No.379 やさしさと首飾り
僕は今もなお見失っていない。
この「世界」について、見失っていない。
だから、今もなお、「物語」は続いている。
様々な攻撃に晒されながら、われながら、なかなかしぶといものだと思う。
僕はとっても頭がいいので、ありとあらゆることか解析でき、またその説明を的確にできる。
けれども、僕ぐらい頭がいいと、その説明をやめるという判断まで到達できるのだ。さすがだ。
なぜ説明をやめるかというと、すでに最大のアンサーは提示してあるからだ。
最もわかりやすい、最も有効な、そして唯一有益なアンサーを示してあるのに、それが受け取られないとしたら、それは恣意的に「受け取らない」と選択されているからだ。
その最大のアンサーから焦点を逸らして、もっとインチキチックなものにすれば、人々はそれを汲み取ってくれるかもしれない。
だがそれは、けっきょくのところ欺瞞だ。
電車に乗らない者をプラットホームに案内してもしょうがない。
プラットホームに立たない者を、改札口に案内してもしょうがないし、改札口を通らない者を、駅に案内してもしょうがない。
もう、その電車に乗るところは何度も見せてきたはずだし、誰だってその気になれば、一歩踏み出すだけで、誰だってその電車に乗れたはずだ。
そこから、プラットホームや改札口や、駅に興味を向けることは退歩でしかなく、いかに熱心ぶってみたとしても、それは逃避だ。
人は何か、理由を探しているように思える。
人が、何かをできるようになるには、何か理由やきっかけがあり、また、何かをできないということにも、何か理由やきっかけがある、という論理を、恣意的に期待して、蒐集し、捏造しているように思う。
自分が傷つかないよう、論理ふうに糊塗した、理由づけを求めているのだ。
何か、正当な滋養ときっかけが与えられれば、自分には雄大なことができると信じたがっており、また、自分がみじめに、色んなことができないということにも、何か正当な不足ときっかけがあるのだと信じたがっているのだ。
「そんなわけあるか」と奮って立つ人は実に少ない。
何か雄大なことができる人には、特別な「秘密」があるのだと信じられている。
その秘密を知りにいくことこそが、誠実なのだと信じられている。あるいは、そう信じ込もうとしている。
けれども、もし、何の「秘密」もなかったとしたら?
何の「秘密」もなくて、ただ自分が恣意的に、線路の行く末を定める分岐器を、ガチャリと浅ましいほうに切り替えているだけだったとしたら。
それ以来、すべての夜と香木の匂いを、自ら失うように決定しているだけだったとしたら。
僕は、なるべく、隠し事をしないでゆこうと思う。
もう、隠し事をする理由はなくなってきたからだ。
隠し事をしないというと、「本当のことを言う」という感じに思われるかもだけれど、案外そういうことでもない。「本当のことを言う」というのも、よくあるかたちで、ウソに取り込まれてしまうものだ。
「本当のことを言う」という態度そのものが、ウソとして発生してくるのだ。
僕にできるのは唯一、本当のことで「ありつづける」、ということぐらい。
僕はまだ「物語」が続いている。僕にはまだ、この「世界」が視え続けている。
僕がやさしいうち、僕はこの世界と物語から、ずっと切り離されずにゆけるだろう。
なぜなら、この「やさしさ」という現象は、人の業から現れるものではないからだ。
世界の力なのだ。「やさしさ」という徳性そのものが。
たぶん、僕の内に、個人的なやさしさがあるのではない。そんなしょうもないものなら、僕なんかとっくに途絶えていただろう。
やさしさは世界の力であって、そこに僕そのものがあるとしたら、それはその「世界」が僕なのだ。
やさしさのないところに「世界」は成り立たず、やさしさのないところに「物語」は成り立たない。
やさしさなしにそれらが成立することは決してないと、そのことだけは明瞭に断言できるだろう。
僕は今を生きているのだ。僕自身の力によってではなく。この世界の力によって。
こんな話が、シャレで済むのなら、どれだけ気楽なことだっただろう。
聖書的に考えれば、われわれは、原罪的な存在であり、永遠の国から追放された者たちだ。ただ、この「世界」はというと、キリストの贖罪と神の愛に包まれている、というのが、おおむねキリスト教徒たちの捉え方だ。本当に、そんなふうに捉えられているかどうか、一人一人においては知らない。
