No.385 おれが何かを、おれを何かに
おれは割と必死に生きている。おれは、必死に生きているような奴を、どちらかというと軽蔑するが、矛盾するようでいて、これは矛盾ではない。おれは必死に生きないような自分を認めないし、必死に生きるような自分もまた認められない。おれがまともでいられる唯一の方法は、一般にはくだらないと思えることに必死になり続けることだと思っている。たとえその見立てが外れていたとしても構いはしない。おれはまっとうな奴に冷笑されるような存在でなくてはならない。そうでなくては、奥底でまっとうなだけの奴を青ざめさせることも叶わないだろうから。人はやがて死ぬものだが、おれは死なない。世迷い言であってもいいので、おれは言いたいことを言い続けるだろう。おれは間違っていないことを工夫して言い続けるだけというのが手っ取り早い自分の生殺しだということを骨の髄まで知り抜いている。
いい夢を見たのだ。われわれの生きている現実は、まったくつまらないもので、現実を現実と見るかぎり、苦労して生きることによろこびと言えるものは何一つない。われわれは現実に囚われているので、何かしら自分のよろこびは現実につながったものでないといけないと思っている。だがそれは思い込みなのだ。まったく違う、イマジネールの果てを追いかけてもまったく差し支えないのだ。そのイマジネールが現実的でないかぎりにおいては。ただしもちろん、もともと現実逃避用に作られたかのような堕落アニメに没入して自分が救われるということは当然ない。ああいうアニメに没入できる人間は、逆に現実に追い詰められているのだ。現実に追い詰められていない者が逃避用のコンテンツに没入することはありえない。この世界で純粋に自分のものといえるのは、自分のイマジネールが産み出すものだ。多くの人は、よもやそちらが本当の「世界」なのだとは思わないだろう。いわゆる現実というのが、実はまったく「世界」ではないということは、おそらく最後の最後までわずかも気がつかないものだ。もちろんそれに気づかないといけないということではないし、気づいたからといって何が偉いというわけでもない。何が偉いとか何がダメとかいうのも、あくまで現実に囚われての基準でしかないので、そういった尺度は用を為さない。
われわれは、自分の気力というものを信じるのに、自分の霊力というものは信じない。気質というものは信じるけれども霊質というのは信じない。霊質を信じないなら神社のたぐいはまったく必要ないものになるが、神社はやはり必要なものだと思っており、われわれはそういう矛盾を平気で抱きかかえていく。われわれはそのあたり、弱いくせにタフだ。僕も、霊力だの霊質だの、霊体験だのと言っているような奴がもし現実にいたら根こそぎバカにして警戒するだろう。たいていロクな奴がいないものだ。だが一方で気力しか信じない奴とは付き合いづらいというか、付き合う理由がないし、付き合う方法もない。気力だけを信じる人は、やたら長距離を走る奴と、やたら長文を書く奴との差がどこから生じているかということについて、説明と理解を完全に放棄する。本人の趣味とか才能というデタラメな言い分ですべてを済まそうとする。その趣味や才能が何によって分かたれているかが問題なのだが、なぜかこのことは、一部の人の知性の限界を苛立たせるようだ。古くは魂魄という言い方があって、人には霊魂と気魄があるという二元論があったのだが、この考え方や学門はどこかで放棄されて失われてしまった。どうせ本格的に学ぼうとすると本格的にむつかしいたぐいだから、再興は不可能だろう。僕は経験上、気魄がアテになることと、霊魂しかアテにならないことがあると理解している。霊魂はソウルのことだから、ソウルがないとムリ、という言い方をしたりもする。気合いだ、気合いだ、と連呼する元プロレスラーのことを、僕は嫌いではないが、その種の気魄で当人がたとえば量子力学を学習できるとは思わない。学門の霊魂が宿らないかぎり、気魄で学門は得られないだろう。穴埋め式の受験は気魄と根性でなんとかできても、学門そのものを獲得するには霊魂のはたらきがなけば不可能だ。
