかれないものだ。
むろん、理論上は、男性の射精へのカルマと、女性の性的地位へのカルマが、強烈にあるぶん、それぞれが射精への徳性と、性的地位への徳性に転じれば、それ以上によいことはない。けれども、男性のペニスおよび射精のメカニズムに関わるカルマは強烈に根深く、女性のヴァギナに関わるカルマはさらにそれを上回って強烈に根深い。それを徳性化することは、困難の極北だということをまず認めねばならない。
それでもなお、そのことの徳性化へ傾こうとするならば、その取り組みへは、やはり男性が先駆となるだろうか。男女が同年代だと仮定すると、胴体の構造および性器官の特質上、男性の側の性的カルマが、先に徳性の側へ傾き始める必要がある。
ごくごくまれな、すでに現実的とは言えないレベルの可能性かもしれないが、もし当該のことを重要なテーマとして取りかかろうとする女性は、セックスがどうこうというより、「この人の射精は違う」という男性の射精に接触する必要がある。つまり、カルマの作用とは異なる気配をもって射精が起こる、その瞬間の霊的干渉をその肉に受けることが必要になる。この場合、女性のヴァギナを使用せず、ひとまず男性の射精だけがその霊的干渉の場に示されるほうがふさわしいだろう。そのとき女性はいっそ、慎み深い、射精のお供だ、というぐらいのほうが、困難の極北にしても、まだしも成功する可能性が高くなる。ここで男性の射精に際して、もし女性がおちゃらけるようなら、必ず後に殺し合いになるので、その場合は無条件で縁を切り、金輪際接触しないことを推奨する。男性の射精に対して「笑う」という体質になった女性は少なからず存在するが、それが救済される可能性は経験上ゼロで、それどころではなく「犯罪被害者にならないよう、常に周囲に警戒する」ということを勧めておきたい。なぜかこのパターンは、すさまじい不運を引き込むことが多いのだ。男性の射精に対して「笑う」という体質になった人は、もうほとんど「魔」が憑いているので、それをどうしたらよいというのは僕の知識の範疇を超える。
馬などの採精を見ればわかるとおり、また性風俗産業の形態を見ればわかるとおり、哺乳類のオスに宿されたカルマは、第一に「性的に興奮して射精する」というカルマであって、ヴァギナに射精することそのものを実はカルマには含んでいない。ヴァギナに射精することが、カルマ的にはもっとも「性的に興奮する」というだけであって、より上位の興奮が見つかれば、射精先の「メイン」は変更されるだろう。一部のフェティシズムなどが典型的にそれにあたる。
われわれがもし、セックスを慎重に、本気になって取り扱おうとしたとき、まったく誠実に、男性の射精と女性のヴァギナを、分離して捉えることが可能だということだ。セックスのとき、「やはりヴァギナが重要だ」と感じられることがあるのは、実は男性の側のカルマではなくて、女性の側のカルマによる。いわゆる「本番」という言い方があるが、ヴァギナへの挿入は実は女性の側にとっての「本番」なのだ。よって、そのとき女性を男性と同列にキャスティングしなければ、男性の射精に対して必ずしも女性のヴァギナは必要でなくなる。
「カルマの作用とは異なる気配の射精がありうるのか」ということを確かめるとしたら、ひとまず女性のヴァギナを分離して、当該男性の射精のみを取り扱うことが適正な取り組み方になる。女性のヴァギナは、男性のペニスよりもなおカルマ強度が高いのが一般的なので、そこにヴァギナを持ち込むと、射精うんぬんについて確かめるというようなことは到底できなくなるのだ。
実際、そういったことの経験が豊富な女性のレポートによると、中にはまったく「哺乳類のオス」としての、射精カルマのみに支配されている男性も少なくないとのこと。おそらく何の学門も得られずにいると、いかなる男もそこにしか行き着かない。そういった男性は、女性の匂いや裸身や性器に「興奮」し、まったく純然に、摩擦によって射精に至り、ただその快感に充足するという。その射精の対象が誰であるとか、誰に向けたものであるとか、そういったことはまったくなく、ただ最大の興奮状態を得て、最適の摩擦を得て、最大の射精と、その性的快感を得るのみなのだという。女性からのレポートから誠実に申し上げるなら、「男のほとんどはそんなもの」ということも、実際的なこととして報告しておかねばならない。また、そうして「興奮して射精する」だけの行為であるからこそ、その興奮には「飽き」が生じるので、コスプレ等々を含めて「プレイ」の内容にも、マンネリ防止の工夫を凝らさねばならないのだそうだ。このレポートはつまるところ、われわれが漠然と想像している、よその他人まで含めた「セックス」は、実態としては「まさにカルマそのもの」として営まれているのが大半だということを報告している。また、女性の側も、その「カルマそのもの」の行為たるセックスを受けて、「そのほうが扱いやすいし、娯楽的にも気分的にも、まんざらではないの」という愉しみ方をしているところがあるのだと、当該の女性は報告している。
可能性としては現実的なレベルではないかもしれないが、もしあなたが、カルマの作用とは異なる気配の射精を受け、その霊的干渉を肉の身に受けることがあったならば、その射精は摩擦の快感から吐出されたものではなく、「あなた」に向けて吐出されたものだということが直覚されるだろう。仮に、あなたがそのとき、あなたのヴァギナを使用せず、彼の射精を手のひらに受けただけだったとしても、なぜかあなたの胴体の中枢、その中心軸と呼んでよいところにまで、ある種のほとばしる熱が届く。あなたの側に運動量はなかったとしても、あなたの全身からは熱による汗が噴き出すはずだ。そしてあなたは、その射精が確かに「あなた」に向けて吐出されたことを直覚して、多大に「ありがとう」と彼に申し伝えることになる。なぜか「ありがとう」なのだ。そういう直観が強烈にあるらしい。そのときあなたは、射精を受けた直後の、熱のさなかにいるにも関わらず、常にないほど穏やかに落ち着いていて、視界はむしろ広く冴え渡るのだ。そこに「世界」の端緒が視えているといっても差し支えないし、そのときのあなたもそのことを否定しないだろう。何よりこのときの射精および、その射精を受けることは、「意味がある」と確信される。そのとき、男女平等うんぬんといった観念はどこかへ消え去り、別に男尊女卑に偏るわけでもないが、ただその射精の吐出について、「自分はこれを受け取る側なんだ」ということを直覚し、そのことを誇りかつよろこびに思う。なぜそのように感じるかという理由は特になく、つまりこれは価値観による想念ではなく「世界」の作用による想念だ。
