No.404 文体は友人だ世界だ、恋人だ花だ
夏の夜が、雨上がりに、街のにおいを運んでくる。
おれの書く文章に失敗はない、失敗がある人のそれは、本質的には文章ではない。
おれは文章や小説に興味を持ったことはない。
ただずっと、わけのわからない世界があり、それだけを追いかけている。
わけのわからない世界には、何もなく、ただ「かっこいい」ということだけがある。
それはふつうの世界だが、そのふつうの世界を、他の誰かがどう見ているかということは、おれにはまったく関係がない。
同列に同一の世界を見ているというのは誤解であり思い込みだ。
世界を視ている人はごくまれ、という意味ではなく、存在といえば、世界を視ている人しか存在はしていない。
当人の自我は一ミリも干渉していないのだ。
誰がどう思うかということは世界にまったく関係がない。
おれには文体があって、それは訓練して作り上げたまがい物ではなく、世界の一部としてあるものだ。
世界が存在するのだから、世界の一部として存在していないものはすべてニセモノだ。
ニセモノが存在しているのではなくニセモノは存在していないということになる。
このことを理解するためには、偉大なるおれさまということを肯定しなくてはならない。
偉大なるおれさまは、一般に思われているようなところから触れることは決してできない。
意識が接触できる次元の事象ではないのだ。
意識をあてにして世界を考えるべきではない、というのは、沈没した船をすでに船とはみなさないほうがいい、というのと同じだ。
水上に浮かんでいるうちが船であって沈没してしまったらそれはもう船ではない。
意識という、それがすでに沈没した結果に生じているものなので、この沈没したものから世界を考えることはできない。
水中のどこを探しても船はありえないのだ。
といって、沈没した船は水上には出られないので、意識が世界を発見しにいくことはできない。
世界から切り離された者に意識が発生している。
われわれは通常、この意識というレベルから脱出することはできない。
また、脱出しなくていいのだ。
「われわれ」と呼んでいるそれが意識の代物なので、それを無理やり世界に持ち上げようとしなくていい。
「われわれ」という時点で、それは必ず世界ではない。
おれの書く文章に失敗はない、というのは、おれが書いている文章などはどこにも存在していないからだ。
何が書いているかというと、文体が書いているというべきだ。
そして文体は世界の一部なのだから、世界の一部が世界を書いているということになる。
なぜそんなことをするのかおれは知らない。文体が書いているのであり、おれが書いているのではないのだから、文体がなぜそんなことをするのかはおれは知らない。知らなくていいし知ろうとする理由もない。
個人的なおれとしては、えらそうにするのは趣味ではないのだが、しょうがないのだ。
おれがえらそうにしないと多くの人が不幸になる。
文体を、えらそうにせず、平易で人間的なところに引き下ろして扱うことは、おれは平気だが、他の人に対してはだめだ。
本当に危険で、取り返しのつかないことになる可能性があるので、冗談でもそういった試しはできない。
多くの人が、文体を探す長い旅をしなくてはならない。
文体を探す旅をしなくてはならないのだが、そのように教わっていないので、なかなかその旅を始めず、時間を無駄にしてしまう。
理論上、おれの書く文章に失敗はありえないのだが、こうした文体は、すべての人にとって強烈な憧れだ。
その憧れは強烈すぎて、だからこそ、憧れだと認識できないこともある。
認識すると魂がクラッシュしてしまうかもしれないからだ。
それぐらい、その憧れは強烈だ。
憧れは認識外でも強烈で、だからこそ、自分がその憧れているものから遥か遠くにあるという事実に直面すると、すさまじい強度の絶望がやってくる。
それは、訓練を重ねていない魂には強烈すぎるショックなので、そういった破局的体験を避けるように、この憧れと絶望からは自然に目が逸れるようになっている。あるいは、フェイクとして「イメージ」が湧いてくるようになっている。
直視できないのだ。直視しようとすると、何かとてつもない気分や体調になり、自動的に、その焦点が暈けていくようになっている。
それは安全装置だから、それでいいのだ。
おれがこの文章を失敗する可能性は理論上ない。
文体がこれを書いてよいなら、失敗する可能性は永遠にない。
おれがあれこれ、書いたり消したり、修正したり破棄したりしているのは、すべてを文体に書かせない場合だけだ。
それはしょせん、おれがときどき、友人や誰かのことを気遣っているからにすぎない。
おれは最近になってようやく、この「文体」のことが、多くの人にただならぬショックとその嵐を与えるということを知った。
そのことを踏まえて、おれはぜひ、おれの友人に、いきなりそこまで慌てて苦しまないでほしい、と申し伝えたい。
