No.400 自動的偶像崇拝
漠然とした知識として、「偶像崇拝はよくない」という知識が与えられている。
その理由はよく知られていないし、じゃあどうしたらいいということも教えられていない、ただ漠然と「よくない」ということだけが知らされている。
仮に、仏壇に仏像を置くとして、あるいは礼拝堂にキリスト像を置くとして、それが偶像崇拝になるのかならないのかは、誰にもよくわからない。
ただ漠然と、「偶像崇拝はよくない」ということだけが知られている。
「偶像」という言葉を英訳するとアイドル(idol)になるのだが、現代でアイドルというと、そもそも崇拝されるために製造されており、崇拝されなければアイドルではない、という事実がある。
若い人たちに、「アイドルになりたい」という向きは非常に強く、あまりにも多くの人が、内心で「アイドルになりたい」という願望ないしは志向を隠し持っている。
一時期から、もはや流行というより常識の一形態になった「自撮り」の、しきりに繰り返されるウェブ公開は、むろん単純な自家製のアイドル精算に他ならない。
アイドルのように扱われるのが、インフルエンサー志向の自撮り人たちの本懐であるのは疑いないだろう。
なぜこのように、どう見てもごまかしの利かないような、自他を含めた「偶像崇拝の大ブーム」が起こっているのか、そのことについて考えている。
わたしには偶像崇拝の趣味や性向はないが、偶像崇拝について考えるのか、このところのわたしのひそかなブームでもある。
まず、「偶像」とは、「実物があって魂がないもの」を指す。
だから、消しゴムやバスケットボールやレンガ一個でもかまわないということになる。
実物があって魂がなければそれは偶像になる。
どんなものでも崇拝すればアイドルになるということだ。
それはたとえば、この二〇一九年現在でいえば、タピオカなどが実際の例に当たるだろう。
タピオカじたいがブームとして崇拝の対象であり、タピオカそのものは物体であって魂を持つものではないから、タピオカがアイドルなのだと言える。
なぜそのような偶像崇拝が起こるかというと、それは崇拝する側も、己の魂を失っているからだ。
魂が失われたというより、魂らしきものに一切触れたことがなく、また与えられたこともないということのほうが多いだろう。
当人に魂がないので、魂があるものを崇拝すると、これは自分を否定することになってしまうし、そもそも、魂のない者が魂のあるものにアクセスはできないのだから、魂の失った者が魂のあるものを崇拝はできない。
だから魂のないものを崇拝する。
それで、自動的に偶像崇拝になる。
そのとき誰も、自分で偶像崇拝を選んだつもりはないのだが、あくまで構造上、自動的に、偶像崇拝を選択し、自動的に開始することになるのだ。
このことをやめたい人がいた場合のことを想定して、強くはっきりと申し上げておくが、特に生きていくうちのどこかの時点で偶像崇拝が始まった場合、そのタイミングは、確実に「己の魂を失った」タイミングと重なっているはずだ。
己の魂を失ったから、同じく魂のないものを崇拝するということが始まっている。
点検すれば必ずその事実が浮かび上がってくるはずだ。「このときに始まっている」という事実。それでもその上で、そのことを続けるというなら、それはその人自身の選択でしかない。
人は、己の魂を失うと、魂ではない「実物」、つまりタピオカ実物や自他の「生身」を崇拝するようになる。
だから近年流行の筋肉トレーニングに励み、過度なランニングで「心肺機能」あたりの生身・実物を強くすることを礼讃し、こっそりアイドルの映像や実物を追いかけて「癒される」と感じている。
筋肉が盛り上がってくると、その生身を崇拝しているものだから、自撮りの映像をSNSにアップロードして見せびらかすことに抵抗がなくなり、また趣味として、同じく魂のない稚気アニメをやはり「癒される」と感じて視聴するようになる。魂のないものを崇拝するように、自動的になっている。
これはただのサイエンスとして確認しうる現象の話であって、特定の誰かや何かを否定・非難しているものではない。
ただ、己の魂が失われたとき、人は "自動的" に偶像崇拝に転向するというだけだ。自動的に、勝手に「始まる」ということ。その事実をレポートしている。
