No.383 疲れないように生きる
疲れないように生きる。
と、たまにはガラにもないことを言ってみる。
僕が疲れていないのは事実だ、何しろ疲れるようなことは何一つしていない。
僕は、疲れやすいので、疲れるようなことをすると、コンマ一秒で疲れてしまい、結果、疲れるようなことは何一つできないのだ。
エッセイを書くようなマネをすると、一瞬で疲れて、原稿用紙を二行ぐらい書いただけで、ぶっ倒れてしまうだろう。
事実、僕は一般の小説でも、二頁ぐらい読もうとしたところで、もう疲れてしまうのだ。
何が書いてあるのかわからない、と感じる。
それで、疲れないように生きる、という、ガラにもないことを提案してみたくなった。
もちろん、なぜ提案するかというと、誰にも聞き入れられないだろうという確信があるから、安心して、僕は提案するのだった。
理解できないということは、とてもよいことであって、なぜかというと、たいていわれわれは、上等なことは理解できないもので、しょうもないことばかり理解できてしまうからだ。
理解できない、ということは、何かしらマシなものであることの、必要条件になる。
理解できない、ということは、たとえば「疲れないように生きる」といって、なるほどと思っても、やっぱり実際には、疲れるように生きてしまうということだ。つまり、理解できていない。
そういうものでいいじゃないかと、このごろ僕は思っている。
(もちろんおれ自身は絶対にイヤだ)
疲れないように生きるためには、疲れることをしない、というのが一番だ。
そして、疲れることは何かというと、エネルギーの要ること、ではなく、エネルギーが徒労になることだ。
人は不毛と徒労に疲れるのであって、エネルギーそのものに疲れるわけではない。
疲れる、というのは、絶対にモノになるわけがない寝ぼけ眼の新入社員に、ビジネスマンとして生きていこうとする熱い魂を吹き込もうというようなときに、最大のものとして生じる。
あるいは、どう見ても×××でしかない、しかしプライドだけはアフリカゾウのように高い女に、気を遣いながら、女としてのあるべき姿を説得し、変革させようとするようなことだ。冷静に考えれば、そんなことが成り立つわけがないので、結果的に徒労になり、疲れるしかない。
これは、あきらめろ、と言っているのではないのだ。
同じエネルギーを使うなら、徒労にはならないように使うべきだ、ということを、再確認しているにすぎない。
人間、二十五年も生きたら、だいたい若い時間は終わったのであって、若い時間のうちに培われなかった物は、その後になって芽吹くことはない。そこからさらに二十五年が過ぎれば、もう五十であって、ふつうに考えれば死を前提にして生きるような年齢になる。もちろん立派な人に限っては、五十を超えてからでもやることはたくさんあるのだが、それはごく例外的な人であって、ふつうわれわれは若い内に己の可能性に期待し、その後大人になって現実を知り、「疲れる」ということだけを骨の髄まで知って五十になり、その後は自分の衰えだけを痛感して、そのまま死んでいくものだ。
自己実現というようなことは、あるにはあるのだろうが、それはかなり上位の人間だけが得られるもの、あるいは目指せるものであって、ふつう一般のわれわれには縁がないものだ。われわれはもっと、わけのわからない感じで生きていき、わけのわからないまま死んでいく。
仮に、「三〇歳になったから、もうパチンコは辞めたよ」という人があったとして、それは散財し続ける人に比べたら賢明だったということにすぎず、別にかけがえのない光がそこにあるわけではない。パチンコをせず家に居たとしても、何かよくわからない連続ドラマにハマったり、飽きたりして、あとは仕事上のノウハウに詳しくなって、仕事が若い頃よりラクになったということを、これだけは無心によろこぶだけだ。それが普通のことであって、何も嘆くようなことではない。
ごく例外的な聖者や、何かの最先端にいる人、あるいは究めるべき道に入り込んだ人、または自分が最後まで切り拓かねばならない何かを担った人だけが、明確な意志をもって生きるのであり、その他の大勢の人は、そんなに明確な意志を持って生きるわけではない。
ふつうのわれわれが生きるということは、そうしてたいそうなものではないことなので、そこで気持ちや思想だけ何かたいそうなものを持ち込んでいると、生きるのに疲れるのだ。多くの人に、これという青春や恋あいはないものだし、天職などまず得られないし、そもそも「自信」を持つことなんて一生に一度もない。それがふつうのことなのに、青春や恋あいや、天職や自信を得られるものだと思い込んで探し物をしていると、それがとてつもない徒労になって疲れるのだ。