このあたり、おれは単純に感覚がバカなので、おれの側に問題があるのだ。
おれはもう、このことに慣れっこになってしまっていて、何もショックや嵐は体験しないのだ。
おれにとってはすでにいつものことであり、嵐などはまるでなく、あるのはただの静寂だ。
夏の夜が、雨上がりに街のにおいを運んでくるという、ただそれだけでしかない。
おれにとってはそうだが、多くの人にとってそうではない。
これが日常になって平気になっているのはおれだけだ、ふつうの人がいきなりこれを体験したらよくわからないが死んでしまう。
ふつうの人にとっては、入り口でさえ精神が恐慌スレスレに陥るのだ、今思い返せばそういうシーンがいくらでもあった、そのたびにおれは「?」だったのだが、これはいささかおれが鈍感すぎたように思う。
おれは努力しないと、おれ自身の評価をゼロにしてしまうので、おれに平気なことは全員に平気たと思い込んでしまい、おれにできることは誰にでもできると思い込んでしまうのだ。
ワークショップなどをやっていると、慣れているメンバーは「パン祭りです」と報告してくれて、ああそうかとおれも思いなおすのだが、それだって嵐が強まるともう報告の扉を開けることもできなくなるようだ。
単純に、気をつけていきたい。アホみたいな結論だが、本当に気をつけるべきだ。
文体や主体性に関わっては、おれの言うことはいつも容赦がないが、その内容は常に正しいにせよ、すべてをそのときに真に受けなくていい。
おれは人が幸福に踏み出すことだけを祈っており、言うことは容赦ないが、そのことに向けて苦しみを代償にしろとは言っていない。
そんなに簡単に苦しみに耐えられるものでもない。
ラクに取り組んでくれよ、とこころの底から思っている。
ことは魂の現象だから、ショックを受けることじたいは方向としては正しい。
が、それにも程度問題というものがあり、その程度問題がキャッチアップ不能の場合は、誰かどうぞ、おれに向けて「威張ってください」と言え。
そうしたらおれはすべてを了解し、すべてを思い出すだろう。
程度問題は陳腐でいいのだ。
ウチは厳しいですよ、的な発想をおれは良しとしない。
こうして友人を気遣うと、いくらか文体から人へ寄ってしまう。
文体の話に戻そう。
文体というのは、一般には、文章の書きようをこねくりまわすことのように思われているが、おれが今ここに書いているものからわかるとおり、こねくりまわすという工程は一切要らない。
文体が個性や工夫から生じるというのは完全な誤解にすぎない。
文体というのが文章だけに具わると思ったらそれも間違いだ。
その人の声、まなざし、動き、姿、またその人そのものの何か、すべてに具わるひとつのものだ。
人に個性などないのだ。人は生まれつき個性を持たず、その後どのように生きたしても、人に個性など存在しない。
一般に個性と思われているものは、ただの偏りであって、偏りというのは比率(ratio)でしかない。
個性というなら、世界に個性があるのであって、一個の人に個性があるわけではない。
ではそれぞれの世界にどんな個性があるのかといって、そんなことは知る必要がない。
自分の世界に個性があるので、よその世界の個性に首を突っ込もうとする発想は持たなくていい。
文体というのは、そうした個たる世界を、無限拡散のように広々とひとつに捉えたとき、小さな玉璧のように出現する現象だ。
逆にいうと、この広い世界と接続したとき、文体を持たないという方法はない。
世界が消えない以上、文体は消せない。
ただそれだけのものであって、何ら感動的なものはないのだ。
感動的なものは要らないということになる。
こころより元にある魂のもとがあるから、感動的なものは要らないということになるのだ。
世界とつながると、文体も世界の一部として元より存在しているというだけで、それ以上の工夫は特にない。
世界には特に何もないのだが、「かっこいい」だけがある。
夏の夜が、雨上がりに、街のにおいを運んできたりするだけで、そこに何があるというわけでもないが、とにかくずっと「かっこいい」が続いている。
偉大なるおれさまがあり、友人がいて、世界があって、恋人がいくらでもいて、花もどうやら咲いているようだ。
いつぞやは、岡本太郎のように「なんだこれは」と感じて戸惑っていたような気もするが、まあおれらしくすべての遠慮を引き取れば、何のことはない、これはやはりこれだったのだ。
これがずっと続いている。
世界がずっと続いており、それ以外のことは何も起こっていない。
友人や恋人を、意識的に探しに行くというのは、どことなく馬鹿げたことだと、多くの人が前もって気づいている。
文体を、その断片でも掴まないかぎり、友人も恋人も存在するわけがないからだ。
意識は世界に反逆しており、世界から追放されたからこそ、一般的なわれわれは意識を持っている。
