No.410 今さら「風立ちぬ」を観た
2013年の映画だから、もう八年も前の映画だ。
それでもいちおう、ネタバレを含むので、避けたい方は以下読まないでください。
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映画を観た直後に感想を書きつらねるようなことは、そもそもしないほうがいいんじゃないかという気がしている。
だからこんな脱力したような書きようになっている。
別に映画におれがどう感じようと、どう思おうと、誰も知ったこっちゃないわけで、そんなことは本来、一人でずっと胸の内で思っていればいいことだ。
いつのまにかはびこったレビュー文化そのものに対しておれは否定的です。
だからこれはレビューではなくただのおれの話。
もともとは宮崎駿オタクといっても過言ではないおれがなぜ八年も新作を放置していたのか。
単に時間がなかったからというのもあるが、そもそも、ゼロ戦に関わる話と聞いて、あまり観たくないなあと思っていたところがあった。
ゼロ戦の映画というと、「うーんいかにも空中分解しそう」というのがあって、そのまんまだったらいやだなあと思って避けていた。
知っている人には有名なことだが、宮崎駿はもともと重度のミリオタ(ミリタリーオタク。軍用機オタクというべきか)であって、それがゼロ戦を描くと言い出したら、ねっちりそういうテクノロジー的なことを描くんじゃないかなあという気がしていた。
実際に、ゼロ戦の映画ではあったわけだけれども、なんというか、たぶん史実どおり、ゼロ戦の開発シーンではなくその手前の艦載機(詳しくないので知らない)の開発あたりまでしか描写されておらず、極端なミリオタワールドの見せつけはなかった。
いい映画だったのか、そうでなかったのかというと、まず品質として、あれが悪い映画であるはずはない。
すごい映画だと思う。あいかわらず、アニメーションであそこまでの濃密な世界を描ききり、観る側を引きずり込むのは、力量という一点において余人の追随を許さない。けっきょく最後まで空前絶後だと思う。
一方で、何を描写したいのか、ちょっと意図を汲みかねるというところがあった。
もっとはっきりいうと、意図がよくわからなかった。
当時の戦闘機うんぬんということになれば、濃厚に宮崎駿当人の趣味が入り込むのは想定内のことだから、その点は観る側としても織り込み済みだったのだが、それにしても、何を観たらいいのかちょっとわかりかねた。
大正から昭和にかけての日本の文化と風景を観ればいいのか、飛行機少年の夢を観ればいいのか、戦争と人の業(カルマ)を観ればいいのか、モネの絵画やあとたぶん何かの映画か小説のインスパイアを観ればいいのか、サナトリウム文学とその恋愛を観ればいいのか、史実としての航空エンジニアの半生を観ればいいのか、単純に観ている側としては「???」となった。
そもそも、レビューなんか書きたくないなと思った第一の理由として、映画の内容がどうこうの以前に、実際にゼロ戦を開発し、当時を色んな意味で戦って生きた人たちがいるわけで、そのことじたいがレビューの対象にあたらないと思っていたことがあった。
ただ、映画は映画としてあるわけで、「ゼロ戦を開発した人ってこんなに露骨にサナトリウム文学に重なって生きたの?」ということがどうしても疑問だった。
それで、本作がどこまでドキュメンタリーなのか、つまりノンフィクションなのか、そこだけはさすがに気になって調べた。パンフレットがなくてもググれは一発なのが現代のすばらしいところだ。
ゼロ戦の開発者が「堀越」というのは、どこかでうっすら聞いたことがあるという記憶があったが、その具体的なところは知らない。
おれの漠然とした記憶によると、ゼロ戦機体の曲線は「竹ひごを曲げてデザインした」とかで、とにかくそういう超アナログな作り方をしたのだと、どこかで誰かに聞いたことがある。