あまりおおっぴらにレポートできることではないが、実際的なこととして、これまでに男性不信や、セックスに対する不穏等を抱えていた女性が、ただ一度の、信頼できる男性からの、「カルマの作用とは異なる気配の射精」を、その身のどこかに受けるだけで、パッと目が覚めたように、男性不信やセックスの不穏については「もういい」と、そのすべてを根本的に解決してしまうことがある。代表的な言を挙げるなら、「大丈夫、もうわかった」「こういうことをされるというのなら、ぜんぜんかまわない。むしろうれしい」「もっと早くこうしてもらいたかった」等。ただしこれは、ひとまずセックスにおける男性の「射精」が、徳性に転じうることもあるという信奉を得たにすぎず、女性のヴァギナに関わるカルマは引き続き未解決のままだ。ヴァギナを取り入れてはさらに何倍も難しくなるが……
とはいえ、とにかくこれまでの経験上、女性がセックスを、意味のあるもの、娯楽でない値打ちのあるもの、穏当で、「世界」への手がかりになりうるものとして掴む第一歩としては、こうして男性の徳性射精を確かめ、そのときに起こる霊的干渉を肉に受けるという手続きがどうしても必要だ。ヴァギナの問題はまた別。ヴァギナの問題は、おそらくさらに何倍もむつかしい。といっても、男性の射精がカルマから離脱して徳性化するというのも、「冗談じゃない」というレベルで、それ自体が困難を極めていると言わざるを得ないところもあるが……
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがないのだ。だが、それが何だというのだろう。主題はとうの昔に、まったく異なるところに遷移している。セックスはセックスでしょ、と安易に捉えられている中、そのまま安易にペニスとヴァギナを向き合わせたところで、期待されていた果報の世界が得られることなど決してない。われわれは、幻想の中ではセックスを、「徳性の身」の重なり交わるものとして思い描くが、われわれの実際の身はその幻想からはるかに遠く、カルマにまみれている。そして、幻想の中で思い描いている「バラ色」を、本番中、カルマの激化から生じた「バラ色」とすり替えられても、われわれはそうと気づけないのだ。僕はなるべく、自分の身のまわりで、愛すべき女たちがそのような毒のバラに取り憑かれていくさまを見たくない。
カルマの徒は世界の徒を「愛」せない
女たちは僕とセックスをしたくてしょうがないし、僕のそばにいるとメロメロになって倒れていくのだが、そうして「セックスしたくてしょうがない」からといって、当の女の子が僕のことを愛しているということにはならない。彼女らが僕と「セックスがしたくてしょうがない」のは、肉から肉への霊的干渉において、「世界」が与えられ、その肉が霊的に「あやかり」、豊かになることはあっても、損なわれたり失われたりすることはないと直覚されるからだが、そうして「激しく焦がれ、求めてやまない」ということは、当人の自覚がどうバラ色であったとしても、定義的に「愛」とは異なる。何しろそれは、僕が「霊的干渉を供給する無限ユニット」として存在しているに過ぎず、そこに僕の主体性が認められ、尊重されて愛されているということではないからだ。
もし世界のどこかに奇跡の泉や奇跡の温泉があったとしたら、「あの泉にもう一度行きたくてしょうがない、あそこに裸で飛び込んで、全身にあの奇跡を浴びたくてしょうがない」と、誰だって当然に焦がれて思うだろう。むろん、奇跡の泉というような、主体性を持たない天然物を「愛する」というのならば、その存在を尊び、よろこび、保全を求めるということでよいのかもしれない。が、その「愛する」という対象が人や動物となると、その存在の定義である「主体」を認めないことには、その対象を愛していることにはならない。
つまり、「奇跡の泉」というような天然物なら、それがいかにありがたいものであったとしても、それ自体が笑ったり泣いたり、驚いたりよころんだり、何かを大切に思ったりはしないということだ。生物でさえないのだから、「奇跡の泉」が主体性を持つことはない。けれども僕は、本当にそうなのかどうかは証明できないが、ひょっとしたら、笑ったり泣いたり、驚いたりよろこんだり、何かを大切に思ったりする、「主体」を持った存在かもしれない。女たちが僕とセックスをしたくてしょうがないというのは、そうして僕が笑ったり泣いたり、驚いたりよろこんだり、何かを大切に思ったりするから、この人とセックスがしたくてしょうがないのではないのだ。あくまで肉の霊的干渉によって、「セックスがしたくてしょうがない」とメロメロになるだけだ。僕の性能は関係あるが、僕の感情はまったく関係がない。
また僕のほうも、「僕の主体性のありようを愛してくれよ」というような、言うだけ無駄の野暮を主張する性向はないのだ。愛してくれる人は言わなくても愛してくれるだろうし、愛してくれない人は、どれだけ言っても愛してはくれないだろう。そもそも僕は、自分の能力と学門には一定の信頼は置いても、僕の存在や主体そのものが「愛される」ということに、根拠のない信頼や期待は置かない。なぜ「根拠」がないかというと、僕の主体を愛する誰かがいたとしたら、それは向こうの主体が僕のことを愛したのであって、それは学門でも何でもなく、ただ「愛した」というだけだからだ。向こうの主体が決めることを、いかようにしても僕から操作したり差出口したりはできない。
