No.399 グッドナイト・サービス
サービス精神は、いい匂いでなくてはならない
文学や芸術に、それじたいの意味があるとは思えない。
岡本太郎は、「キャンバスからはみ出せ」と言ったが、そもそも四角いキャンバスに括られることの意味がわからない。
おれの体質が異常なのかもしれないが、四角いキャンバスに括るものには何の意味もない。
どうでもいいインド人の笑顔を思い出している。
おれはこの記憶をずっと持ったまま生きるのだろうか、そう思うとヤレヤレという憮然とした感じがしてくるし、まあそんなものでいいか、という気持ちもしてくる。
おれはいつも感動しているが、それはいつものことなので、今さら表には出さない。
誤解されるのがいやだから、という面もあるが、それ以前に、感動しているものは、表に出さなくてもわかるだろうから、いちいち表に出さないだけだ。
サービス、ということが、いやがおうにもわかってきた。
説明するには、骨の折れることだが、説明したって伝わりっこないのだから、説明はしなくていいだろう。
おれは相変わらず、いい文章を書くなあと、自画自賛して、満悦している。
満悦といって、カンタンに満たされるのが、おれのいいところだが、本当に満たされているのだ。
自分で、いい文章と疑いなく認められるものが、するする自分から出てくるというのは、実に気分がいい。
そうなりたくて、長いことやってきたわけだし、いや、そうなりたいというか、そういう快楽をむさぼりたかっただけだが……
ふつう、人の成長なんてものは、十五歳から二十五歳のあいだの十年間だけだ。五歳から十五歳のあいだは、まだ何も視えていないし、幼い頃に視えていたものは、どうせ思春期の前後で消える。
十五歳から二十五歳のあいだに、優秀な奴になれるかどうかが決まっていて、優秀な奴になれた者のみ、二十五歳から三十五歳のあいだに経験を積む。
優秀になれなかった奴は、ただ老化していくだけだ。
それは、別に残酷なことではなくて、優秀になれなかった奴に、優秀になった者のコースを歩ませるとすると、当人が「無理です」「いやです」「しんどいです」と拒絶するものだ。
優秀な奴というのも、タスクとして大変なので、単純にうらやましいものではないということだ。
人は、十五歳から二十五歳のあいだに優秀になり、二十五歳から三十五歳のあいだに経験を積む。そこで経験を積んで、実用性を持つようになった奴だけが、おそらく次の十年間で、何かしらの実績を産み出すだろう。
その先がどうなるかは、おれも未経験なので知らない。
とりあえず、現時点で知っていることは、おれはすでにこれまでに、一般に人が生涯で得る歓喜の量をはるかに上回る歓喜を得てきたので、採算はとっくに黒字になっているということ、企業でいえばトリプルAにプラスが大量につくような、余剰を得ているということだ。
かといって、いきなり謙虚にもなれないし、そういう柄でもないので、こうなれば行けるところまで行こうと思っている。
おれは、人は二十五歳以降、決定的な成長は得ないものだと思っているが、自身でそう思っているくせに、他でもないおれ自身は、どうやら現在に到っても、決定的な成長を得つづけているらしく、その判定を目の前にして、いっそ不気味という感触を覚えている。
自分で言うのもおかしいが、こんなに執拗に、決定的な成長と変容を得る者を、おれはおれ以外に見たことがない。
毎年、ゾッとするほど、一年前の自分では勝負にならない、と現在の自分を感じる。
それも、ここ数年において、その伸び率は加速しているのだ。
これはむしろ、僕自身において、「人ってそういうものじゃないだろ」と思えるばかりで、自分が不気味だ。
いちおう、すべての成長に、説明はつくし、辻褄は合うのだが、気づけばなぜそんな急加速のレールに乗ったままなのか、自分でも理由は不明で、漠然とおそろしい。
今になって、自分が若年のころから追いかけてきたのは、魂であり愛の現象なのだ、ということがわかるが、ふつう、ショーペンハウエルが言ったように、人は四十歳にもなれば、過去のことを思い出してボヤくだけの生きものになるはずだ。
自分が若年のころから追いかけていたものは、魂であり愛の現象だったとして、今になってそれがわかるというのは、ふつう回顧的に観想されるものだと思うが、どうもおれの場合はそうではないらしい。
最も不安定な、現役という状態がまだ続いている。
これまで追いかけてきた、魂・愛の現象に、よりにもよって、少し手が届いたという状況なのだ。
こんな状況は、ある意味では、ロマンチックでない、と評するべきだと思う。
ふつう、若年のころから追いかけてきたものというのは、手が届かなくて、雲の上に飛び去っていくもので、人はそれを切なく見送るというのが通例のはずだ。
「手が届く」というのはまったく異例だと思う。
人は、生きているうち、きわめて幸運な者だけ、いくつかの不思議に出会う。不思議というのは、思議できないという意味だが、思議できないそれは、ふつう「何だったんだろうなあ」と、不思議さのまま見送られるものだ。
これが、おれの場合、その思議できないものを、思議できないまま、直接ディールできるようになってしまった。
ある意味、神秘主義としては台無しという感じがする。
おれの文章には、問いかけがないので、一般に定義される小説家・文学者としては失格だ。
まあおれは、わざとらしい問いかけなんか好きじゃなかったので、早晩こうなることは、前もって定まっていたかもしれない。
不思議なことがあるとして、そもそもおれは、思議をそんなに肯定していない。
今こうして書き話していることにしたって、何かプロットを立てているわけではないのだ。ただそれでも、何を書くべきで、何を書くべきでないかはわかる。
おれはこれまで、何かを書くのに、プロットというものを立てたことがない。
そういえばむかし、自己啓発のつもりで、マインドマップなんてものを勉強してみたこともあるが、やってみて気づいたのは、そうした特定のメソッドから学ばなくても、おれの脳みそはもともとマインドマップ的に開放されていたので、特に学ぶ必要はないということだった。
同じように、岡本太郎が、絵が描けないというならデタラメを描いてみたらいいと言っていたので、そのとおりにしてみたら、おれの場合は、初めから何の躊躇もなく、これぞデタラメと褒めたくなるようなデタラメが噴出した。
このとおり、おれはある意味で、とてもつまらない奴なのだと思う。ロマンチックなことや、劇的なことを、前もって粉砕してしまうところがある。