ゼロ戦は当初、その旋回性能によって世界最強の戦闘機だったが、何しろ工芸品みたいに作ってあるので、「急降下したらついてこられないぞ」「急降下したら機体が分解するらしいぞ」という弱点が敵にバレて、それ以降はそれなりに攻略されてしまったと仄聞している。
それで調べてみると、サナトリウム文学の部分は他のモデルと融合で、そこまで知ってようやく「なるほど」と理解が落ち着いた。
史実としてゼロ戦を開発した堀越二郎と、小説家・堀辰雄の体験を、合成して作られたフィクション上の「堀越二郎」が本作の主人公らしい。
だから露骨にサナトリウム文学っぽいというか、「ぽい」のではなくて、本当に堀辰雄のサナトリウム文学なのだ。
単純に、その二名の体験を一本にアニメ映画化したと言ってもいいのだろう。
それで、本作のシーンが奥行きに富んでいるということにもなり、同時に、「何を観たらいいかちょっとわからない」ということにもなっているのだと思う。
主人公の声優に庵野秀明を起用したのもよくわからない。言わずもがな、新世紀エヴァンゲリオンの監督だ。宮崎駿と庵野秀明はけっきょく「腐れ縁」というやつなのだろうか。
作中を通して、庵野秀明に「恋愛」をさせるというあたりに、どうも宮崎駿のちょっとした悪趣味を感じる。
ちょっとした、というていどに収まっていないかもしれない。
全体をどう観ればいいだろうか? どう観ればいいも何も、別にどうも観なくていいし、そのことについて評論を垂れるつもりはおれにはない。
ただ、おれは典型的に「世代」なのだ。おれが少年だったころ、まったく同世代だった少年パズーを観て生きてきた一人なのだ。
宮崎駿が初期に描いてきた、完全無欠と言いうる「少年かくあるべし」の像、それに追い立てられておれは少年期を生きてきた。
ファミコンばっかりやってきたくせに何を言っているんだと言われそうなところだが、それでもおれ自身、ずっとその少年像に追い立てられてきたという事実があるのだ、ほっとけ。
おれはそれによって進んできたし、それによって励まされてもきたし、それによって打ちのめされてもきたし、それによって押し出されても来た。
八年も前の新作を今さら観たということの根本には、おれ自身、宮崎駿の終焉を見たくないということが単純にあるのかもしれない。いや、かもしれないというか、それは明らかにあるだろう。
おれは三十年以上もかけて、宮崎駿が描いてきた少女像を乗り越えてきた。あるいは「そのことに三十年以上かかったぜ」というほうが正しいか。
全体をどう観ればいいだろうか。
世代といえば、宮崎駿当人も何かの「世代」であって、典型的に言えば手塚治虫チルドレンの世代ではあるから、本作に出てくるいかにも怪しいあの外国人は、瞬間的に「スパイ・ゾルゲかなあ」というふうに見えてしまう。
あとになって特高に追われていたし、じゃあやっぱりスパイ・ゾルゲなのだろう。
手塚治虫チルドレンの脳裏に「アドルフに告ぐ」が刻まれていないはずはない。
軽井沢のホテルでゾルゲに出くわすあのあたりの映像は、まるでエイドリアンライン監督の「ロリータ」のシーンみたいに見えるのだが、それはさすがにおれの偏りだろうか。
まあいいや、そんなわけで、今さら「風立ちぬ」を観たのだった。
いま、映画を観た直後で、やはりレビューなんかする気になれないので、これはただの、いつものおれの話。
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全体をどう観ればいいだろうか。
どういう由来でこの映画が作られることになったのだろう、そのことがどうもおれには謎めいて感じられる。
調べればすぐに出てくるというか、ググればすぐに出てくるのだろうが、なんとなくそういうことをするのもイヤなので、「謎めいて感じられるなあ」ということのまま放置しておきたい。
宮崎駿の創作に関わって、いつもあることで、特に「ハウルの動く城」などでモヤモヤ感じられることだが、宮崎駿はいつも戦争に対する憎悪を表現している。