たとえば、仮説というのでもない、面白いだけの与太話として、「長距離を走るランナーたちは、マグロの霊が乗り移っているんだ」という言い方をする。「マグロの霊が入っているので、ずーっと走っているほうがしっくりくるようになるんだ」「ずーっと走っていたくなって、ウズウズするようになるんだよ」「だから長距離ランナーの人々は、自分一人が走るのではなくて、大会やレースでたくさんの人々と一緒に走ろうとするだろう? あれは、群をなして泳ぐ回遊魚の霊がそれをさせるんだよ、マグロって一尾で泳いでいるものじゃないからね」。こんな言い方をすると、とりあえず与太話としてはナルホドと言いたくなり、面白いということにはなる。あるいは、「バドミントンをやる人にとっては、猫の霊でも取り憑くのが一番いい。動体視力と、飛んできたものにパッと手が出る本能的な反射神経、そりゃ人間のままより猫の霊が憑依したほうが有利に決まっているよ」。こういう言い方も、なかなか冗談口としてシンプルでわかりやすい。猫より優れた動体視力の人間など存在しない。
たとえば、単純に手足を振り回して踊るダンスがあったとして、それにはサルやゴリラの霊が乗り移ったほうがいいのかもしれない。ダンスというと、照れてまともに踊れない人が大半だが、そういう人にはサルやゴリラのお面をかぶせてやればいいのじゃないか。そういう装いは、ダンス等においては非常にてきめんな効果がある。何かがふっきれて、思い切って動けるようになったりするものだ。お面をかぶってその動きを模倣するということは降霊術として初歩的な効果があるのじゃないか。ハロウィンに仮装をしたがる人が増えたし、自分の写真にはネズミのヒゲや耳を落書きする女の子が増えている。そうしたことも、自分に動物霊を取り憑かせる降霊術の一つなのかもしれない。あくまで冗談口には、そのような楽しいことも言いうる。ただし、動物霊を憑依させた者は、次第に「言葉」をもってやりとりするということを失っていくだろう。言葉は動物のものではないからだ。だからといって言語を失うわけではないが、言語と言葉はあくまで別のものだ。長距離ランナーとネズミヒゲの女の子が、互いに詩文のようなやりとりをすることはありえないだろうということ。実際、長距離ランナーのおじさんととtik tokの女子高生は詩文のやりとりをしないだろう。あるいはカタツムリの霊が取り憑いたりすると、当人の精神や体質は雌雄同体に近づいていくのかもしれない。もし本当に、霊質なんてものがあればの話だ。
昔の偉い学者さんが、神道における霊というものについて研究し、何かを産み出す霊のことを発見し、その霊を「産霊(ムスヒ)」と呼んだ。もしそんな霊なるものがあるのだとすれば、その霊は高級霊ということになるだろう。マグロやネズミの霊とは異なるはずだ。動物霊は単純に言って、霊長類のそれより低級霊だと思われる。どちらが偉いというわけでもないが、一般には偉い人のことをあまりネズミ呼ばわりはしないものだろう。聖書では蛇を悪者にし、仏教でも悪魔(マーラ)は蛇として描かれ、ヨーガでも下半身のリビドーは蛇の印章で記されているので、蛇の霊が一番グロテスクなものだと捉えられているのかもしれない。うじゃうじゃ大量発生する、蠱の霊などはもっと地獄めいているのかもしれないが。とにかく昔の偉い人が、産霊(ムスヒ)なる存在を発見し、そんな高級霊が、あったらいいなと僕は思うのだった。僕がこうやって何かを書き話すにせよ、それが何かを産み出すのでなければ、余計な文言が人目につくだけで、ただの近所迷惑と不快にしかならない。どうせなら何かを産み出す者でありたいので、もしムスヒなどという高級な存在があるのだとすれば、僕はそのムスヒに取り憑かれるか、ムスヒに接触できるような者でありたいのだ。もちろん、その方法はどうすればいいのかさっぱりわからない。
このところ、僕は人間関係について考えている。人間関係に悩んでいるわけではない。僕は人間関係に悩んだことはなく、面倒な奴とはそもそも関係を認めないたちだ。そうではなく、人間関係とは本質的に何なのだろうということを、よく考えるようになった。人間関係といって、明らかに現代の人間関係は、旧来の時代と性質が異なっている。少なくとも、現代の大学生の人間関係は、かつての世界大戦で死線を共にした爺ちゃんたちの「戦友」というような関係とは関係性が異なっていよう。昔は尾崎豊が死去したら後追い自殺をする人がいたそうだが、現代の人気アーティストにそういう側面は希薄だろう。現代で国立大学を卒業した誰かが、人生の「恩師」を見つけて学生時代を卒業するとは思えない。青春時代には色んな異性と交際したりもするだろうが、その青春の相手がいつまでも「あの人」として残るようなことは、現代ではほぼないのではなかろうか。