No.381 薄気味悪いことを持ち込まない
このごろ、何をしているかというと、別に何もしていない。
僕と言えば、文学者であり、文学の大権現だが、文学に興味があるかというと、ウーン別にという具合であって、その意味では僕にとって、何かに興味がある、という現象そのものがない。
興味があるといえば、唯一、人に嫌われることぐらいだろうか。
人に嫌われるというのは、なんとなく、わくわくするというか、グッと楽しくなるところがある。
もちろん、人に、イヤな思いをさせるのはいやだ。
ただ、僕が嫌われるのが、そこそこ楽しいということであって、そこには何か本質的なことがあるなあと、今こうして、こころにもないことを言っているのだった。
こころにもないこと、もちろん、こころにあるようなことを言ったりしたら、人にうざったがられるだろう。うざったいというのは、なかなか重大な罪だ。
そうではなく、まったく理由なしに、僕のことを嫌いになる人があって、そのことには何か、うふふふとなるところがあるのだ。もちろん、いちいち誰がそのようであったかなど覚えてはいない。
僕には、秘密の方法があって、幾人かが、僕のことを引き続き深く愛してくれているが、そういったとき、そうした健全な人々があることを、さすがに僕もよろこんでいる。
人それぞれ、何もかもを、好きにしたらいいと思うが、これまでの経験上、何も愛したこともなければ、誰に愛されたこともない、というのが一番まずい。
何も愛したことのない、誰にも愛されたことのない人は、色んなことに「同調」することばかり探していて、何か自覚のないうちに、えげつない顔になることがある。
何かに「同調する」というようなことは、なんというか、極めて確信的で、極めて間違っている何かなので、そりゃえげつない顔にもなるだろうという感じがするのだが、なぜか今般、そのことが流行している向きがある。
同調って、そりゃないぜ、そんなことをしているぐらいなら、自室で八極拳の練習でもしているほうがマシだ、と思える。
もちろん僕は、そんなことをしたことがないし、そもそもやり方を知らない。
ひとりでやることは、たいていロクなことにならないが、それでも「同調」なんかするよりは、はるかにマシだとは言える。
同調を、しにいく人は明らかにヘンだし、それを求める側はさらにヘンだから、同調を求めない人がいると、それだけで少しホッとする。
お前、いいやつだなあと、それだけで握手したい気分になる。
同調を求めるということは、それだけ、人と通じ合わないということだろうか?
人と何かが通じ合っていれば、同調は要らないはずだ。
理屈っぽいかもしれない、まあいいや。
世間には、いい人が多いので、僕が少々理屈っぽくても、割とガマンして話を聞いてくれる。
あるいは、僕が、いい人としか出会わないか、そうでなければ、いい人のことしか覚えていないのかもしれない。
それはいいとして、人と何かが通じ合うということは、同調が要らないということだ。
より正確には、「同調性のないことが通じ合う」ということであって、それ以外のことを「通じ合う」とは言わない。
たとえば、アイドルの○○推しという同士は、ライブ会場付近で同調しあうだろうが、互いに何かが通じ合っているのではない。
「同調性のないことが通じ合う」ということは、「おれにはわからないことが、そいつを通してのみわかった」ということだ。
たとえば、僕の知人に、付き合う女を、パイズリの能力だけで決める、という男がいた。
僕は、そんなことにはまったく同調できないが、なかなか痛快で、実は付き合うと愛がある男だったので、僕は他人事ながら、「なるほどなあ」と思わされた。
こうして、「おれにはわからないことが、そいつを通してのみわかった」のであり、そいつとはまったく交流がなくても、なんとなく一人の友人であるように感じている。
パイズリの能力が高いというだけで、メンヘラ女と付き合い、夜中に泣きつかれて「クソだわ」とため息をつき、そう言いながらもただちに真夜中に二時間かけて、そいつはメンヘラ女のところに会いに行ってやったのだ。或るハードスポーツで、個人で国内上位にランキングされるほど、優秀な奴だった。
僕には、真似の出来ないことで、そいつを通してしかわからないことだった。