僕は、僕の存在や主体が「愛される」のかどうかについては、まったくのno idea――なにしろ、それは僕が決めることでもなければ、僕が考えることでもないので――だが、僕のことを愛してくれている人は、その眼差しでただちにわかるので、事実として、僕を愛してくれる人はいるということを、現存するそれに限っては認めざるをえない。ただし、昨日誰かが僕を愛してくれたことをもって、今日の僕が誰かに愛されるという演繹はまったく成り立たない。なにしろ、それは僕が決めることではないのだから。
そして、単なる数の割合でいえば、僕のことを愛してくれる女は、割合としてまったく多くない。女たちは、僕と「セックスがしたくてしょうがない」のだが、その中で、僕のことを愛してくれている女はぐっと少ないのだ。そのことに不満があるわけではない。不満も何も、どこまでもそれは僕が決めることではないのだから。ただ数的な割合を把握している。極端にいえば、僕と「セックスがしたくてしょうがない」女性の大半は、単に「霊的にトクをしたい」という理由のみにおいて、僕とセックスがしたくてしょうがないのだと単純化できる。言ってしまえば、同等以上の霊的干渉が与えられるユニットが存在すれば、別に僕である必要はなく代替が利く。特別に僕とのセックスがあるのではなく、霊的に高スコアのセックスがあるだけだ。それは単純に、もっとウデのいいエステがあればもちろん転院するわ、という経済行為と同じだ。現在、仮に僕が死んだとしたら、「困る」という人は数多いが、「あの人がもういない」と悲しむ人は少ない。
これは何について言及しているかというと、繰り返し、「女たちは僕とセックスがしたくてしょうがない」のだが、そのことは、「女たちは僕を愛してやまない」ということとはまったく異なる、ということを明瞭化しているのだ。原初・根源の「世界」において、女はそれほど男とのセックスを求めるのだが、そのことは、「女はそれほど男を愛するのだ」という定義にはならない。そして平たくいえば、女がそれほど男とのセックスを求めたとして、その時点では未だ「世界」としては不十分であり、この時点では僕が伝えたいところの「世界」はまったく成立していない。
実はこのことには、愛する・愛さないという選択の裏側に、そもそも「他者の主体性を否認する」というメカニズムの支配があるのだ。「他者の主体性を否認する」という、この否認の中で、他者の主体を愛するかどうかというよりも、それ以前に、その他者の主体というのが「承認不能」になっているという実態がある。
つまり、わかりやすく僕の場合、僕が客体として、肉と肉のあいだに豊かな霊的干渉を起こしうること、および「世界」の視認を与えうることについては、あるていど認めてもらえる。けれどもその僕が、笑ったり泣いたりすることがある、ということについては否認される。客体としてはその機能や性能は認められるし、求められるのだが、主体として笑ったり泣いたりすることがあるということは認められないのだ。僕の主体は、愛されないという以前に、その存在じたいを承認されない。僕の笑ったり泣いたりは「要らない」のだ。
なぜそのように、主体に対して否認ないしは承認不能が定義されるかというと、このこともやはり、「世界」と「カルマ」の対立よって起こっている。カルマの徒は、世界の徒の主体を承認できないのだ。なぜかというと、カルマの徒にとっての「主体」と、世界の徒にとっての「主体」が異なるからだ。世界の徒の「主体」は、カルマの徒にとっては「主体」に見えない。見えないものは、承認のしようがない。
カルマの徒に向けては、僕が明らかな「吾我」を示さないかぎりは、僕には主体があるものだとは承認されないのだ。なぜなら、考えてみれば当然のことだが、カルマの徒にとって「主体」とは、「吾我」のことだからだ。世界の徒の側には、「真我(に近づこうとするもの)」という主体があるのだが、この主体はカルマの徒にとってはあまりにも「こころあたりがない」ため、どうしても視認されない。視認できないものを承認はできない。
仮に僕が、たとえば「年下の女の子にタメ口を使われると、すっごいキレる」という人だったとしよう。「お前さあ、さっきから何なの? おれのことナメてんの!?」と、吾我のままに感情を激する。もちろん僕はそんなしょうもない性向はまったく所有していない。けれども仮に、もし僕がそのようなわかりやすい吾我の現れを示す者だったとしたら、そのとたん僕はカルマの徒たちに、「こういう人なんだ!」とその主体の存在を認められるだろう。
カルマの徒は、どのようにして人の「主体」を認めるのか。カルマの徒は、目の前の人を観察し、「この人は、何に執着し、何に感情を激し、何をコンプレックスにするか?」と考える。目の前の人の、「吾我」の潜在や露見を感じ取って、それがその人の「主体」であるみなすのだ。それはカルマの徒である当人が、カルマに支配されて生じている己の「吾我」をもって、それを己の主体だと定義しているからに他ならない。
だから馬鹿げた話、もし僕がカルマの徒たちから承認され、愛されることを求めるとすれば、「年下の女の子にタメ口を使われるとすっごいキレる!」という、しょうもない執着でも持ったほうがよいのだ。これは冗談ではないし、誇張や皮肉で言っているのでもない。実際的なことをそのままレポートしている。
カルマの徒にとっては、「吾我」が主体だから、その吾我を巨大に膨張させた者の順から、その主体の存在を承認することになる。たとえるなら、「絶対に一番にならなきゃ死んでやる!」と血涙とヨダレを流しているぐらいの者のほうが、「主体」があると承認され、何であれば愛されるのだ。カルマの徒には、その吾我のすさまじさのみが「主体」と見えるのであるからやむをえない。いびつな性向や、わざとらしい作り笑顔、絶対に引き下がらない執着や、隠しきれない吾我そのものの臭気をもって、その人の「主体」だと認めて愛する。カルマの徒は率直に、そういった人たちが「わかる」し、「ホッとする」し、何であれば「励まされる」のだ。