ユーミンの歌った「卒業写真」のようなことが、何十年もこころの関係として残るということはこのごろまったくなさそうな感じだ。その代わり、二十年前などは、女学生はろくに化粧もしなかったし、大学生の男が眉毛を調えるというようなこともほとんどなかった。二十年前の彼らに、tik tokに投稿する用のダンスを踊らせようとしたら、きわめて不格好な、見るに堪えない何かが出現したはずだ。旧来から現代にかけて、人間関係はおそらく希薄になり、そのぶん、歌やダンスや化粧等は誰もが上手にこなすようになった。スポーツ選手も、過去の選手とは技術もフィジカルも比較にならないほど向上している。
時代と共に、何が変化しているのだろう? ということを、僕はずっと考えている。その中で、もし人に霊質というようなものがあるのだとすれば、人々の身からムスヒは失われ、代わりに活発な低級霊が入り込むようになったのではないか、という仮説が有為に思える。仮説というより、こんなものは与太話でしかないだろう。現代の多くの人が、フィジカルを重視して筋トレをし、岩壁を上りたがって、互いの関係ではマウントを取り合おうとするのは、ゴリラの霊が憑依しているからだという捉え方は、面白い言い方ではあるが、そんな与太話は証明のしようがない。ハエの霊でも取り憑いたほうが、空中でクルクル回る選手は優秀になるだろうが、もしそんな霊が存在して憑依しようものなら、空中でクルクル回る以外のことはすべてが失われてしまう。僕はあくまで、人は人のまま生きるべきであって、低級霊を憑依させて成績を出すべきではないと思うが、昔だって優秀な水泳選手を「フジヤマのトビウオ」と呼んだりしたのだから、成績を最重要視される選手においては、人だとか低級霊だとかはまったくどうでもよいのかもしれない。パワーボイスを出したい歌手は、ホエザルの霊でも取り憑いたほうがいいのかもしれないし、高い声を出したい歌手も、クロツグミの霊でも取り憑いたほうがいいのかもしれない。僕はあまり現代の、スポーツ選手やアーティストを、うつくしいとは感じていない。すごい、とは思うが、うつくしい、という感動は覚えない。僕が何をうつくしいと感じて感動するかは、他の誰もと同じように、僕自身によって決定する権利があるだろう。僕は水族館でイルカのショーを見たとき、その遊泳能力に毎回感動するが、もし人間にイルカの霊を乗り移らせて、遊泳能力を高めることができるのだとしても、それはけっきょく全身がイルカであるイルカそのものには敵いっこないのだから、人間に他の動物のまねをさせるのをうつくしいとは僕は感じない。人間にイヌの霊を取り憑かせたとして、極端に鼻がよくなるが、まともに言葉でやりとりするこころがなくなるというのであれば、僕はそういった術や技はおぞましいと感じるたちだ。現代の水泳選手は、もし本当にトビウオの霊を憑依させる技術があったとしたら、成績のために降霊術をやるのだろうか。なんとなく現代の価値観においては、それをやらない手はない、と発想されるような気がする。
ムスヒというものについて考える。考えるといっても、僕は自分の経験から、自分の知っていることを話すしかできないけれども。何かを産み出すということ、たとえば、哺乳類であるわれわれの身体がオスとメスに分かれていたとしても、メスの個体がそのまま「女」ということではない。メスの個体が人間としての「女」になるためには、「女」としての彼女が産み出される、何かしらの霊的な手続きが必要だ。むろん手続きが必要だといっても、そんな手続きはどこにも約束されていないのではある。
僕の知る限りでは、女性といっても、そのままで女になれるわけではないし、男性といっても、自覚に鼻息を荒くしたところで、男になれるわけではない。霊的な接触が必要で、おそらくムスヒと呼ぶべき、高級霊との接触が必要だ。われわれは、自分の存在にせよ、自分の営みにせよ、自分の生きる場所や世界にせよ、霊的にそれが産み出されることがないまま、ただ生理的に生きているとか行為しているとか認識しているというだけでは、やはりカラッポのままでハリボテなのだ。僕自身、もしムスヒに接触せず、それでも生理的にはオスだということで生きてきたなら、男としてはカラッポだったはずだ。僕が自分自身を霊的に男だと認めうるのは、男としての僕を産み出したムスヒとの接触があったからだと、僕自身においては確信する。そのムスヒは、僕自身で到達したものもあり、また一方では、別の誰かがもたらし、僕に与えてくれたものもあるのだ。