今になって、逆に問題になって立ち上がっているところがあるのだが、おれはかくのごとしなので、一般に人にとって何が壁になっているのかがよくわからないのだ。
壁を越えなくてはならない、という、標語はわかるし、そのとおりだと思うのだが、おれは多くの壁を過去に越えてきてしまっているので、はて何が壁だったのか、感覚的に失念してしまっている。
よく目の前で、誰かが何かしらの壁にぶち当たり、こいつは壁を越えないだろうなあと思って眺めていることはよくあるのだが、正直おれの目からは、何が壁になっているのかよくわからないのだった。
きっと、もう何十年も、壁の内側で何かをするという状態がなかったのかもしれない。
まあそれはいいとして、サービスということについて、少しまじめに話さねばならない。
サービスといえば、サービス精神であって、おれなどはこのように、常にサービス精神に満ちあふれている。
おれは、文章を書くというような、趣味はまるで持っていないし、これを業務とするとして、こんなものはまともに社会的な業務ではないと思うが、ではなぜ書き続けているかというと、けっきょくただのサービス精神なのだと思う。
これはサービス精神の発露なので、何のために、という問いかけ自体が成立しない。
何のために、と訊かれても、サービスだって言ってるだろ、と問答が循環してしまう。
サービスというと、たとえば、おれの前で女性がきれいなワンピースを着ていたりすると、「そのワンピースかっこいいな」と言ったりするが、これもサービスだ。
おべんちゃらで言っているのではない。おべんちゃらやお世辞を言うほど、おれはヒマではないし善人でもない。
お世辞を言うことで、向こうに好感触を覚えてもらおうと企むかというと、そもそもおれは、現在のおれを誰か他人がそうそう理解しうるとは最早思っていない。
おれのことをそうそう理解できるわけがないのに、好感触なんか覚えてもらっても面倒くさいだけだ。
第一、こちとら実情として、魂と愛で忙しいのに、好感触などというわけのわからないクーポン券みたいなものを掻き集めていられないのだ。
忙しいおれが、他人に向ける工作というと、唯一、ちゃんと髭を剃っていこうとすることだけだ。さすがに、見た目に汚らしいものをぶつけられるのでは相手が気の毒すぎる。
それでも、きれいなワンピースを着たレディは、おれがボサボサのぐちゃぐちゃでも、よろこんで駆け寄ってきてくれるというのが実情だけどね。
これは、おれが自慢しているのではなく、女の子だって、まともな奴はそんなにバカじゃない、と主張しているだけだ。
髪の毛がボサボサだから、お前洗ってくれ、といえば、まともな女の子はふんふんうなずいて、細い指で一所懸命、おれの髪を洗ってくれるだろう。
そんなことも、現代のフェミニストから見れば、ロケットランチャーをブチ込みたい光景なのかもしれない。
もちろん、おれはバカではないので、現代のフェミニストを相手に、おれの髪の毛を洗ってくれと言い出すつもりはない。
そんなことは、今世に限らず、もし来世なんてものがあったとしても、永劫、お願いすることがないだろう。
それは、フェミニズムの尊重ではなく、単におれとして、サービス精神というものが、いかに人によって限定されているかを、よく知っているつもりでいるからだ。
サービス精神がない人は、本当に「ない」ので、そんなサービス精神のない人に何かをお願いすると、多大な流血をもって贖いを求められることになる。
何もそんな呪わしいことをする必要はないので、ただおれは、サービス精神のある者同士で、仲良く楽しく平和にやればよいのだった。
おれの知るかぎり、サービス精神を持っている女性は、もしおれが自分の汚れた靴を拭いていたりすると、
「ちょっと〜 それぐらいわたしにやらせてよ〜」
と、むしろクレームを言ってくるだろう。
なぜなのかは知らない。もしロケットランチャーを撃ち込むとして、これはおれの発言ではないので、おれに撃ち込むべきではない。
汚れた靴ぐらいわたしが拭いてあげるわ、それぐらいやらせてよ、という、サービス精神の持ち主を、ロケットランチャーで粉砕し、肉片と化して贖いの流血を為さしめよ。
あまり何も考えていないので、テキトーに言うが、サービス精神の反対が、そうした「イスム」だと思う。○○イスム、○○イズムと呼ばれるような「思想」だ。
汚れた靴ぐらいわたしが拭いてあげるわ、というサービス精神は、エゴイズムにも反するし、フェミニズムにも反するし、ストイシズムにも反するし、キュビズム、ナチズム、メンタリズムにも反するだろう。
サービス精神というのは、まさに精神であって、思想ではないからだ。サービス精神は、精神の発露であるがゆえに、すべての思想に反している。
結果、何かのイスムというのは、汚れた靴ぐらいわたしが拭いてあげるわという人に、ロケットランチャーを撃ち込むしかないという結末になるのだった。
おれはフェミニズムをバカにしているのではなく、○○イスムというのが、「精神」とは機構が異なるということで、全体的にバカにしているだけだ。
これだけでは、バカにしているというのが伝わりにくいので、イスム! イスム! ああイスム! お風呂の鏡にカビ生えろ、とでも書いておこうか。
このように、おれとしては、何かをバカにするということについてさえ、サービス精神が止まないのだった。
サービス精神というのは、いい匂いでなくてはならない。
何のこっちゃわからんが、おれにも何のこっちゃわからないし、今突然、そのように言えと命じられた気がしたので、そのように言っておくべきだろう。
サービス精神というのは、いい匂いでなくてはならない。
これに比べて、○○イスムというのは、いい匂いでなくてもいい。思想に匂いは関係ない。ネズミの死骸みたいな臭いでもかまわない。
スターリンは、コミュニズム、ソーシャリズムの人だったが、そのことに、スターリンがいい匂いだったかどうかは問われていない。
ところで、まったく別の話になるが、ヒトラーは本当に、ナチズムの人だったのだろうか? ヒトラーといえばナチス党だが、どうもヒトラーがドイツを愛していたというのは、ドイツ国民を愛していたということと異なるような気がする。
ヒトラーは、自分の思い描いた夢のドイツ、ヒロイックなユートピアとしての、架空のドイツを、空想もしくは想像力の中で愛していたのではないだろうか。
むしろ、その夢のドイツ実現のためには、ドイツ国民やらアーリア人種などは、いくら死んでもかまわん、という考えさえ持っていたような気がする。
