No.398 今は太古である
太古にわたしはいない。太古には「わたしたち」がいる。「わたしたち」は太古にしかいない。太古は今、現代にコーティングされている。けれども、光の中に時間は流れていない。太古から現代へ時が流れたというのは錯覚にすぎない。時間は絶対的でなく相対的で、光の中に時間は流れていない。光の中はずっとゼロ秒のままだ。ありとあらゆる「あのとき」からゼロ秒のままだ。
わたしには伝えねばならないことがあり、そのため、伝わることをしなくてはならない。わたしから誰かへ伝わるということはありえないので、わたしは「わたしたち」に帰る必要がある。よってわたしは、太古の「わたしたち」へ帰らねばならない。実のところ、肝腎なときにはいつもそのようにしている。それしか方法がないからだ。わたしは営為の原動を太古に拠っている。昔のことをイメジしてもしょうがない。今このときの太古に拠るしかない。
思えば、時間の経過というのはウソなのだ。実際、相対性理論によって、光速度の中には時間が流れていない。時間が流れているのは、有為の重さを持つものだけだ。有為の重さを持つものは、光速度に到達できず、それゆえ時間の流れという錯覚に取り込まれずにいない。人の魂にけっきょく重さはないのだが、身は重さをゼロにしかねるため、われわれは身を通じて時間の流れを錯覚する。時間の経過を錯覚する。今このときは現代であって太古ではないと誤認する。仮に、人の魂が重さを持たなかったり、あるいは重さを持たない天使が光の中に存在すれば、天使の目からはゼロ秒のうちにすべてのことが起こっていると視える。太古から現代まではゼロ秒だ。よって今は太古であり、「昔」という自覚軸錯覚の現象はそもそも存在していないことになる。
それでも今と太古には事象の違いがあって、つまり今に拠ればわたしはわたしでしかありえず、太古に拠ればわたしは存在せず「わたしたち」だけが存在する。太古においてわたしたちは未分化だった。未分化、つまり「分からない」わたしたちだった。人々のつながり、および人々のあいだに何かが伝わるということは、その未分化においてしかありえない。「分かる」ことには「分かる」以上の値打ちは存在せず、「分かる」という分割が宣言されている以上、その分割された相互のあいだに伝わるものは存在しない。
太古から今までが疑いなくゼロ秒でひとつだったとして、一方で確かに今と太古では体験される事象が違うということは、つまりどこまでも時間の経過という実感が錯覚にすぎず、太古と今の違いはそのまま事象の差異が本質だということになる。太古においては「わたしたち」であり、今においてはそれぞれの「わたし」が分割されてある。つまりゼロ秒のうちに分化と未分化が同時に成立している。分化と未分化をすら分割することができない。光はついに分化と未分化の分割さえ許さないし、太古においてやはり分化は存在していないのですべては未分化でしかありえない。事象の
story が壊れている。ただしその事象 story の崩壊を認めがたく感じるのはあくまでそれぞれの「わたし」であり、太古あるいは光の「わたしたち」はその崩壊を議論する余地を持たない。なぜなら、太古あるいは光の「わたしたち」において、崩壊しているものと崩壊していないものの差さえ分化されないからだ。
分化と未分化、つまり「分かる」と「分からない」だが、いわば「分からない」に発して「分からない」にたどり着く道程に、「分かる」という違和感がゼロ秒のサイズで挟み込まれている。仮に時間軸上の錯覚を許すなら、時間は太古から現代へ、そして未来へと流れている。太古は未分化(分からない)の「わたしたち」で、未来の行き着く先、その行き着く先が何かしらの神の国なら、神の国はやはり不分化(分からない)の世界だ。われわれは「太古」からやがての「神の国」のあいだに挟まっている。「分からない」と「分からない」のあいだに挟まれている。挟まれてそれぞれは「分かる」の中にいる。すべてが錯覚であり空想でしかない、「分かる」の実感に操られて、ありもしない時間の流れの中を生きている。そのように錯覚し、空想して実感している。