旧来の時代、人間関係といえば、そうして「ムスヒの持ちよりあい」があったのだと、今になって思う。かつて、何人もの女性が、僕のところにムスヒを持って来てくれて、それによって男としての僕を産み出してくれたのだ。だから僕にとって、そのときごとの年代、季節、場所、性、営為、景色、名前、そういったすべてのものが、命をもって存在していると今になっても感じ取られる。そのとき、そこにあったすべてのものは、ムスヒの持ちよりあいによって「産み出された」ものなのだ。ムスヒの持ちよりあいよって、僕は何かを産み出し、また、他の誰かは、僕を何かに産み出してくれた。若き日の僕に向き合ってくれた女たちは、僕を性欲と活発さのサルにはせず、男としての僕を産み出すのに最上の高級霊を向けてくれた。
考えてみれば、そうしたことは、何も珍しいことではなく、ごく当たり前のことだったのかもしれない。たとえば1974年のディープ・パープルの映像を観ていると、ボーカルのデヴィッド・カヴァデールは実にロックシンガーに見えるし、一方で、聴衆は実に聴衆に見えるのだ。時代が時代なので、舞台装置はスカスカなのだが、そんなことはお構いなしに、ロック音楽が産み出され、「BURN」が産み出されているように見える。これは、ディープ・パープルのメンバーがそうした霊的なクリエイティビティ(ムスヒ)に接触していたのは当たり前として、聴衆の側にも、持ち寄った数万や数十万の、集合的なムスヒがあったのだと思う。何かを産み出す霊が集合的にあり、その集合的ムスヒがディープ・パープルをディープ・パープルにしたのだと思う。ディープ・パープルのメンバーと、数十万の聴衆が、それぞれムスヒを持ちよりあったということ。「ディープ・パープル」は、言葉を持つ聴衆らの数十万集合のムスヒからこの世界に産み出された。そういう人間関係が、当時のミュージシャンと聴衆たちのあいだにあったのだと思う。重要な言い方をすれば、つまり<<当時の聴衆は単純な消費者ではなかった>>。ここで「消費」および「消費者」というのは、実に最低な存在としての響きを帯びている。なんだ「消費者」って。聞くだけでもおぞましい種族だというのは本当は誰だってわかっている。
かくて、僕が捉えたいところの人間関係というのは、三つの種類に分類されうることになる。ひとつには、ムスヒの持ちよりあいがあった、言うなれば「相ムスヒ」という関係。もうひとつには、片側がムスヒを持ち込むものの、片側はそれを消費するのみという、「片ムスヒ」という関係。そして最後のひとつは、どちらともムスヒを持ち込むことはないという、「無ムスヒ」という関係。むろん、正当に人間関係と呼んでいいのは、初めのそれ、相ムスヒが唯一のものだろう。片ムスヒは一方的に消費される者に対してほとんど残虐行為をはたらいているようなものだし、無ムスヒのほうは、そもそも何かしらの関係性があるとは認められない。ただ同席して見物しあっているだけだ。もし仮に、互いに無ムスヒの状態が当然になり、それぞれが低級霊を己に仕込んで、飛んだり跳ねたり、動物的に偏った能力を示したりするのみであれば、特にこれという罪のない、一種の動物園のような様相を示すのかもしれない。もちろん僕は、人として、人間がそれぞれにカバの霊やハトの霊やフナの霊やアシナガハチの霊を見せ合って時間を無駄に過ごしていることをよろこばしくは思わないし、そんな中で自分まで無駄な時間を過ごして気分良くなれるとは思えない。
この時代にある空回りや、えぐい消費、あるいはどん底のような無為は、これらムスヒの有無で決まっているような気がする。僕の場合、たとえどれだけ肌つやのいい、アイドルのような女の子がいても、その子とセックスして自分が何にもならない――何かでありうる僕が産み出されることがない――のであれば、その子とせっせとセックスしたいという気にはなれない。蛇か蠱の霊でも憑かないとセックスできない。その子とお茶を飲んでもしょうがないし、その子と一緒にプリクラに映ったところで無意味なことだ。徹頭徹尾、僕は彼女と関わる前と後とで何も変わらないのだから、僕が消費されるのみか、後は彼女に取り憑いている動物霊を、なんじゃこりゃという心地で見物させられるだけになるだろう。そういう馬鹿馬鹿しいことが、割と冗談でなく当たり前に起こるような時代に、現代はなっているように思う。