人は、己の魂を失うと、魂のないただの「実物」になるので、やはり崇拝の対象も、魂のないただの「実物」になる。
むろんその崇拝の対象は、何かしら「上位実物」に偏る。
崇拝の対象たる上位実物は、たとえば金銭であったり、女体であったり、筋肉であったり、腕時計であったり、タピオカであったりする。不動産や、あるいは「実母」や「実子」がその対象になることもある。
また、アニメを崇拝の対象にするときも、稚気アニメは魂がないということについては取り扱いやすいが、デジタルペイントされただけの絵は実物性が薄いので、よく「中の人」といって、声優がその実物崇拝の対象になる。
わかりやすいように、比較の例を示しておくと、たとえば古代ギリシャの数学者たちは、496という完全数を、宇宙の成り立ちを示す神の数として崇拝していた。
496という数に、さすがに「実物」はないので、これは偶像崇拝たりえない。
496という数字はいわゆる完全数で(約数の和が当の数と等しくなる)、実際現代で追究されている超弦理論で宇宙の成り立ちを解明しようとするとき、その数式の中には496という数字が頻繁に出て来るそうだから、古代ギリシャ人の天啓はまったく妄想ではなかったと言いうる。
あるいは百年前、インドにラマヌジャンという数学者がいて、この人は人類史上最も多くの数学公式を発見した人だが、当人は自分の崇拝する女神から公式を教えてもらっていると言って憚らず、実際彼は自分で発見した公式を証明する手段を持たなかった。証明の手続きをせず直接公式を発見していたのだ。彼が言うには、寝ているあいだに舌の上に女神が数式を書いて教えてくれるそうだ。それで、後の人類が百年かけて、彼が発表した3254個の公式を正しいと証明する羽目になった。ラマヌジャン当人は、女神に相談すると、その公式が「正しい」ということはわかるそうだが、それがなぜ正しいかは他の誰かが時間をかけて証明するしかなかった。
あるいは、余談にすぎないが、わたし自身ちょうど先日のこと、合気道の経験者に「正しい一教(表)のかけ方を教えてくれ」と言われたので、つい面倒だったので、わたしは「面倒なので、ちょっとカミサマに相談するわ」と言い、その場で「なるほどこうか」ということを実技で示した。その人が言うには、これまでに経験した力ずくのものとはまったく異なる掛かり方をするそうだ。むろん驚かれたが、わたしはいいかげん、カミサマに相談して教えてもらうというのも、「それぐらいのことができないようでは話にならない」と冷淡に感じるようにもなってきている。
496という数と、古代ギリシャ人のエピソードは見事なものだが、496の実物というものは存在しないので、これは偶像崇拝の対象たりえない。
わたしの見てきたかぎり、偶像崇拝に振り切らず、また何の天啓にも師にも出会えなかった人は、自ら接続の無いまま霊魂のたぐいを求め、結果的に精神病に陥るようだ。精神病、それも典型的に統合失調症になるらしい。
古代ギリシャ人が496という数を崇拝したのは精神病ではなかったが、それは彼らがラマヌジャンと同じく天啓を得ていたからであって、そうではない者が何でもない通りすがりの車のナンバープレートの数字に執着するようでは、これは統合失調症になる。
わたしは実際に、ワークショップの主催者として、心身を鍛えるワークを主導するのに、正しく学べない人が途中でへたりこみ、心身を失調してパニック状態になるのを何度も見てきた。あまりにもそのことが典型的に繰り返されるので、ある陽気な青年が「パン祭り」と名付けてくれ、その後はただの笑える名物となったけれども(パニックの語源はギリシャ神話 pan 神から/ pan-ic が語源)。
見落としがちな構造として、人は己の魂を失ったとき(ないしは初めから得られなかった・与えられなかったとき)、自動的に偶像崇拝を始めると共に、<<偶像崇拝をやめると精神を損傷する>>という事情も背負い込むのだ。
つまり、近年のアイドルブーム、タピオカブーム、筋トレブーム、心肺機能ブーム、アニメと「中の人」ブーム、自撮りとSNSアップロードに見られる自己アイドル化ブーム、そうしたすべての「実物があった魂がないもの」ブームは、各人にとって<<精神の崩壊を防ぐためにやむなく営まれている>>。