われわれが、由来たる「太古」と、たどり着くべき「神の国」のあいだに挟まれているとして、この挟まれているものを「人」と呼び、挟む両側のことをそれぞれに「天地」と呼ぶ。重さのないものはすべて物理的に光にならざるを得ないから、重さのないものに時間の流れはない。よって、時間の流れを錯覚し、その空想の実感に取り込まれている者にだけ、「天地」というのは重力方向の順逆のことだと捉えられるだろう。
わたしは、「わたし」という分化的存在として作用をはたらきかけることを求めない。分化的存在としてはたらきかけるということは、「分かる」ということを増やすということだ。「分かる」ということは、そのまま当然「分かりやすい」のだけれども、「分かる」という実感はけっきょく存在そのものではなく、分割されており伝わってはいないから「分かる」と呼ばれている。これ以上、この「分かる」に加担する気にはなれない。ただし、「分かる」という事象は、ゼロ秒のうちに天地にサンドイッチされているだけのものだとしても、それはやはり「分かる」という事象なのだから、分かるべきは分からねばならないと強く認める。分かるべきを分からないでは、それはただの妄想であり、その当人はただの病人にすぎない。われわれにとって「人」および「わたし」は「分かる」の事象であり、「分かる」の事象である以上、それは正しく分からねばならない。それはわれわれに課された責務でもある。
「分からない」のは天と地だ。天と地は、言い換えれば神の国と太古だ。それぞれはやがて、天と地の分化さえ必要なくなるのだということは、自明というほどに予感されている。太古の「分からない」と神の国の「分からない」は同一のものだろう。聖書の言い方を借りれば、人は分割の実(善悪の知識の実)を食したことで永遠のエデンから追放された。いずれは罪を贖いきって、永遠のエデンへと帰りたいというのが人の魂の希求だという。天地のうち地が太古だというのは、もともとアダムがエデンの「土くれ」から作られたことに端を発している。真の太古たる「地」とはエデンの土くれのことだ。この土くれから産み出された「人」は、やがてその土くれのあった神の国に帰りたいのだろう。
同様のことは、仏教および古代インド哲学でも説かれている。仏教説においては、人は六道のうち人間道に生まれ落ちており、人間道の因果として「識」(認識)という業(カルマ)を負っている。このカルマが償却されないかぎり、特定の慈悲を除いては、魂は六道の輪廻から解脱できず、仏の国に入れないと言われている。解脱の第一は般若の知恵で、色即是空・空即是色、つまり「すべての実感は空想で、それが空想だと分かるということも、また実感でしかない」と説かれている。ただしここでは話が煩雑になるので仏教説は取り扱わない。
わたしには、伝えなくてはならないことがあり、そのため、伝わることをしなくてはならない。これ以上、「分かる」のごときに際限なく加担することはできない。わたしはすでに「わからない」を知っており、今ここに太古があることを知っている。つまり「わたしたち」の現存を知っている。仮に聖書説を借りて言うのであれば、エヴァをそそのかした蛇も現存している。われわれの血には今でも蛇の作用が棲んでいて、蛇は遺伝子となり、われわれの身の感受性をインターフェイスに、われわれを操作する。現在もわれわれの魂をそそのかし続けている。今もわれわれの魂を、時間と重力を信仰するほうへそそのかし続けている。われわれの身の重さはもともと蛇の重さだ。身の重さがゼロであればそもそも、この時間と重力を錯覚する世界へ生み落とされていないだろう。われわれにとってその蛇はいつも今のことだ。
われわれの身が、重さゼロにはなり得ないにせよ、われわれの魂は重さと重力を信仰するべきだろうか。ただその実感があるということのみに拠って? ましてその実感という現象は、蛇がわれわれの感受性を操作してわれわれをそそのかしている結果にすぎないというのに。また、重力とワンセットにして時間の流れも信仰するべきだろうか。身が老いてやがて死ぬということへ恐怖が実感されるよう操作されている感受性の呼びかけを信頼して? われわれは表面上、重役になりたく、重鎮になりたく、また重要人物になりたいと――重さで生き残り、繁栄しようと――企図し、力ある者となって、生存競争に有利たることを欲しているかに見えるが、それは真にわれわれの希求ではなく血のうちに棲む蛇にそそのかされた結果にすぎない。その証拠に、われわれは仮に次の世界へ転送されるときがあるとするならば、万人が生存競争に力と重さをぶつけあう血みどろの世界へ転送されることを望まない。われわれが生きてあるうちは、己の生存競争における重さと力を欲するのに確かな「実感」があるが、その確かな「実感」こそ、蛇の得意とする空想操作だ。われわれの魂が、信仰を引きずり落とされないかぎり、その希求の先に血みどろの生存競争覇者を崇拝することはありえない。