だから、まさかのまさか、ヒトラーはいわゆる「ナチ」ではなかったのではなかろうか。
まったく関係ない話をしてしまった。
サービス精神というのは、いい匂いでなくてはならない。
この文章だって、悪臭がするようなら、ここまで読んでもらえているわけがないのだ。内容はサイテーでもかまわないので、いい匂いがする必要がある。
いい匂いがしないということは、サービス精神がないということだ。
今、街中で、ヤバくない女の子を見ると、その女の子を、抱きしめてやるヴィジョンが浮かぶ。
それは、エロいヴィジョンではなくて、女の子が正気を得、女の子が世界を得るヴィジョンだ。
女の子が、どういう顔になるか、どういう眼差しになるか、おれはもう知っている。
これまでの経験と、研究の結果、それが視えるようになったのだ。
魂はもとより、愛というのがどういう現象か、はっきり視えるようになった。
男は、おれが抱きしめると気持ち悪いので、肩をバンと叩くだけでいい。
魂と気魄のバランスによっては、女の子など、ほっぺたをパンと叩いてやってもいい。女の子が正気と世界を得るためだ。
何のことを言っているか、まるでわからないと思うが、本当にそうしたものが、視えるようになった。
しばしば、通りすがりの女の子のほうが、ふらふらとおれのほうに寄ってきて、危ない、ということさえある。
若い女の子の多くは、思いがけずバカではない。
思いがけずバカではない、のだが、その先、入り込んだ習慣や文化、思い込み、社会通念が、これもまた思いがけず、魂に深く呪縛を掛けている、ということも、その先にわかってくる。
すでに、女の子がどういう仕組みで正気を得、どういう仕組みで「世界」を得るか、そのプロセスと、表情と感触を、おれは知ってしまったのだった。
それは、実に何でもないことであり、同時に、とても大きなことだ。
本当に、人の魂というのは、とんでもないはたらきをするものだと、むしろ現在のおれこそが、おどろき、おののいている。
何の知識もないくせに、スッと、現象だけは起こって、その現象にはついてくるのだから、まったく逆に呆れたくなる。
おれは自分の友人に、スピリチュアルな輩は取り入れないが、誰一人スピリチュアルではないくせに、誰もがしばしば魂の現象には異様なほど従順だ。
包み隠さず、本当のことを言うべきだろうか。
包み隠さず、本当のことを言えば、僕が目にする――このあたりで一人称が変わるのはやむをえない――「ヤバくない」女の子は、ことごとく僕に抱きしめられたいのだ。
たぶん、当人には何の自覚もないのだが、とにかくふらふらと、こちらに魂ごと寄ってくるのだ、それが本当のことだからしょうがない。
魂が、愛を求めてやってくるのだ。これは実は、異性にかぎらず、また年齢にもよらず、ほとんど普遍的に起こる現象だ。「寄ってくる」のだ。ただし基本的に「ヤバくない人」に限る。「ヤバい人」も潜在的には愛を求めて寄ってくるはずだが、「ヤバい人」の場合はそうすんなりはいかない(おれもどうすることもできない)。
このことは、もはやおれのモテる自慢でも何でもなくて、「愛」という現象が、観測不能にせよ事実として本当に存在しているということのレポートにすぎない。今さら、おれの自慢話なんて、かったるいものが出て来る余地はとっくにないのだ。
自慢話なんて、のんきなことをしていられる時代に、帰れるものならぜひ帰りたいぐらいだ。
「愛」といって、おれが愛されている、という自慢話ではない。おれが愛されているのなら、話はとてもスムースだ。
そうではなく、おれが愛しているのだ。だから話はややこしくなる。
女の子が、ふらふらと夢遊病のようになって、切実におれに抱きしめられに寄ってくるのは、おれが愛されているのではなく、おれが愛しているからなのだ。
「愛」という現象が本当にあって、それはもはや、おれの個人的なものではない、ということになる。
一般的な意味で、個人的にというと、個人的におれが、若い女の子に愛されるわけがない。おれは松潤ではない。一般的な意味で松潤と比較すれば、おれは典型的なゴミカスでしかない。
そうではないのだ、これは愛の問題であって、おれの問題ではない。
もし、電柱に愛の機能があって、電柱が抱きしめてくれるのなら、愛の手がかりはおれでなくて電柱でかまわないだろう。
バカみたいな言い方だが、本当に、おれが今直面している状況は、ほとんどそのように、「愛の電柱として突っ立っているおれ」というような状況だ。
本当に包み隠さず言えば、ヤバくない女の子の全員は、おれに抱きしめられたくてしょうがないのだ。それでふらふら寄ってくる。ふらふら寄ってきながら、常識的に立ち止まったり、思想的に抵抗したりしている。
そして、みんな本当に何もわかっていないので、おれは愛の電柱扱いで、電柱に何の尊厳も覚えるわけではないから、電柱にションベンを引っかけるのはかまわないが、愛の電柱として愛は寄こせ、というような状態になっている。
まったく説明の手際が悪いが、なんというか、まだまともに説明する気力が、おれ自身にないのかもしれない。
根本的に、おれのことが嫌いな人もいる。おれのことが嫌いで、ヘイトで、おれのことなど認められないし、内心で「こいつなんか地獄に落ちればいい」と、潜在的に思っている人もいる。
もちろん、そんなものは、人の内心の自由なので、何の問題もない。
問題は、そうした女の子さえ、おれに抱きしめられたくてたまらず、おれに抱きしめられると、世界を得てしまうということだ。
「愛」という現象が、本当にあって、本当に機能してしまうので、そういうことが本当に起こるのだ。
そして、世界を得てしまったとしても、その子はおれのことが嫌いなので、おれに唾を吐かざるを得ない。そうしてヘイトを向けられると、おれとしても「これは残念でした」と、引き取らざるをえない。
そうしておれが引き取ると、彼女は、得た世界を急激に失って、暗転してしまう。悲鳴をあげて震え出すということが本当にある。場合によっては、暗闇の中に落下するヴィジョンを劇的に体験することもある。
本当に、当人は何もわかっていないので、おれに冷たくされると悲鳴をあげるのだが、なぜおれに冷たくされると悲鳴をあげるのか、当人としてまったくわかっていない。
いくらなんでも、これまでに愛の経験が少なすぎるのだと思う。
たぶん根本的には、おれの愛が、フリーWi−Fiのように安使いされているのが問題だと思うのだが、そうはいっても、愛なしには何も始まらないし、愛について説教するにも、これまでに愛の経験が少なすぎるので、未だ何の話をしても通じない。