だから、僕のほうも、誰かにとって、何か真似の出来ない奴でありたいし、おれを通してしかわからないことがあった、ということがあるような奴でありたいと思っている。
突然だが、男性にとって、女性を口説くのは楽しいことだし、女性にとっても、男性に口説かれるのは楽しいことだ。
あるいは、楽しいというより、切実で、必要な、栄養素、もしくは酸素のようなものだ。
ただしそのことは、男性が口説くにしても、むしろ、その男性が女性を口説くのを忘れるほど何かに没頭していて、「あっ口説くのを忘れていた」というときにも、すでにメロメロになっているという条件つきで、女性が口説かれるのが楽しいということだし、その上で男も、口説くのが楽しいという意味だ。
口説くといっても、「こんなにラブだわ」ということを、今さらながら暴露する、その暴露感が楽しいだけであって、まさか思春期ではないので、ヘンな青春音楽は流れてきたりしない。
人間は、さびしくなると、とんでもないスイッチを用意して、とんでもない状態をONしたりするものだが、そういったことを未然に防ぐために、誰もが学門に取り組んだらよいと思う。学門のきらめきを持ったとき、人は愚劣極まる妄想から離脱できるものだ。
人は、どこに行くにせよ、薄気味悪いものを持ち込むべきではないが、薄気味悪いものの代表のひとつに、「アドバイス」がある。
アドバイスというのは、正式な先生に、正式な受講者が求めるものであって、それ以外には、腐敗した何かの粘り気の、なれの果てでしかない。また、アドバイスをもらうために、誰か先生の下につこうとするという発想は、ただアドバイスをもらおうとすることより、さらに醜悪になるだろう。
自分で言っておきながら、なかなか、フルサイズで怖気がするものを考えついたものだ。アドバイスをもらうために、誰か先生の門下に入ろうと発想することは、何かもう、沸騰したハチミツを頭からかけてやるしかないような、筆舌に尽くしがたい下劣さがある。
アドバイスなどというものは、経営者がコンサルにもらうようなそれでないかぎり、根本的にナードな何かであって、そのアドバイスという発想の低さを知っている者だけが、生きているうちに「この人がわたしの先生だな」という誰かを見つけることができる。
「先生」というのは、むしろ、自分からアドバイスを求める気に一切なれない誰かのことを指すものだ。
まかりまちがっても、パブロ・ピカソに、「アドバイス」をもらおうとした画家は一人もいなかっただろう。「先生」というのは存在のものであって、機能性のものではない。
「先生」という存在は、何を教わっているからセンセイということではなく、この人から教わったことで自分の世界が成り立っている、だから「先生」だと感じる、ということだ。
だから、われわれは、われわれの生死を救済してくれる医者を、それだけで先生と呼ぶ。もちろん国家資格を持っているという社会的な理由もある。ただ、われわれは、医者から医学を習ってその人を先生と呼ぶのではない。先生は「存在」だ。先生から何かを教わるというのではなく、先生が「存在」することによって、己に「学ぶ」という機能が解発されるので、その人を「先生」と呼ぶのだった。
逆に言うと、「先生」という存在を持たない者は、どれだけ努力しても、何一つ「学ぶ」ということはできない。死にたい気分になる学生は、ひょっとしたら、このことに気づくとよいのかもしれない。「学ぶ」という機能が解発されないかぎり、何をどうやっても「学ぶ」ということはできない。
己のことや、この世界のことについて、「学ぶ」という機能を解発してくれた人のことを、先生と呼ぶ。
まかりまちがっても、アドバイスをくれるような人のことを先生とは呼ばない。アドバイスなんか、欲しければ、ヤフー知恵袋に投稿すれば、弾雨のように降り注いでくるだろう。
真面目な話になってしまったが、まあたまにはいいか。
「先生」という存在を得た者だけが、自動的に、「教えを仰ぐ」という機能を、自分が持ちうることに気づく。そうなると、この世界の何もかもが、「教えに満ちているじゃないか」ということに気づいて、毎日がグッと楽しくなる。そして、「先生が、いつも楽しそうなのは、このことがあったからなのか〜」ということを知って、愉快痛快の気分になる。しかもこの気分は、病気にでもならないかぎり消えない。
われわれは、どこに行くにしても、薄気味悪いものを持ち込んではならない。