血を含むわれわれの身が、完全な重さゼロにはなりえないにせよ、性質として、われわれの魂が重力と時間への信仰を選ばなかったとき、われわれの身はいちおう浮上に向かう。このことは、「浮き身が掛かる」と表現してよいほど具体的なこととして現れる。そのことは、一度その具体の実物を視てみればただちに知られる。ただし、重力と時間を信仰していた場合、その信仰が脅かされることからの恐慌があるかもしれない。浮き身……われわれは、太古のように歩かねばならないし、やがての神の国のように歩かねばならない。そのとき、たとえ刹那のことであれ、今もある太古の「わたしたち」が垣間見えることがある。
一方、何の自覚もなくとも、われわれの魂がすでに時間と重力を信仰していたとき、その身はズシリと重力の信仰へ落ちている。重力に落ち、時間の信仰によって、何かを「待ち続ける」身体になる。「浮き身」という表現に対照するならば、この身は「居着き」と呼ばれる。居着きの身は重く、常にすべてを待ち続けているために、すべての機が目の前を通り過ぎてから、ズシリと居着いた批評を述べ、出遅れた主張を力で割り込ませるだけの存在になる。もはや何の機に噛み合うこともなく、何の出来事にも参加できない。呪われて縛られた身となる。分割のみされた「わたし」が肥大し、強烈で手が付けられない鈍重な自我だけがそこに育ち続けることになる。すべての出来事から切り離され、来るはずもない何かを待ち、空想の実感だけを増長させつづける露骨な「顔面」がそこに寂しい鬼のように浮き出し続ける。
わたしはその具体の様相を多く見届け、なるべく多く救いうるかぎりの、「わたしたち」へ伝わることがしたかった。どうしようもなく、わたしの手に余るケースも多く認めながら、わたしの器量に可能な最大のことがしたかった。そのためわたしは、「分かる」ではなく「伝わる」ことのために、なるべく大規模な「わからない」を獲得する必要があった。そこでひとつには理論上の――言い換えればフィクション上の――天ないしは神があった。そして同様に、太古、地の古(いにしえ)にもその「分からない」があることを、ここ最近になって発見した。
わたしは、理知の能を保つ健常の者であるから、「わたし」を他者と厳密に分かつ(峻別する)と共に、「分かる」とは異なる「分からない」の存在を求めた。わたしはわたしを「分かる」だけ、理知を具えているので、この分化的存在である「わたし」をもって、何かを伝えうるというような蒙昧は、さすがに初めからあてにしていなかった。われわれが単に、分化された「わたし」どもの野合ではなく、未分化の「わたしたち」として幸福に救われるためには、他でもない「わたしたち」というそのものの主体が必要になった。
わたしは分かるわたしをあてにはできなかった。一方、分からない「わたしたち」を現成せしむるには、フィクションの「天」で十分だと思っていた。けれどもここに、つい最近のことではあるが、フィクションにはもう一方向、フィクションの「地」があることが発見された。わたしはこの天地のあいだにあり、天地のあいだで消失する必要があった。天地のあいだに分化的な「わたし」は消失する(無力化する)。そのとき、天は神の国・言葉そのものであり、地は古(いにしえ)・やさしさだった。天は創造であり地は実現だった。天につなぎとめられてあるとき、特別な創作を得るのを「天啓」と呼ぶことが知られた。地につなぎとめられてあるとき、特別な身の償却を得るのを「稽古」と呼ぶことが知られた。もともと「稽」は、つなぎとめるという字義だ。
主体性を持つものを、主体ないしは主と呼ぶより、主体について説明する方法はないが、ここで主体は天でありまた地であった。天啓か稽古が主体であった。神の国の言葉が主体であり、また太古のやさしさが主体だった。つまり「わたしたち」の主体は「わたしたち」であり、分化された「わたし」の誰かが「わたしたち」の主体を担ったり代弁したりすることはできない。