「フリーWi−Fiからブロックされて、ギャーと悲鳴をあげている子供」という構図が、冗談ではなくよく当てはまっていると思う。
なんとかもう少し、説明の努力をしてみる。
ヒントはサービス精神にある。
フリーWi−Fiではなくサービス精神だった、ということ。
だからそこには、いい匂いがしていなくてはならない。
サービスは人に向けるものではない
ヒントはサービス精神にある。
おれは、人にサービスをしたことがない。
おれが人にサービスするなんて、考えただけで気色悪いだろう。
そういう、公共の福祉に反することは、おれはやらない。
おれが人にサービスをするとか、おれが遵法精神を持つとかいうのは、この世界の様相として最低のことだ。
おれは人にサービスを向けたことなど一度もない。
女の子にサービスを向けるときは、女の子に向けているのであって、人に向けてサービスしているのではない。
だから女の子がおれに「ありがとう」などと言うと、ただちに「うっせえな」とおれは応える。
実際そうして、「うっせえな」と言われた女性がたくさんいるはずだ。
「ありがとう」はサービスに言え。
サービスにお礼を言うぶんには、女の子はひたすらかわいいと思う。
おれが女性に花束を贈ることはいくらでもあるが、それは女性に対するサービスであって、人に対するサービスではない。
人なんてものは、泥団子でもその口に突っ込んでおいて、だまらせておけばよいのだ。
人なんてものは、延髄斬りを食らわせる以外に使い道がない。
サービスというのは、辞書で調べればわかるが、基本的に「礼拝」のことであって、人から人にご機嫌取りやごますりをすることをいうのではない。
ある意味、人なんか死滅すればいいのにと思っている。
ヒューマニズムというのは、先に言ったイスムの代表みたいなものだから、これは全員、手榴弾早食い競争でもして、十秒後に盛大に砕け散ればいいのだ。
女性に花束を贈るというのは、花瓶に花を生けるというのと同じだ。
花瓶に礼を言われる筋合いはない。
なぜ花を地面に投げ捨てておかず、花瓶に生けるのかといえば、それがサービスだからだ。
花を地面に投げ捨てておくのは、どう見ても、カミサマの意志に反しているだろう。
女の子は、カミサマから見たら女の子なのであって、「人」から見たら、ただの面倒くさい権力市民でしかない。
カミサマから見たら女の子で、その言い方が気に入らないなら、「偉大なるおれさま」から見たら女の子だということだ。
だから、女の子としての挙動だけをしていればよく、それ以外の挙動をしたものは、すべてゴミクズというように、おれの目には見える。
ゴミクズを、じろじろ見ていても意味がないので、おれはそうした挙動のすべては、いつからか完全に無視するようにしている。
カミサマから見たら女の子なのだから、おれから花束を受け取ったら、カミサマから見た女の子としての挙動をしろ。
女の子としての挙動を教わっていなかったら、その場でカミサマにテキトーに訊いて、なんとかして、あとは帰宅して両親の額に胴回し回転蹴りでも打ち込め。
そもそも、カミサマから見た女の子としての挙動は、誰かに習えるものじゃない。
カミサマから教わるしかないが、もし本当の先生がいたとすれば、その先生は、教え子をカミサマにつないでやるだけの存在であって、先生が教え子に何かを教えるというものではない。
人から教えられることなんて、クソの記憶とクソのパターンでしかない。
ひどい言いようをしているみたいだが、こんなもの穏やかなもので、いつぞやの僕だったら、贈った花束をその場で強奪して、ただちに踏みつけて唾を吐くぐらいは平気でしたはずだ。若いころはまったく調整が利かなかった。
今はもう、そんなことをしたら、相手がどれぐらい恢復不能に落ち込むかを知っているので、いちいちやらないが、こちらがサービスをしているのに、わけのわからないヒューマン挙動を返してくる奴は、根本的にナパーム弾で焼きたいと感じている。
現在、おそらくほとんどの宗教施設は、何らの礼拝機能も残していないのだと思うが、それにしても、聖歌隊がロウソクを持って歌っている目の前で、急にニキビケアをし始めるようなクズ行為はしないだろう。
それぐらい、ヒューマンというのはわけがわからない。
生きものとしてはヒューマンなので、ニキビケアもしなくてはならないが、何も聖歌隊のキャンドルサービスに返すものとしてニキビケアをブッ込まなくてもいい。
これはおれの怒りではなく神の怒りだ。偉大なるおれさまの怒りだ。
サービスとは、礼拝という意味なのだから、サービスが人から人へ向けられるわけがない。
サービスは、人から、人ならざる何かへ向けられるものだ。
日本人は、食事のとき「いただきます」とコールする文化を持っているが、これも礼拝だ。おそらくは伊勢神宮から来ているのだろう。
この「いただきます」は、食事と食べ物のカミサマに言っているのであり、オカンに言っているのではない。食べ物に感謝しているというのも違う。
食べ物に感謝するなら、「ありがとう、ごはん!」とでも言っていればいいだろう、こういう話は本当にアホの極みに思える。
せいぜい、「いただきます」は豊受大神(トヨウケノオオカミ)に向けて言っているあたりが妥当だろう。
オカンはカミサマではない。
僕はこうした、人が己を誤解して、しれっとカミサマぶっているパターンがとても苦手だ。何かその頭部にデカめの石灰岩をカタパルトで撃ち込んでやりたくなる。
オカンは穀物を司るカミサマか? 神殿に浮かんで光っているのか。
仮に子供を、家畜と思って飼っていて、その食餌を支配している、自分が生殺与奪の掌握者と考えるなら、話は別かもしれないけれども……
余談になるが、きっと現代の日本人は、無宗教というより、宗教的にバグっているのだと思う。とかく宗教にのめりこんでいる人にまともな人は一人もいないし、こと自分を神格化することについて、オカンやおばちゃんは一歩も引かない。おじさんも引かないが……そうなると、もう頼みは若い人たちだけだ。「オカン」の潜在意識は、本当に「わたしが神様!」なのだと思うし、世のオカンはその妄想だけを頼りに現世を生きているところがある。
サービス精神が皆無になった民族は、宗教的救済から遠のいているに決まっている。サービスが「礼拝」なのだから。礼拝精神ゼロで、一方で自己神格化には一歩も譲らないというのは、バグりにバクっており、もはや悪魔のフルコンボを食らったかのような、いっそジョークのような様相を示している。