ひいては、仏像やキリスト像を崇拝するたぐいについても、やはりそれは単なる偶像崇拝で、けれども精神の崩壊を防ぐために、いかんともしがたく営まれ続けている、ということを察さねばならない。
偶像崇拝といって、偶像とは「実物があって魂がないもの」のことだが、己の魂が失われたとき、魂のあるもの(ないしは魂そのもの)を崇拝することはできない。だから自動的に、崇拝するといえば偶像崇拝をするしかない。
偶像崇拝をしないためには、崇拝そのものをやめるしかないが、そうすると今度は精神が崩壊するのだ。だからやむをえず、偶像崇拝を、ほとんど精神の保護のために営むしかない。
その意味では、確かにアイドルブームその他の偶像崇拝、アニメであれ筋トレであれ自撮りであれが、「生きる支え」になっているのは切実な事実だと言える。それがなくては本当に精神が崩壊するのだ。
なぜ精神が崩壊するかといって、それはほとんど、精神という装置そのものの性質だと言うしかない。そもそも「精神」といって、その熟語じたいに「神」が入っている。であれば、崇拝の対象たる神なしに精神が保持されようがない。「精・神」という熟語の字義のまま、それは精と神の関係を意味しているのだから、青年がアイドルを「崇拝」して「射精」するというのは、それじたいが精神だと言うよりない。
そもそも精神とは何のことを指すか。「精」というのは、精子がそうであるように、またきれいな水から米が出穂するように、生きものとして湧いてくる力動(の根源)のことだ。この場合、稲穂は精神を持たないので、稲穂には精だけあればよいということになる。よって米を磨くことを精米という。
人間の場合、他の生きものとは異なり露骨に「精神」というものがあるから、生きものとしての精のみではない、その精が向かう先の「神」が必要になる。事実、筋肉を神とする人は精力が筋トレに向かうのだし、アイドルを神とする人は精力がアイドルに向かう。単純に「精力が何に向かうか」が精神そのものだと言ってよい。だから、たとえよくないふうに言い伝えられている偶像であっても、崇拝する神というのは精力の向かう先として必要なのだ。
己が魂を失ったときには、己の精力は魂なき何かの偶像に向かわざるをえない。そうでなければ精神という現象そのものが崩壊する。典型的には統合失調症になる。といって、当人が魂を失っているのだから、魂でない実物(生身)が魂のたぐいを崇拝しようと悪あがきすると、これはオカルト風情になる。魂が魂に接続することは、どうやらラマヌジャンなどの例を見るかぎりはオカルトではないようだが、魂を失った者はその接続が得られないのだから、ただの思い込みと妄想によるオカルト風情に陥るしかない。
このようにして、実はわれわれが漠然と違和感を覚え、「おっかない」と感じている何かのすべてについて、またそのことを含むブームのすべてについて、単に「魂を失ったら自動的にそうなる」ということの表れでしかない、という看破が得られる。閉ざされた町の老人が宗教に入れ込んでいるおっかなさも、常軌を逸した何かを感じるタピオカ自撮りへの執心も、臭気にのけぞらざるをえないと感じる各種のオタクも、目の色がおかしいフィジカル礼讃の血眼族も、本当に財しか見えなくなった狂気のブラック企業のボスも、ただ魂を失った者が自動的に偶像(魂のないもの)を精神の構造上で崇拝するよりなくなったことから生じているそれぞれの形態にすぎないと言える。いわばそれら違和感とおっかなさのそれぞれについて、「魂を失うというのはこういうことなのだ」という警句の実物とみなせよう。
およそ若い男性が化粧とスキンケアをしてなまっちろい肌を表情ともども演出をこらして見せつけることに女性がおびただしい劣情をもよおして粘膜から臭気と奇声を発することなど、まともに成り立った精神のありようであるはずはなかったのだ。精が生身実物を崇拝する――そのなまっちろい肌を崇拝する――ということは、イメージの上ではチヤホヤされても、実際としては瘴気に満ちる。ところが当人は自分をイメージの上でしか捉えていないから、当人は自分たちが典型的に魂を失った腥いものとして徘徊を始めて人々を震撼させていることに気がつかない。