にもかかわらず、別の側面から見れば、宮崎駿は戦争が「大好き」だ。
戦争が大好きというか、「男たちがそのドンパチに疑いない全力を捧げる」ということが大好きだ。
そのことはおれもわからないではない。というか、元気のある男性なら、このことに対する原始的な感性は誰にでもあるだろう。
つまり、大ドンパチの戦争ほど、疑いなく魂に刻まれる男の祭りはない、ということだ。
宮崎駿はきっとそのことに正直というか、抗いきれず、それでいて、きっと実体験として戦争を憎んでもいるのだと思う。
それにしても、
「その割には戦争周辺が大好きじゃないっスか」
とも言われてしゃーないだろう。
世代といえば、典型的に「原爆」に強いショックを受けた世代で、何かとあれば、やはり作中に「大破壊」を持ち込まずにいられない、またそれを物語に組み込むべきだ、というのが宮崎駿作品にはある。
2013年に公開されたこの作品では、大破壊の背後に、東日本大震災の直接の揺るがしもあっただろうか、とも感じる。
宮崎駿は、そうした大破壊と戦争が、大好きで、ずっとそれを憎んでもいる。
それで、宮崎駿の尊崇する飛行機野郎たちは、飛行機野郎たちの王国・その天国に行くも、戦争忌避によってその天国は何か冷え冷えとした、まるでうつろな「空の地獄」のようになるのだ。このことはすでに「紅の豚」でも描写されている。
このあたりにはいかにもな矛盾と無理を覚える。
単純にいって、旧日本軍の、実際にゼロ戦に乗って戦った優秀なパイロットたちが、その後「空の地獄」に行くとはおれには思えない。
宮崎駿はずっと、ここの矛盾について定まりのない表情を見せているように感じる。
宮崎駿は、戦争忌避という一点において、パイロットの英霊がしかるべき栄光の天国へ行くと承認できないのだ。
宮崎駿はまるで、少年のうちに、空に憧れて生きなさいと天使に言われ、その後、死に関わっては、たちの悪い死神に篭絡されたのだろうか、というような印象を受ける。
おれとしては、そこがわからないのだった。いや、わからないというより、おれははっきりと「そうではあるまい」と感じている。
宮崎駿が捉えられるのは、第一には、空に向かって生きた人たちであり、第二には、果てに戦争に "生きねば" ならなかった人たちまでだ。その次にありうる、戦争に "死なねば" ならなかった人たちについては、まともに捉えようとする構えがない。
戦争に死なねばならなかった人たちに対しては、きっとひたすら陰鬱な、悲惨な、怨霊めいた捉え方しかできないのではないか、とおれは感じている。
そしておれはそこのところに、「そうではあるまい」と思うのだ。
もちろん、ひたすらの怨念だけを抱えて死んでいった人もいるには違いなかろうが、すべてがすべてそうではあるまい。
「赤子に乳をやっていたら、爆弾が降ってきて死んじゃいましたのよ」と、生前のことを笑っている豪放な美女が、天国にいたっておかしくはないじゃないか。
おれは、人は死の間際、必ずしもそんなに柔弱ではないと思っている。
特攻隊が敵の戦艦に突っ込んだとき、本当に「よっしゃあ!」と笑いながら死んでいったかもしれないし、それで轟沈させられて死んでいく敵兵たちの中にも「すげえなお前ら!」と拍手しながら死んでいった者たちがあるかもしれないとおれは思う。
人は死の間際、必ずしもそんなに柔弱ではない。
そして、死の間際、かくも豪放に、痛快にいられるような者たちなら、血眼になってドンパチ殺し合いをやる必要は本当はなく、痛快な者たちとして戦争は本質的に回避されるべきだとおれは思っている。
陰気な者たち同士が戦争をやれば、それはまさに悲惨だろうが、逆にいうと、もうそんな奴らは互いに戦争して死ねよ、とも思うのだった。おれのことは巻き込まないでね。
全体をどう観ればいいかについて、まるで本作は、宮崎駿の見てきた「原景」をひとつにまとめた、宮崎駿の "個人的な" 叙事詩、のように感じられる。
それは、何かの解決を示すものではなく、解決しなかったものを、そのまま未解決に描いているものだ。