そういえば、たまに各家屋に襲来する宗教勧誘おばさんが、サービス精神に満ちていたためしはない。志の輔のらくごのようにサービス精神に満ちた語り口の宗教勧誘が来たためしはない。だから推して知るべきだ。サービス精神のないところに真の礼拝がある可能性はゼロだ。
宗教勧誘おばさんに、ハムスターの一匹だって、安心して預けられる気はしない。
何かハムスターちゃんが、即日にも非業の死に突き落とされそうじゃないか。
サービスは人に向けるものではない。
じゃあ何に向けるものかといえば、人ならざる何かなのだが、その「何か」が視えないなら、「サービス」をすることは不可能だ。
よって、サービス・礼拝の対象が視えないかぎり、サービス精神を持つのは不可能だ、ということになる。
まさにそのとおりで、だからこそサービス精神というのは、自分の気持ちひとつで持つ、というようなことができない。
何かの思想であれば、自分の気持ちしだいで、それこそYouTubeチャンネルみたいに、サッとオンにしたり、サッと別チャンネルに変えたりもできるのだけれども。
サービスというのは、対象が人ならざる「何か」なので、それが視えないかぎり、サービス精神も持つことができない。
汚れた靴ぐらい、わたしに拭かせてよ、という女性は、おれにサービスしてくれたのではない。
何かにサービスしたのだ。
だから、その表面だけなぞってもサービスにはならない。
世の中はどんどん便利になってきているので、われわれは、サービスをする機会をどんどん失っている。
たとえば外国人が旅行に来たって、スマートフォンがすべてアテンドしてくれるから、われわれが道案内する機会はもうない。
サービス精神を発見する機会と可能性はどんどん削減されているのだ。
道路が整備され、靴が汚れない素材になると、「汚れた靴ぐらい、わたしに拭かせてよ」というサービス精神は機能しなくなり、その時代に生まれた彼女は、もう彼女ではなくなってしまうだろう。
サービスを、受けるのではなく、サービスを「する」ことによって、人は命を救われていたのだが、そのことはほとんど気づかれなかったし、これからも気づかれることはほぼないだろう。
知らず識らず、サービスを「する」ということが、礼拝を「する」ということであって、それこそが人ならざる「何か」を視るようになる機会だったのだが、それが削減されていった。
今さら、お隣に味噌や醤油を借りることはありえないし、電話を借りたり小銭を借りたりということもありえない。
そこにかつての「人情」を見ていたのは、ただの見誤りで、問題はサービス精神の一点だった。
すべてのことを、テクノロジーと利便さがカバーしてくれるので、われわれができるサービスというと、いきなり高度な――テクノロジーではカバーできないというような――サービスだけに限定されるようになった。
つまり、もう、才能のある人しかサービス精神は発見できなくなった。
かといって、今さらブラック企業でサービス残業をしても果報はないので、不条理なほどのサービス残業はしなくていい。そこに「何か」が視えていない以上、サービス残業をするのはただの怨恨にしかならない。仕事にサービスすることに不平を持つ人はいないが、たいていふんぞり返っている誰かに対するサービスにしかならないので、それはただの怨恨になる。サービスは人から人に向けられるものではないからだ。
サービスを「受ける」がモットーの人
現代、多くの人が、「カネを払っているのだからサービスしろ」と考えているが、これは単に言語的に誤りであって、カネを払っているからうんぬん、で請求されるのは「債務」であり、債務のことをサービスとは言わない。靴磨き屋にカネを払うと靴を磨いてもらえるのはただの債務履行であってサービスではない。「カネを払っているのだから債務履行しろ」という言い分だけが正しく通る。むしろ債務外のことを――請求する権利のないものを――請求したらただの恐喝になってしまう。「カネを払っているのだからサービスしろ」はただの恐喝だ。
たとえばおれが居酒屋にいくと、「サービス」といえば、たいていおれのほうがサービスする。どうせ働いている奴はおれより若くて青二才なのだから、こちらから景気のいい声を掛けてやらねばならない。理由は、それがサービスだからだ。メシを食って酒を飲むというのも営みとして「何か」がある。どうせ疲れ果てるに決まっている居酒屋の店員に対して、少しでも気分よく動けるようにしてやる。そのためにおれの声がある。
おれはほとんどの場合、連れている女より、そこで働いている店員のほうにサービスをしてやる。おれが連れている女は、おれが連れてやっているだけで十分幸福だろうからだ。そして、目の前に、赤の他人に対してもサービスが交わされるということを目撃するほうが、連れられている女としては幸せだろうからだ。別に男であっても同じだとは思うが。
おれとしては、もし店員のサービスのほうが、おれのサービスを上回ってエネルギーに満ちていたとしたら、沽券に関わるというか、おれとしては不意の敗北に打ちのめされる具合になる。そこにいる店員のほうが、エネルギーに満ちてサービス精神をモノにしているなら、おれの連れている女はその夜、おれとではなくその店員と寝るべきだ。そう考えると、いちいち目の前の若造に敗北しているわけにはいかない。サービスというのは礼拝であって、つまり<<神がかっている奴のほうがサービスに優れる>>のだから、よもやおれが後れを取っているわけにはいかない。
できれば、おれのサービスが、店員の兄ちゃんを打ちのめし、にぎやかになって、店を出るときに「あ、傘お貸ししますよ」と申し出てくれるぐらいが、一番気分がいい。もちろんこちらのサービスに対してサービスの応答ができない店員もいるが、それはもうすでに不幸になっている人なので、それ以上にどうこうとはもう思わなくなった。おれが爆裂に幸福であって、彼が爆裂に不幸なのだということが、最近はさすがに視えるようになった。
サービスというと、なぜか現代、女性の多くが、デートというと「一定量のサービスを受ける」ということを前提にするようになった。たぶんサービスを受けることで何かが慰められるのだと思うが、そんなことで女性としての魂は帰ってこないし、恢復もしない。カミサマでもない、神がかりでもない、神通力のひとつも得ていない、ただのオシャレとセックスだけの女が、サービスを受けたって魂がますます落下するだけだ。たぶん、ひどい品質の教育を受けてきたのだと思う。「一定量のサービスを受けないと負け」という教育を刷り込まれて、本当に一生そのことから脱出できないのだと思う。