そういえば、僕がこうして書き話すように書き、それをウェブサイトに掲載していると、十年前ぐらいまでは、定期的に誰かからのメールや、設置されたリンクからアンケート等が送られてきたものだった。思い切り勇気を出して撮ったらしい、セクシー写真を添付しての、ほとんどラブレターのようなものを、きれいなティーンネイジャーから受け取ることも少なくなかった。それが、アンケート等は、もうこの数年、一通たりとも届かなくなっている。僕自身でさえその存在をすっかり忘れていた。誰かからの突然のメールというのも、このごろはすっかりなくなってしまった。そうなった理由はわかっているし、今さらこの状況に文句を言ったり、アンケート回答やメールを寄こせと言っているのではない。ただ、事実として、すでに集合的に決定したようなレベルで、人々のあいだにムスヒがなくなったのだ。僕のブログやウェブサイトを数年単位で愛読してくれている人は少なくないのだが、そうして愛好してくれている人たちにとっても、やれアンケートやらメールやらを自分で思い立って送るということは、感覚的に非常に困難になっているはずだ。それは僕自身もそうだからよくわかるし、誰かに無理をさせるつもりはない。「相ムスヒ」と呼びうる、唯一まともな人間関係が消失したのだ。僕の側は、こうして書き話す以上、僕自身の意地もあって、何かしらを産み出すという形で書き続けることを誓っているが、読む側は現在、集合的な霊的状況として、僕の産み出したものを消費することしかできないはずだ。僕はあなたを読み手にすることができるけれども、あなたは僕を書き手にすることができない。僕は読み手としてのあなたを産み出すことに高級な霊力を使っているが、あなたは僕に向けて、書き手としての僕を産み出すための霊力を使うことができない。たとえその意志が、全身全霊であったとしても、すでにその高級な霊力が身のうちにわずかも見当たらない以上、所有していない霊力や霊質は、どう努力しても使いようがない。
もちろん、読み手としてのあなたに、やりやすい反応を引き出す方法だって、僕は一応知っているのではある。こうしてテキストの一点張りをするのをやめて、今の時代に合わせて、色とりどりの写真や、随時のささやかな動画でもアップロードし続ければいいのだ。そうすれば少々の「いいね」ぐらいは押してもらえるだろう。だが僕はけっきょくそうしたことをやらない。なぜかというと、言葉の霊質を持たない映像に反応するのは霊的には低級の現象だからだ。単純映像に反応するのはつまり鳥レベルの霊的反応だと言える。映像を視認する能力でいえば、鳥のすべては人間の視力などはるかに凌駕しているだろう。鳥の視力は、イヌの嗅覚と同じように、人間と比較すると桁外れに能力が高い。
彩度を操作した映像であなたを反応させたとしても、そのときあなたはすでに「読み手」ではないのだ。読み手としてのあなたを産み出さなくていいなら、僕は霊力の99%をカットできるだろう。
言葉に反応できるのは、人間もしくは人間以上の霊質だけだ。もちろん、文章の内容として、言語でマウントを取りに行くようだったら、ゴリラの霊も反応するだろうが、僕はゴリラではないので、マウントを取りに行くという発想は昔からよくわからない。だからゴリラの霊も反応できない。暴れ回るわけでもないので、サルの霊も反応できないだろう。繰り返しになるが、十年前は状況が違ったのだ。すてきな文章、すてきな言葉に、人々が反応し、なんとかして相ムスヒの人間関係を作ろうとしてしまう、そういう反応が人々にあった。僕自身は、十年前から比較すると、直接人と関わるかぎり、愛される度合いは格段に、高くなり豊かになったと確信できる。けれども、相ムスヒの関係になりうるかというと、それは集合的にきわめて困難になり、ありうるとしてもごく例外的にしかありえないという状況になった。状況が変わったからこそ、過去のことを記録しておかねばならない。こうした書き話しを受けて、「どうすればよいか」が、自然に発生し、むしろ「いてもたってもいられない」という調子で、メールを送ってしまうというようなことのほうが、当たり前だった時代があったのだ。わずか十年前までがそれだったが、およそ東日本大震災あたりを機に、そういった相ムスヒの霊質は集合的に失われている。あの災害の威力が、人々の霊質を破砕したのかもしれないし、あるいは全世界的な状況を見れば、災害とは無関係にそうした状況に至る、ただそういうタイミングだったのかもしれない。