堀辰雄の小説が宮崎駿の原景に刻まれていたのかどうかはよく知らないが……
ひとつ、少年は空にあこがれるものだ。その少年はまるで無敵の祝福の中にある。
ひとつ、そうして少年が少年のうち、少年は空と風の祝福を受け、同じく祝福を受けた少女と無垢な恋仲でいられる。
ひとつ、けれども少年は、空へのあこがれによって、戦争の狂気に取り込まれていく。それにより、少年は豚になってしまい(紅の豚)、やがては空の地獄に連れていかれる。少年のときに受けた祝福はまったくのウソであったかのように罰を受ける。
ひとつ、空にあこがれた少年は、その輝かしい夢がいつか墜落する。その夢が墜落したとき、少年は女とセックスに堕落する。
ひとつ、それでもたぶん生きねばならない。まるで<<生きるということは祝福を失っていくだけの過程に思えるが>>、それでも生きねばならない。
ただし、この「生きねば」の主張は、ただ言われるだけで、その主張の理由や根拠は示されない。まるでなぜ生きねばならないかについては、その主張の当人が聞きたがっているかのふうだ。
宮崎駿は本作で、腐れ縁の友人ともども、際限のない「恋人探し」をやっているかのようだった。それを隠そうともしない趣きがあった。
宮崎駿はかつて、ヒロインというと「王家の血筋か」「魔女の血筋もいい」、とにかく特別な血筋でないと女に祝福なんてないんだ、という描写をしてきた。特に処女を失ってセックスを覚えた女性については、特別な力を認めず漠然と「何かの母になりなさい」という、見捨てて無関心な表現をしてきた。
それで本作においても、けっきょくヒロインはきれいなところだけを見せて、セックスを覚えたあとは死去させることでしか、ヒロインのヒロイン性を保たせることができなかった。
そしてその恋愛劇を、腐れ縁の友人に演じさせて、ともども長年の恋人探しをやりあって楽しんだ、というふうに見えるのだ。
宮崎駿は、どうしても、「少女はセックス以降はババアになって何もかもがオワリだ」と確信しているように思える。
それについておれは、おれ自身の経験から、
「そ、そんなことないと思うんスけど」
と、軽薄に思うのだった。
おれの前に来ると、どんな女性も、すっかり処女の女の子みたいになるからね。
夢が墜落したとき、男が女とセックスに走るという捉え方はおれにもよくわかる。そういうことは実際に、生々しく、露骨と言っていいほどにある。
だけどそれで、元の少年の夢に戻れない、とかいうことではない。
少年の夢に戻れなくなるのだとしたら、それは彼が本当の男ではなかったということにすぎない。
本当の男は何万人の女とヤリまくっても、その最中でさえ少年の夢とつながったままだ。
敵兵を撃ち落としても、あるいは敵兵に撃ち落とされても、その最中でさえ、男は少年の夢とつながったままだ。
それが男というもので、それだけに、本当の男になるのは、とてつもなくむつかしいことだと、おれは思うのだった。
少なくとも、女とヤッたせいで、少年の夢に戻れないなんて、女性に対して根も葉もない侮辱は言いたくない。
女といくらヤッたところでおれの少年の夢は決して堕落しない、「女のせいでおれの翼が折れるなどということは絶対にありえない」と言い張れば、女性に軽蔑されることはあっても、女性を傷つけることはないだろうから、おれなんかはそれでいいのだった。そうでない場合、男にとって女とのセックスは、<<まるで夢の墜落とスイッチの関係にあるかのごとく機械的に衝迫が起こる>>というのは、本当の本当だけどね。
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映画「もののけ姫」においては、「生きろ、そなたはうつくしい」ということが言われた。
本作でも再び、「生きねば」ということが言われている。
おれはそのメッセージ的なものには、半分がた賛同する。何も「死なねば」とは思わないからだ。
けれどもおれ自身、生きねば、と思ったことは一度もない。