多くの女性は、自分にセックスの誘引力があると思っていて、またオシャレや趣味を通して自分にはセンスがあると思い込みたがっているのだが、そうした女に食い下がるのはひたすら自分の自信を恢復したがっている男だけであって、またおそらく性風俗を利用できないぐらい所得が少ない男だけだ。また、全体的なこととして、もう男が女とセックスをしたがるという現象じたいが下火になっており、女はやたらと露出しないとセックスアピールが持てなくなった。
そしてセンスうんぬんは、何か一つでも作品を創らせればわかる。さんざん駄々をこねて、何ヶ月経っても何の作品も産み出されないだろう。誰かと共同でイベントをこさえるか、そうでなければアプリに誘導してもらってSNSに自我映像をアップロードするだけにならざるを得ない。残酷だがこれはしょうがない。オシャレを作品に出来る人はごくまれで、ほとんどのオシャレ上手な人はあくまで「演出」に慣れているだけに過ぎず、「作品」に手が届いているのではない。だからそのたぐいの女が人に何かを発見させることはまったくないし、どれだけ魅力的な自己演出も、名指しで「○○の作品」と言われることは一度もない。
時代を二十年ぐらい遡れば、さすがに、自分が「サービスを受ける」という前提に立っていた女性は、世の中にほとんどいなかったように思う。デートというと彼の助手席に乗せてもらえて、その「彼の助手席に乗せてもらえる」ということがデートのメインコンテンツだったように思う。そこで助手席に座って、「さあ〜、どんなサービスをわたしにするの、カモン!」と待ち受けているような女性はさすがにいなかった。彼とお祭りにいけば、神輿がワッショイと奉納されるのが文化としての礼拝であって、お祭りに行きながら「自分を連れている男性が自分に礼拝サービスをするのがメインコンテンツ!」と捉えている女性は、まず感覚的に存在していなかったように思う。今はうってかわって、たとえ女子中学生でも、デートといえばむっつりと、自分が「サービス」を受けることをひたすら待ち続けて、ムンムンとした気配を放ち続けるという、それが常識になっている。
過去にも、マドンナ的存在といえる女性は確かにいて、わかりやすいシンボルとしてはマリリン・モンローがそれに当たるのだろうが、おそらくマリリン・モンローでさえ、男性に対して「さあ、わたしへのサービス、カモン!」なんて前提は持っていなかったように思う。きっと感覚的に、サービスを受けるという前提そのものがなかっただろう。
この、現代の女性に共通する、「サービスを受けるがモットー」の前提は、いつから始まったものかはっきりしない。僕の記憶するかぎり、旧来、学友の中でもマドンナ的存在がいて、そのマドンナ的存在は、むしろ当人がサービス精神を振りまくゆえ、周囲の男子を無邪気に圧倒していた、というような記憶がある。僕自身、そのマドンナと隣の席になったとき、彼女がいくらでも親しげに話しかけてくれるものだから、その距離の近さにどぎまぎした記憶がある。あのときの彼女が、何か男からサービスを「受ける」ことをモットーにしていたという可能性はさすがにゼロだ。どんくさい僕の側がサービスを受けてばかりで、今でもそのことはわれながら情けないと悔いている。当時の僕は彼女のサービス精神にまるで追いつけなかった。
なぜかわからないが、いつのまにか、現代の女性というと「男からサービスを受けるがモットー」になっていて、男はなぜかデートになると、全力でパフォーマンスに疾走しなくてはならないという状況がある。男のパフォーマンスが少しでも萎れると、ただちに女性はむっつりと、陰鬱な気配をみなぎらせるのが通例だ。なぜかはわからないが、それが現代の女性にとっては正しい、正統的な思想とやり方なのだと思う。ただ、この要求に応えられるパフォーマーじたいがそもそも少ないという現実がある。僕のような奇人でさえ、数時間も経つと呼吸が苦しく息切れしてくるのだから、ふつうの神経をした若い男性には到底無理だ。
そこで、多くの男性にとって、今女性とのデートというと、たぶんただの「恐怖」になっているのではないかと思う。それをなんとかしろということではなく、ただ事実のレポートとして、男性にとって女性とのデートは今ただの「恐怖」だということを唱えておきたい。実際、周囲を見渡しても、男女の「明るい」デートというのはなかなか見かけない。デートはしているが、たいていその気配は無理をしていて陰気だ。このままいけばおそらく女性は、男性の自然な、リラックスしている姿を一生に一度も見ないだろうし、男性が少しでもリラックスすれば、ただちに手抜きをされていると感じて内心に不満と怒りを覚えるだろう。だから何かしらの形で陰気な関係にならざるを得ず、男性が無理をしているか、女性が不満を抱えているか、というどちらかになってしまう。
このことは、修正するというより、まず「サービスを受けるがモットー」という思想のありようを、まず自分に肯定することが必要だと思う。誰もこの事実に気づかないまま、実態だけが拡大進行しているからだ。けっきょくのところ現代の女性は、男性から一定量のサービスを一方的に受け、そこはかとなく神格化されないと、不満の感情で一ミリも動けないというところがある。そして冷静に、すべての時代の女性がこうではなかったというところから認めていくべきだ。どちらがよいということではないし、何かを変える必要はまったくないけれど、それでも現代と異なる時代は確かにあった。このことに相互の誤認さえなければ、必ずしも解決しなくてはならない問題があるというわけでもない。事実として、現代の女性が「サービスを受けるがモットー」という正しさを否定することは、今のところ不可能だろう。何が善いか悪いかではなく、ただそうした状況に事実あるということが知られて、潜在的なストレスが低減されなくてはならない。
あくまで原義的に、サービスというのは人から人ならざる「何か」へ奉納されるものだから、女性が男性からサービスを受けるということは、それじたい感覚的に違和感を覚えねばならない。<<男が男にサービスするということに違和感を覚えるのと同様に>>。けれども現在それが、しっくり来るということ、サービスというと第一に男性から女性(わたし)に向けられるものだと感じられるということは、これまで原義から逸脱するように誘導・教育を受けてきたということだ。つまり「サービスとは、人からあなたに向けられるものですよ」「あなたは人を超えた何かですから笑」と教育されてきたし、またそうした甘言につけ込まれるだけ増長があった。