実際のところ、テレビなどを見ていればわかりやすい。テレビの中に、吾我を超越した神域の芸や術が示されるというようなことは実に少ない。それよりは、いつもキレている人や、主張の強い人、内面に吾我が渦巻いている人、あるいは私的な吾我が露見したに違いないスキャンダル等に、視聴者たちはむらがって食いつく。そうしてカルマの徒は、他者の吾我として漏れ出たものをのみ、その人の「主体」と認めるのだ。マイケルジャクソンの舞台を観ていても、マイケルジャクソンが「どういう人」なのかは、彼らにはわからない。代わりに、もしわずかなスキャンダルでも漏れ聞こえてきてくれたら、その一端を拡大して、それのみをもって「こういう人!」と定義するように生きている。
またこのように考えてもわかりやすい。一枚の絵画があったとする。実に佳い絵だったとしよう。それが佳い絵だということは、絵画を客体として観るのみでわかる。だが、そこに絵がある以上、その絵を描いた何者かの主体が、その絵の手前には存在するはずだ。人によっては、そこで「佳い絵」だけがわかり、「佳い絵を描くやつだな」ということはわからないのだ。これがわからない場合は、おおむね生涯を通してわからないものだ。
「佳い絵を描くやつだな」ということがわからないぶん、もしその画家が、「ある時期は神経症だった」というような記事が展示に書き添えてあると、そのとたん「そういう人だったんだな!」という拡大解釈が為され、「そういう人」と定義される。この者は、画家が「世界」を描けば描くほど、その画家が「どういう人」なのかわからなくなっていき、愛するも何も、視認できないので、その存在を否定するほうにしかその者の精神ははたらかない。
あるいはここに、ひとつの演劇の舞台があったとする。その舞台上で、「作中世界そのものを生じせしめる演技」を示した者と、「自我丸出し」の演技を示した者があったとする。この場合、明らかに前者を高く評価せねば不当であるが、カルマの徒は、後者の「自我丸出し」の演者にこころを惹かれるのだ。芸術的な観点においては後者は否定されねばならないことはわかっているのだが、にもかかわらず、カルマの徒が愛するのは前者ではなく後者のほうだ。なぜなら前者のほうは、「どういう人」なのかがカルマの徒にとっては視えないから。カルマの徒は、或る手続きによって、その「自我丸出し」の演者に、信じられないほどの肩入れをする。それは、自分の主体が吾我にしかないという、根本的なみじめさを糊塗するために。
実際、このことの性質をよく知り、精通している業者の側が、カルマの徒の歓心を操るため、作為的に「自我丸出し」の演者を舞台上に置くことで、別次元からの収益を得ている実態がある。芸事のすべては本来、「吾我を超えた人間の示す技芸に神韻が顕れることに賛嘆し、それを称揚する」ことを本義にしているが、カルマの徒の歓心を買うためには「まったく逆にしたほうがよい」と見抜いているのだ。近年はマンガの主人公もほとんど、「自我丸出し」のほうが「こういう人」と理解されてウケがいいという商法が主流になっているように思える。
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがないのだが、その当たり前のことを、改めて、別のカウンターで測量したらどうなるだろう。セックスを求めるパラメーターはもはや数値としてどうでもよい。「愛」のパラメーターはどうなのか? そこに愛のパラメーターがまるで検出されないのであれば、「セックスをしたくてしょうがない」ということは、僕にとってセックスうんぬんもまるで重視すべきテーマではなくなる。。
女たちが僕と「セックスをしたくてしょうがない」のは、繰り返し言うように「当たり前」のことであって、そのことは、たとえ僕のことが「どういう人」かまったくわからなかったとしても、何の変動もなく成り立つ。愛と無関係に「セックスしたくてしょうがない」が発生するのは、この時点ではまだこれが「人」のことではなく、「肉」と「霊」のことだからだ。ほとんど現在の僕は、霊的な救済が欲しい人から、無限の救済ユニットとして求められているにすぎない。実際、僕の肉と霊力が無限であるならば、今の倍ほどは、救済が実行できたかもしれない。
僕の主体が認められ、僕の主体が愛されるということは、実際的にはほとんどない。ごく例外的な、わずかな人のみが、僕の存在や主体そのものを愛してくれている、そしてそれはとても珍しいというのが実態だ。その一方で、「あなたがいないと、わたしはもう生きていけないかも」という人は、実に数多くいる。が、これらの人たちは、「あなたに支えられて生きているの」ということは認められても、僕が生きていることには主眼がいかない。自分が何を支えに生きているかは「切実」にわかるのだが、僕が何を支えに生きているのかはわからないし視点としてゼロなのだ。ここに、先ほどから言うように、「僕の主体は承認されていない」ということがわかる。ここにあるのは彼女の吾我主体のみで、僕は彼女に付き添うすぐれた肉と霊のユニットでしかない。
カルマの徒は、自分が「どういう人」であるかを、身の内のこころあたりで定義する。メラメラする感情や、イライラする感情、あるいはウキウキする感情などにおいて。たとえば、「こういうことをされるとめっちゃ腹立つ」であるとか、「絶対こういうふうになってやりたい」とか、「こういうことを目指したい」とか、「こういうことは許せないんだよね」とか、「割とこういうとこ、意地になるんだよね」とか、「こういうの、わたしめっちゃ尊敬するわ」とか、「わたしこういう場合、絶対わたしからは謝らないから」とかだ。単純化すれば、すべて身の内の「好き嫌い」によって、自分が「こういう人」だと定義していると言ってもよい。カルマの徒はこのようにして、自分が「どういう人」であるかを、身の内に渦巻いているカルマ作用で定義する。カルマの徒が自分を「こういう人」と定義するときに、「世界」なるものが関わってくることはまずない。