仏教的に考えれば、われわれは、業(カルマ)によってこの輪廻の中に生み落とされた者たちだ。ただ、この「世界」はというと、仏法僧という三宝を与えられ、諸仏の慈悲に包まれている、ということになる。
僕は宗教者ではないので、この「世界」が、神の愛なのか、諸仏の慈悲なのか、見極めることができないし、またそういった言い方をしてよい権利をまったく自分に認めない。
ただ僕には、この「世界」が、この「世界」だ、とだけ感じられる。やさしさにつながったとき初めて「世界」が現成する。「世界」はそれ自体が「物語」の運動体だ。
片面的な「僕」が出しゃばった場合、この「僕」は世界と物語から切り離される。そのぶん、まわりの人から見てわかりやすく、付き合いやすい、また役に立ちそうな「僕」に見えるだろう。
もう一方の片面にある「僕」は、間違いなく「僕」でありながら、その本質は「世界」かつ「物語」だ。先ほどの片面にあった「僕」のほうは、そのとたん、とんでもないウソの「僕」になる。
こうして両面の僕が、それぞれ平行に進行するので、「物語は二重に進行する」と僕は発見しているのだが、そのような発見はむしろどうでもいいと感じている。
知るべきことがあるとすれば、ただ一点、やさしさによって世界につながった「僕」と、やさしさがなく世界から切り離された「僕」があり、その分岐はただ「やさしさ」だけで決定されているということだ。
これは一般化して、「誰でもそう」と言ってよくて、仮に人格の名をAとするなら、
世界A(せかいえー)
業界A(ごうかいえー)
という、二つの人格があると定義してよい。
この定義区分において重要なことは、
・善悪で区分されない
・やさしさで区分される
・それぞれの人格Aはまったく異なる界に住んでいる
・業界Aは万人が経験するが、世界Aは生涯経験しないケースも多い
ということだ。
僕はこれまで、フィクションとノンフィクションの差を主張し、時間軸への妄想がわれわれをノンフィクションに縛りつけていること、またその時間軸への妄執が血でありカルマ(ディスク)のはたらきだということを指摘してきた。
そのことについて、今、新しく決定的な提示を盛り込めるのでもある。つまり、
・業界の次元「時間軸」は、世界の次元「やさしさ」に置き換わる
ということだ。
これまで僕は、「永遠」と呼びうる事象がフィクションの事象平原には容易に成り立つことを指摘し、時間軸そのものが虚妄だと主張してきたが、ここでついに、単に時間軸の虚妄が消え去るわけではない、ということが言える。
時間軸は、ただ消えるのではなく、「やさしさ」に置き換わるのだ。
仮に、時間軸tを伴う四次元空間を数学的に表記するならば、A(x,y,z,t)という座標が示されるが、これが「永遠」の次元空間に遷移するということは、A(x,y,z,やさしさ)になるということ。
さらにいえば、単に時間軸tを消去しただけのA(x,y,z)は、いわゆる「イメージ」だと言える。世界と業界に並べるならば「幻界」ということになるだろう。これはたとえばイデアとして空想された三角形が普遍的に三角形でありうるように、単純な意味においては時間とは無関係な永遠性を持ちうるのではあるが、それは単に形而上の存在ということでしかなく、実際に身をもって生きるわれわれとの接合を初めから諦めている。空想されるイメージは形而上において不変だが、不変であるだけにそれは「生存」とは無関係だ。
われわれはふつう、「時間」の中を生きている――つもりでいる――とき、「時が流れる」「時間が過ぎる」と言い、時間を「失っていくもの」として捉えるものだ。現在から二十四時間が過ぎたとき、時間を「得た」という捉え方はしない。「光陰矢のごとし」という場合、矢が飛んでいくさまを言いたいのであって、手にした矢の手ざわりのことを言いたいのではない。
よって、われわれが日常、「時間」の中を生きているつもりでいるときは、われわれは己の「生存」を、ひたすら失っていく、ということの中を生きていることになる。時間そのものが「流れ過ぎて失われてゆくもの」である以上、この性質からは逃れられない。
ただ、もしその時間軸tが、「やさしさ」なる次元に置き換わるのであれば、「やさしさ」は、「ますます得てゆく」ということが可能な軸だ。
時間軸tが「やさしさ」なる次元に置き換わるということは、どのようにしてありえるだろうか?