魂を失った者は、魂のないものを崇拝する。魂のないものを崇拝するように、自動的にならざるをえない。魂のないものに精力が向かい、魂のないものが自慰の対象になる。ときにそれを、当人は特殊性嗜好と捉えて自分の稀少さに傲ろうとするが、すでにそうした人たちが増えすぎてしまったので、今はむしろ魂のないものを崇拝して自慰する者のほうが陳腐であり多数派になった。今はそちらが「ありふれている」側だ。
この先、人々が互いに「あなたのアイドルは何ですか」と問い交わすようになれば、事態はもっと明瞭になるだろう。古代人が互いに「あなたの神は何であるか」と問い交わしたであろうように、現代人は相互のアイドルを問い交わす。すでに実質はそのように現れているのだ。魂を失った人、あるいは魂を得ることがなかった人に対して、「あなたの精力が向かう先は何ですか」と問い交わすこと、おおむねわれわれの会話はそのことを本質にしている。魂を失った者は、その精力を魂のない何かに向かわせるしかないのだから、ある者は金銭や物品等の財であったり、ある者は異性の肉体であったり、ある者はアイドルやアニメであったり、ある者は隆々とした筋肉であったり、またある者は、アイドル化した自分自身が、己の精力の向かう先ということになる。
魂を失うというのはまさにこのようなことなのだという、実際の局面に、われわれは直面していると言える。われわれはこの時代に、魂の急速な喪失ということを直接に目撃した世代ということになるだろう。とはいえ、そうした魂の喪失というのは、常に時間の経過と共に起こってきたことなのかもしれない。時間という現象が物理的には錯覚にすぎず、時間の経過は重力の空間において常に落下をもらたすように、この時間という錯覚の中で時代の経過をやはり錯覚していく以上、その錯覚の中で魂は常に失われるというのが普遍の性質かもしれない。それにしてもわたしは未だ、魂が与えられるということや、分け与えられるということ、つながり引き継がれるということ等について、従来の仕組みが破壊されたという反省を消去はできない。時間のままに重力で落下するということには、対抗して引き留められるロープが上から投げ込まれるべきだと思うが、われわれは短絡に全員を横並びにしたから、全員が横並びのまま落下していっただけのことではないだろうか。横並びにある者が落下に対抗するロープを垂らすことはできない。わたしはごく一部の例外を除いては、確実に冷酷と言われるよりない態度で、目前の人に「あなたに向けて垂らすロープはない」と言わざるをえず、落下していく悲鳴に対しても合理的に無感情でありつづけるしかない。わたしはただ、ここにこうして報告している事実のレポートによって、それぞれが独自に落下しないためのロープを掴むことに有利になればよいとのみ思っている。ただ現実的には、そんなことは凡人には到底不可能だという判断も両立しているので、わたしのしていることはほとんど偽善にさえ足りないだろう。ただわたしは、嘘は言っていないとだけ声明できるので、その点でだけすべての人に、この話を気分良く受け取ってもらえたらよいと思うのだ。わたしの話はまるで意味が無いようで、それこそ496という数字を目の前に書き付けられたぐらいに、「だからどうしろっていうんだよ」とばかりに聞こえると思うけれども、それにしてもわたしは嘘は言っていないとだけ声明できる。
「あなたのアイドルは何ですか」と問い交わされ、そのときわたしは、「わたしのアイドルはありません」と答えねばならない。「あなたの精力が向かう先は何ですか」と問われたときも、わたしは「わたしには精はありません」と答えねばならない。わたしには実物がないのだから。肉体には精力があるが、肉体の精力を認めるにせよ、わたしはすでにこれをわたしとはしていない。よって、わたしも別の方向からすでに精神という熟語を崩壊させている者ではあるのだ。わたしの精力がどこかの神に向かうということはすでにない。願わくば、まだあなたと混同されているあなたの生身実物とその精が、魂を持たない他の実物に向かうことのないように。