そうして考えると、実に「疲れる」というのは、思い込みから発生していることがわかる。家族は愛し合って生きるものだとか、母親は娘であるわたしのことを愛してくれているはずだとか、努力は報われるはずだとか、自分は誰々よりマシであるはずだとか、芸能人はふしだらな生活をしているはずだとか、そういう思い込みによって人は自ずから疲れていってしまう。疲れないように生きるコツは、思い込みを持たないことだ。
ここに書かれてあるようなことも、もちろん僕が書いているのだが、何かこういったものにはまっとうなことや、メッセージ的なものが書かれているものなのだ、という思い込みがあると、途端に疲れ果ててしまう。そんな思い込みを持つべきではないし、そんな思い込みがあるのなら、もう書かなくていいのだ。そういう思い込みどおりのものは、もう他の誰かがやってくれているので、わざわざ自分でその思い込みのものを、なぞってエネルギーを使わなくていい。
ロックバンドのボーカルが、「盛り上がってますかー」と客席を煽るものだと思い込まれていて、その通りのことをなぞるのなら、もうそういった試みは他人がさんざんやってくれているので、わざわざ自分でやらなくていい。
自分の思い込みのないものをやるべきだ。もし、すでに何もかもに思い込みがある状態になったら、もうまったく冗談でなく、何一つ自分に期待せず、何一つやらないほうがいい。何をしても疲れるだけだ。そのことは誰もが晩年になればわかるだろう。自分は生きているうちに、何かをやって生きるのだということ、そのこと自体が思い込みだ。もっとわけのわからない、グズグズの、しかし己の健康だけには気をつけるという、友人ゼロの嫌われ者として生きることは、まったく珍しいことではない。それならば、「そういうものかもな、知らんけどな」と、思い込みを持たないように生きていたほうがまだ疲れないだろう。この世界には確かにすてきなことがいくらでもあるが、そのすてきなものに一ミリでも自分が触れられると思っていたら、それはまったく根拠のない思い込みだ。われわれは途上国のパートタイマーに、裕福になる自己実現の夢を与えるつもりは寸分もない。それと同様に、ふつうのわれわれに何か光あるものが降って恵まれてくるようなことは寸分もありえない。
同じするなら、思い込みのないことをするべきだ。理解していないこと、一言でいって「知らん」ことをする。「知らん」ことを、「知らん」ままする。それが一番疲れない。
疲れるということの本質は、思い込みから生じている。そんなことは、誰でも体感としてわかっていて、だから何もかもに思い込みが完成したあかつきには、もう自分の生きることは、すべてにおいてつまらない、すべてにおいてけっきょく疲れるだけだということが、どんな知能の低い人にもわかっているものだ。しかしその結論が恐ろしすぎるので、多くの人は、その結論を強引に、別の思い込みで上書きしようとするのだ。この思い込みは恣意的で、デザインされているから、つまり自己洗脳や、自分にかける「呪い」のたぐいになる。このことから、いわゆるリア充や勝ち組の発想、自己実現や意識高い系の発想が出てくる。言わずもがな、真に充実している人は、そのような薄汚れた発想をそもそも持たなくて済むわけで、そのような発想を必要としていること自体、すでに完成した思い込みの円環から脱出できなくなっているのだ。たとえば、恋あいについての思い込みが完了すると、もう恋あいというのは疲れるだけのつまらないものとして完成するが、その結論がおそろしいので、強引に「恋活」というような呪いを自分にかけて、自分を活発にし、エネルギーを引きだそうとする。生理的というか、血液的には、ドーパミン過剰の状態を作り出し、そのことを自分の常態にしようとする手続きになる。
思い込みというのはおそろしいものだ。誰だって、知らない国にいけばすてきなことだろうに、知っている国に行かされることほど退屈でつまらないことはない。知っている国に行かされるのに飛行機に十時間も乗せられたら想像を絶するほどの苦痛だ。昔、萩原朔太郎という詩人がいて、自分がすでに街の景色を知っているということから逃れるために、モルヒネやコカインの中毒にまでなり、本当の旅をしようとした。
疲れないように生きるためには、思い込みの一切をやらないことだ。思い込みどおりの何かをしている人のことを、脳みそに寸分も入れないことだ。なぜならそれは人ではなく思い込みの履行物体でしかないからだ。世の中は、たとえば交通法規のように、思い込みだけですべてが正当に運ばれていく都合のよいものもあるが、そういったものはいちいち脳みそに入れる必要はなく、ただいつもどおり平坦に理解だけしていればよいことになる。交通法規の中にロマンは探しようがないように、思い込みどおりの何かをしている人の中にロマンを探すことはまったくの不可能だ。だからいちいち、脳みそに入れて審査しなくていい。そうした徒労はとても人を疲れさせてしまう。