カルマの徒はけっきょく、僕のことを「どういう人」と定義するにも、自分のやり方を僕に向けるしかやりようがないのだ。その、カルマの徒による「こういう人」の定義を、僕に向けてみるとどうなるだろう。僕は、どういうことをされるとめっちゃ腹が立つ人だろうか。僕は、絶対どういうふうになりたい、と燃えているのだろう。どういうふうになりたくて、どういうことを目指したくて、どういうことが許せなくて、どういうところに意地になり、どういうものをめっちゃ尊敬し、どういう場合に「絶対」の感情が支配するのだろう。
このように照らし合わせてみると、けっきょく、僕の主体を定義するのに、カルマの徒が用いる方法は根本的に適合しないということがわかる。つまり、カルマの徒と僕とでは、「主体」そのものの定義も形も異なるのだ。このことによって、僕がカルマの徒に愛されることは成立しなくなる。気持ちの問題ではなく構造的に「不能」なのだ。カルマの徒から見て世界の徒は、その主体がインビジブル(不可視)であり、よってその主体を愛する・主体が愛されるということは構造的に成立しえない。
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがないのだが、それはひたすら、己の肉がカルマ肉と化し、「世界」から切り離されていくという危機に向けての、救済を欲してのことにすぎない。そこに僕の主体は視認されていない。僕の主体が泣いたり笑ったりすることへ、祝福として性愛の寄与がしたいということではなく、ただわけがわからず、肉の霊の救済たる「セックスがしたくてしょうがない」だけだ。
そしてその背後には、「自分は女なのだから、自分が求めれば無条件で男にセックスを与えられるだろう」という、哺乳類的な前提がある。しかもその前提は、ほとんどの場面で正しく機能するものだ。男性の持つ射精のカルマに対して、女性は通常、無条件の上位者でありうる。あくまで男性が、射精をカルマとし、それを徳性に転じられなかった場合のみに限定されるが、その「場合」は明らかに全体の99%以上を占めているので、実質的には「絶対」とみなせることだ。
いわゆる、「据え膳食わぬは男の恥」という言い方があり、僕もかつては、その標語のとおりに躍起になってみた時期があった。そのような前衛的な取り組みは、人それぞれの発達段階においては必須でたくましい取り組み方になりえるのかも知れなかったけれど、通過してしまえば、やはり何ということでもなかった。カルマをブーストさせて見果てる先のバラ色は、やはりバラ色の幻視でしかなく、本当にその先にバラ園はない。
人はそもそも、なぜセックスをしたがるのだろう?
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがない。そしてむろん、僕に対して、そのようには思わないという女性もあるだろう。ところが僕は、現時点ですでに、まったく逆の方法によって、女性をセックスの希求へ誘引するやり方に気づいており、またそのことの実践的な手ごたえも、すでに獲得している。正直、逆もできるのだ。肉の霊の作用が「世界」を与えてくれるからという理由で、「セックスしたくてしょうがない」ということが起こるように、その逆の現象もある。肉のカルマの作用が「世界」を消してくれるので、「セックスしたくてしょうがない」という現象があるのだ。また、そのことを意図的に引き起こす方法も当然にある。それは、正しく原理を把握してしまえば、さしあたり現在の僕にとって、まったくむつかしい技術ではない。
けっきょく、人が「なぜセックスをしたがるか?」について、背後にある構造は、一般的に思われている性欲や性的魅力うんぬんなどの仕組みとはまったく異なるのだ。余計な説明をはぶいて、そのぶん何の役にも立たないような話し方をすれば、われわれの身に宿されているカルマ、その第一にして最大のものは「死の空漠」だ。生きもののすべては、死を避けるようにカルマを宿されているが、われわれ人間の場合はそれだけではない。死に恐怖し、死の空漠を恐れる、というカルマも宿されている。六道輪廻の考え方に倣えば、われわれ人間は人間道において、「認識」という業(十二因縁のひとつ)を背負わされている。だからわれわれは、単に死を避けるというだけに生きものではあれず、死を認識し、それに恐怖するというカルマを背負っている。
われわれは、単なる哺乳類ではない「人間」として、物心ついたときから、現在までずっと、「死の空漠」に恐怖し、「死の空漠」という認識に苦しめられながら生きているのだ。ふだんからその恐怖に打ちのめされている者は表面上いないように見えるが、それは単に、負荷が大きすぎるので抑圧ないしはフロイト的忘却によって、死の空漠を無意識下に追いやっているからにすぎない。
セックスのみならず、われわれの騒動、われわれのテンヤワンヤ、ヒートアップ、小競り合いや諍い、変態的な趣味への入れ込みなどのほとんどは、根っこのところ、「死の空漠を忘れたいから」というだけの理由から、発生しているにすぎない。
「死の空漠」というのは、身近なものであって、若い人にとっても縁遠いものではないのだ。たとえば僕がよく言うところの、「二十歳の春は二度とこない」というようなこと。いかなる能力者も、二十歳で過ごした五月を二度体験することはできない。冷静に考えればごく当たり前のこととして、二十歳の五月が六月になれば、もう二十歳ですごした五月の自分というのは、死んでしまって過去になってしまっている。二十歳の五月は死んでしまった。そうこうしているうちに、この二十歳は二十一歳になるだろう。そんなことを数十回重ねているうち、われわれは本当に老人なり逝去してしまう。若かりしころの面影はとっくにどこかに消えてしまって……ということに確実になる。われわれは誰しも、この五月というカレンダーを、この先100回に亘って観ることはまずないのだ。