世界がない者の自己弁護それじたいが意識という機能であり現象だ。
少なからぬ人がすでに、おれが持っている翡翠の玉と、他の誰かが持っている翡翠の玉は、違う、ということに気づいている。
おれが手に持った翡翠の玉は存在しているが、他の誰かが持った翡翠の玉は存在していないからだ。
おれが祝福したものは別だけどね。それはおれが手に持ったのと同じだから。
別にわざわざ翡翠の玉なんて言い方をしなくても、人そのものも同じだ。
おれが祝福したていどに応じてしか人は存在していない。
おれは基本的に、クソほど祝福を与えているはずだが、それをキックする人のほうが多いので、そのあたりは割とおれの責任じゃない。
むしろおれは、キックされてもなかなか懲りずに、しつこく祝福を与えているはずだが……
むろんこんなことはいくらでも妄想扱いできる。妄想扱いにする手続きはミエミエだ。
だがおれは、終始おれの世界について言っているので、おれの世界についておれが言っていることを、妄想扱いはできない。
仮に意識とやらを尊重するにしても、おれがおれの世界を意識上仮想に申し立てて以降は、その仮想の世界について外部からは口出しのしようがないはずだ。
まあ、こんな理屈はどうでもよくて、せいぜい、けっきょくおれはこの世界のことしか話していないという、その証拠のように貼り付けておこう。
当たり前だが、文体は理を超えている。
理といっても、たとえばわれわれは物理のひとつだって、元々ある宇宙からしぶしぶ理を解しているにすぎず、もし宇宙がヘソを曲げたらそのヘソの曲がった理を「理だ」と解するしかない。
どういうことかというと、ある日突然宇宙の実体のほうが変わって、火が付いたら冷えるということになったら、そちらを「理」にするしかないということだ。
死んだ人は蘇らないというのは、実体としてそうだからしぶしぶそれを理と解しているのであって、明日から急に「砂糖水をかけたら生き返る」ということになれば、明日からはその実体を「理」にするしかない。
宇宙の実体から理を解しているように、文体というのも、文体から理を解するしかなく、理の中をまぜこぜしても文体が発生するというようなことはないのだ。
文体は世界であり、せいぜい世界の一部として文体は存在しているというのはそういうことだ。
このことを、百年前からロシアで起こった文学潮流になぞらえていえば、いわゆるフォルマリズムということになる。
フォルマリズムの「フォルム」というのは、当然「形式」ということで、当時のロシア文学の関係者たちは、「文学って何か、 "内容" じゃなくね?」ということに気づいた。
彼らはそのことに気づいて、異化(オストラニェーニェ)ということにも気づいたが、彼らはそのナゾに気づいただけで、そのナゾが解けはしなかった。
ロシアおよびヨーロッパの彼らは、どうしてもフォルムにあるナゾが視えず、フォルムに相克するかに見える「内容」(コンテンツ)への信仰を絶てなかった。
彼らはきっと、フォルム(形式)がコンテンツ(内容)なのでは? というような、思想の循環と混乱に陥ったはずだ。
今でも文学好きは「異化」ということをよく言いたがるが、それが本当には何のことを指しているのか、本当には何が起こってのことなのか、視えている人はほとんどいない。
ひょっとしたら0人かもしれない。
フォルマリズムというのはロシア・ヨーロッパの考え方だが、彼らは文化的に「型稽古」みたいなものを持ってはいなかったので、「型」というのがけっきょく何なのかよくわからなかった。
フォルマリズムの周辺では、超意味言語、みたいな怪しげな理論も出てきているのだが、それだって仮想はされただけで、ふんだんにブチ回せるという実体には至っていなかった。
その点東洋人は、般若心経の最後に「ぎゃーてい、ぎゃーてい」というのが入っても別に違和感を覚えない。
以前、あるいは今でもそうかもしれないが、PCが「パソコン」と呼ばれていた時代、その手ごたえをどう言い当ててよいかわからず、「パソコンやっています」という言い方がよくされた。
「パソコンをやっている」という言い方は今でもヘンで、それは「恋愛をやっています」という言い方と同じぐらい破綻している、が、やはり少なからぬ人は今でもそういう破綻した言い方から出られないものだ。
といって、「今カレシがいて付き合ってんだけどぉ」という言い方にしても、それはけっきょくコンテンツのことを指していることになる。
「パソコンをやっている」という言い方がシュールなように、たとえば「世界をやっている」という言い方もシュールで成り立たない。
ここで、文体は世界なので、今おれのやっていることも、そのシュールな言い方でいえば「文体をやっている」ということになる。
ただ、通常の感覚では突破しえないのは、これはおれが文体をやっているということではなく、文体が文体をやっているというところだ。