このごろ、どうも誤解しているように見える人を、見かけることが多いのだが、もちろんアドバイスなんかしない。むしろ「絶対に正しいよ!」というような爆裂のウソを放り込んでやりたい衝動に駆られるのだが、誤解している人というのは、己のこころの内の何かを、どこかに解放することで、救済されると思い込んでいるような気がする。
もちろん、正しくは逆なのだ、人は己のこころの内の何かを、収めきったときに救済されるのであって、漏れ出したり染み出したりしている場合には、救済なんかされない。
苦しみというのは、こころの内の何かが、収まらず己に染み出してくることを指す。
このことを、誤解して、誤解の方向にアクセルを踏んでいるらしい人があるのを見ると、関わってはいけないので、「急にドンキホーテに行きたくなった」と言って、逃げる準備をするべきだと、いつも思っている。
誤解というのは、本人にとっては大正義だから、他人がとやかく言うことでは本来なく、関わったところでたいてい、相互に何の利益にもならない。
こころの内の何かを、どこかへ解放することが救済だと捉えている人は、衆目にはただ、「薄気味悪い」とだけ見えている。
たまには、自説を曲げて、僕だって、うら若き少女と、まあ毒のなさそうな青年に向けて、有益なアドバイスを差し出そうと思う。
救済というのは逆だ。
どういうことかというと、コミュニケーションというのは、「何も持ってきていない」という状態で、ようやく正当に始まるということだ。
このことがわからない人は、もう、にぎり寿司にオーデコロンをふりかけて食べ、「香りがいい」と言っているぐらいセンスがよろしくないので、何かを大規模に諦めたほうがいい。
もし、宝くじを当てて、フェラーリを買いに行ったら、フェラーリの店員が、「あなたにとって世界で一番価値がない行動ですよ」と諭してくれるだろう、というぐらいセンスがない。
薄気味悪いことを持ち込まない、ということだ。
コミュニケーションというのは、何もないから、コミュニケートするのであって、何かある奴は、薄気味悪いので、コミュニケートしてはならない。
マンションを借りるとき、何もない部屋だからこそ、「へえ」と言って覗き込むのであって、不動産屋が、「ここには何かあるんですよ……」と言うなら、誰もわざわざそんな部屋は借りないだろう。
薄気味悪いというのはそういうことだ。
こころの内に、何かを持っていて、それを解放することが救済だと考えている人は、自分を「事故物件です」と、人に紹介していることになる。
そんなもの、薄気味悪いに決まっているのだった。
まあ、こころの底から、あるいは霊魂の核から、「自分は事故物件です」と自認するまでの人は、さすがにそう自己紹介するしょうがないのかもしれないが……
救済、というのは、基本的に考えないほうがいいが(というのは、救済を求めている奴が、救済された例を見ることはまずないからだ)、もし救済ということがあるとすれば、それはやはり、こころの内に起こることを、完全にこころの内に収めきったときにこそ、それが得られるだろう。
それは、ガマンをする、ということではない。
我慢(ガマン)というのは、その字面のとおり、古今東西において屈指の邪悪であって、この邪悪はもう、育ってしまうと人智では救済できない。
その場合は、もうしょうがない(神仏にすがるしかない)として、もっと正当な、ありうべき救済はこうだ。こころの内をぶちまけて「解放」と言い張るのではなく、こころの内へすべてのことを収めきり、そうして白紙になった清潔さの上に、正しい何かを学ぶことだ。そのとき初めて、こころの内の妄念が、妄念だった――思い込みだった――と了解され、こころは解放を得ることができる。
逆なのだ。こころの内が漏れ出し、染みだし、にじみ出し、それがやがて内圧から破裂するというのは、当人にとっても激烈な苦しみであって、そのことは救済どころか、ただのカタストロフィでしかない。その後三十年の戦乱と焼け跡を生み落とす、最初の一撃が炸裂したというだけだ。