この観念的発見は、仏教を代表的に、東洋哲学がその指摘を得意としているところの、「無常」の覚悟に引き当たる。仏教的な考え方を指南するのに、有益な教書として代表的に有名な「学道用心集」には、まず冒頭、「誠にそれ無常を観ずる時、時光の太(はなは)だ速やかなることを恐怖(ぐふ)す」と書かれている。
「恐怖」なのだ。われわれは水面下で「恐怖」に支配されている。そこで、最も短絡して説明するならば、「われわれは愛によってセックスをするのではなく、恐怖によってセックスをする」と言える。
六月になれば五月のわたしが死ぬという、逃れられない「死の空漠」の恐怖がある。われわれは、こころの奥底を、この恐怖にずっとさいなまれており、なんとかしてこの恐怖から逃れようと苦しんでいる。あとは単に、この恐怖から逃れようとするのに、流派が二つに分かれるだけだ。二つの流派に分かれるということは、やはり、「世界」の徒と「カルマ」の徒に分かれる。
先に述べた、僕が「逆もできる」というのは、つまりこういうことだ。根源的には、女は、「死の空漠」の恐怖から逃れたいということがセックスの希求を引き起こしているのだから、僕としては、ただ相手の恐怖を消してやればいいことになる。「世界」が視えるようになることで、恐怖は消えるし、また逆に、「世界」を完全に視えなくして――「見なくてもいい」ようにして――やれば、そちらでもやはり恐怖は消える。
「死の空漠」に対する恐怖は、「世界と吾我」が見えている状態で発生するのだ。つまり、「世界」が存在するのに、その「世界」から切り離された「吾我」があるという状態、それが見えるとき、吾我の死が「空漠だ」と認識されるので、そのことに恐怖する。よって、「世界だけが見える」という状態ならば、死の空漠という恐怖はやってこないし、その逆、「吾我だけが見える」という状態ならば、やはり死の空漠という恐怖はやってこないことになる。つまり、極端に簡単化すると、肉にアプローチするとき、肉の霊に「世界」をブーストするか、逆に血に「カルマ」をブーストするか、どちらか相手がなびきやすいほうを与えてやれば、女はただ「死の空漠」という恐怖から逃れるために、セックスがしたくなるのだ。僕の場合、そのアプローチと作用が、技術的にも出力的にも極大化できるので、女たちは「僕とセックスをしたくてしょうがなくなる」というだけだ。僕が強烈に愛されているわけではまったくない。女たちがもともと強烈に「死の空漠」の恐怖から逃れたがっているだけだ。
むろん、このような理論と技術が明らかになったからといって、このことに向けてどうこうという、モチベーションは僕にはわずかもない。むしろ正しく理論と技術が体系化されたことによって、このことへの希望的モチベーションは完全にゼロになったと報告できる。そして、これまでに幾度か、きわめて限定的にだけれども、幾人かが不幸になってしまう先行きへ吸い込まれていくのを引き戻すために、あえて邪道な、カルマブーストの作用で恐怖を忘れさせるということも、してきたことがあると報告しておく。言ってしまえば、それはとても簡単なことだ。「何もかもを忘れられる」ように、女性の身体をいじくりまわすことなど、はっきりとそのことを意図して行えということなら、それは僕にとって何もむつかしいことではない。それは、「困難なことのまったく逆」をするだけなのだから、僕にとってはとてもイージーなことだ。性的なカルマを盛(さか)らせればいいわけだろ? それは、一人の女をイラつかせるということと同程度に簡単だということになる。
現代、たとえば違法とされている女子高生や女子中学生の買春であっても、簡単な検索からリーズナブルな価格で、その実際に至ることは、実に容易でありふれているだろう。彼女らにしたって、本当にそのまま彼女たちは小遣いを求めているのではない。「現金」が、「死の空漠」を忘れさせてくれる足しになるというだけだ。現金とセックスの同時獲得が「カクテル的によく効く」というだけにすぎない。実際、僕自身の経験として、僕は児童買春の経験はないけれども、正しい原理と方法さえ知っていれば、最も陳腐な方法で彼女たちを籠絡できるということがすでに分かっている。むろん僕は彼女らの不幸の足しにはなりたくないので、実際的にどうこうはしない。ただ、彼女らに限らず、現代でいくつもある「盛り上がっている」ことは、すべて何かが「ツラい人」たちのあいだで流行っていることに注目せよ。何かが「ツラい」からこそ、それを忘却する方法に焦がれることになる。中毒にもなるし依存症にもなるだろう。その「ツラい」ことの根源は、死の空漠および、それに対抗するまともな方法を誰にも教えてもらえず、何も与えてもらえないということだ。
ひいては、もはや、「女たちは僕とセックスがしたくてしょうがない」ということに限定されないのだ。根本的な原理を捉えて言うならば、もう男女がどうとか、セックスがどうとかではなく、
「死の空漠の恐怖がツラい人は、○○をしたくてしょうがない」
ということが一般化して成り立つ。○○というのはワイルドカードで、人それぞれの逃避方法が代入される。
「○○」に何が入るにせよ、これが、カルマの徒を定義する一般式だと捉えてよい。カルマの徒は、己の身の内にメラメラと沸き立つカルマの感触をもって、自分が「こういう人」ということを定義する。中でも、自分が「○○をしたくてしょうがない」ということは、自分が「こういう人」ということを定義するのに最大のファクターになるだろう。