自分が生きていることに疑問や違和感は持っていないので、生きねば、と捉えることは、差し当たりおれには必要ない。
生きていて、若いうちに、ごく一時期、生死に疑問を持ったこともあったけれども、そのことはすでに超克されてしまった。
おれは、「生きねば」とは思わないし、「死なねば」とも思わない。
自分が生きているか死んでいるかなど、気にしなくていい、とおれは思っている。
おれがいま生きているのだとしても「そうですか」としか思わないし、すでに死んでいるのだとしても「そうですか」としか思わない。
自分が生きているか死んでいるかなどに関心のリソースを向ける余裕なんかないぜというのが正直なところだ。
生きていても死んでいても知らんわ、というのはあまりに乱暴だろうか。少なくとも、映画のキャッチコピイにはならねえなあ。
宮崎駿は、特に「もののけ姫」以降、まがまがしいものへの描写を深めた。あるいはその描写を顕在化させた。
「風の谷のナウシカ」でも、マンガ版では最悪のストーリーに進んでいくので、宮崎駿の進む先にはもともと巨大なまがまがしさがあるのかもしれない。
本作「風立ちぬ」でも、そのまがまがしいことへの描写が際立っている。
そのことについておれは、今さら手塚治虫チルドレンはやめようぜ、と言いたくなるのだった。
宮崎駿当人も、手塚治虫の万事についてネガティブだったはずだ。
おれの場合、菜穂子は血を吐いたりしなくていいし、死ななくていい。その女中だって、震災で足を骨折したりしなくていい。
まがまがしい権威に女を制圧させなくていい。
おれのステキな権威のほうが制圧力が強ェーので、まがまがしいものなんか要らんのだ。
おれは、あの戦中の日本の苦しい状況の中でゼロ戦を作ってしまうような男は、咥えタバコで(そこは合意する)、設計図に向かえば女のことなど眼中になし、女とヤリたおしても平然としたもので堕落はなく、それでいて女もなぜか幸せになってしまうという、そういう光輝に満ちたタフガイだったのではないかと思う。
それで試験機が墜落しても、また敵兵を殺す道具になっても、それごときで航空機の夢が揺らぐような、ヤワなものではなかったのではないかとおれは思う。
つまり、おれが思うかぎり、ゼロ戦を作っちゃうような奴は、サナトリウム文学的ではなかったのではないかということだ。
さらにヘンなことを言うと、描かれている菜穂子のように、女性がその処女性によって崇高で美しいということは実際にはない。
女性がその処女性を得るのは、奇妙な話、まともな男にヤラれてからだ。
女性はまともな男にヤラれて初めて崇高な処女になる。
そのことを知らずにいくと、けっきょく際限のない「恋人探し」を続けるだけになってしまうのじゃないか。まあそれはそれで、つい耽ってしまう悪趣味がにぎやかにあるのは、おれもわからないではないけれど……
というわけで、堀越二郎は、自分が生きているか死んでいるかなど気にしなくてよし。
菜穂子も血を吐いたり死んだりしなくていい、元気に跳ね回って、ヤラれまくって処女でよし。
空中戦で散っていった奴は全員栄華の天国に行ってよし。
まともな男に対してはすべての女が無条件でハッピーな恋人になってしまうので恋人探しは消え去ってよし。
うつろな空の地獄へ行くのはその行為によってではなく、当人の陰気と不機嫌によってじゃないか。
戦争を始める奴は必ず陰気で不機嫌なはずだ。
そういう奴が、主権を持つことがなければいいなあと、そう考えるだけでもそこそこ陰鬱になりそうなところだが、ともあれ、陰気と不機嫌から戦争が始まるのだとしたら、戦争を始めているのは文学者じゃねえかということになる。
おれのこの、文学者らしきところの無さを見よ。
おれはこのおれこそが真の文学だと言い張っているのだった、というわけで、ちょっと殴り書きにもほどがあるが、これは映画のレビューなどではなく、いつものおれの話ということだった、おしまい。
[今さら「風立ちぬ」を観た/了]