アインシュタインが示した特殊相対性理論において、空間(の距離)を示す(x,y,z)の値を実数に取ったとき、時間軸tは虚数単位(i)の軸となることが知られている。
であれば、特に仏教が唱えるところの説に強調されて、かつての宗教者たちが看破したこの世界の真相は明らかだ。単に逆を発想すればよい。空間の距離を示す(x,y,z)の値が虚数なのだ。このとき、時間軸が実数となる。
われわれの学門、特に西洋的に発達した学門は、身の実感を土台としてスタートしたものだから、よもや空間の距離(x,y,z)を虚数単位に取ることは、初期のうち思いつかなかった。比して、われわれの身が実感するこの空間のすべてが「空」であり虚だということを、東洋の哲学と宗教は早々に看破した。
業(カルマ)の実体であるわれわれの身が実感するところの、このいわゆる現実的な空間を、あえて看破して虚数単位に取ると、時間軸tが実数に置き換わる。すると、その次元軸は人智を超えた「やさしさ」をもたらす。ここに現成して視認される世界のことを、たとえば仏教徒は究極的に、三千世界と呼んだようだ。
世界と業界の差は、学門上、<<空間の値と時間の値の、どちらを実数に取り、どちらを虚数に取るか>>ということで決定される。もちろんそのようなことを、物理学者ではないわれわれが数式的に考究する必要はない。ただこの一般的に「現実」と言われる空間を、虚数単位に取った場合、時間軸の側は実数単位にならざるを得ないのだ。「時が流れ去る」ということの逆、「何かがますます得られてゆく」ということが起こる道理だ。
身の実感に適合する学門を、おおむね「科学」という。アスピリンが頭痛に効くのはよく知られた経験的事実で、単離されたアスピリンの構造式も解き明かされているのだから、これ以上確かな「科学」はない。アスピリンの発見と使用に文句をつける暇人はこの世に数人もいるだろうか? 単離されたアスピリンはまったく科学的なものであって呪術的なものではない。
しかし一方で、われわれは、たとえばネイティブ・アメリカンのような、呪術と共に生きているらしい人々に、科学の徒とは異なる何かの「やさしさ」があることを知っている。われわれは、そういった呪術的な人々が、この世界や魂について語り教えようとするとき、決してそれを侮辱してはならないということ、および、どうしても耳を傾けねばならないということをこころのどこかで認めている。なぜ芸術家・岡本太郎が、科学の発展に対抗して「呪術としての芸術」を打ち出さねばならなかったのか、そのことの理由もここにある。科学のみに発展した人々は、食事や祭り、歌や踊り、戦争やセックスを、呪術的に営むことを忘れ、そのことによって「やさしさ」を失い、ひいては「世界」を失うのだと、岡本太郎は知っていただろう。
身の実感に適合する学門と、身の実感とは異なる何かに適合しようとする学門がある。物語が二重に進行する以上、この学門も二重に進行せねばならない。一方の学門は、「時が流れていく」学門であり、もう一方の学門は、「ますますやさしさが得られてくる」学門だ。
われわれは手元に常に時計を与えられていることほどには、手元にやさしさを計る習慣を与えられていない。時計だけが手元にあるのは、われわれが「インディアンじゃないから」か? しかし膨大なやさしさを消費してしまうことは、膨大な時間を消費してしまうことと同等の罪であり、取り返しのつかない損失となるだろう。われわれは体内時計といって、こころの内におおむね十秒を数えたりできることに確信を持っているが、それと同等程度に、人の現す「やさしさ」をカウントすることに、体内的な確信を持たねばならない。われわれは時計の意味と首飾りの意味を取り違えたとき、イライラしてやがて発狂してしまうだろう。
[やさしさと首飾り/了]