よって今、まさにこの一般式を使い、現実に目の当たりにするそれと合致する光景を、演算することができる。「○○をしたくてしょうがない人たち」、つまり「そういう人たち」を集めたとき、そこに連帯は生じるが、そこには「何の愛も見当たらない」はずなのだ。実際、われわれは近年、そういった光景をとても多く見かける。
われわれは、自己のこと、また他者のこと、さらには互いのことを、何ら責める必要はないが、学門として正しく区別しておく必要はある。<<自分が○○したくてたまらないということを、愛と言い張り、すり替えることをしてはならない>>。あなたは今、おだやかでいて、「○○がしたくてたまらない」ということは取り立ててないかもしれないが、そのことは必ず周期的にやってくる。奥底に「死の空漠」の恐怖を残したまま、表面的におだやかでいるにすぎないのだから。「○○がしたくてたまらない」、それを「愛」と言い張りたくなる瞬間は繰り返しやってくる。そのときは、間違っていてもいいから、中指を天空に突き立てよう。解決はしない。解決は、あるが、まだこない。
「許さない」
さてくだらない話はやめよう。女たちは僕とセックスがしたくてしょうがないのだ。それは僕が原初・根源の世界へ到達しているからだ。その次元に接続すると、根源的なこととして、若い女はそうして男とのセックスに強く焦がれるものだ。肉に宿る霊のレベルにおいて。それは当たり前のことなので、いいかげんそのことに淫猥を連想する奴はホッカイシマエビに生まれ変わったほうがいい。セックスがどうこうという話ではなく、この身の「肉」の話だ。肉の霊の話が本質だ。
説明が面倒なので、もう説明なしにいくが、「カルマ」というのはおおむね「血」に流れている。利己的遺伝子が基本的なカルマなのだから、まあ「血のつながり」というか、血がカルマの媒質だ。そしてカルマが重くなってくると、「肉に血が染みる」。「にくしみ」と呼んでも差し支えない。そうすることで、肉は霊質を失っていく。霊質を失ってカルマ肉になっていく。
血は生命であり、呼吸の運搬者であり、経済文化的には「カネ」だ。だから税金のことを「血税」というし、安売りのことを「出血大サービス」という。
われわれの身体には皮膚と粘膜があるが、粘膜のほうが血に近い。血が透けてピンク色だ。だからカルマの多くは粘膜に集中して出現し、特にセックスに関わるカルマは粘膜に集中していることがあからさまにわかる。肘と肘でセックスするようなアホはいない。
汗などの分泌物もやや血に近く、汗をかかない手の甲が触れるより、汗をかいた手のひら同士が触れるほうがカルマに接近する。
男性の射精も、生物的には子孫(血族)を残そうとする機能であり、精液そのものが血に近いカルマだ。
あるいは、食事なども、口腔を使うものだから、粘膜とカルマの親近が看て取れる。そして、食事が何か汚いということは、カルマが荒れているということであって、だからこそ女性の多くは、食事の汚い男性とは絶対に性交しない。
人間は、頭に「血がのぼる」と、ロクなことをしない。血気盛ん、血が騒ぐ等、「血」に関わる表記はわれわれがカルマによって「獣化」することを示唆している。
こうして説明すると、なるほどカルマは「血」だということはわかるのだが、わかったところで何なのだ、ということになる。血なんかいじれないし、血なしで生きられるほどわれわれは超絶ヨーギーのレベルには到達していない。
じゃあ、肉がすぐれるしかないのだ。
カルマの償却というのは、清浄な霊的干渉(肉)の中で、血に反した営みを肉に重ねるということだ。
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがないのだが、そりゃ女が僕の肉に触れたがるのは霊的に当たり前のことで、それは愛とはまったく関係がない。
どうせ、女の多くは、秘密にしているけれど、粘膜方面においてヤベー感情やヤベー衝動、さらにはヤベー行為が積み重なっているという人がたくさんいるのだ。これまでに何度も、「実は……」と聞かされてきたが、そんなにたっぷり話さなくても、僕はこれまでのケーススタディでさんざん知っているので、もったいぶらなくてよろしい。あなたにとっては重大な秘密だろうが、僕にとっては「はいはい」といつものことだ。
いつも愛想がなくて申し訳ないと思うけれどね。
ビョーキにだけは気をつけてください。
簡単に言うと、血と肉と「主体」の話をしている。
血はカルマで、肉は霊で、「主体」は「世界」という話でもある。
血と肉、といえば、キリスト教では、ワインとパンを、キリストの血と肉に見立てる。
このとき、ワインとパンだけ摂取して、「キリストを愛するのを忘れてたわ」というのでは、アホの極みだろう。「このパンがごっつええねん」って、教会はバン業者じゃねえ。
われわれは誰しも、血と肉で出来ているが、血と肉だけで出来ているわけではない。血と肉「だけ」なら、牛カルビと同じだ。
「主体」があるはず。
「主体」って何だよ。
主体とか主格とかいうけど、「主」って何だよ。
キリスト教に言わせると、「主イエス」は、次のように言ったそうだ。
――わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)
僕はキリスト教徒ではないが、「主」と「肉」と「血」、および「永遠のいのち」「永遠の国」はわかる。
人間の本質的生命は「永遠」だということは、トルストイも言っているし、ヨーガやウパニシャッドの経典も言っている。
ああ、もう、これは逆に、どれだけ説明しても無理だということばかりがわかってくるな。
どれだけ美人が、美少女が、眼をウルウルさせて、僕を見上げ、したくてしょうがないセックスを乞うていても、僕(の主体)を愛していないなら、その瞳に僕は映っていない。
彼女の眼に、僕は見えていないのだ。そんなことはただちにわかる。
目の焦点が合っていないし、血眼(ちまなこ)になっているからだ。
僕だって、泣いたり笑ったりすることがあるという、ただそれだけのことが、そんなにわかりにくいか?