こうして、今誰も彼もが、永遠に一ミリも満たされようがないという中を生かされている。自分は礼拝を受けなくては満たされないのに、礼拝は人から人に向けるものではないからだ。こうして満たされようがない構図の中、互いに怨恨だけを高めあっていく仕組みが出来上がってしまっている。あなたが人にサービスを強制するぶん、人もあなたにサービスを強制するから、時間と共に相互に怨恨だけが高まっていく。「サービスを受けるがモットー」という性分同士が正面から激突しあっているのだ。
サービス精神が世界を形成する
まあ、正直、一般論はもうどうでもいいのだ。
一般、というレベルで、何かが改善する見込みはもうない。
おれが個人的に、おれの周囲で活躍できるぶんは、なんとかしたいなと思うばかりだ。
すれちがう女の子の魂が、こちらにふらっと寄るのが視える。
思いがけず、まだ内部まではヤバくなっていない女の子だ。
それを抱きしめてやるヴィジョンが視え、そのとき、女の子がどのように正気と、世界とを、目覚ましく獲得するかが視える。
それが視えるようになってしまったのだ。
視えてしまえば、それはさして複雑な現象ではない。
これはおれの自慢話ではなく、また不遜を言い張る意図のものでもなく、ただ「愛」という現象が本当にあるというだけのレポートだ。
魂が世界を得るというのは、おれにとっては当たり前のことなので、おれにとってはどうでもいいことなのだが、すれちがう女の子にとっては、どうでもいいことではないらしい。
たぶん、本当に、視たことがないのだ。目の前の世界を。
じゃあ、推測するに、ずっとわけのわからない世の中を、漠然と、苦しく生きているに違いない。
それを、なんとかしてやりたい、とは思わないが、わざわざおれを慕ってくる、ヤバくない奴に対しては、さすがに最低限は、なんとかしてやりたいと思う。
そういうのは、実に余計なお世話だと思うのだが、もう僕がどう思うかというようなことは、どうでもよくなってしまった。
本当に、女の子は(女の子だけではないが)、愛に触れたいのだ。
愛に触れることのみで、唯一、自分の魂が、世界を得ることができる、そのことを、自分は知らないのに、魂は知っているのだ。
ヒントはサービス精神にある。
おれなんかこのとおり、サービス精神のかたまりで、今ここにこうして書き話しているのも、どういう動機で書き話しているのか、ふつうの人にはまるで視えないはずだ。
どういう動機で書き話しているのか、実はもう書いてあるのだが、それでもなお、そのことは視えないはずだ。
サービスとは何であるのか。
別にどうでもいいか、という気がしているのは、僕としては、これまでに求めていたものに、いちおう手が届いたからだ。
おれが女の子をどうにかしてやれるということはまったくない。おれが女の子をどうにかしてやれる可能性はゼロだし、そもそも、女の子をどうにかしてやりたいなんて発想じたい、おれにはまるで湧いてこない。
ただ、偉大なるおれさまは別だ。
ヒントはサービス精神にあったのだが、サービス精神が世界を形成した。
一般的な「おれ」を想定するから話がややこしいのであって、一般的な「おれ」は存在していないと仮定したほうがわかりやすい。
おれはサービス精神のかたまりであって、そこに一般的なおれはもう存在していないのだから、そこに残っているのは、もうただの「サービス体質」だけだ。
女の子は、このサービス体質に抱きしめられたいにすぎない。
サービスというのは、人ならざる「何か」に向けられるものだ。
このサービス体質に抱きしめられると、女の子は(女の子だけではないが)、周囲の空間に人ならざる「何か」があって、「世界」がそこにある、ということが視える。
そのことに、なぜ女の子が泣きそうな顔をするのかは、おれにはわからない。わからないし知らない。
おれにとっては当たり前のことが、誰にとっても当たり前ではないということなのだろう。
おれは酷薄だが、基本的に、すべてになるべく正直に言う。
おれは酷薄だが、愛という現象には関係がない。
おれは、おれが女の子を抱きしめてもしょうがないと思っているので、サービス体質で女の子を抱きしめる。
すると、サービスが「礼拝」なものだから、女の子の魂は、とたんに「世界」を得るのだ。
急に、本当に「世界」があることが、視えるようになるのだ。
ただし、その瞬間だけというか、おれの体質に触れて、その体質を覚えているあいだだけだ。
その視えているものは、どれだけこってり押し込んでも、だいたい四十八時間で消える。漸減していって消える。
本当は、もっとえげつないレベルで「世界」を視せてやることも――開通させてやることも――できるけれども、それをやると本当に精神が損傷して帰ってこられなくなるので、抱きしめるだけで十分だ。
もし、こんなことの、証拠映像でも撮れるものなら、いつか撮っておきたいと思う。
まったくなんでもない、赤の他人の女性を、数秒抱きしめたら、その後、彼女はおれの靴を拭いてくれるだろうし、おれの髪を洗ってくれるだろう。
当人もわけがわからないのだ。
おれはわかっているが、当人はわかっていない。
当人は、わかっていないまま、なぜか急激に視えてきたものを、「消えてほしくない」と、なるべく抱え続けようとするだけだ。
つまり彼女は、おれの靴を拭いたり、髪を洗ったり、「したい」と急に感じるようになるのだが、それがなぜなのかはわからず、それが今にも消えていきそう、ということだけがわかるのだ。
そして彼女は、わけがわからないまま、それが「消えていってほしくない」とだけ望む。
それは、場合によっては生まれて初めて視た、自分の存在する「世界」だからだ。
つまり、一時的に、彼女が「サービス精神」を獲得した、そして世界が形成された、ということになる。
それはどれだけこってり押し込んでも、自分のものになりきらない限り、四十八時間で消失する。
直後から、漸減してゆき、四十八時間後には、「あの人の髪を洗って」と言われても、「うーん……」と渋るようになっている。
そのときにはもう、あのとき自分が存在した「世界」のことが、遠ざかって消えているのだ。
また僕が抱きしめたら、「世界」が帰ってくる。
だから彼女の魂は、僕を見るなり、ふらふらと僕のほうへ寄ってくる。
はっきり言って、魂から、「どうか抱きしめてください」という、切実な懇願が聞こえている。
それが本当のことなのだから、もう今さら隠し立てしてもしょうがない。