この状況では、たとえば女性は女にはなれないし、男性も男にはなれないだろう。教師は教師になれないし、先輩は先輩になれないし、後輩も後輩になれないし、料理人も料理人になれず、客も客になれない。成人式が成人式になるはずがないし、舞台が舞台になるはずもなく、小説が小説になるはずもなく、映画は映画になるはずがなく、歌が歌になるはずがない。作品が作品にならない。どれだけ近接しても友人が友人にならないし、青春が青春にならないし、たとえ同性愛のセックスに及んでも、それが思い出の誰かになるというのはむつかしいはずだ。婚姻を結んでも、夫になったり妻になったりはできないはずだし、子供が生まれても父や母になったり、「家族」になったりはできないだろう。そうした「何か」たりうる存在が、霊的に産み出されないかぎりは、それが「何か」になることはないのだ。われわれの、自身の存在や、営為のこと、あるいは年代や場所や季節や光景のことも、すべてムスヒ、特に「相ムスヒ」の人間関係があって初めて成り立ち、獲得されうるものだった。
僕の知る限り、人々はそれでも懸命に、健気に生きながら、愛の関係にあこがれて、何か意味のある存在として生きることをあきらめられなくて、自分にできることがもしあるなら、なんとでもしてやりたいと、ごく素直に望んでいるものだ。だが、状況はすでに、そうした健気さを前向きに取れるような安易なレベルにない。今のところ、解決策はまったくなくて、それどころかもう数ヶ月ごとに、目に見えて悪化する一方だと認めねばならないのだが、それでもこうしたことは冷静に、理知的な学門として把握することを第一にせねばならない。僕が何かになり、あなたが何かになるというようなことは、相ムスヒという人間関係でしか起こりえないことだった。僕がムスヒを持ちよって、何かであるあなたを産み出し、あなたもムスヒを持ちよって、何かである僕を産み出すしか、本当は方法がなかったのだ。忠犬ハチ公は、誰かが彼を「ハチ」と呼んだから、「ハチ」として産み出されたのであり、それがなければただの一頭のイヌだった。あなたは、忠犬ハチ公を「キャラ」としてマンガ絵に描き出す発想は持てても、一頭のイヌを「ハチ」と呼んでハチそのものを産み出す感覚がすでにないのではなかろうか。
今のところ、ほとんどのケースは「無ムスヒ」であって、それぞれがお好みの低級霊を自分に取り憑かせ、それを互いに見せつけ合うために無関係のまま同席する、ということが続くしかない。ゴリラはマウントを取り合い、鳥はさえずりあって視力を愉しませ、マグロは群を為して果てしなく走り続けるだろう。あなたはたとえばこの数ヶ月を思い出して、誰かのマウントにイラッときたというようなことに思い当たることはできても、「○○先輩のあの言葉が……」というような記憶に思い当たることはできないはずだ。言語を記憶しているということと、言葉の思い出があるということは異なる。「ポケモン、ゲットだぜ」というフレーズが記憶に残っているということは、言葉の思い出を所有しているということにはならない。キャッチコピイや流行語になったセリフのたぐいであなた自身が産み出されるということは当然ながらない。
とはいえ、暗くなる必要はないというか、暗くなってみても状況が変わるわけではないので、暗くなったところでただの不毛だ。そうではなく、理知的な学門の捉え方として、ムスヒ、特に「相ムスヒ」という捉え方が、カギになりうるという知識を、ただ冷静に獲得すればいい。相ムスヒの関係そのものを獲得するのは困難だが、それがカギになるというらしい知識を獲得することは何ら困難ではない。
きわめて簡単な知識だが、それでも念のために、
・相ムスヒ――人間関係
・片ムスヒ――一方的消費
・無ムスヒ――動物園状態
と、箇条書きにしておけばなおわかりやすいだろう。
産霊(ムスヒ)というのは相当な高級霊だ。僕も何かを産み出そうとするとき、きっと、多くの人からは想像がつかないぐらい、壮絶な突破を僕自身の内で果たしている。そのことが、余裕で出来た日はこれまでに一度もない。おれが何かを……たとえ、おれを何かにするものが金輪際途絶えたとしても、おれが何かを産み出すことを、僕はやめない。そのためにいつも必死だ。だから僕は割と、必死に生きている。必死に生きているが、それが低級霊の必死さではだめだ。必死といって、人間のくせに、動物園のような必死さというのでは、僕はどうしてもそれを軽蔑するだろう。
[おれが何かを、おれを何かに/了]