たいてい、「我慢」で生きてきた人は、こうして「我慢ボンバー」の破局に行き着き、その後猛烈に反省なり後悔なりして、より強力な「我慢」を己に命じ、その後、より強力な「我慢ボンバー」を炸裂させる、ということに行き着く……というサイクルに陥る。それはもともと、「我慢」という精神現象がそういう性質のものだからしょうがないのだ。しょうがないといって、どうすることもできないから、当人以外はその人をなるべく遠ざけるしかない。当人は逃げられないが、当人はどこかで随時ボンバーするか、そうでなければ、たいていはヘンタイ的性的嗜好に耽り込んで自分を慰めるか、何かによって自己陶酔を得るか、そうでなければ酒やギャンブルや薬物の依存に逃げ込むしかない。そのことは、以前に話したこともあるので、もう今さら繰り返さなくてもいいだろう。何の我慢もしていない人が、何かの依存中毒になるわけがない。
「我慢」というのは、内心に圧力が掛かっているから我慢なのであって、それはもう、それだけで不正規の状態だ。異常な圧力状態が、外部に未報告というだけであって、その未報告という不正ありきで、正規状態のふりをしているにすぎない。
すべてのことは、ひとつの誤解を元に始まっていて、つまりどこまでも、人は吾我の解放で己が救済されるという誤解を抱え込んでいる。
多くの人が今、吾我が「破裂」する予感を、解放のイメージとすり替えていて、「すっきりするだろうなあ」「いつかはきっと」と、救済祈念に仕立て上げているようだ。もちろん間違いだが、そういったことを、正してくれたり教えてくれたりする人は誰もいない。「学ぶ」という機能を解発した人だけが、勝手に「違うんだな」とどこかで学ぶだけだ。
もし、「先生」が存在していたら、これまでのすべてに、何一つ「我慢」ということはなかったかもしれない。
「先生」が修めた学門を、自分が追って修めていくことに、何の「我慢」も要らないからだ。それなりの忍耐は必須だとしても。
コミュニケーションというのは、「何も持ってきていない」という状態でこそ、初めて正当に始まる。その点で「先生」という存在は、ふと、「自分は実は、何も持っていないのだ」ということを、その場で教えてくれる存在なのかもしれない。
「我慢」で生きてきた人は、これまで、「先生」という存在がなかったはずだ。
だから、コミュニケーションが苦手で、苦手なのに、内部には何か「言いたいこと」への希求が強くある。その希求はどうにも、いつも、破裂的解放の方向へ高まりそうな、不穏の気配を孕んでいて、本人を、ごくまっとうに怯ませるのだ……
こうして、僕もたまには、まるで良い人であるかのふうの、アドバイスをしてみるのだった。もちろんこんなことをしたからには、今日の夕食はいつもよりちょっと不味いだろう。
本当に、薄気味悪いことを持ち込むものではないな。
誤解している人は、コミュニケーションというのを、「どうにかしてこころの内をぶちまける」「そのチャンスを作っていく」という、おそろしい間違いで捉えている。救済、は期待しないほうがいいが、少なくとも正しい道筋は、「こころの内を一切持ち込まない」ことだ。コミュニケーションは、白紙から始まるに決まっている、そりゃそうだ……
その白紙の上に、ふとしたとき、正しい何かが書き込まれる。その正しい何かによって、こころの内に巣喰っていた苦しい思い込みが「思い込みだった」と解放されて、消えていってくれる。
持ち込み物がないので、コミュニケーションが成立する。
自分の持ち込み物に、「同調する人」がワンサカ集まってくるなんてことが、どれだけおそろしいことか、わかってもらえただろうか?
僕は薄気味悪いものを持ち込むようなことは、したくないし、なるべくゼロでありたい。
それでわざわざ、こんな素っ頓狂な書き話しに、誰も同調できないだろという形で書いているのだが、このまったく同調できないような話に、あなたは何か通じるところを覚えてくれるだろうか?
あなたは、まったく善意のつもりで、知らず識らず、実は人にイヤな思いをさせている可能性がある。
「同調」なんてしていると、そういうことはよくある。
そして、なぜ「同調」してしまうかというと、おそらく、人に嫌われるということにわくわくしないからだ。
これまでに、何かを愛したことがなくて、誰からも愛されたことがなかったとしたら、「同調」がすべてになってしまうかもしれない。
人にイヤな思いをさせていたら、結果的に、嫌われてしまうと思うけれどね。何もかも逆になってしまう。
今日の夕食は豚しゃぶです。
[薄気味悪いことを持ち込まない/了]