思い込みの履行物体たることは、他人に任せて、自分は疲れないように生きるべきだ。疲れないように生きるためには、思い込みのないことをする。ふつうには不可能なことかもしれないが、それこそふつうに考えたらもう何も求めずに曜日だけを循環して生きるしかない。それが最も疲れないし、それはそんなに悪いことではない。
これまで見てきた中で、疲れない人、そしていつのまにか、青春や恋あいや、天職や自信や、さらには学門まで掴んでしまう人は、ひとつのパターンに括られている。それは、自分にスイッチを入れないでも、自動的にひとつのことにエネルギーを吸い上げられてしまう人だ。この人は、
「もうエネルギーが空っぽだよ〜」
とくたばって、昏睡するように眠るときでさえ、その脳みそとエネルギーは、ひとつのことに吸い上げられ続けている。このことがふつうありえないことだ。ありえないこと、らしい。僕は最近になるまで、そうしたタイプが実に珍しいものだということを知らなかったから、今になってすまし顔で余所事のように言うのはひどいインチキかもしれない。
僕は、エネルギーを使い果たして、もうさすがにムリだとなって倒れ込んでも、そのまま意識を失うまで、ずっと「ひょっとしてこうか?」「あるいはこうではないのか」と、脳みそとそのエネルギーを吸われ続けていて、そこから眠るのも、ただ吸い上げられるべきエネルギーを回復するために眠るのであって、明日も頑張るために眠るのではないのだ。僕は何かを頑張っているのではなく、脳みそがひとつのことにエネルギーを放出していくことが止まってくれないだけなのだ。僕自身が何かを求めたということはほとんどひとつもない。
このように、疲れずに生きられる人の特徴として、<<意識が落ちれば落ちるほど、ひとつのことにエネルギーが吸われていってしまう>>という現象がある。まだ意識があるうちは、「こんな勢いでエネルギーを使っていたら、とても保たないぞ」という自制があるのだが、しだいに意識がエネルギーに遅れ始めると、もう自制は利かなくなり、エネルギーを使い果たすまで勝手に走り抜けてしまう。
特徴的に、こうした人は、エネルギーが大きくなればなるほど、「発奮」から離れていくという現象がある。多くの人は逆のはずだ。ほとんどの場合、人は自分のエネルギーが活性化しているという状態を、「発奮」の度合いと比例していると感じているはずだ。そこが決定的な差で、疲れずに生きられる人は、人々がする「発奮」ということについて、「発奮とやらに回すエネルギーの余裕なんかどこにもないけど」と感じている。発奮する人は「がんばりたい」と感じているのだが、疲れずに生きられる人は、「さっさと済ませたい」と感じている。さっさと済ませたいと感じているのだが、展開する世界は無限に広がっていくので、無限にエネルギーを吸われてゆき、けっきょく限界までエネルギーと集中力を吸い上げられていくしかないのだった。ここに「発奮」などということは、まったく意味を持たない。
こういうとき、やる気とか意識とかモチベーションとか言われると、「何のこと?」と本当にさっぱりわからなくなる。集中力というのも、差があるのはわかるが、集中力を消す方法そのものがすでにわからなくなっている。こうして、典型的な特徴が出てくるのだ。疲れずに生きられる人は、何かに向けてエネルギーや集中力やモチベーションを高めるというのではなく、何かによってエネルギーや集中力やモチベーションを吸い上げられてしまい、止まれないのだ。むしろノウハウを探すとなると、「どうやったら適宜に止まって、まともに休憩を挟めるの?」というノウハウを探すというような逆転ぶりになる。たまには発奮したい、という方法を探している人とは逆に、たまには退嬰したい、という方法を、冗談でなく本当に探していたりする。
疲れないように生きるためには、けっきょく同じ一つのことが前提になる。つまり、自分が生きることに、何もたいそうなことなんてないということだ。自分が生きるということは、実につまらないことなのだ。ただ、それがそのとおりになる人と、「言っていることとやっていることが違うじゃないか」となる人とがある。そのとおり、言っていることとやっていることが違うのだが、それでもなお、土台に考えていることは同じ一つのことなのだ。自分が生きるというのは何もたいそうなことではなく、自分が生きるなどということは、実につまらないことだ。