ヤバくない女の子のほとんどからは、そういう切実な懇願が聞こえる。
「どうか抱きしめてください」
という声が聞こえる。
これは、女の子が異常なのか、それとも正常なのか。
もし僕の妄想ではなかったと仮定したらだ。
僕は、まだヤバくはない女の子が、必死に切実に、魂から「どうか抱きしめてください」と懇願しているものを、異常だとは言ってやりたくない。
どうせ、僕の言うことが、他の誰かの言うことと整合する希望なんてありゃしないので、せめて僕自身は、そうして聞こえる声を、どうしてやることもできないにせよ、それは正常な声だと認めてやりたい。
女の子だって、できたらそりゃあ、僕みたいなわけのわからん奴に、そんな懇願をしたくはないだろう。
けれども、しょうがない、周囲に愛の事象へ接合した松潤みたいなものが何万人もいてくれないので、最終的には、僕のようなダサ男でもアテにするしかしゃーないのだ。
僕にとって、いつまでも続く唯一の不思議は、何も知識のない女の子、ふだんは常識と教育のとおりに生きている女の子が、僕を目の前にしたときだけ急に、魂の求めに従い、愛に恭順を示すことだ。
つくづく思うのだが、そういう直観のレベルでいうと、僕自身がきっと、最低の鈍感だったと思う。僕にはそういう直観はまるでなかった(はずだ)。
僕は理詰めで、この現象を説き明かし、理詰めで到達するしかなかったのに、そうした理詰めの能力に長けていない人が、直観でだけ僕に抱きしめられにくるのは、本当に不思議だ。
どういう感覚なのか、気になるが、どうせ「わからない」と答えられるに決まっている。
おれが若年のころから、何を追いかけてきて、今になって、何に手が届いたか。
それは、ありとあらゆる、ヤバくない女の子に、「どうか抱きしめてください」と求められるようになる、ということだ。
また、オマケとして、ありとあらゆる、面白い男たちに、「おれたちと酒を飲んでいってくれよ」と求められるようになる、ということだ。
若年のころに見た、あてどもない夢だ。
ふつう、こういう夢は、そのまま雲の上に霧散していって、死ぬ間際にでも思い出すものだろうのに……
おれの場合は、手が届いちゃったよ。
おれの目の前で、ほとんどの女の子が、一瞬で魂がぐらんぐらんになる……もしそうしたことが叶えば、どれだけ気分がいいだろうかと夢想していたが、実際にはいい気分どころじゃない、切迫して忙しい気持ちになるばかりで、実態は、際限のない労働の実践だった。
ただそれでも、ヤバくない女の子が、魂を抱えていて、愛の現象に触れると、とたんに一瞬でぐらんぐらんになるのは、単純にかわいくて、胸を打たれる。
とはいえ、その後に続くことは、まったく容易ではなく、とにかく余計な事情がこじれまくっていて、けっきょくどうしようもないことが多いのだけれど、魂が一瞬でぐらんぐらんするさまは、何度見ても、ただ祝福がありますようにと、こころの底から思う。
別におれでなくてもいいのだ、これは「愛」の現象だ。
ある意味、残念ながら、これは「魅力」の現象じゃない。
魅力じゃなくて愛なので、若干ダサいのは無念だが、しょうがない、おれは松潤ではないし、松潤になる努力もどうせできないタイプだ。才能もなければ努力もできないのでは、初めから嫉妬する資格もないだろう。
「愛」の現象に、一撃でぐらんぐらんになるのは、単純に現象として面白くもある。
まるで本当に、聖なる鐘を鳴らしたとたん、これまで争っていた人々が、急にその手の矛を放棄しだして、揃ってひとつの方向へ歩き始めるというような、そういう神話めいたシーンのごとく、「愛」という現象は作用する。
女の子は、何をしたいかというと、おれに抱きしめられて、おれにサービスがしたいのだ。
そんなこと、したいと思う道理はまったくないが、それは「愛」という現象に接触していないからであって、「愛」という現象に接触したとたん、<<そうしたサービス精神が自分を支配してくれるということ>>が、他ならぬ自分の存在する世界を形成してくれるということが、直接わかるようになる。
それで、神話に近い世界においては、女が男に「どうか抱きしめてください」と懇願していたり、女がその男の髪を洗っていたりするのだ。
サービス精神が世界を形成するのだが、サービスは人から人へ向けられるものではない。
おれはこの文章を書くのだって、よもや、「読み手」とかいう人に向けてサービスをするつもりでは書いていない。
そんな気色悪いことをこのおれがするわけがない。
夜、窓を開けていると、佳い風が吹いていたのだ。それはしばしばやってくる、季節の変わり目に吹く偉大な風だ。
そういうときは、本当にいい夜で、おれはそうした夜ばかりを生きてきた気がする、だからおれは何かを書こうと思う。
どんな美女がいても、おれが単なる美女に礼拝を捧げることはない。
おれは美女を落胆させたくない。
偉大な風の中にすべての音楽が流れているのが聞こえる。
おれがずっと生きてきたように、いい夜だなあと思った。
だからおれは、その偉大な夜に向けて、サービスが、動き始める。
だからおれに抱きしめられた女は、その瞬間、偉大な夜があり、偉大な風が吹いているのに気づいて体験する。
サービス精神は、いい匂い、なんてものじゃないな、それは世界の匂いだから。
おれを蹴飛ばせば、すべての夜は消えて、すぺての風は終わる。実験してみてもいい、そういう単純なものだ。
それはお前が自分でつながっていた世界ではなかったからだが、そんなことはおれも同じ、おれだって自分単独で何かの世界につながっているのじゃない。
いい夜だなあと感じるとき、女のことなんか、正直どうでもいいのだが、誰だってこのいい夜につないでやりたいという衝動は、差し迫って起こる。
それはきっと、女のためではなく、いい夜のためなんだろう。
おれはいい夜のためには無私のサービスが起こる。
なぜかわからないが、おれのサービス精神が、そのことを起こさずにいない。
女の魂がふらふら寄ってくる。
「どうか抱きしめてください」
と、おれには聞こえる。
当人は聞こえていないのだろう。
女を抱きしめることに意味があるとは思えないし、おれには何の善意も起こらない。
区切られたすべてのことはどうでもいいとしか思えず、本当にどうでもいいのだが、ただ唯一、いい夜があるときには、いい夜につないでやりたい、とだけ衝迫される。
それはどうしようもない、おれのサービス精神なのだろう。
抱きしめるだけでは、手が足りないので、こうして書き話しもする。
ずっとそういう話をしてきた。