われわれは蒙昧から、知らず識らず時間への信仰に片足を突っ込んでいる。そこでわれわれは、相対性理論をちらりと知ってはいても、なおゼロ秒に一切の出来事が起こっているということを認められず、改心せぬ罪人のようにこっそりと、出来事をそれぞれに「並べる」という後ろめたさの作業をする。時間への信仰に足を取られて、昨日と今日が同時に起こっていることが認められない。光を疎み、己の操作された空想実感を愛でる愚かさによって、昨日と今日は時間軸上に分かれて並んでいるはずだと、後ろめたい信仰を抱えなおす。昨日と今日が同時に起こっていることが認められず、太古と今が同時に起こっていることも認められない。よって、太古に未分化の「わたしたち」があり、今は分化された「わたし」がそれぞれにあるのだということについて、「わたしたち」と「わたし」という二つの主体が今同時に起こっているということも認められない。そこでなんとかして矛盾ということを言い張ろうとする。矛盾を言い張ろうとしたとき、人は嬉々としていながら、必ずその表情を、厭らしさと誤謬の汚穢に満たしている。
時間への誤った信仰を、ひたすら理により正確に排除すれば(つまり目前の電灯の光でさえ、時間など流れていないのだ)、分化と未分化の同時成立は、何の苦もなく獲得される。分化と未分化が異なる事象であることは認めるべきだが、すべて時間の流れが錯覚・思い込みにすぎない以上、すべてのことは同時に成立しているということにこそ、むしろ最も清涼な了解が得られるだろう。それは光の視点と呼んでもよいが、きっとわれわれの魂に重さはないため、われわれの魂の視点でもある。
わたしは営為の原動を完全なものにしたかった。少なくとも完全なものを抱えてそれに縋るようでありたかった。わたしは分かることに加担することをもとより求めておらず、わたしは伝わることを求めており、そのためには「わたしたち」なる主体を獲得する必要があった。その主体は天のみならず地にもあった。天の言葉のみならず、地よりの太古のやさしさもまた「わたしたち」という主体であった。「わたし」という分化的主体は天地のあいだで消失するが、より正確には、そのとき分化的主体たるわたしは、「分かる」ということをやめて無力化している。分化的主体たるわたしは、「分からない」を取り扱うことはできないが、唯一、「分かる」ということをやめることはできる。そのときわたしは、分かろうとすることの一切をやめ、分からないものを分からないままにして通過させている。地より来たる太古のわたしたちが、天のわたしたちたらんとして言葉を噴き上げ返すのを、そのままにして通過させている。そうすることだけが、とてつもない何かを、最大の効率で進捗させるということが、見たままに視えるからだ。地から天へ、太古のわたしたちを噴き上げさせ、天のわたしたちへ帰している。かつてあったわたしたちから、やがてたどりつくべきわたしたちへ、それがゼロ秒の同時にあるからこそ、わたしたちはそれを帰らせることができる。
この太古から神の国への噴き上げのことを、何と呼べばよいのか未だ判らない。天啓と稽古があり、稽古が天啓を目指すということ、また、天につながって天啓がなければ稽古の向かう先がないということ、太古につながって稽古がなければ身は何らも現成しないということは明らかだが、それにしても太古から神の国への噴き上げ――および、それについて「分かる」という一切をやめて通過させるということ――、そこに起こる実際のすさまじさを何と呼べばよいのか判らない。わたしは営為の原動を太古に拠り、その原動を完全なものに感じている。誰にも分からないまま、「わたしたち」が噴き上がるということ。単に噴き上げと呼べばよいのかもしれない。あるいは、特定の宗教圏内では、それをハレルヤと呼ぶのかもしれないが、わたしは既存の宗教様式に首を突っ込む意思を持たない。ただわたしは、今が太古であり、太古のわたしたちという未分化の主体が完全な原動でありえて、その太古のわたしたちが神の国のわたしたちに言葉を噴き上げていくということ、またそれがすべての分化された「わたし」どもをただ通過して噴き上がっていくのだということを、すでに体験から知ったということを報告し、ここに確かめたかった。
[今は太古である/了]