ただ、どうやら一部のごく例外的な人が、自分が生きているのやら何やら、よくわからないまま膨大なエネルギーと集中力とモチベーションを何かひとつのことに吸い上げられていくのだった。そのときのそれは、もはやモチベーションと呼ぶべきものではない。……僕はしばしば、自分に着想やideaが湧いてくることに対して、「もうやめてくれ〜 ストップ〜」と不平を言って、逃れようとぱたぱた歩き回ることがある。まあたいてい、そこまで首根っこを掴まれてしまったときには、もう逃れられないので、無駄な抵抗ではあるのだけれども。
巨大なイマジネールがいくらでも湧いてきて、無制限に自分のエネルギーを要求してくるというのは、愉快で痛快だが、それなりに気が遠くなり、恐怖さえ覚えるときもある。
逆に言うと、自分が疲れるように生きるとすれば、この仕組みを、逆転させたり、混同させたりすればよいのかもしれない。自分がひたすらエネルギーや集中力やモチベーションを吸い上げられていくことに対し、これを「やる気だよ!」とねじ曲げて言ってみたり、「みんなも集中しようよ」というふうにウソのことを言ってみたり、他人の事情を「バネにしようよ!」と言ってみたりすれば、僕も疲れるのかもしれない。その途端、僕はぶっ倒れてしまうだろうから、実験するだけ無駄になるとは思うが……
疲れないように生きるためには、こうして、自分が何かをするということについて、自分は意識を失いかけているのに、エネルギーを吸い上げられていく、集中力を吸い上げられていく、モチベーションを吸い上げられていく、もうやめてくれ〜 という状態になるのがよい。そしてどうやら、思い込みを持たないことで、この状態が得られるようになるようだ。自分が何かを手放さないのではなく、何者かがわたしを手放してくれなくなる。もちろんそうした状態が得られるためには、他でもない自分の自己決定が必要なのだが、疲れることは何一つしないという自己決定と共に、<<疲れないことはエネルギーが尽き果てるまでやる>>、という自己決定も必要なようだ。つまり、「一切やらない」という自己決定と同時に、「一切やり尽くす」という自己決定も必要になる。
思えば僕自身、そうして「一切やり尽くす」という自己決定をしてきた――促されてきた――記憶があるが、そのときやり尽くされることは、何一つ僕自身のことではなかったのだ。僕は、僕自身のことを何かするというような、疲れることは一ミリもやれなかったので、何かそうではない別のことに、「一切やり尽くす」という自己決定を繰り返してきたように思う。僕はこれまで、自分のやりたいことを持ったことは一度もないし、今現在も、自分のやりたいことというと、やはり「そんな疲れる思い込みはゼロだ」という感覚が確かにあるのだった。
そうして考えると、人それぞれには、レベルの差があるという以前に、根本的な仕組みの違いがあるということになる。しかもその違いは正反対という向きに違っている。おおよそ多くの人にとって、自分の「やりたいこと」は、思い込みで形成されているのではないだろうか。願望や、それに付随するドーパミンも合わせて、それが青春であったり恋あいであったり、自己実現、自信、成功、充実、勝ち組、コンプレックスの克服、あるいは怨恨の復讐というふうに、強固な思い込みこそが自分のエネルギー源だと思われている。それが正しいのかどうかはわからないが、少なくとも僕自身においては逆だ。僕自身においては、もしそれら、願望やドーパミンに関わることがわずかでもあると、僕にとっては「疲れる」と感じられて、そのとたんに倒れてしまいそうになる。よほど根性がないのだろう。根性なしの僕は、それらの一切は「一切やらない」と自己決定し、そうでない一切のことを、「一切やり尽くす」と自己決定している。それでいつのまにか、すべてを手放したつもりが、僕自身が何者かに掴まれて、手放してくれない、という状態になっている。僕の意識が遠のけば遠のくほど、その僕を掴んでいる何者かの存在は明らかになってくる。僕はその何者かのせいで、意識の果てるギリギリまで「こういうことではないのか」「あるいはこういうことか」と追究させられ、そのまま眠るといっても、その何者かの要請に応えるためだけにエネルギーを回復させられて目覚めるのだ。この中において僕は疲れない。めちゃくちゃにはされるが疲れない。一方で、僕を掴んでいる何者かが、疲れないのかなと心配にはなるが、そういう存在はきっと、何かに疲れるとかそういう次元の存在ではないのだろう。
疲れないように生きるというのはそういうふうに生きることだと思う。
[疲れないように生きる/了]