それをどう認識すればよいかというと、そんなものは、そもそも意識の接触できる次元のことではないので、認識のしようがないし、また認識する必要もない。
人々は文体を探す長い旅に出なくてはならないが、よもやこんなわけのわからない話を、幼いころから教わってきましたという人はいない。
だから多くの人は、長く生きて人生というものを知りながら、何をしたらいいのかはけっきょく知らないままで、何十年もの果てに練りこんだ言い訳だけを振り回すことになってしまう。
まあそのことは、けっきょく人の損失であって文体の損失ではないから、別にいいか、ということになるのだが、どうせならそうした永遠の、意識には接触しえない事象のレベルがあるのなら、少しでもそのことに触れて生きていきたいと誰でも思うだろう。もしそんな旅があるのなら。
人の意識がそれに触れられないというのは、人がそれに触れられないということではない。
人の魂がそれに触れることは可能だ。
何しろ人の魂も、人の意識では捉えられないのだから、認識できない「魂」というものが存在するのなら、その魂は認識外の文体やら世界やらに触れることができるだろう。
われわれが意識しうる手がかりとして与えられてあるフォルムの原型は、まあ妥当なところで「神話」だ。
誰でも少しでも読めばわかるとおり、神話には何のコンテンツ性もない。
神話には「神話しかない」。
コンテンツがないのだからフォルムしかないということになる。
今おれが書き話しているのもそれだ。保証してよいが、あなたはこれを読み切ったあと、ふと何が書かれていたか思い出そうとしても、その内容がまるで思い出せないだろう。
それはおれが書き話しているものが、内容をもたずフォルムの代物でしかないからだ。
古い時代、ポスト・モダンは「意味」から逃げようとしたが、むろんそんなサルガキの思い付きのような発想では何も得られるわけがなく、すべては時間をかけた時間の無駄になるだけだ。
三十年前に、「パソコンをやっていた」人のほうがよほど青春のフォルムがあっただろう。
文体は世界であって、しかも個々の世界であって、このことの前に、人が「個性」を持つなんてことはありえない。
学校がいつぞや個性教育をもくろんだが、そうして学校がもくろんだということは、どうせ発想から誤っているということの証拠みたいなものだ。
神話には神話しかなくて、神話しかないので認識できるコンテンツはまるでないが、そもそも認識なんて言われても認識なんて交通標識以外には使い道がないものだし、認識は認識に留まるので、たとえば幸福を認識しても、それは幸福の認識に留まるのであり、幸福そのものにはならない。
幸福を認識していなくても、神話から幸福のフォルムが成り立てば、認識など関係なしに強制的に幸福になるのであり、それは恋あいでも同じ、神話から恋あいのフォルムが成り立てば強制的に恋あいになる。
百年前からのロシア・フォルマリズムが気づこうとしたことはこれだったが、彼らは重大なナゾを指摘するにとどまり、そのナゾの解明はできなかった。
おれは、フォルマリストとしてのコンテンツ性は何ら持ち合わせていないが、それはフォルマリズムのナゾを解き明かして見せるには、フォルマリストたちが陥ったコンテンツ主義という矛盾から完全に離脱してくてはならないからだ。
つまり彼らはおれのようには、本当に内容のないことを書くことはできなかった。
彼らはどうしても、理より先に文体があるという場所に立てず、理の中から文体を定義しようとしたので脱出できなかった。
わざわざ超意味言語のようなものを設定したのも、一種の断末魔の叫びみたいなものだ。
超意味なんて言い出さなくても、そもそも文体は理を超えているのだから、文体に意味を超えさせる必要はない。
文章に文体があるのではなく、文体から文章が出てくるのだ。
逆にいうと、文体ということの究極は、「文章に現れてこないのが文体」ということになる。
このことは、どうしても、文学好きには突破できなかっただろう。
文章に現れてくるそれっぽいものが好きだからこそ文学好きなのであり、それを否定する人はそもそも文学好きの道に入り込んでいまい。
その点、おれは文学好きではないし、文学書なんてただちに「読むの面倒くせえ」としか思わないので、文学好きの矛盾の牢獄からは無縁でいられた。
おれの文章は、まるで文章でない。
おれの場合は、文体が文体をやっているだけなので、文章なんて一度もやったことがないのだ。
そういえば、おれはたぶん、自分が「物書きをやっている」とか、あるいは「書き物をやっている」とか、そんなことを思ったことは、これまで生涯のうち厳密にコンマ一秒もないはずだ。
偉大なるおれさまの話はまだまだ続くのだが、風呂に入りたくなったのでここで唐突に終わる。
文体は世界だ、ということに、さっさと「そりゃそうですな」と答えるようになるように。
[文体は友人だ世界だ、恋人だ花だ/了]