カルマの徒の眼は、僕のことなど見ていない。見ていないし、どう眼を凝らしても視えはしない。
それは、あなたの眼をパッと見れば一撃でわかる。声を聴いてもわかるし、姿を見てもわかる。
なぜわかるかといって、まあ、僕のことが(僕の主体が)視えている人なんて、ほとんどいないからな。
あなたの眼をパッと見れば、ああ違うな、ということが一発でわかる。
あなたの眼は、僕のことを見てはいない。
あなたの眼は、必ず、あなた自身を見ているのだ。
これは、それっぽい言い方をしてつつみくらましているのではなく、まったくマジな話。
ずーっと自分のキモチだけを見ている眼だということは、見たら一発でわかるのだ。
眼が「わたしって……」と言っている。
眼が「あなたって……」とは言っていない。
カルマの徒は、自分の吾我しか見ていないのだ。
せいぜい、成長したとして、他者の吾我を見るだけだ。
カルマというものが吾我にしか発生しないからだ。
夜、真っ黒の嵐山、渡月橋の橋桁に、純白の牡丹雪がふりそそぐ、というようなことは、身やカルマや吾我ということに何の関係もない。
だからカルマの徒の眼には、渡月橋にふる夜の白雪、というものは映っていない。
視えていないのだ。本当に。
カルマの徒に見えているのは、そうした光景を目にしたときの、わたしの「キモチ」だ。わたしの吾我がどう騒ぎ、どう気取りたがる、ということしか見えていない。
それと同じで、カルマの徒の眼には、僕のことなど視えていない。
カルマの徒が見ているのは、僕を目にしたときの、わたしの「キモチ」だ。
あなたの眼には、「笑っているわたしのキモチ」と、「泣いているわたしのキモチ」しか見えない。
僕が泣いたり笑ったりすることはあなたにはまったく視認されない。
僕だって泣いたり笑ったりすることがあるんだ、と僕があなたに話せば、あなたはそのことをよくわかるといって、数秒後「でも」といい、僕に向けて激昂するだろう。
あなたは僕に主体が存在することを許さない。
なぜ激昂してまで、僕を殺そうとするのか、あなた自身にもわからないだろう。
わからなくても、あなたは「許さない」のだ。
世の中の多くの人がそうであるように。
(仮に、実験してみたらわかるだろう。あなたの知人100人に、僕の書き話すところの文章を見せたとしたら、ほとんどの人は「了解しかねる」という以上に、僕の存在をどこか「許さない」という感触を見せるはずだ。僕のことを、「死の空漠」へ追い落とそうとする強い権力者の動機が水面下に盛り上がる)
その点トルストイは、パリサイ派をやたら悪く言ったが、僕が同じような論調にしたところで、何か解決の足しになるわけではない。
カルマの徒と、世界の徒では、けっきょく信仰の方向が違うわけだから……
僕の「主体」という存在そのものが、他方の徒にとっては、異教徒ということのみならず、「信仰の冒涜だ」ということになる。だからその存在を「許さない」。殺す、ないしは、殺すことを誰かに委託する、つまり「死ね」という感情が、水面下に滲むだろう。
それで状況は整合する。
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがないのだが、同時に、僕を殺したくてしょうがないのだ。「許さない」と。
通常時は、むしろにくしみ、憎悪が僕に向けられている。ただ、僕がこれまで修練して、抵抗を続けてきたところの、肉の霊力が干渉して、そのときは相手の肉に染みた血が撥ねのけられ、にくしみが失せているだけだ。その干渉が支配している一時的な時間のみ、かりそめの平和と豊かさが続く。
もしあなたが、いっそ理知的な実験として、僕という「主体」が存在するということを、「許す」ということに踏み切ったならば、そのとき途端に、あなたの眼にも「世界」が視えてくるかもしれない。理屈ではきっとそうなる。
ただ、その推測に確信が持てたとしても、なお「許さない」を突破するのは至難のことだ。
余所事なら許せるかもしれない。あるいは、許した気になることはできるかもしれない。
けれどもあなたの目の前のものを、「許す」のは至難だ。あなたが、目の前にいる僕のことを、「主体」の存在だと「許す」のは至難のことだ。ここで引き続き「許さない」のは、非人間的なことだとは僕は思わない。
女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがない。それと比較して、僕を愛してくれる人がずっと少ないのはなぜなのか、ようやく理由がわかった。人は誰だって救われたくて努力する。ずいぶんな努力はできるみたいだ。けれども「許す」ということは異次元の至難らしい。
僕は改めて、僕のことを愛してくれた人、愛してくれる人に、かけがえのない感謝を述べたいと思う。
僕は感謝以上のことはできない甲斐性なしだが、せめて代わりに、あなたの見るべき世界を返報に与えられたらよいと思っている。
「世界」とは何なのだろう。この無尽の、物語の運動体は何なのだろう。「世界」が視える量は、「主体」の存在を「許す」量に比例する。「世界」と「主体」は表裏一体であるから、主体の存在を許すことが世界の存在を許すことだ。
元来は天衣無縫に「ひとつ」であるはずの世界に、われわれのカルマがヒビを入れる。ヒビは隙間だ。「電車とホームのあいだにご注意ください」という、その隙間に靴を落としてしまうことがあるように、この世界でもヒビ割れのあいだに何か大切なものを落としてしまうことがある。自分が落っこちてしまう場合もあるだろう。世界と世界の「あいだ」であるそれは「世間」と呼ばれる。われわれに何ができよう? 駅のアナウンスが言うように、電車とホームのあいだは「気をつける」しかない。
[女たちは、僕とセックスがしたくてしょうがない/了]
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